米子城

 米子城と言っても個人的にはイメージがイマイチどころでなく、米子道を下りてすぐにお菓子の寿城があり、これがかつての米子城天守を模したものだと聞いたことがあるぐらいです。このお菓子の寿城ですが今でも健在なのを知って、ちょっと嬉しい気分になりました。おそらく私が見たのは出来た頃だと思うからです。

 鳥取と島根の県境も今回確認できました。知らんかったんかいの批判は甘んじて受けますが、米子までが鳥取県で、その西隣の安来市からが島根県になります。米子は中海と日本海を隔てる弓ヶ浜半島の根元ぐらいに位置しますが、米子の北側の境港市までが鳥取県になります。

 あの辺の地形は北に島根半島、西に中海から宍道湖となりますが、弓ヶ浜半島までが鳥取で、そこから西が島根であったのはお恥ずかしながら初めて知りました。

 旧国では島根が出雲と石見、鳥取が因幡と伯耆になりますが、伯耆と出雲の国境がそうなったのは・・・出雲風土記ぐらいにあるのかもしれません。

 さて江戸時代の因幡と伯耆の殿様は池田氏です。池田氏は鳥取と岡山に二つの大きな家を残しましたが、因幡の池田氏の本拠地は鳥取城です。ですから米子城も一国一城令で壊された城かと思い込んでいました。

 一国一城令もあれこれ細かい規定と例外があるようなんですが、因幡の池田氏は鳥取城の他に米子城と倉吉城(陣屋扱いだったそうです)の保持を許されたとなっています。池田氏が生き残ったのは徳川家との姻戚関係も大きかったので、親戚扱いされたのも理由だろうとなっています。

 米子城の天守閣は四重五階で、本拠地の鳥取城の天守閣より大きなものです。それもなかなか興味深いのですが、米子城には四重五階の天守の他に四重櫓呼ばれた大きな櫓が本丸にありました。それもどちらも独立言うか、離れて建っています。

 米子城の四重櫓は吉川広家が領主時代に作った天守で、広家の後に城主になった中村一忠がさらに四重五階の天守を作ったようです。理由は今となっては不明ですが、前の領主を凌ぐ権威を領民に見せつけるためだったかもしれませんが、今から見れば無駄なものです。

 ただこの二つの天守は明治まで残っていたようですが、これまた例の廃城令で取り壊されています。こっちはこっちでもったいなかった気がします。そうやって残った天守が少ないから価値があると言えばそれまでなんですが、それだけのものが残っていれば思ってしまいした。