一の谷異聞(第27話)三草山の謎

「三草山能勢説もあったはずやが」

 それは玉葉で丹波城としてるから否定して良いし、能勢なんか回ればあれだけある義経伝承はすべて捏造になるぞ。

「それもそうや。とりあえず延慶本の三草山がとか三草が出てくるとこを出してみようや」

 まず見つかったのが、

『程なく三草の山へ駈せつきて、越中前司盛俊が陣の前に仮屋を打てまちかけたり』

 これは二月六日の平家陣営の動きのところだな。三草山合戦の敗戦を知って、西に回り込んだ源氏への対策を取ったシーンだ。駆けつけたのは能登守教経だけど、これはどう読んでも一の谷陣内の軍勢移動に間違いない。

 総帥宗盛の要請を受けた教経は三草の山に行き、越中前司盛俊の陣屋の前に仮屋を建てたとなっている。

「つまり三草山には盛俊が先にいて、そこに教経が加わったってことやな」

 この三草山がどこを指すかが問題だけど、盛俊も剛勇をもって知られた武者で、一の谷の合戦では丸山の明泉寺の近くで討ち取られたとなっている。これは義経の鵯越の後の乱戦中だから、あちこち動いた末の可能性もあるけど、

「そこにおって押し寄せて来た源氏軍に討ち取られたんも余裕であるで」

 明泉寺は現在もあって、寺伝には盛俊が陣を敷いていたとなってる。もっとも根拠は吉川英治の新平家物語としてるけど。今もそれなりの寺みたいだけど、地名として明泉寺町があるぐらいだから、かつてはもっと大きな寺だった可能性はある。

「明治の初期の地図やったら、明泉寺は丸山のドン詰まりやったみたいやで」

 今はその奥の斜面までビッシリ住宅が建っているけど、源平合戦の頃なら明泉寺の奥は山だったで良さそうだ。さらに鹿松峠から下りて来る場所にもなる。そうなると三草山は丸山って事になるけど、次の延慶本の登場個所は、

『大手の勢いは宵の程は昆陽野に陣を取り、しころを並べてゐたりけるが、三草の手に向かうひたる越前三位、能登守の陣の火、湊川より打ち上がりて、北の丘に火をたてけるを』

 大手軍から盛俊や教経が三草山に向かう様子が見えたとなっている。昆陽野から夜に教経とか盛俊の軍勢とまでわかったかは置いといて、湊川から北の方に進んだとなってるから、やはり三草山は丸山か。

「そやけど、これはどうや」

 どれどれ、

『味方へ向かひて申けるは、「是より下へは如何に思ふとも敵ふまじ。思ひ留まりたまへ」と申す。「三草より是まで遥々と下りたれば、打ち上がらむとすとも敵うまじ。下へ落としても死なむず。とても死なば仇の陣の前にてこそ死なめ」とて、たづなをくれ、真っ逆さまに落とされけり』

 これは逆落としの前のシーンだな。これは知らなかった。逆落としは山の上から駆け下りたイメージだったけどそうじゃなくて、かなり下ってからのもので良いみたいだ。そこまでは馬でも下りられてたのだろうけど最後の部分が難所だったみたいだ。そこは置いといても、

『三草より是まで遥々と下りたれば』

 これは鵯越に抜かう道が三草から続いてる事になる。

「つうかや、一の谷陣地を見下ろせるとこに三草があったことになるで」

 そ、そうなるよな。そう言えば三草山合戦の後の義経は、

『我が身は三草の山を打ち巡りて鵯越へ向かふべし』

 ここはたぶん『打ち巡りて』が高尾山から鉄拐山に向かった根拠にもなってる気がするけど、さらに、

『九郎義経に付きて三草の山に向ひぬ』

 ここまででわかる事をまとめると、

 ・丹波と播磨の国境にある三草山とは別に平家陣内にも三草山はある
 ・それは丸山の明泉寺の奥らしい
 ・もう一つの三草山を越え下るのが鵯越である

 こうなるよな。するとテツヤが、

「なんか丸山つうか、長田神社の奥ぐらいの山をまとめて三草山と呼んでる気がせえへんか」

 そうなんだよな。あの辺の地形は高尾山から高取山、さらに鉄拐山から鉢伏山に至るまで、六甲連山の西の端みたいなところなんだ。たとえば白川ぐらいから見れば、東側に屏風が立ち並んでいるようなもの。

 義経が『三草を巡りて』としてるのは、平家陣地の西側の要害であるこれらの山の西側の麓を通って鵯越を目指すぐらいの意味かもしれないぞ。

「思うてけんど、三草山って、特定の山の名前やないんちゃうか」

 どういうことだ。

「今やったら国土地理院の地図を見たら、根こそぎみたいに山に名前がついてるやんか。そやけど、パッと見てわかるもんやあらへんやろ。そういう時にどう言うかや」

 里山ぐらいかな。

「里山でエエけどその辺の山やろ。わからんけど、源平時代はその辺の山の事を三草山と言うとったんちゃうやろか」

 有象無象の山ってことか。だったら三草山合戦の三草山も、

「可能性はあると思うねん。平家物語が指してる山は小野原の東の播磨と丹波の国境の山やんか。源平古戦場の三草山やあらへんやろ」

 そうだった。テツヤの説が正しかったら、平家物語で三草山の名が有名になったから、あの山を三草山と呼ぶようになり、

「なおかつ、その辺の山を三草山と呼ばんようになったからちゃうか。それこそそういう呼び方をするのは当時の貴族やったぐらいや」

 これを確認しようと思えば、当時の貴族の日記を読み漁る必要があるけど、そこまでは無理だ。それでも平家物語では、そう呼んでる気がする。と言うか、そう解釈すれば話がわかりやすくなる。

「山の名前なんかハイキングするやつぐらいしか今でも知らんで」

 それは言えてる、よほど有名な山じゃないと、単に山だものな。山登りなんて趣味は西洋人が明治なって持ち込んだはずのもので、源平時代なら猟師が呼んでいたぐらいでもおかしくないか。

「神戸でも高尾山言われても、ピンと来るのは少ないやろ。それにやで、今は山には必ず名前があるのは知っとるけど、源平時代やったら無名の山が多かったと思うねん」

 平家物語を書いた京都貴族が丸山の奥の山の名前なんて知ってる方がおかしいか。源氏の武者だってそうだろ。そうなると三草の本当の意味は、

「イコール山のはずや。義経やったら鵯越のある山やろな」

 これは蛇足みたいなものだけど、平家物語で山とか、山方と言う時は特定の山を指すのかもだ。これに対して漠然と山なら三草ぐらいか。

「そこら辺は文脈次第のとこもあるんやろうけど、それより重大な事がわかった気がする」

 ボクもだ。平家は義経の攻撃に備えて盛俊や教経を三草に増援として送ってる。それは鹿松峠の麓になる。さらに乱戦の中で盛俊も討死してる。

「そやろ、そやろ。その鹿松峠を足利直義は越えて来てるやんか」

 簡単には軍勢が通れるってことだ。だったら、だったら、義経の鵯越をしたのは鹿松峠になり、下ったところが一の谷になってしまう。

「いやいや、丸山はちゃうと思うで。盛俊にしろ、教経にしろ一の谷の本営から派遣されてるやんか。そやからもうちょっと南側にやな・・・」

長田神社があるか。あの辺も市街化されてわかりにくいけど、会下山と高取山の間の谷になってるぞ。

「たまたまかもしれんけんど、平家の陣地は東が生田神社で西が長田神社やったんちゃうか」

 福原落ちの時に平家の屋敷は焼け落ちたはずだけど、湊川を挟んだ長田神社は残っていた可能性はあるか。長田神社も神功皇后以来の古社だから、当時でも立派な社殿があってもおかしくない。

「赤旗谷のとこにある内裏跡を見て思うてんけど、そんなもん作ってるヒマも時間もあらへんと思うねん。それにやで、安徳天皇と三種の神器は平家の最後の切り札やろ」

 そうだぞ。

「将棋で言うたら玉みたいなもんや。それになんか決めるにしても安徳天皇が出席するのに意味あるはずや」

 テツヤの言う通りだ。平家の真ん中でガッチリ守るはず。それに安徳天皇が会議に臨席する政治的な意味は大きいはずだ。長田神社が健在なら本営として申し分が無い気がしてきた。

「これが歴研仮説の正解やろか」

 カノン先輩たちに聞いてみよう。

一の谷異聞(第26話)地名問題

 太平記の地名は寄り道みたいなもので、今日の本題はそこじゃなくて、

「平家物語を誰が書いたかは諸説あるけど、それなりに裕福な知識階級なのは間違いない」
「ここは京都の貴族として良い。僧侶だって貴族出身者の時代だからね」

 その点についての異存はない。庶民が本を書ける時代じゃないし、武士階級だって怪しいのが多すぎる。

「さらに同時代人だったとして良いはず」

 平家物語の成立も謎が多いけど、元祖本段階はそうだったはず。

「京都の貴族は福原を知ってるんだよ。そりゃ、短期間とは言え都があったからね」

 福原遷都は不評だったけど、公式の命令だし、かなりの数の京都貴族が福原に住んでいたはずだ。

「福原に住めば福原や福原周辺の地名を覚えるじゃない。暮らして行くために必要だもの」
「その時に覚えた地名が平家物語に反映されてるはず」

 なるほど、そう考えるのか。福原遷都の前にも、平家と親しい京都貴族が遊びに来てるはずだよな。

「福原周辺の地名だけど、平家貴族が名づけたものもあったはずだろ」

 その頃の福原は、そうだな、今なら芦屋の高級住宅地みたいな感じだったかも。一般庶民がウロウロするようなところじゃない気がする。そうなれば地元民の地名とは別に平家貴族が付けた地名も無い方がおかしいか。

「福原に来た京都貴族も覚えるなら平家貴族が付けた地名になるじゃないの」

 そう言うことか。平家物語を書く時に思い浮かぶ地名はそっちになうはずだ。つうかそれしか知らないだろうし、誰か他の京都貴族に聞いてもそうなるはず。

「平家貴族が付け、京都貴族に広まった地名の中に一の谷も鵯越もあったとするのが歴研仮説だよ」

 それは十分にあり得そうだ。短期間でも都を置くとそうなっても不思議ない。一方で地元民は平家貴族が付けた地名なんて知らないし、興味もないだろうから平家が去れば消えてしまったぐらいだろう。

「平家物語から出て来た地名もあるだろうな」

 琵琶法師が延々と広め続けたから、あの平家物語に出て来る一の谷とか、鵯越はどこだって出ない方が不思議だ。敦盛塚もその一環だろうな。

「ここなんだけど、平家貴族の付けた地名は京都貴族だけじゃなく、源氏の武士たちにも残ったはずなんだ」

 関東源氏軍が一の谷陣地の情報を集めたのは京都だろ。そこで知る地名は京都貴族が知っているものになるよな。勝った源氏の武士にしても子々孫々まで語り伝えられるはずだから、

「結果としてどこが一の谷か、どこが鵯越かわからなくってしまったぐらいかな」

 もっと言えば平家物語の作者の地名と場所の連動も怪しいかもしれないのか。元祖本時代はまだしも、写本を重ねるうちに、

『ここはどこだ?』

 これが出て来たり、後世に当てはめられた地名で辻褄を合わせようにしたりとか、

「わからないから削除したのもあると思う」

 敦盛の最後があれだけ変わっているものな。

「歴研仮説の基本の一つは、変わらないものを出来るだけベースに考えようなんだ。それは地形もあるし、道路もある。地形や道路だって変わるから当時がどうだったかを調べるのもあるんだよ」
「とくに距離と時間は重視してるかな。義経のルートも謎の塊みたいなものだけど、当時の人が進める時間と距離にどうしたって縛られる。机上ではあれこれルートは設定できるけど、一の谷の義経のタイムテーブルから無理なものは無理ってこと」

 さらに時代的に細かい戦術が駆使できないのも入って来るのか。

「時計の無い時代だからね。それに源氏軍は土地勘もないのもポイントかな」

 ついでに言えば地図もないか。軍を分けるのはこの時代でもありだけど、分かれしまえばアクシデントが起こっても連絡の取りようもなくなってしまう。御大将の仕事は軍勢を合戦場に連れて行くぐらいに限られてしまうかも。

「戦場での采配も実質的に無いはずだよ」
「戦国時代なら御大将の采配で押したり、引いたりもあるけど、源平時代は武者に任せるしかないはず」

 少しはあるだろうけど、押し太鼓、引き鉦の軍勢全体の合戦場での駆け引きは使いようがないのは同意だ。そんな中での鵯越の評価は、

「義経がなにを考えていたか、何が見えてたかは永遠の謎だよ」
「強いて言うなら・・・」

 源氏の基本戦術は東西からの挟撃で良いと思う。挟み撃ちは常套戦術だものな。そうなったのは東の木戸だけの正面攻撃では突破は難しいの判断のはず。さらに義経が見えていたのは兵糧とか矢数もあったかも。

「これも想像も良いところだけど・・・」

 一の谷陣地がかなりの防御態勢を敷いてるぐらいの情報はあったかもぐらいか。それぐらいは京都と一の谷だし、宇治川から二週間もあるから入った可能性はある。

「当時の戦術常識と考えてるけど・・・」

 平家物語でも、玉葉でも城という言葉が使われてるが、当時に後世のような城の概念はなかったぐらいか。後世の城は複数の曲輪による多重防御線があるけど源平時代なら一線防御と考えた可能性はあるかもしれない。

 一線防御であれば、どこかを突破すれば内側に入り込め、前線の守備隊を背後から襲うことが出来るぐらいか。もちろん平家だってそれぐらいは予想してるはずだから、

「延慶本なら三草山の合戦の後に義経は決断してる様に見えるけど、あれは京都にいるうちに思いついてるはず」
「二月四日は夜討ちの準備で、そんな事を幕僚にも話す時間はないはずよ」

 そうなるんだよな。二月五日の時点では搦手軍は西の木戸の攻撃じゃなく、山の手と鵯越作戦を宣言してるんだよ。あそこも不思議で、別にそのまま実行しても良いような気がするけど。

「そこに気がついたね。あくまでも仮定だけど、それでも一の谷は勝っていたかもしれない。でも、最終的にはそうなっていないのも史実なんだ。二月五日から二月六日の間に義経が作戦を変更する何かが起こったはずなんだよ」
「でもね、それについては何も書いていないのが平家物語だよ。それどころか、三草山の次のシーンは、鵯越に向かう山の中のシーンになってしまうんだよ。お蔭で幾つもの義経進軍ルートが想定されてしまったぐらい」

 だから相談ヶ辻も出て来ない。藍那だって本当に通ったのかさえ不明だ。あくまでも例えばだけど、玉津ぐらいから太山寺の道に進み、湊川の合戦の直義軍のように高尾山から会下山と、鹿松峠を越える二手に分かれるのもありのはず。

「そこら辺の歴研仮説は今度にするから三草山の謎を考えておいで」

一の谷異聞(第25話)太平記の地名

 歴研仮説は鉄拐山説を否定するところから始まってるから、一の谷の位置も変わり、当然のように鵯越の場所も変わって来る。今日は歴研仮説の鵯越をフィールドワークする前の予習会だ。

「そういう場所を比定する時って地名をまず頼りにするのだけど、一の谷の合戦の地名は特殊な事情があるとするのも歴研仮説だよ」

 特殊な事情ってなんだ。

「地名の起こりはあれこれあるだろ。故事に基づいたり、権力者が名づけたりとか」
「ポイントは地元にどれだけ定着してるかよ」

 当たり前だ。地元民なら共有してこそ地名だろ。

「でもね、消えてしまってる地名があるのよ」

 歴研仮説的にはそうなるか。赤旗谷が一の谷であるのを否定したら、新たな一の谷を探さないといけなくなるけど、そんなものは聞いたことがない。それも江戸時代の初めには消えてしまっている。

「そこなのよ。一の谷も、鵯越も平家物語ではまるで周知のように出て来るじゃない。なのに未だに所在が特定できていないじゃないの」

 そこか。言われてみれば不思議だな。

「これは太平記の湊川の合戦のとこだけど」

 なになに、

『又須磨の上野と鹿松岡、鵯越の方より二引両・四目結・直違・左巴・倚かゝりの輪違の旗、五六百流差連て、雲霞の如に寄懸たり』

 足利尊氏軍が攻め寄せる描写だけど鵯越が出てるぞ。さらに言えば鹿松岡とか須磨の上野ってどこなんだ。

「この時の尊氏軍は海路を尊氏、陸路を直義が率いて西から攻め寄せるのだけど、陸路の方は明石で二手にまず分かれて、山陽道を少弐頼尚が進んで来る」
「直義はおそらく太山寺から白川峠に向かったはずだけど、斯波高経は白川峠の麓で白辺路に向かい、相談ヶ辻まで戻り、そこから高尾山にから会下山に進んだはず」

 なるほど、なるほど。

「それとこれはたぶんだけど、湊川の合戦の時には鵯越道と呼ばれていたはず」

 えっ、じゃあ、一の谷の頃は、

「ここも歴研仮説の前提だけど、神鉄の鵯越駅付近も鵯越とは比定してないのよね。だって延慶本を読んでも鵯越と鵯越道は別のルートにしてるもの」

 これは三草山合戦の後の義経の言葉だけど、

『その勢七千余騎は義経に付け。残り三千余騎は土肥次郎、田代冠者両人大将軍として、山の手を破りたまへ。我が身は三草の山を打ち巡りて鵯越へ向かふべしとて歩ませけり』

 ここを素直に読むと、

 ・土肥実平隊は山の手に
 ・義経隊は鵯越に

 こう二手に分かれるとなっている。鵯越と山の手は別のルートだ。

「これは三草山合戦後の段階での義経の作戦で良いはずだけど、最終段階ではこうなってる」

 なになに、

『源氏の搦手一万余騎なりけるが、七千余騎は九郎義経に付きて三草の山に向ひぬ、三千余騎は播磨路の渚に沿うて一の谷へぞ寄せたりける』

 ここでは、

 ・義経隊は三草山に
 ・土肥実平隊は播磨路の渚に

 えっ、この土壇場で三草山にどうして。

「ここは宿題にしとくね」
「答えは決まってないけど、この三草山の解釈だけでも説が立つぐらいのところだから面白いよ」

 この場の回答としては三草山とは鵯越に向かうルートぐらいの意味で、播磨路、つまり山陽道に出て西の木戸に攻め寄せた土肥実平隊とは別ルートになる。いや、それだけじゃないぞ。土肥実平隊は山の手から播磨路にルート変更してるから山の手に進んでいない事になる。

「もうわかるだろ。鵯越道を指しているのは山の手であって、鵯越とは別のルートだよ」

 湊川合戦では斯波高経が会下山まで攻め寄せ楠木軍と戦っているのか。なら太平記の鵯越とは、斯波軍の様子を描写したものになりそうだ。須磨の上野は、

「摂津名所地図に出てたでしょ」

 ああ、安徳天皇内裏跡だった、

「でもそれも消えた地名のはず」
「住んでる人だって知らないと思うな」

 これも推測としてけど、太平記の描写は海上の尊氏軍から見えた様子だ。安徳天皇内裏跡は高台になっていて、海から見えるランドマークだったかもか。昔の船乗りは地形を覚えて自分の位置を確認していたはずだから、

「今だってそうのはずよ。だってさ、山陽道を東に進む少弐軍があんなところに寄り道するはずないでしょ。あれは須磨の上野の下を少弐軍が進んでいるもののはず」
「今なら須磨浦公園のところとか、須磨山上遊園の下ぐらいになるはずだよ」

 船乗りだけが呼んでいた地名だから地元には残らなかったぐらいか。じゃあ鹿松岡は、

「そこは直義軍が越えたところになる。『しかまつ』じゃなくて『かのししまつ』って読むけど、鹿松峠としてクルマも通れるよ」

 鹿松峠も古い峠みたいで、太政大臣藤原伊尹の三男の英雄丸が仏法で鬼退治をしたところだとか。その伝承に基づく追儺式が今でも続いてるらしい。

「鹿松峠の頂上は鬱蒼とした森になってたみたいだから、海からのランドマークだったんじゃないかな」

 そこを越えて直義軍は楠木軍に押し寄せたってことか。

「太平記の鵯越の解釈も微妙なところは残るけど、あそこは海から見た陸路の足利軍の描写だから、三つの地名はそうだったと受け取るのが良いと思う」

 陸路も足利軍は三手に分けてるから、

 須磨の上野・・・少弐頼尚軍
 鹿松岡・・・・・・・足利直義軍
 鵯越・・・・・・・・・斯波高常軍

 こういう風に対比してるぐらい。でも太平記なら素直に鵯越は鵯越道と解釈すべきなんじゃ、

「鉄拐山説の次に有力な説で、今でも本家争いをしてるぐらい」
「でもそうなったら延慶本の山の手はどこだになるし、一の谷の比定をどうするかも出て来るのよね」

 そっちもあるか。

「太平記一つで特定出来たら誰も困らないってこと」

一の谷異聞(第24話)経ヶ島

 テツヤが、

「経ヶ島はどこだったのですか」

 清盛と大輪田の泊となれば経ヶ島が出て来るのよな。難工事過ぎて人柱まで使ったのは今も語り継がれてるぐらい。とは言え、

「あれもわからなくなってるよ」
「兵庫運河を作る時にぶち壊したのかも」

 掘れば出て来そうな気もするけど、住宅地で発掘調査をするには、それこそ建て替え時期しか無いし、

「兵庫津ってとにかく連綿と続いてるから、清盛時代の前の地層で終っちゃうことも多いみたい」

 それもあるか。そもそも経ヶ島を作った目的って、

「清盛の財力と実行力の賜物だけど、大輪田の泊へのこだわりもありそう」
「福原に住んでたようなものだし」

 もともとの大輪田の泊であった須佐の入江だけど、往時はかなり奥深くまで入江が入り込んでいたはずか。あくまでも推測だけど長田神社ぐらいまで船で行けたかもだ。だけど川崎を作ってしまう湊川だから、

「河口港の宿命みたいなものだけど、どんどん埋め立てられて湊として機能不全を起こしていたぐらいを想像してる」

 浚渫作業をしても大雨が降れば、それこそ元の木阿弥状態だったかもか。それに雨が降るたびに濁流が河口に押し寄せるから、それも港としてネックになっていたぐらいかも。そのために佐比江に流路を変える試みもしたのだろうけど、

「当時の治水技術では無理だったから和田京は幻になったはず」

 大輪田の泊にこだわる清盛は、壮大すぎる新湊計画を立てたのか。須佐の入江は河口港だからあれこれネックが出るから、

「川に関係ない湊を作ることにしたはずよ」
「だから佐比江と須佐の入江の真ん中ぐらいに港を作ったぐらい」

 それが兵庫島の海側か。経ヶ島はその第一期工事で、湊の南側に東西の大堤防を作ったものだったみたいだ。

「これは文献的にも確かめられていて、経ヶ島と築島は時期の違う工事なんだよ」
「経ヶ島が南の堤防で、築島は経ヶ島から南北に延びるもので。堤防で囲まれた新しい湊を作ったぐらい」

 築島工事が始まったのは経ヶ島工事から十三年目のようで、清盛時代は須佐の入江と併用、いや清盛時代以降も併用だったみたいだけど、須佐の入江は使えなくなっていき、

「江戸時代の築島船入江は清盛の遺産のはずだよ」
「清盛の大工事のお蔭で兵庫津は江戸時代まで繁栄を手に入れたぐらい」

 国家百年の計どころのスケールじゃないな。ここでテツヤは、

「平家の船は大きかったですよね」

 平家物語を読む限りそんなイメージなんだけど、

「そこも研究ノートにあったけど、結論はわからないだったな」

 和船の歴史はそれこその専門分野みたいだ。室町時代の勘合貿易に使われていた船が、江戸時代の千石船に繋がっているぐらいはわかるらしいけど、

「日宋貿易で宋から来た船は清盛も見てるし、それを見たら同じ船を欲しいと思っても不思議はないと思う。それを作るだけの財力もあるだろ」

 ただもし作ったのなら、それこそ話に残されてるはずか。この辺は技術史の問題もあって、宋の船はジャンク船で、これは比較的小さな板を貼り合わせて作ったものらしい。

「和船は大きな板を貼り合わせる形式なんだよね。和船にジャンク船技術が導入された形跡が乏しいんだって」

 この辺は当時の日本の造船技術でジャンク船が作れたかもあるらしい。

「安徳天皇の御座船なんて大きなイメージがあるけど、実はそうでもなかった可能性が一つある」
「もし大きなのがあったとしたら宋から買った可能性ぐらい」

 ただジャンク船があれば壇ノ浦でどうして負けたかの話も出て来るのか。この辺は平家が大きな軍船を持っていたかも含めて結論が出なかったのだとか。

「あったとしても一隻だけだったかもしれないけど、そこまでは一の谷研究とは外れるから、それぐらいにしたみたい」

 和船の歴史を調べるのが難しい理由も教えてくれたけど、とにかく船が残らないのが大きいらしい。木造船だから老朽化すると、

「解体されて建築資材に転用されるし、それにも使えないものは薪になるのよね」

 技術的なものは口伝が多いし、頼るのは絵巻物ぐらいになるけど、

「あれだって描いた人がどれだけ船に詳しいかになるじゃない」

 江戸時代の千石船はいくつか復元されたものがあるけど、あれだって復元するのは大変だったのは聞いたたことがある。これが源平時代になるとお手上げになってしまうのもわかるな。

「源平時代の大きな船の話と言えば実朝の渡宋計画があるのよね」

 三代将軍であった実朝は突如って感じで宋に渡る計画を打ち上げて大きな船を作るのだけど、由比ガ浜に浮かべたけどまったく進むことが出来ず、そのまま朽ち果ててしまった話だ。

「あれだけで判断するのは無理があるけど、源平時代には大きな船を作れる技術はまだなかったのかもしれない」

 倭寇が大陸を襲い始めるは元寇の後だものな。もしあったとしても、宋から買ったジャンク船ぐらいになりそうだ。

「それだって清盛が持っていたら、もっと話題になって書き残されてるはずなんだよね」
「清盛だって見せびらかしていたはずよ」

 平家物語だって平家の巨大船に対する対抗策に苦慮するエピソードが盛り込まれそうなものだ。なるほど、どこまで行っても答えが出そうにない話だ。

一の谷異聞(第23話)大輪田の泊

 新開地駅からJR兵庫駅の方に行き柳原蛭子神社へ。こういうルートを通ったのは、おおよそ大開通りが江戸時代の西国街道であり、古くは山陽道で、江戸時代には兵庫津に寄るようルートになっていただとか。あくまでもだいたいとしていたけど、

「現在から当時の様子を想像するのは不可能に近いよ」

 柳原蛭子神社から向かったのが來迎寺。ビルの間の現代的な鉄筋ビルの寺だけど別名が築島寺。清盛の時代から場所が変わっていないのか。

「松王丸伝説の寺だよ」
「ランドマークにはなるかな」

 築島寺のすぐ近くに置いてあるのが石椋となっている大きな岩。これも当初は経ヶ島の一部と見られていたそうなんだが、その奥に古代大輪田の泊の遺構が発見され、

「たぶんあの辺が元々の大輪田の泊で、清盛も使っていたはずなんだ」

 テツヤが、

「清盛はこんな運河まで作ったのですか?」

 カノン先輩たちが苦笑いしながら解説してたけど、これは兵庫運河で明治に出来たもの。当時の兵庫津は開港場となった神戸港に押され、起死回生の大事業として兵庫運河を掘削してる。これはこれは大事業だけど、

「お蔭で兵庫津がどうなっていたかが、ますますわからなくなってるよ」

 清盛塚とか、兵庫津ミュージアムを見て回ってからカフェでお茶になった。

「清盛時代の大輪田の泊を推測するのも大変だったみたいなんだ」
「だいぶ調べてるけど、それでもたぶんとか、おそらくの部分が多すぎる」

 これは西の木戸の比定問題にも連動するらしいけど、

「とにかくネックは湊川だ」

 現在の新湊川は会下山にトンネルを掘り苅藻川と合流させてるけど、

「その前に方角だけ再確認しとくね。神戸の基本は海に向かって東西に延びる地形だけど、兵庫津は南北なんだ」

 旧湊川は西に進んで川崎に流れ込んでいたのか。その河口部の土砂が堆積して川崎が生まれ、そこに川崎重工が出来てるぐらい。ちなみに旧湊川の河道が新開地で、戦前までの神戸の中心地として栄えていたみたいだ。

 旧湊川は江戸時代には成立していたみたいのだけど、清盛時代はそうじゃなかったようで、古湊川になっていたとか。

「古湊川がどうなっていたかを調べるのが大変だったみたい」
「それにさ、湊川がトンデモないぐらいの暴れ川だったとイメージするのも大変だったみたい」

 これは神戸の他の川も同様で、生田川も暴れ川で手を焼いていて、

「居留地を何度も水浸しにして大問題になったとか」
「明治時代までフラワーロードを流れていたんだよね」

 清盛時代の古湊川だけど、なんと大輪田の泊に流れ込んでいたのだとか。

「だから湊川って呼ばれてたはず」
「古代の湊は河口港でしょ」

 これも今となっては想像するのも難し過ぎるけど、大輪田の泊の付近は微高地になっていて、湊川はその西側を流れ和田岬の北側ぐらいに流れ込む格好になっていたらしい。

「それが須佐の入江だよ」

 もっとも湊川の流れはそんなシンプルなものじゃなく、何本も分かれていたみたいで、

「大輪田の泊の北側にも支流があって、そこが佐比江になる。須佐の入江も佐比江も港ではあったようだけど、いわゆる大輪田の泊は須佐の入江だったで良いはずよ」
「旧湊川は佐比江の支流を本流にして一本にしたもののはず。清盛もそうするための治水工事をしたはずで、それを踏まえたのが幻の和田京計画だったはず」

 古湊川は大輪田の泊と会下山の間を何本もの支流を作りながら流れていただけじゃなく、何度も洪水をおこすものだから広い沼沢地を作っていたはずだとか。

「だから山陽道は会下山の麓を通っていたはずなんだ。源平合戦当時でも山陽道の近くまで沼沢地が広がってはずだよ」

 そうなっていた傍証が一遍上人縁起にあるのか。一遍上人は一の谷の合戦の百年後ぐらいの人だけど、遊行の末に兵庫津の真光寺で亡くなってる。この時の兵庫津の描写として、

『銭塘三千の宿、眼の前に見る如く、范麗五湖の泊、心の中におもい知らる』

 銭塘は中国の杭州にあって海嘯と呼ばれる逆流が起こる事で有名なところだとか。范麗とは范蠡のことで、范麗五湖とは有名な漢詩に出てくる、江蘇省と浙江省の間にある湖なんだとか。

「一遍上人も湊川の洪水を見たんだと思うよ」
「范麗五湖にたとえた風景は兵庫津から山側を見たもののはずだろ」

 大輪田の泊は後に兵庫津と呼ばれるようになるけど、他にも兵庫島もよく使われている。これは山陽道から見ても兵庫津が島状態に見えてからってことか。

「古湊川時代の大輪田の泊もそうだったはず。これが島じゃなくなったのは旧湊川への流路変更が成功した江戸時代以降じゃないかな」

 湊川の暴れ川の凄まじさは川崎の形成だけでも察する事が出来るぐらいか。

「そうなのよね。だから兵庫津の山側もドンドン埋めたられていったはずじゃない」
「一の谷当時なら沼沢地でもあったけど、低湿地状態で、泥地で葦でも生い茂るぐらいだったと考えてる」

 要は山陽道から兵庫津には直接進めなかったぐらいか。

「福原の付近も微高地だったはずで、湊川は福原方向には流れず、長田から大輪田の泊の方に流れ込んでいたぐらい」
「清盛の時代なら、大輪田の泊に行くには福原経由じゃないと行けなかったで良いはずなんだ」

 福原の西側は、会下山の麓が陸地になってるぐらいで、広大な沼沢地を挟んで大輪田の泊が見えていたぐらいか。清盛が福原を愛したのは大輪田の泊の日宋貿易の利益もあるけど、

「それなりの平坦地もあって海も近いじゃない」
「清盛も京都の底冷えが好きじゃなかったとか」

 あるかもな。そんな兵庫津も明治に入って港の繁栄を神戸港に奪われ、

「川崎に川崎重工、和田岬に三菱重工があるじゃない。米軍の神戸空襲のターゲットだから、その間にある兵庫津はエライ目にあったぐらいだよ」

 戦後も沖に向かって埋め立てが進み、中央卸売市場やノエビアスタジアムも出来てはいるけど、

「清盛の時代はともかくとしても、高田屋嘉兵衛の時代さえ忍ぶのは難しいよ」

 運河こそ珍しいけど、どこにでもありそうな市街地の一角だものな。それを言えば福原だってそうだ。あそこに栄華を極めた平家一門の屋敷が建ち並んでいたなんて想像するのも大変過ぎる。

「それでも当時の地形がわからないと一の谷のムックは出来ないのよね」

 だから歴研仮説を立てた時も湊川をこれだけ調べたのか。