ツーリング日和23(第28話)美玖の夢

 社長夫人になった流花の接待旅行からしばらくしてから、

「温泉旅行に行きましょう」

 ボクもそうしたい。なんか新婚の流花にあてられたものな。

「美玖だって新婚です」

 新婚がいつまでかの決まった定義はないらしい。短いのなら新婚旅行が終わるまでなんてのもあるそうだけど、

「同棲期間との兼ね合いじゃないでしょうか」

 それはあるかも。世の夫婦がすべて同棲を経て結婚する訳じゃないけど、ある調査では半分以上、調査によっては七割としてるところもあるそうだ。期間も半年までが四割ぐらいで、一年以上が三割なんて調査もある。

「学生からとなると必然的に長くなります」

 さすがに学生での同棲は一割未満らしいし、学生で同棲したからってすべてが結婚する訳でもないだろうけど、軽く一年は越えるはず。卒業とともに結婚なんてのもいるだろうけど、

「結婚式の費用、新居の準備等が学生で整えられるのはごく少数に留まると考えるのが妥当です」

 同意だ。どうしたって親がかりじゃないと無理になる。それに新卒では給料も少ないし、なにより仕事に慣れるまでが大変過ぎる。

「就職してから五年ぐらいはかかるかと」

 いやいや、そこまでになれば二十七歳だぞ。でも現実はそうなるよな。

「平均結婚年齢は三十歳ぐらいです」

 つまりって話じゃないが、付き合って同棲まで持ち込んでも二年とか、三年、下手するとそれ以上になる事だって稀とは言えないはず。あんまり長いと嫌でも新鮮さは失われていく。夫婦にも倦怠期ってのが来ると言うけど、

「同棲でも来ないはずがありません」

 倦怠期まで行かなくても長すぎた春の後に結婚すれば、初々しい新鮮さはあんまりないかもしれない。美玖はいつまでが新婚と考えてるんだ。

「美玖が新婚と感じる限りです」

 美玖らしいよ。一般的には新婚期間は一年ぐらいが多いらしいけど、美玖の定義も一理はある。だって新婚って一緒に暮らすのが楽しくて、嬉しい時期を指すはずなんだ。新婚時期が終われば楽しくないとか、嬉しくないって意味じゃないけど、

「それはこれから二人が経験する事です」

 それもそうだ。おっと、話が脱線した。温泉旅行は賛成だけど、県内では難しいぞ。電車で県外にするか。

「二人を結んでくれたモンキーで行くのに価値があります」

 気持ちはわかるけど・・・ボクもそうだけど、美玖もあちこち行ってるんだよな。二度目とか、三度目だって悪くないけど、ボクの希望は出来たら初めてのところが良いな。

「二人が行っていないところとなれば、籠坊温泉もありますが・・・」

 籠坊温泉は阪神の奥座敷と呼ばれた時代もあったそうだ。開湯も伝説的で平家の落ち武者が見つけたとかの話もあり、元禄期から温泉宿が営まれた記録があり、有馬温泉に並ぶほどの・・・

「有馬に並ぶは誇大です。最盛期でも民宿を含めて七軒です」

 そうだったのか。いくら何でも大阪からも神戸からも遠いもの。今もあるよな。

「旅館と民宿が一軒ずつ」

 どれどれ、歴史ある名湯、場所的に秘湯と言えない事もないけど、なんか気が乗らないな。

「ええ、こういう宿は美玖も気が乗りません」

 美玖の好む宿は風情も情緒も重要なんだけど、清潔感もあるんだ。これは必ずしも新しいと言う意味じゃなく、古くても風格とか、手入れが行き届いていれば問題はない。嫌うのは、

「古いのに開き直ってる宿です」

 ボクも美玖もそうだけど、少々どころでなく小汚いところでも泊まった経験はあるし、

「智頭ぐらいになると懐かしくて楽しめました」

 こういう話の流れに美玖がしたと言う事は、決めてるんだろ。

「はい、ここはどうかと」

 へぇ、ボクも初めて聞いた温泉だけど、こりゃ、良さそうだ。距離も良いぐらいじゃないか。ここにしよう。話は変わるけど美玖の夢ってなんだ。

「生涯で唯一人の最愛の人に美玖のすべてを捧げる事です」

 知ってる。だから処女も、初めて見る真実の愛も捧げられなかった事を今でも後悔してるぐらいだもの。

「あれは痛恨のミスです。ですが失ったものは、いかに悔もうが取り戻せません」

 あれは不可逆性のものだからな。だけどあんなものは、

「剛紀がそういう考えの人であるのは良く知っています。ですから、処女も、最愛の人でないクズ野郎に偽りの真実の愛を見せられてしまったのも、美玖だけの後悔です。そうですね、剛紀に捧げられていたら、どんなに良かっただろうぐらいのお話に過ぎません」

 そうだよ。たかが、そんなことで美玖の価値が1ミリグラムも減るものか。ダイヤモンドは傷つかないんだよ。

「美玖はダイヤモンドではありません。美玖の想いとして、処女も真実の愛を見るのも捧げたかったのはありますが、あれは言わば通過儀礼のようなものです」

 ロストヴァージンはそうだろうな。なんだかんだと言っても一回限りのものだ。真実の愛を見ることへのこだわりも美玖には強いけど、あれだって生理現象の一つみたいなものだし、

「これは剛紀と結ばれ、同棲し、結婚してからわかった事ですが、もっと、もっと大きな夢を持てるようになりました」

 大きな夢。それは聞きたいな。美玖と結ばれてから生まれた夢だから、それを実現させるのにボクだって協力できるはず。

「この夢は剛紀だから、いえ剛紀しか叶えることは出来ません」

 責任重大だけどそれはなんだ、

「永遠の新婚です」

 えっ、それっていつまでもラブラブ夫婦でいようって事で良いのかな。

「似ているけど違います。言葉の上での遊びになるかもしれませんが、結婚して最良の時期は新婚時代と考えています」

 新婚イコール幸せいっぱいのイメージなのは否定しない。なんて言うか、初々しさと、新鮮さに満ち溢れてるぐらいとして良いはず。

「新婚とラブラブ夫婦の違いは・・・・良くわかりません」

 ボクだってそうだ。これから経験するものだし、現在進行形でもある。

「美玖もそうです。ですが美玖は新婚の嬉しさ、楽しさ、幸せを毎日感じています。こんな日が永遠に続くのが美玖の夢です」

 考えようによっては途轍もない夢だ。それでも美玖がそう願うのなら、そうするのがボクの使命だし、ボク以外に美玖の夢をかなえられる人間はこの世にいない。でも具体的にどうやったら、

「愛がすべてです」

 美玖だけど恋愛だけはロマンティストなのはよくわかったつもりなんだ。それもかなりの少女趣味も入ってる。うん、美玖らしい素晴らしい夢だと思う。

ツーリング日和23(第27話)赤穂浪士

 赤穂にまでツーリングに行ったのだから赤穂浪士の遺跡巡りと言うか、赤穂浪士の話もしたかったけど、

「流花は興味がありませんでした」

 歴史に興味があるかないかは純粋の趣味の問題だものな。ボクだってアイドルの話とか、最近のマンガとかアニメの話になるとサッパリわからないし、

「美玖もサッカーとかバスケの話を振られても困惑するところがあります」

 だから流花が赤穂浪士に興味も関心も無いのは仕方がない。二日目に流花の希望できらきら坂に行った時も、

『ダイセキメイザンの松ってなんですか?』

 それは大石名残の松だって。

「忠臣蔵も最近は映画にもドラマにならなくなっています」

 映画にも歴史ドラマにも繰り返し、繰り返し作品化されてたけど、最近は無いものな。あれだけ作られたから誰もが知っているのは当たり前の時代が長かったけど、作られなければ忘れられてしまうかも。

 忠臣蔵は歌舞伎で舞台化されてるけど、あの脚本は良く出来ていると思う。場面、場面でも完結してるし、浪花節的な思い入れがタップリで、クサいと言われようが日本人なら心の琴線をかき鳴らされる名脚本だと思ってる。

「忠臣蔵が良く出来過ぎて、赤穂浪士の実像がわからなくなっています」

 それは思う。発端の刃傷松の廊下にしても、結局のところ原因不明なんだよな。浅野内匠頭が勅使接待の当日に吉良上野介に切りつけたのは史実だけど、その原因が遺恨ってだけで、それ以上はサッパリわからないのが史実で良いと考えてる。

「遺恨からイジメ話が連想されてひたすら肥大化されたいるだけです」

 そもそもって話になると浅野内匠頭のキャラだって不明だ。映画とかドラマなら演出の関係で爽やかな若いお殿様になってるけど、そうしないと後の展開に困る以上の理由が見つからないぐらい。

「敵役の吉良上野介もです」

 討ち入りの時には日本中の恨みを背負い込んでいるぐらいの描かれようだけど、吉良側だって奮戦してるのだよ。討ち入りは完全な奇襲が成立してると見て良いはずなんだ。そうなったら、吉良上野介の人望がなければ蜘蛛の子を散らすように逃げたって不思議ないじゃないか。

「江戸の町人は浅野贔屓だったのは間違いありません」

 それはそうだ。そうでなければ、歌舞伎の忠臣蔵も成立せず、あれだけ繰り返し上演され、さらに映画化とかドラマ化もされないはず。だけど、どこから浅野贔屓に熱中したかも良くわからない。

「やはり討ち入り後ではないかと」

 江戸町人の武家への反発が根底にあったのだろうけど、

「旗本奴と町奴の対立の系譜の名残でしょうか」

 ちょっと時代がずれるんだよな。いつの時代でもお上って鬱陶しい存在だったぐらいの普遍的な理由ぐらいしか思いつかないな。

「大石内蔵助の本当の意図は?」

 浅野内匠頭刃傷の急報を受けて赤穂城で会議があったのは間違いない。でもさぁ、お殿様が江戸の殿中でそこまでの不祥事を起こしたら処分があるのは確定だし、それが改易になるぐらいは大石なら知っていたはず。

「大石じゃなくても知っていたはずです」

 籠城か明け渡しでもめたとなってるけど、

「籠城がいかに無駄かぐらいはわからない方がアホです」

 それでも殺気立つのだっていただろうけど、それを宥め回るぐらいはしただろうな。

「大石の求心力は?」

 身も蓋もないけどカネだろ。赤穂城は無事明け渡されてるけど、大石はこの時にかなりのカネを調達したはずだ。どうやってかは歴史の彼方に消えてるけど、大石がカネを持っていた証拠は四十七人の浪士を討ち入りまで養っていたからだ。

 だってだよ、大石だって浪人してるから収入はないじゃないか。伏見の遊郭で遊んだのは本当かもしれないけど、あれだってどれほどの規模で遊んだのかは不明だ。脚色の手が入りまくってるからな。だけど遊べるだけのカネがあったのは事実として良い。

「大石が借金した話は残されていません」

 浪人に小金ならまだしも、大金を貸すアホはおらんだろ。大石の真意なんて知りようも無いけど、平凡にお家再興だろうな。

「あれは幕府の大失態でしょう」

 ボクもそう思う。松の廊下事件は勅使接待の重要儀式の日にも起こっているから、犯人の内匠頭切腹やお家取り潰しは妥当な処分だと思う。そりゃ、幕府や将軍家に大恥をかかせたような不祥事だもの。

 だがまず拙速だったと思うところはる。ああいう時の常套手段として内匠頭の処分を保留にしながらまず赤穂城を開城させてしまうはずだ。内匠頭は江戸に居るから、赤穂に逃げ戻れるはずもない。

「家康ならそうしていたはず」

 ああそうだ。家康ならもっと老獪だよ。内匠頭を監禁しながら赤穂城を取り上げ、家臣団を解散した上で、内匠頭をどっかの大名の預かりにするとか、

「高野山に追放」

 ポイントはお殿様の内匠頭の利用だ。生かしておけば、家臣たちの暴走を抑えられるの計算だ。たかが五万石程度の大名だから捻り潰すのは容易だけど、武力蜂起をされると余計な手間暇がかかるぐらいの判断だ。

 それと家康なら播州浅野家は潰さなかったはずなんだ。大名としては一度潰すけど、時間を置いてさらに小さくして復活させるとかだ。小さくなっても家が残れば遺臣団は暴挙が出来なくなる。やればせっかく復活した家が滅ぶからね。

「やはり大石の狙いも」

 そうなるはずだの読みは合ったと思う。大石ぐらいなら幕府のそういう時の対応を良く知ってるはずだし、知らなくても懸命になって先例とかを調べたはずだ。

「大石も甘かったになりそうです」

 大石が期待をしていたのが内匠頭の弟の浅野大学になる。まだ内匠頭に息子はいなかったから血筋としてそうなるはず。問題は大石がどの程度の規模のお家再興を計算していたかなんだ。

「だから四十七人も残ったとか」

 そこら辺りの実像がわからなくなってしまっている。忠臣蔵では浪士たちはひたすら主君の仇討ちに逸り立ってるし、そういうのも居たのは否定しないけど、本音では再興された家での再就職狙いも多かったと考えてる。

「やはり大石の計算では大名、それも二万石ぐらいだったのかしれません」

 元が五万石だから最低でも大名の期待はあった気がする。この辺は播州浅野家の本家が芸州浅野家だから、本家から播州浅野家に養子を迎えて支藩としてお家再興なんて期待も計算してたかもしれない。

「幕府も旗本ぐらいで手を打っておけば・・・」

 ボクもそう思う。幕府にそういう意図がどこかにあったか無かったかさえ今となっては不明だけど、浅野大学への処分で大石がお家再興の希望は絶たれたと判断したのはあったと思う。

「そうなると、大石の真価は別になるかもです」

 ボクもそうかもしれないと思い出してる。建前は主君の仇討と大石も他の浪士たちもしていたのだろうけど、本音は再興後のお家への再就職だったとするのが妥当だものな。そんな状態でお家再興の望みが絶たれれば浪士団は散り散りになるしかないはずだ。

 そこから、とにもかくにも四十七人を引き連れて本所松坂町の吉良屋敷に討ち入りをしたのは史実だ。どんなマジックを使ったのか不思議すぎる。

「赤穂浪士の切腹処分は」

 あれ以外にあるか。あんなもの認めてしまえば、話はキリがなくなる。武士のプライドの原理の一つに雪辱がある。雪辱とは恥を雪ぐだけど、その恥の大元なんて言い出せばキリがなくなる。回り回れば徳川幕府に恨みを持つ者なんてゴマンといる。

「考えようによっては幕末の動乱も赤穂浪士的な復讐原理かも」

 長州藩なんてそうかもな。でもさぁ、忠臣蔵は忠臣蔵である種の叙事詩のままで置いとくのもありと思わないか。

「剛紀らしいですが、美玖もそう思います」

 史実を追求するのは歴史学として重要なのは言うまでもない。だけど真実って時に残酷なんだよな。全部引っぺがすとドロドロしたものしか残らないのが多々ある。

「それを美化したものが歴史ロマンとも言えます」

 ボクは専門家でも研究家でもないからドロドロした真相よりロマンが好きだ。

ツーリング日和23(第26話)龍野

 ツーリングの朝は早い。朝風呂に入り朝食だ。ここは湯豆腐もあるのか。朝から湯豆腐なんて旅館じゃなければ食べられないよ。

「出汁巻き卵もなかなか」
「鯵の一夜干しも美味しい♪」

 朝食が終わると出発なんだけど、バイクに乗る前に歩いて二分の伊和都比売神社に。恋愛の神様であるそうだけどボクらには関係ないな。

「美玖には旦那ラブがあります」
「流花が負けるものですか」

 二人とも良い奥さんになるよ。ボクだって美玖とのラブが永遠になるように祈っといた。少し気になったのは祭神である伊和都比売なんだ。ロケーション的に海の神様ではあるのだけど、伊和神社の比売神ともされてるんだ。

「妾だったのではないでしょうか」

 即断かよ。ボクは古代では揖保川流域が出雲系で、千種川流域が吉備系の仮説を持ってるのだけど、出雲系が赤穂まで進出征服したのかもしれないし、あるいは両勢力が婚姻で友好関係を結んだぐらいはあると思ってるぐらい。

 そこから流花のリクエストのきらきら坂。海岸線にある遊歩道におりる坂道だけどインスタスポットでもあるらしい。おっ、こんなところに大石名残の松があるのか。ここに本当に大石内蔵助が来たかどうかはともかく、

「四十七士は赤穂城を明け渡してから故郷の空を見ていません」

 それぞれに名残を惜しんだのだろうな。宿に戻りツーリングスタート。まずは昨日も走った赤穂城への道に入り、橋を渡った次の信号を右折。県道四五九号を北上する。この道は市街地を抜ける頃には千種川の東岸を走り、やがて国道二五〇号とクロスするからそれに入る。

「こちらが本物のはりまシーサイドロードにはなります」

 山の中の道だけど途中で高取峠があり、この道を浅野内匠頭切腹を伝える早駕籠が通ったとなってるから、昔からの街道だったはずだ。浅野内匠頭もこの峠を越えて江戸に向かったのだろうけど、その時には切腹が待っているとは思いもしなかったのだろうな。

「見送った大石内蔵助もです」

 はりまシーサイドロ―ドだから相生に着くのだけど、今日は相生大橋を越えたところで左折して相生駅に向かって走って行く。この道は相生駅の東側に出て線路を越えて国道二号に入れるんだ。

 相生から龍野に入るのだけど県道四四〇号を左折する。龍野市街なんだけど国道二号や山陽本線が通っているところは南の端ぐらいだから、観光をしたいのならかなり北上する必要があるんだよな。

「中垣内の交差点ですから右折します」

 なんも道路案内が無いな。この辺は生活道路だろうから仕方がないか。しばらく西に進むと、

「あそこを左です」

 えっ、あそこか。案内標識が何本も立ってるからそうだろうけど、前に見える山が龍野城に続く山みたいだ。けっこう登るな。分かれ道に出たけど、

「左です」

 大型車進入禁止って方か。モンキーだから関係ないな。

「左に見える駐車場に停めます」

 無料駐車場なのがありがたいな。ここが龍野公園になっていて、文学の小径を歩いて聚遠亭に。ここは藩主の別荘みたいなところで御涼所ともなってるから避暑用だったのかな。それほど涼しかったとも思えないけど、

「龍野藩版キャンプデービットというところです」

 そこから龍野城の方に歩いていく櫓と白塀が見えてきた。復元らしいけど、やっぱり建物があるとテンションが上がる。隅櫓の下からあるしころ坂を登っていくと西門から城内に入れるのか。あれが復元された本丸御殿みたいだ。そこから埋門を通り城外へ。

 城門から出たところにあったのが赤とんぼで有名な三木露風の生家。けっこう立派な家だな。お城に近いから武家屋敷かと思ったら違うようで、明治初めに建てられたらしい。もっとも露風はこの家で生まれてはいるけど六歳の時に両親が離婚し、祖父の家に引き取れているのか。

 三木露風の学歴も今となったらわかりにくいな。旧制龍野中学を一年で中退して早稲田や慶応で学んだとなってるけど、

「東京専門学校が早稲田大学になったのが明治三十五年ですから、露風が十三歳の時です」

 この頃の早稲田は大学の名前は付いていたけど当時の学制なら専門学校だったのか。とはいえ入学対象は旧制中学卒業だったはずだけど、

「どさくさの部分もあったのかと」

 そんな時代だものな。そこから醤油の郷大正ロマン館により、脇坂家の菩提寺である如来寺の横を通り抜けうすくち醤油龍野資料館を見て、まっすぐ歩いていくと龍野公園だ。

「龍野に来てこれを食べないのは許されざることです」

 なんだと思ったら素麺か。ただ美玖がわざわざ選んだだけあって、揖保乃糸でも最高級の三神が食べれるらしい。素麺にそんなに違いがあるのかと思ったのだけど、

「揖保乃糸にもランクがあり、下から太づくり、上級、熟成麺、播州小麦、縒つむぎ、特級、そして三神です」

 よく食べるは?

「上級です。三神はその五段階上になります」

 食べてみたら美味かった。とにかく細くてのど越し以前に口の中で溶けそうだった。なるほど、龍野にわざわざ寄ったのは観光もあっただろうけどこの素麺を食べたかったのか。

「社長夫人の接待です」

 はいはい。それはわかったけど、もう十一時半だぞ。龍野からどうやって帰るつもりだ。

「帰ろうとする強い意志があれば帰れます」

 精神論かよ。いや、実際に精神論をやらされた。龍野橋を渡ってから県道五号を目指して入り込み、夢前川の西岸を北上。橋を渡り県道六十七号に。これではわかりにくいと思うけど、龍野から西に進んで書写山を目指したぐらいだ。

 そこから夢前川を北上すると美玖と二人の初夜を過ごした塩田温泉があり、夢前に出て来る。夢前からは再び西に向かい、福崎、加西と抜けて滝野から国道一七五号バイパスだ。ここから小野、三木と通り抜け、神出から西神中央に行き、山麓バイパスを抜けたらやっと神戸だ。

 龍野観光も三神の素麺も美味しかったけどきっちり代償は支払わされた。あのな美玖、このツーリングって社長夫人の接待なんだぞ。

「来た道を帰るなど接待として許されると言うのですか!」

 それはそうだけど、だいぶ遠回りしたぞ。流花だって辛いじゃないか。

「流花、まさかこれしきで疲れたなんて言わせません」
「これぐらい平気です」
「こう仰られてますから心配ありません」

 あのな、脅してどうするんだよ。美玖にそう聞かれてダメなんて言うのが星雷社にいるものか。流花を社長宅に送り届け、家に着いたらホッとした。ところで流花はいつ真実の愛を見れるのかな。

「今夜ではないでしょう」

 どうして?

「疲れて寝るからです」

 ボクもそうさせてもらった。

ツーリング日和23(第25話)夜話

 部屋に戻ると流花は、

「どうしてもお聞きしたいことがありまして・・・」

 なんだろ、

「どんなご夫婦やっておられるのですか?」

 はぁ、見ての通り普通の夫婦だよ。

「たしかに夫婦らしく名前呼びをされていますが、部長の話され方が・・・」

 ああ、あれか。あれは美玖の口調だよ。流花だって美玖が語尾を濁すような話し方が嫌いなのは知ってるだろ、

「それは徹底的に叩き込まれましたが、あれはあくまでも仕事でのことで・・・」

 普段から美玖はそうだけの事だ。たまに崩れることはあるけど、だいたいあんな感じだ。

「家でもですか?」

 そうだと言ったじゃないか。

「尾籠なお話ですが、夜の営みの時もですか。というか、ご夫婦ではあるのは良く知っていますが、どうしても想像が出来なくて」

 そこまで聞くか。ちゃんと夜の営みもあるに決まってるじゃないか。

「でも部長がですよ」

 美玖の体がどれだけ素晴らしいかはお風呂で見ただろ。

「それは・・・あれ程とは正直なところ驚かされました」

 そんな美玖が妻になってるのだぞ。そこで少し間を置いてから。

「もしかして部長は処女だったとか」

 幾つだと思ってるんだ。美玖は若く見える方だけど、流花より社長に歳は近いんだ。あんな良い女が処女の訳がないだろうが。すると美玖はしみじみと、

「美玖は流花が羨ましいです。流花は美玖の理想の結ばれ方をしています」
「理想とは?」
「初夜に処女を捧げる事です。しかも社長は童貞です」

 おいおい、そこまで断言するな。

「そうでした」

 そうだったのか。あの社長ならと思ったけど、まさかそうだったとは、

「美玖は生涯唯一人の男のみを知り、その相手にすべてを捧げたいと願っていました。この夢は無残に潰えてしまいました。夢が潰えたしまったので一人で生きて行くと決めていました」
「では専務が二人目」

 そうなんだけど、

「処女を捧げる事が出来なかったのは悔しいことでしたが、それでも剛紀は受け入れてくれました」

 ボクもそうだけど、処女への憧れとか願望はあっても、結婚相手の条件に処女を絶対視する男の方が珍しいはずだ。

「それよりもっと大切なものをあの汚らわしい男に奪われてしまったのです。これは剛紀にいくら慰めてもらっても死ぬまで悔いが残ります。美玖は偽りの真実の愛を見てしまったのです」

 美玖は処女へのこだわりもあるけど、それ以上に真実の愛を結婚詐欺師に見せられてしまった事の悔しさの方が大きいんだよな。そんなもの気にするなと何度も言っているのだけど、こればっかりは美玖のポリシーみたいなもので良さそうだ、

「だから専務との結婚にも後悔があるとか」
「とんでも御座いません。剛紀の心の広さはそんなちっぽけなものではありません。そんな美玖のすべてを受け入れ、これ以上はない渾身の愛をひたすら注いで下さいます」

 当たり前だ。それに値する女が美玖だ。

「だからこそです。最愛の人にすべてを捧げるのが愛です。真実の愛を見ることが許されるのは最愛の人のみです。それを剛紀に捧げられなかったのです」

 あんなものは生理現象に過ぎないと言いたいけど、

「だから流花がひたすら羨ましい。既に妻になっておられます。死ぬまで真実の愛を見せてくれる人は最愛の人のみです」

 あの社長なら離婚はしないだろ。そこから流花はためらった後に、

「流花も夫婦になったからには見たいと思っているのですが」
「愛があれば必ず見れます」

 断言するのは良いけど早漏の可能性だってあるぞ。美玖はじっと流花の目を見てから、

「流花には真実の愛の扉が見えているはずです」
「そ、それは・・・」
「恐れず進みなさい」
「ですが・・・」
「そこからが容易でないのはわかっています。だからこそ初めて真実の愛の扉を開くことに価値があるのです。これを捧げることが最高の愛です」

 ずっと二人の会話を聞いていて思ったのだけど、これって猥談だよな。それも違うな。流花は新婚生活を誰かに聞いて欲しかったぐらいだと思う。こういうものは、普通なら誰かが話題に持ち出してくれるはずなんだ。

 たとえば同僚だ。冷やかしも含めて、どうなのぐらいは誰でも出るよ。だが流花は突然みたいに社長夫人になってしまったんだよな。寿退職にもなってるのもあるけど、かつての同僚であっても社長夫人になると気軽に家を訪れられないよ。

 会社の同僚以外なら友だちもいる。これもまた流花にはいない気がする。友だちは学校で出来るものだけど、流花は私立の中高一貫校だ。そうなると小学生時代の友だちと関係を続けるのは難しくなる。

 中高も六年あるとは言え、中高時代の友だちとは顔を合わせたくないはず。今日の夕食で出会ったような女は論外としても、中退こそ免れたものの、高卒で終わった負い目はどうしたってあるはず。

 親兄弟もいないのと同様だから、流花はこういう話をする相手がいなくなってしまってる。だから美玖を旅行に連れ出したんだろ。美玖なら元上司だし、それこそ高卒の流花をイチから育て上げたような存在だ。

 とはいえ・・・一対一で旅行となると怖かったんだろ。その気持ちはわからないでもない。だからボクも引っ張り出されてぐらいで良いと思う。でも、やっぱり猥談だよな。流花が本当に話をしたかったのは夫婦の夜の営みだものな。


 流花は処女で童貞と結ばれている。それは何も悪くないのだけど、処女であっても初体験の次に目指したいのは何かぐらいは知ってるもの。それもどうやら、真実の愛の扉に近づいているで良さそうだ。

 この辺がボクは男だからわかりにくいのだけど、女が真実の愛を見るのは、ロストヴァージンの逆の意味で怖いで良さそうな気がする。この辺が男と違うみたいだ。男の場合はシンプルで最後の瞬間にセットのように付いて来る。

 だが女はそうじゃないぐらいは知っている。美玖も言ってたけど、真実の愛は見たいものだけど、見たことを男に知られてしまうのが怖いと言うより、恥ずかしいの思いが強いようなんだ。だから見てもそれを気づかれないように隠そうとするらしい。

 それ以前の問題もあるのかもしれない。メカニズムの基本は男も同じのはずだ。昂って行って最後にどうしようもなくなるぐらいだ。男は昂ればひたすらそれを目指して必発みたいなものだけど、女はどうしたって受け身になる。

 これも最後のところは男だからわかりようもないのだけど、最後のところで関門みたいなものもありそうな気がする。とくに最初の時だ。どういう感覚になっているか不明だけど、かなり我慢できると言うか、そこに自発的な意思が必要と言うか、

「すべては愛です。愛があれば乗り越えられます。真実の愛の扉は開かなければなりません。扉の先の世界に入れる喜びは何物にも代え難いものです。そこに連れて行ってもらえる時こそが真実の愛そのものなのです」
「でも怖くて・・・」
「だからこそ愛として捧げる無上の価値があります。流花は最愛の人に捧げることが出来るのです。美玖から言わせれば本当に羨ましくて仕方がありません」

 どんな感じなんだろうな。昂りに昂り切り、それを堪えに堪えた末に、満杯になったダムが決壊するようなものなんだろうか。美玖の反応を見てるとそんな感じだものな。

「どうなってしまうのですか」
「言葉で表現できるものではありません。あれこそ究極の喜びの世界です。それを流花は知らねばなりません。そして、その世界に入れたことを伝えるのです。その時に夫婦の絆は不朽のものになります」

 真実の愛の扉の向こうの世界も広そうなんだ。どう言えば良いかわからないけど、途轍もなく奥深いのだけは間違いなさそうだ。美玖を見てると良くわかるもの。そうなってくれる美玖を見るのは幸せだけど、

「流花、真実の愛の世界は女にのみ入ることが許された特権です。入ればどれほどの特権なのかすぐにわかりますし、連れて行ってもらえた最愛の男への愛はいくらでも深くなります」
「そんなに・・・」
「美玖は一人だけに連れて行ってもらいたかったのです。そして真実の愛を見させてもらう事がどれほど嬉しくて、幸せな事かを伝えたかったのです。その夢は叶いませんでしたが流花ならそうなれます」

 もちろん美玖の考えがすべてじゃないし、これしか正解がないわけじゃない。だけど今の流花には合ってると思う。もちろんボクにもだ。だってだぞ、愛し合えばその相手しかいないと思うのは当然じゃないか。

 夫婦なら公式の籍まで入ってるし、恋人だってそうのはずだ。それでも何股も平気なのもいるけど、そういう連中をなんて言うか知ってるだろ。ヤリマンとかヤリチンだ。ヤリマンやヤリチンを恋人にして結婚したいとまで思わないだろ。

 ヤリマンやヤリチンだって結婚して相手が一人になれば良いようなものだけど、そうは行くとは思えないんだよな。だからあれだけ離婚するのだろうが。美玖の考え方も偏ってるところはあるけど、ボクにはピッタリだ。あれ以上の女がこの世にいるものか。

ツーリング日和23(第24話)座興みたいなトラブル

 赤穂城から引き返して赤穂御崎に。今日はあれこれ回ってくたびれた。今日の宿は、

「ここです」

 これは立派な温泉旅館だ。さて部屋は・・・ちょっと待った、ちょっと待った同じ部屋はいくらなんでも拙いだろうが。流花を誰だと思ってるんだ。

「社長夫人の御意向で御座います。なにかあれば、目の前の海の藻屑にして差し上げます」

 美玖が言うと本当にやりそうで怖いよ。こうなったら仕方がない。まずは風呂に行こう。ここの風呂も気持ちが良いな。夕陽を照らし込む趣向だそうだけど、海を眺めながらの露天風呂は贅沢だ。

 ここも部屋食じゃなくてお食事処か。席に案内されたけど、横長の座敷を敷居で区切った感じだな。真ん中が通路ぐらいの感じで、窓側と部屋の奥側にテーブルが一つずつある。窓際の席だからちょっとラッキーかも。ボクたちが席に着いてから少し遅れて隣のテーブルのお客さんも入って来たのだけど、

「流花じゃないの。生きてたの?」
「えっ、サナ・・・」

 このケバい女は誰だよ。年恰好からすると流花と同年代にも見えるし、あのタメ口からすると、

「高校中退の負け組さん」

 流花の高校の同級生だな。流花の顔が強張ってるぞ。それでも絞り出すように、

「高校は卒業しています」
「あらそうだったの。学校には来ないし、卒業式も来なかったから中退だと思ってた」

 こいつ・・・流花は言ってたな。突然の悲劇に見舞われた流花に同情したのもいたけど、逆に侮辱したのもいたって。こいつは侮辱した方で良さそうだ。

「まあ高卒でもあんまり変わんないけどね。底辺転落一直線しかないじゃない」

 そうじゃないのは見たらわかるだろうが、底辺がこんな宿に泊まれるはずないだろう。サナは無遠慮にジロジロこっちを見てから、

「なるほどね。そこのオッサンはそのオバハンのパパだろ。今夜は追加の尻振りダンス要員として買われたんだ。リッチなオッサンに買われて良かったね」

 勝手に決めつけるな。

「流花も底辺なりに出世したみたいだね。こんな宿に呼ばれて食事までさせてもらってるじゃない。こんな御馳走食べさせてもらってるから、夜の尻振りダンスは頑張らないといけないよ」

 ここまですらすら良く出るもんだ。

「朝までオバサンと尻振りダンスの競演か。流花にはお似合いのお仕事だよ。それにしても、こんな底辺女と同級生なのが恥ずかしいよ。そう思うだろマサヤ」

 この男も誰だ。

「前に話していた親にも見捨てられたクズ女か。尻振りダンスが仕事とはね」

 女はマサヤと呼ぶ男と腕を組みながら、

「マサヤは会社の御曹司なのよ。わかる、次期社長夫人になるってこと。底辺で尻を振って暮らす流花とは住む世界が違うのよ」

 流花は俯いて顔が真っ青だ。いくら同級生でも、いや人間として口にしてはいけない事だとわかっとるんか。

「こんな底辺女の隣で食べたくないよ」
「ああそうだな。あの食事が尻振りダンスのエネルギー源だと思うとヘドが出そうだ」

 もう我慢ならん。ボクが席を立ちかけたのだけど美玖の方が早かった。

「御丁寧な挨拶、痛み入ります。宜しければお勤め先をお聞かせ頂いても宜しいでしょうか」

 サナと呼ばれた女は待ってましたとばかりに、

「教えてあげるよ。マサヤは大見黒食品の社長の御曹司なのよ」
「おおそうだ。底辺が残飯を欲しいと言うのなら口を利いてやっても良いぞ」

 大見黒食品か・・・星雷社がまだ場末のビルの時に近くにあった弁当屋だ。あの頃は大見黒屋だったけど、ボクも良く買いに行っていた。他の社員もそうだったから、いつしか会社に昼の注文を取りに来る出入り業者みたいになって行った。

 あれから星雷社も大きくなり、二度の引っ越しをしたけど大見黒屋も付いて来てた。大見黒屋も星雷社だけじゃなく、星雷社の関連企業や、下請け企業にも販路を伸ばし、大見黒屋から大見黒食品になったぐらいだ。

 大見黒食品が大きくなったのは星雷社の成長に伴う部分は多いはずだ。星雷社関連会社だけでなく、他にも販路を広げているけど、あれだって星雷社の出入り業者の看板は小さくないと思ってる。

 ところでだが、星雷社に社食構想が出ている。規模もそこまでになったのもあるから福利厚生の一環ぐらいだ。もっとも現在の社屋では手狭も良いところだから、新社屋に移転した時ぐらいの話だけどな。

 社食は委託の方針になってるけど、順当ならこれまでの付き合いもあるから大見黒食品になりそうなものだが、社内の異論は大きいんだよ。大見黒食品も大見黒屋時代は美味かった。爺さんは味にとにかくこだわる人で、時にコスト抜きとしか思えないのも多々あったぐらいだったもの。

 これが二代目の息子の時代になって落ちてるんだよ。規模拡大のためもあるだろうけど、効率化によるコストダウンをやり過ぎたのじゃないかと思ってる。だからだと思うけど、

 美味い → 並 → 不味い

 こんな感じで評判が悪い。社長は長年の付き合いもあるし、食へのこだわりが殆どない人だから大見黒食品に委託しようぐらいの考えだけど、社員の意見としては、この機会にチェンジしたいの声が高くなっている。

 せっかく自前の社食を持つのに大見黒食品じゃ食べたくないぐらいで良いと思う。これにはボクも美玖も内心では同意してる。どうやって社長を翻意させようかと知恵を絞ってる段階ぐらいの理解で良いと思う。

 まだ構想段階とはいえ大見黒食品にすれば星雷社の社食事業を取れば大きいし、逆に失えば手痛いから、あれこれ水面下で動き回ってる状況かな。この事業に関しては星雷社から見れば、幾らでも代わりはいるし、売り込みだって良く来るからな。

 大見黒食品だって星雷社関連だけで商売している訳じゃないけど、星雷社が大見黒食品を切れば星雷社関連会社だって右へ倣えするだけじゃなく、星雷社に切られたことで他にも悪影響は懸念しているはず。

 そういう状況になっているのをこの御曹司君は知らないのだろうか。そうだな美玖とボクが何者であり、さらに流花が星雷社でどういう地位にあるのを知らないのだけはわかる。わかってあれだけの放言、暴言をやっているのならアホウの極致だ。

「こっちが勤め先を教えたんだからあんたも言えよな」
「言えないのじゃないか。尻振りダンスの勤め先なんか」

 美玖は顔色一つ変えず、

「これは失礼しました」

 おいおい持って来てたのかよ。美玖は名刺を差し出し、

「星雷社で営業部長を務めさせて頂いている初鹿野です。どうかお見知りおき下さい」

 おっ、さすがにマサヤは知ってたか。顔色が変わったぞ。

「星雷社の、は、は、初鹿野部長・・・」
「どうしたのよ。どこかの売春クラブのやり手婆なんでしょ」
「黙れ。あなたが初鹿野部長と言う事は、もしかしてこちらにおられるのは」
「専務の藤崎です。今日は社長夫人の無聊をお慰めするためにこちらにお邪魔させて頂いております」

 もう顔が真っ青を越えてるぞ、

「しゃ、しゃ、社長夫人。そう言えば結婚式に出席した親父が社長の奥様は若いと・・・」
「どうしたのよマサヤ。部長とか言っても売女のやり手婆だろ。底辺に堕ちて売女やってる流花・・・」
「うるさい。黙ってろと言っただろうが。まさか星雷社の方々とは知らず・・・」

 美玖はニコリともせずに、

「丁寧極まる御挨拶、しかと三人で承りました」
「それは、あなた方を誰かを存じ上げなかっただけで・・・」

 美玖は冷え冷えとした声で、

「相手が誰であるかわからなければ、あれほど丁重な御挨拶をして頂ける方とよくわかりました。弊社といたしましても、これに相応しい挨拶をさせて頂きます」

 終わったな。それでも女は、

「なにが社長夫人だ、底辺の流花がなれる訳がないだろうが。ウソに決まってる。流花は尻振りダンス要員に買われただけで・・・」
「もう口を開くな。あっちに行け」
「なによ、底辺の尻振りしか能がない流花なのに」
「うるさい、黙れ!」

 もめ事を聞きつけた宿の人がやって来て、二人をどこかに連れて行ってくれた。大見黒食品との縁はこれで切れたな。美玖も、

「良い機会になりました。あの方が次期社長なのを知ることが出来たのは収穫です」

 取引企業をどう見るかはあれこれ視点はあるけど、やはりトップがどういう人物であるかは大きな比重を占める、今の社長もイマイチだが次期社長があれでは先行きは暗いな。あの言動だけでも評価としては十分だけど、選んだ女もなんだよあれ。

 わざわざ、自分から喧嘩を吹っかけて自爆じゃないか。あそこまでやらかせば、せっかく掴みかけていた社長夫人の座を棒に振ったのじゃじゃないか。ずっと黙っていた流花が、

「サナは高校の時から流花を敵視していました」

 流花も言いにくそうだけど、好対照の存在だったで良さそうだ。派手好きのケバ女と、控えめで清楚な流花ぐらいだろうか。男子の人気を二分していたと言うか、流花の方が人気あったぐらいで良さそうだ。

「サナはマウント好きでした」

 ケバ女からしたら優等生だった流花は目障りで仕方なかったで良さそうだ。目の上のタンコブみたいな存在だった流花が悲劇に見舞われると、これ幸いとばかりに叩きまくったぐらいで良さそうだ。

「サナは上昇指向も強い女で、彼氏も次々とチェンジしていました」

 イケメンとか高校生なりに将来の有望株と見れば、たとえ彼女がいても奪いに行くタイプか。奪うと言っても、

「どうやってかは噂だけしか存じませんが、ああいう時には自分の成功体験を話すことが多いものです」

 それって、尻振りダンスか!

「おそらくあの勢いのまま、大学、さらに社会人になり、ついに捕まえたのが社長の御曹司かと。サナでもあれが失言ぐらいはわかるでしょうから、今夜は失言を挽回するために精を出されるはずです」

 あの御曹司の程度も低そうだが、あれがどれだけの失言、暴言であったかぐらいは理解できる頭はありそうな気がする。尻振りダンスなんてさせてくれるかな。

「その辺はわかりませんが、御曹司を失えば次のターゲットに行くだけでしょう。ただ今回の失言は広まる可能性があります。だって部長をあれだけ侮辱してそれで済むとは思えません」

 美玖の怒りを買えばボクでも海の藻屑だものなぁ。そのうち尻振りダンスが本職になっても不思議とは思わない。すると美玖が氷のように冷やかに、

「人を呪わば穴二つと申します。思わぬ座興はこれで終わりにしましょう」

 それもそうだ。