「三草山能勢説もあったはずやが」
それは玉葉で丹波城としてるから否定して良いし、能勢なんか回ればあれだけある義経伝承はすべて捏造になるぞ。
「それもそうや。とりあえず延慶本の三草山がとか三草が出てくるとこを出してみようや」
まず見つかったのが、
『程なく三草の山へ駈せつきて、越中前司盛俊が陣の前に仮屋を打てまちかけたり』
これは二月六日の平家陣営の動きのところだな。三草山合戦の敗戦を知って、西に回り込んだ源氏への対策を取ったシーンだ。駆けつけたのは能登守教経だけど、これはどう読んでも一の谷陣内の軍勢移動に間違いない。
総帥宗盛の要請を受けた教経は三草の山に行き、越中前司盛俊の陣屋の前に仮屋を建てたとなっている。
「つまり三草山には盛俊が先にいて、そこに教経が加わったってことやな」
この三草山がどこを指すかが問題だけど、盛俊も剛勇をもって知られた武者で、一の谷の合戦では丸山の明泉寺の近くで討ち取られたとなっている。これは義経の鵯越の後の乱戦中だから、あちこち動いた末の可能性もあるけど、
「そこにおって押し寄せて来た源氏軍に討ち取られたんも余裕であるで」
明泉寺は現在もあって、寺伝には盛俊が陣を敷いていたとなってる。もっとも根拠は吉川英治の新平家物語としてるけど。今もそれなりの寺みたいだけど、地名として明泉寺町があるぐらいだから、かつてはもっと大きな寺だった可能性はある。
「明治の初期の地図やったら、明泉寺は丸山のドン詰まりやったみたいやで」
今はその奥の斜面までビッシリ住宅が建っているけど、源平合戦の頃なら明泉寺の奥は山だったで良さそうだ。さらに鹿松峠から下りて来る場所にもなる。そうなると三草山は丸山って事になるけど、次の延慶本の登場個所は、
『大手の勢いは宵の程は昆陽野に陣を取り、しころを並べてゐたりけるが、三草の手に向かうひたる越前三位、能登守の陣の火、湊川より打ち上がりて、北の丘に火をたてけるを』
大手軍から盛俊や教経が三草山に向かう様子が見えたとなっている。昆陽野から夜に教経とか盛俊の軍勢とまでわかったかは置いといて、湊川から北の方に進んだとなってるから、やはり三草山は丸山か。
「そやけど、これはどうや」
どれどれ、
『味方へ向かひて申けるは、「是より下へは如何に思ふとも敵ふまじ。思ひ留まりたまへ」と申す。「三草より是まで遥々と下りたれば、打ち上がらむとすとも敵うまじ。下へ落としても死なむず。とても死なば仇の陣の前にてこそ死なめ」とて、たづなをくれ、真っ逆さまに落とされけり』
これは逆落としの前のシーンだな。これは知らなかった。逆落としは山の上から駆け下りたイメージだったけどそうじゃなくて、かなり下ってからのもので良いみたいだ。そこまでは馬でも下りられてたのだろうけど最後の部分が難所だったみたいだ。そこは置いといても、
『三草より是まで遥々と下りたれば』
これは鵯越に抜かう道が三草から続いてる事になる。
「つうかや、一の谷陣地を見下ろせるとこに三草があったことになるで」
そ、そうなるよな。そう言えば三草山合戦の後の義経は、
『我が身は三草の山を打ち巡りて鵯越へ向かふべし』
ここはたぶん『打ち巡りて』が高尾山から鉄拐山に向かった根拠にもなってる気がするけど、さらに、
『九郎義経に付きて三草の山に向ひぬ』
ここまででわかる事をまとめると、
・丹波と播磨の国境にある三草山とは別に平家陣内にも三草山はある
・それは丸山の明泉寺の奥らしい
・もう一つの三草山を越え下るのが鵯越である
こうなるよな。するとテツヤが、
「なんか丸山つうか、長田神社の奥ぐらいの山をまとめて三草山と呼んでる気がせえへんか」
そうなんだよな。あの辺の地形は高尾山から高取山、さらに鉄拐山から鉢伏山に至るまで、六甲連山の西の端みたいなところなんだ。たとえば白川ぐらいから見れば、東側に屏風が立ち並んでいるようなもの。
義経が『三草を巡りて』としてるのは、平家陣地の西側の要害であるこれらの山の西側の麓を通って鵯越を目指すぐらいの意味かもしれないぞ。
「思うてけんど、三草山って、特定の山の名前やないんちゃうか」
どういうことだ。
「今やったら国土地理院の地図を見たら、根こそぎみたいに山に名前がついてるやんか。そやけど、パッと見てわかるもんやあらへんやろ。そういう時にどう言うかや」
里山ぐらいかな。
「里山でエエけどその辺の山やろ。わからんけど、源平時代はその辺の山の事を三草山と言うとったんちゃうやろか」
有象無象の山ってことか。だったら三草山合戦の三草山も、
「可能性はあると思うねん。平家物語が指してる山は小野原の東の播磨と丹波の国境の山やんか。源平古戦場の三草山やあらへんやろ」
そうだった。テツヤの説が正しかったら、平家物語で三草山の名が有名になったから、あの山を三草山と呼ぶようになり、
「なおかつ、その辺の山を三草山と呼ばんようになったからちゃうか。それこそそういう呼び方をするのは当時の貴族やったぐらいや」
これを確認しようと思えば、当時の貴族の日記を読み漁る必要があるけど、そこまでは無理だ。それでも平家物語では、そう呼んでる気がする。と言うか、そう解釈すれば話がわかりやすくなる。
「山の名前なんかハイキングするやつぐらいしか今でも知らんで」
それは言えてる、よほど有名な山じゃないと、単に山だものな。山登りなんて趣味は西洋人が明治なって持ち込んだはずのもので、源平時代なら猟師が呼んでいたぐらいでもおかしくないか。
「神戸でも高尾山言われても、ピンと来るのは少ないやろ。それにやで、今は山には必ず名前があるのは知っとるけど、源平時代やったら無名の山が多かったと思うねん」
平家物語を書いた京都貴族が丸山の奥の山の名前なんて知ってる方がおかしいか。源氏の武者だってそうだろ。そうなると三草の本当の意味は、
「イコール山のはずや。義経やったら鵯越のある山やろな」
これは蛇足みたいなものだけど、平家物語で山とか、山方と言う時は特定の山を指すのかもだ。これに対して漠然と山なら三草ぐらいか。
「そこら辺は文脈次第のとこもあるんやろうけど、それより重大な事がわかった気がする」
ボクもだ。平家は義経の攻撃に備えて盛俊や教経を三草に増援として送ってる。それは鹿松峠の麓になる。さらに乱戦の中で盛俊も討死してる。
「そやろ、そやろ。その鹿松峠を足利直義は越えて来てるやんか」
簡単には軍勢が通れるってことだ。だったら、だったら、義経の鵯越をしたのは鹿松峠になり、下ったところが一の谷になってしまう。
「いやいや、丸山はちゃうと思うで。盛俊にしろ、教経にしろ一の谷の本営から派遣されてるやんか。そやからもうちょっと南側にやな・・・」
長田神社があるか。あの辺も市街化されてわかりにくいけど、会下山と高取山の間の谷になってるぞ。
「たまたまかもしれんけんど、平家の陣地は東が生田神社で西が長田神社やったんちゃうか」
福原落ちの時に平家の屋敷は焼け落ちたはずだけど、湊川を挟んだ長田神社は残っていた可能性はあるか。長田神社も神功皇后以来の古社だから、当時でも立派な社殿があってもおかしくない。
「赤旗谷のとこにある内裏跡を見て思うてんけど、そんなもん作ってるヒマも時間もあらへんと思うねん。それにやで、安徳天皇と三種の神器は平家の最後の切り札やろ」
そうだぞ。
「将棋で言うたら玉みたいなもんや。それになんか決めるにしても安徳天皇が出席するのに意味あるはずや」
テツヤの言う通りだ。平家の真ん中でガッチリ守るはず。それに安徳天皇が会議に臨席する政治的な意味は大きいはずだ。長田神社が健在なら本営として申し分が無い気がしてきた。
「これが歴研仮説の正解やろか」
カノン先輩たちに聞いてみよう。