不思議の国のマドカ:経験の必要性

    『カランカラン』

 個展の成功後に麻吹先生に連れられてバーに。そこで一人前のプロとして認められたマドカの処遇についての話がありました。提示されたのは独立するも良し、他のスタジオと専属契約を結ぶのも良しとなっていました。

    「マドカ、オフィス加納に残るのなら選択枝は二つだ。一つはアカネのように専属契約を結ぶこと。もう一つは幹部待遇になる事だ。うちが出せる条件はこれだ」

 契約書を見せて下さり。

    「うちが出せるのはここまでだ。それとこれはあくまでも希望だが、もしオフィスに残ってくれるなら、幹部待遇であれば嬉しい。アカネの場合は〇・一グラムも検討の余地がなかったが、マドカなら経営も十分だからな」

 マドカはオフィス加納に残ります。ただ幹部待遇はお断りし、アカネ先生と同様に専属契約にさせて頂きました。麻吹先生は、

    「オフィス加納はマドカが専属契約で残ってくれることを歓迎する」

 そこからあれこれ話があったのですが、

    「マドカ、女はどうだ」
    「かなり慣れてきましたが、なにか不思議な感じがしています」
    「だろうな。マドカは男性心理も知識として十分すぎるほど知っているからな」

 仰られる通りで、男が女をどういう目で見、どういう風に評価するのをマドカは知っているのです。もっと具体的には男は女をどうしたいかをです。

    「そうされる立場に変わってどう思う」
    「なにか怖いような気もしています」

 麻吹先生は静かにグラスを傾けながら、

    「男が欲しくなったか」
    「積極的にはまだ。でも男の時に女が欲しいのと違う感じがします」
    「そこは女しかやっていないわたしにはわからんな」

 もう女は恋愛の対象ではありません。それは、はっきりしています。逆に男が気になっています。きっとこれが高じた時に恋に落ちるのだと思います。そうなることに抵抗も薄くなっていますが、

    「麻吹先生、やはり初めての時は痛いのですか」
    「おっと、マドカからそんな質問が出るとは思わなかった。まあいい、女については初心者だからな。わたしとて二回しか記憶にないが、やはり痛いと思っていたら良い。ユッキーやコトリちゃんにも聞いても、痛いことの方が多いそうだ」

 マドカも女になったのなら、いつかは経験する痛みになります。

    「マドカ。そんなに心配しなくともよい。痛みも様々だ。ただの苦痛の時もあれば、心地よい痛みまである」
    「そんなに差があるのですか」
    「ああ、加納志織の時は痛いだけで喪失感しかなかったが、麻吹つばさの時は心地よい満足感だったよ」

 同じ人でもこれだけ違うようです。

    「それとな、男と女では感じ方が違う」

 これは形状があれほど違えば同じとは思えませんが、

    「誤解ないように言っておくが、わたしには男の経験はない。ただ知り合いに両方楽しんだヤツがいて聞いたのだ」
    「バイ・セクシャルですか」
    「違うよ。完全な男、女として感じて比較したものだ」

 どうやってと思いましたが、神の話でした。神が体の性転換をするのは簡単だそうで、宿主を変えれば良いだけだそうです。さらに人に宿った時でも意識ごと書き換えてしまう場合と、宿っているだけも出来るそうです。

    「そんな芸当の出来る神は限られてるけどな」

 宿っているだけの場合でも、宿主と同じように感じることは可能だそうです。

    「では、女神が男に宿って、その宿主の男が女を抱いた時の感覚を経験できるということですね」
    「そういうことだ。だがな、そいつは選りによって、前の旦那に宿りやがってたんだ」
    「えっ、もしかしてすべて見られてた」
    「ああ、そうだ。見られてたどころか、わたしの体のすべてを愛撫し、わたしのよがる姿、さらにわたしのアソコの感じ方まで全部知られたってことだよ。それも新婚の時から十七年間もだよ。これを聞かされた時には卒倒しそうになったよ」

 これは強烈すぎる経験です。

    「どうしてそうなったかは、悪いがここでは伏せさせてもらう。さて両方を比較した結果だが、断然女の方がイイそうだ」
    「そんなに」
    「言い方がモロで悪いが、単純化すると男の場合は射精の一点に快感は尽きるとして良いようだ。それはかなりのものだそうだが、それ以上でも、それ以下でもない」

 そうなんだ。心こそ男でしたが、男の体は未経験のマドカにとっては驚きでした。

    「女はマドカもこれから経験することになるだろうが、感度はいくらでも上がるし、何度でもエクスタシーに達することが出来る。まあ、いくらでも感度が上がると言っても、意識が保ちきれなくなるから、そこが自然に限界になるかな」

 そんなに! 怖い一方で、なにかを期待してしまいそうな自分がいます。

    「もっともだが、女なら誰でもそうなる訳ではない」
    「そうなんですか」
    「男は相手が誰であっても射精に至れば一定の快感を得られるが、女はそうじゃない」

 麻吹先生はバージンのままで結婚式の初夜に臨まれていますが、加納先生の時代はかなりの男遍歴があったようです。

    「宿主も代わって時効だから話しておくが、初体験はレイプ同然だったし、その後も相当やってるよ」

 加納志織時代に最初に独立した時は、腕も未熟で仕事を集めるのも大変だったそうです。

    「そりゃ、こういう商売だから売り物は腕のはずだけど、今から思っても、マドカの入門当時よりかなりヘタクソだったよ」
    「それで、どうされたのですか」
    「腕で仕事が取れないから、体で取ってたんだ」

 仕事だけでなく運転資金も体で取ってたとしています。

    「でもねぇ、途中で、これなら写真で食ってるんじゃなくて、売春で食ってるようなものだってイヤになったんだ」

 体の提供をやめれば、仕事は見る見る減っていき、その依頼料も急降下。食べるのにも困って後の夫の下宿に転がりこんだようです。そこから加納志織の再生は始まるのですが、

    「だがな、あれだけの数寝たのに一度たりとも感じた事がないんだ。わかるかマドカ、女は結ばれたいと思う男でないと感じにくいんだよ」

 そんなものなのだ。加納先生が初めて感じたのは後の夫の時が初めてだそうです。その時に世界が変わったとも仰いました。

    「そりゃ、全然違うんだよ。こんな素晴らしい世界がこの世にあるかと思ったぐらいだった。あの時に自分のすべてを素直にさらけだせたと思う。ちょっとやり過ぎてしまったがな」

 麻吹先生は、何かを思い出しているようでした。

    「これも言っとくが女なら全員がそうと言うわけでない。それでも最低限言えるのは、抱いて欲しいと思う男の方が感じやすいのは間違いない。初体験の痛みの感じ方も、その辺で大きな差が出る」

 麻吹先生は苦笑いしながら、

    「今夜はエライ話になってしまったな。わたしの経験からいうと、感じる感じないの必要条件は愛する男であることぐらいに思っておけば良いかな」
    「やはり経験はすべきですか」
    「それはマドカの自由だ。わたしは女として経験すべきだと思っているが、無理からに経験を急ぐ必要もない。来る時が来れば、マドカも自然に経験することになるさ」

 その日、その時はいつか来るのか。

    「麻吹先生がバージンで初夜を迎えられたのは、星野先生なら間違いないと判断されたからですね」
    「あれはタマタマ。わたしの記憶は加納志織から始まってるのだよ。どうしたって前の旦那へのこだわりがあっただけ。そうそう、感じるには十分条件もあるんだ」
    「十分条件・・・ですか?」
    「それは体の相性さ。こればかりは実際にアレをやってみないとわからない。だから、バージンで結婚するのが良いとは限らない。わたしはサトルが当りで幸せだ」

 麻吹先生からは

    「とにかく焦るな」

 こう何度も念を押されました。女の心に馴染んでいけば自然に男も出来て経験もすると。そうマドカは本当の女になったばかり。経験を急ぐ必要はないと思っています。

    「マドカ、やっと心からの女になったのだ。先輩女性からの願いとして、素晴らしい経験をして欲しい」

不思議の国のマドカ:冥界談義

    「マドカさんはケリついたみたいやな」
    「そうね、上手くいって良かったわ」
    「さすが名医や」
    「元もイイとこだけど」

 あれで良かったかどうかは言いだせばキリがないけど、人の命なんて短いから、その間が満足できればエエと思てる。とりあえずマドカさんのことは置いといて、新田和明に宿ってる神が問題になるんやけど、

    「どっちやと思う」
    「やっぱりドゥムジでしょ」

 叙事詩ではドゥムジとゲシュティンアンナは半年ごとに地上と冥界を行き来するとなってるけど、実際は宿主代わりの時に交代するで良さそうや。

    「そやけど倉麿にしろ、敏雄にしろ男やで。女神のゲシュティンアンナが宿るやろか」
    「そこなんだけど、ゲシュティンアンナの性嗜好もまともじゃないと考えたらどうかしら」

 どうも今回の事件はややこしくて困る。だいたい和明に宿る神の、

    『女の心を持つ男を本当の女にして愛する』

 これからしてようわからん。それやったら、最初から女を愛せば良さそうなものやんか。その方が手間かからんし。

    「コトリの言う通りなんだけど、そういうタイプの女の方がより女らしいのはあると思う」
    「ホンモノの女よりか」
    「なにがホンモノかを言いだすとキリが無くなるけど、そうね、男が望む理想の女性像になるぐらいかな」

 なるほどね。女が考える女と、男が考える女は必ずしも同じじゃないから、男がなる女は、男の考える女性像になるしかないものね。

    「ほんじゃ、ユッキー。ゲシュティンアンナの性嗜好はどんなん考えてるんや」
    「ドゥムジの裏返しかな」
    「そんじゃ、男の心を持つ女を男にして抱かれるとか」
    「それも考えたけど、ゲシュティンアンナはヤリチンよ」

 そやもんな。倉麿なんか典型やけど、育った子どもだけで三十三人やで。

    「マドカさんと同じと考えてる」
    「男の心を持つ女か」
    「だから男に宿ってるし、男そのもののヤリチンよ」

 神だって元は人の意識そのもの。当然やけどホモだって、レズだって、バイもいるはず。性同一障害だっているだろうけど、宿主の性別は自由に選べるから心が男なら、男に宿れば問題にならへんのよね。

    「だから男に宿ってるのよ」
    「それでもゲシュティンアンナは女神やで」
    「バレたんじゃない」

 なるほど! そうかもしれん。ゲシュティンアンナは叙事詩でも元は地上の神。というか、冥界の神と言ってもすべて元は地上の神。冥界特有の神とは天の神アンが放り込んだものか、エレシュキガルが引っ張りこんだものやねんよ。

    「ミサキちゃんからエレシュキガルの冥界の様子を聞いたけど、そこでは人に宿るのではなく意識だけで実体を作っていたみたいじゃない」

 アンの冥界もその可能性は高そうやもんな。そこで女神であることがバレたんかもしれへん。だからどうってほどの話やないけど。

    「ユッキー、そもそもなんのために天の神アンは冥界作ってんやろ」
    「ユダぐらいなら知ってるかもしれないけど、聞きに行きたい?」
    「ヤダ」

 ユダとは一応友好関係にあるけど、とにかく神同士。言葉が信用できないのもあるけど、何かでもめれば生死を懸けなあかんもんな。そこまでのリスクを押してまで会う気はせえへん。

    「それでも天の神アンの支配時代があったのは信じてもエエやろ」
    「アンの支配は力の支配でイイと思うわ」
    「神を支配するにはそれしかないやろ。反抗する神を瞬殺していったのは信じてもエエんちゃう」
    「瞬殺しなかった神の行き場が牢獄である冥界じゃないかしら」

 力の支配は恐怖支配としてもエエやろ。瞬殺するのもその一つやけど、見せしめ系も有力ってことかな。でもそういう場合は人相手なら法律で締め上げるんやけど、神の場合はどうしとってんやろ。

    「ミサキちゃんはなかなか話してくれないけど、エレシュキガルの冥界の神はアレばっかりやってたみたいよ」
    「なんかそんな感じやな。そりゃ、楽しいやろけど、そればっかりって世界もウンザリしそうや」
    「それでドゥムジとゲシュティンアンナがあんなでしょう。天の神アンはそんなのが嫌いだった気がする」

 どんな性嗜好を持とうが当人同士の勝手みたいなものやけど、嫌悪感持つ奴も多いからな。ましてや絶対権力者がそうなったら排除に走る例は少なからずあるわ。

    「エレシュキガルの冥界の場合は、乱交門、SM門、レズ門、ホモ門、バイ門ぐらいはあったみたいだね」
    「ミサキちゃんは途中から夜叉になって問答無用の皆殺しで進んだから、後の二門はわからんって言ってたな。なんとなく女装子門と男装子門ぐらいやと思うけど」
    「でもここまでは性別は変わらない性嗜好じゃない。アンの冥界はもっとディープだった可能性がある気がする」

 なるほど!

    「アンの基準での排除者の強制隔離収容所みたいなものが冥界かもしれないわ」
    「その収容所長がドゥムジとゲシュティンアンナってところか」
    「収容所長だから交代で地上に戻って休暇を楽しんでるぐらいじゃない」

 わからんけど、事実からいうと二人が交代で地上に戻り、宿主一代の間に好きなことをやってるとして良さそうや。

    「とりあえずドゥムジは放置やな」
    「そうね、絡むことが無い限り争う神じゃなさそうだし」
    「やってる事もマドカさんは例外として、性同一障害で苦しんでいる人への神の性転換手術みたいなもんやしな」

 そやそや、

    「ところでマドカさんと新田和明の奥さんに宿ってる神はどないなるんやろ」
    「あれだけ薄々じゃ宿主代わりは難しいんじゃない」
    「一代限りやろな」
 よくあれだけ薄い神が作れると思うぐらい薄かったわ。コトリも危うく見逃すとこやった。それでも性転換は完璧やから、あれもある種の秘術やろな。

不思議の国のマドカ:マドカの個展

    「アカネ、今度こそマドカに個展をやってもらうが意見はどうだ」
    「ありません」
 個展の準備は会場とかはスタッフが用意してくれるけど、写真は誰のアドバスも借りずに行うのがルール。準備期間は一ヶ月で、その間は他の業務は免除されて専念することになってる。

 マドカさんは張り切ってる。そりゃ、張り切るよな。これで合格すればプロの仲間入りだもの。逆に認められなければ、カツオ先輩のように終りになっちゃうし。

 一ヶ月が過ぎて開場前にツバサ先生、サトル先生とともに見に行ったんだ。カツオ先輩が不合格だった時のことを思い出して妙にドキドキする。へぇ、さすがマドカさんだ。個展会場も品がある感じがする。花なんかさりげなく活けてあるのがオシャレだもの。

 審査をするのはツバサ先生。アカネはサトル先生とツバサ先生に続いて見てた。うん、イイんじゃない。細かい事を言いだせばキリがないけど、個展で繰り広げられてるのは、紛れもなくマドカさんの世界だもの。レベルだって、オフィス加納の商売物基準を余裕でクリアしてると思う。


 さすがに厳しい顔で審査を終えたツバサ先生は、マドカさんを呼び寄せ、

    「よくやった」
    「ありがとうござい・・・うぅ」
    「泣くなマドカ。これから、お客さんも入ってくる。これもプロとしての対応の始まりだ。さあて、受付だ、受付だ、ここでミスしたら、マドカ先生にドヤされるわ」

 受付に向かうツバサ先生に頭を下げているマドカさんの姿が美しい。あんなに綺麗にお辞儀って出来るものだと初めて知った。そうだ、そうだ、マドカさんの師匠はツバサ先生だけど、アカネだって短期間だけど師匠役をやったんだから、

    「アカネも受付やります」
    「不安だ」
    「アカネもちょっとだけど師匠やったじゃないですか」
    「猛烈に不安だ。そこに座ってもイイが、とにかくしゃべるな。しゃべればマドカの晴れの門出が台無しになる」
 アカネだってと思ったけど、カツオ先輩の時と違ってマドカさんは必ず合格すると見ていたみたいで、写真界はもちろんのこと、他からも著名人がたくさんやって来てビビった。ツバサ先生が声かけていたんだ、きっと。

 名前ぐらいは聞いたことがあるけど、生で見るのは初めてだものね。こりゃ、たしかに余計な口出しをしないのが吉みたい。それにしてもマドカさんは堂々としてるな。さすがはお嬢様だ。まああれぐらい完璧な礼儀作法が出来たら、誰も文句は言わないだろ。

    「アカネ、横目でイイから見とけ」
    「なにを」
    「マドカの爪の垢でも煎じて飲ましてやりたいよ」
    「渋茶ならいくらでも御馳走しますよ」

 個展の評価も上々、写真誌にも紹介されてた。これはアカネにもちょっと嬉しかったんだけど、

    『写真界の巨匠が並んで受付をする異例の評価』

 やったぁ、アカネも巨匠って書いてくれた。渋茶は相変わらず余計だけど。ただこっちはムカッときた、

    『白鳥の貴婦人 新田まどか』

 どうして巨匠のアカネが『渋茶』でマドカさんが『貴婦人』なんだよ。しかも『白鳥』まで付いてる。しかも、しかもだよ、フルネームの上に呼び名が付いてるじゃない。だってさツバサ先生も、

    『光の魔術師 麻吹つばさ』

 こうなんだよ。どうしてアカネだけ『渋茶のアカネ』なんだよ。もう渋茶は取れないんやろか。まだ二十二歳だから、最初からやり直してもっと格好の良い呼び名を付けられないかなぁ。ツバサ先生の部屋で話をしてたんだけど、

    「アカネ、それでも不満なんだろう」
    「と言うわけでもないのですが・・・」

 そりゃマドカさんが貴婦人でアカネが渋茶なのは猛烈に不満だけど、

    「マドカは間違いなくプロの壁を越えた。一流だ」
    「そうなんですけど」
    「それも二年でだぞ。たいしたものだ」
    「そうですが」

 ツバサ先生は笑いながら、

    「もう世界が違うんだよ。わたしとアカネのいる世界は。プロの壁なんて見えないぐらいのところにいるんだよ」

 そこまで登ってもまだ渋茶かよ。

    「かつて西川大蔵は写真の行き着くところは必然的に収束すると言った」
    「それはツバサ先生がボロクソに貶したセリフじゃないですか」
    「そうだ、西川の高み如きで言うには片腹痛すぎる。でもな、写真の行き着くところは一つの可能性はある」

 えっ、ツバサ先生がそんなことを、

    「アカネ、麻吹アングルはもう基礎テクニックだし、光の写真もオードブルだろう」

 あれこれやってるとコツがわかったのよね。それさえわかれば、光の写真もそんなに難しいテクニックじゃない。

    「二人で行って見よう、写真の行き着く先を。そこが一つに収束するのか、そうでないかを確認するにはそれしかないじゃないか」
    「そうですね」
    「マドカもいずれ追ってくる」
    「追いつかせるものですか」
    「わたしもアカネ如きに追いつかせるものか」
 そうだフォトグラファーが目指す先は無限だ。あるかないかわからない、ゴールを目指してひたすら突き進むんだ。アカネも行き着く先があるなら見てみたい。

不思議の国のマドカ:二重の苦しみ

 クレイエール・ビル三十階で今日も酒盛り。

    「ユッキー、女神って凄いね。心の性転換ってホントに出来るんだ」
    「そんなもの出来ないよ」

 どういうこと、マドカにやったじゃない。

    「神と言えども心をそこまで操れないわ。通常はモチベーションを上げたり、下げたリするぐらいが精いっぱい」
    「たとえば」
    「これはシノブちゃんが得意だけど、四座の女神は集中すると体が輝き、その光に包まれた者は陶酔するようにモチベーションが高まるのよ。逆ならクソエロ魔王。あの野郎の心理攻撃は人のモチベーションをダダ下げする」

 そっか、そんな簡単に人の心を自在に操れるならアングマール戦の様相は変わっていたはずだものね。

    「マドカさんが女の心と体に馴染んでいるのは、そういう素因があったからでイイと思うよ」
    「素因って?」
    「性同一障害でも程度があって、重いものなら女であることを完全に拒否するのよ」

 そんな話を聞いたことがあるわ。

    「マドカさんは女であることを無意識のうちに受け入れていたのよ。そうでなきゃ、あそこまでお嬢様にはなれないよ」
 そうよね、見た目は完璧だものね。ユッキーの話によると異性愛者でも同性愛要素は多かれ少なかれ含んでいるケースは多いとしてるんだ。だから異性と長期間隔離される環境に置かれると、同性愛が出現するんだと。

 女子校とか、男子校とか、女子寮とかで起る事があるのは聞いたことがある。でも殆どの者は、一旦は同性愛に走っても、異性と接触できる環境に戻ると異性愛に戻るとしてるんだ。大雑把に言うと、

    異性愛 > 同性愛

 異性がいないために同性愛が出現しても、異性が現れると異性愛に回帰するぐらいかな。二つの要素の比率は人によって様々なんだけど、マドカの場合は同性愛比率がかなり高かったと推測してる。

    「マドカはひょっとして、そのまま男で生まれていても、女装子から性転換手術に走る可能性があったとか」
    「それはやってみないとわからないけど、そういう方向に助長される環境には置かれてた」
 体の性による縛りも大きいとしてた。少々同性愛比率が高くても、体の性に反するのは『変だ』の倫理観みたいなものかもしれない。だから同性愛を経験したいの思いがあっても、実行まで踏み切れず終わってるケースが多いんじゃないかって。

 マドカの場合は体が完全な女である上に、円城寺家のお嬢様教育下に置かれ続けてる。さらに外見は瓜二つの見本が常にセットで存在している。女装を日常って変な言い方だけど、常に女として振舞うことが必要だったぐらいかな。そうして育つうちに無意識のうちに同性愛傾向が助長されたんだろうって。

    「でも男を嫌ってたよ」
    「おそらく生まれつきの完成品だったから、かえって反発が強かったんじゃないなぁ」
 女装子から性転換手術コースの場合も、ステップアップの過程が必要な者が多いそうなのよ。まず男を愛し、男に愛される時に意識は女で受け入れるのに傾斜し、最終的に体も女になる。シンプルに言えば男であるのを放棄する心理過程かな。

 マドカはいきなり完成品であったが故に、男の心を放棄する過程を経験しようもなく、男であることへのこだわりが根強く残ってしまったぐらいとしてた。そのために男なのに男を愛するのはおかしいとし、女を愛さなくてはいけないの心理ブレーキが出来上ったぐらいとユッキーはしてる。

    「証拠は」
    「まず性転換手術に飛びつかなかったじゃない。心が完全に男であれば、他の選択枝はなかったはずだよ」

 そう見るのか。なるほど男の体になるのに抵抗感があったってところだな、

    「次にわたしとのレズに躊躇を示した」
    「もしあの時に求められたら」

 ユッキーはニコッと笑って、

    「可愛がってあげたよ。でも拒否すると思ってた。心が本当に男なら、女の体じゃなく男の体でわたしを欲しがると見てたんだ」

 なるほど、そうやってマドカの反応を見てたんだ。たしかに性転換手術への反応はイマイチだったし、それを聞いた上でのユッキーとのレズへの反応ももう一つだったよね。

    「じゃあ、何をしたの」
    「男であることのこだわりを少し緩めてあげたのよ。どういうかな、マドカさんが本来進むべき道に少し誘導したぐらいかな」

 そういうことか。ユッキーは頑なになった心を解きほぐす程度は出来るとしてたから、マドカの男であることへの強いこだわりを緩めるぐらいは可能なんだ。

    「じゃあ、元に戻れるの」
    「あは、無理よ。心の本当の性転換は出来ないと言ったでしょ。わたしがやったのは、マドカさんが本来進むべき道への手助けだけ」

 どうにも複雑だけど、

    「でも辛かったと思うよ。普通じゃありえないからね」
    「そんなに」
    「まず男の心なのに女の体で苦しんでるじゃない。それに加えて、男の心なのに男を愛する性嗜好を持っちゃったじゃない。どっちか一つでも大変なのに、二重の葛藤だよ」

 そっか、普通はどっちかだけだものね。

    「マドカはどうなるの」
    「あの手のタイプは生まれつきの女より女らしくなっちゃうんだよ。そのうえ、マドカさんは本物の女になってるじゃない。寄り道したけど、幸せな人生を送れるんじゃないかな」
 今回は結果を受け止めるべきだと思う。マドカの体は完全なる女よ。心は助長された同性愛傾向によって男を愛するようになってる。それも女の心、女の体で男の愛を受け止める段階まで進んでるとして良いと思う。結局のところ外形的には女が男を愛してることになってると思うのよ。

 ユッキーの言う通り、もうこれでイイ気がする。わたしだって今さら男の外見になったマドカは見たくないし。ややこしすぎる話だったけど、回り回って一件落着で終りにしよう。

 そっか、後はマドカに男が出来て、マドカが男に満足するかどうかだけか。そこでもめたら・・・う~ん、アカネ並に手がかかるわ。それでも、それだけ手を懸けるだけの価値がある才能だと思う。そう、わたしとアカネにもしついて来れるとしたらマドカだけだからね。

不思議の国のマドカ:一つの解決

    「マドカさん、あなたのことは調べさせてもらったわ。あなたがそうなってしまったのは神の責任だし、ましてやシオリの愛弟子だからなんとかしてあげたいの」
    「なんの話ですか」
    「言いたくないでしょうが、あんたの心は男よ」

 どうしてそれを。

    「辛かったでしょうね、苦しかったでしょうね・・・」

 慈愛に満ちた小山社長の顔を見て、もう話しても良い気になり、思い切ってカミング・アウトしました。

    「よく言えたわ。ただね、女神でも出来ない事はたくさんあるのよ」
    「たとえば」
    「あなたを完全な男にするのは無理」

 やっぱり、

    「だからこれから提案するのは次善の方法になるわ。つまり何かに妥協しないといけないの。どれを選ぶかはマドカさんの判断よ」

 妥協って・・・

    「まず一つ目は性転換手術。もちろんメスを入れたりしない。女神の力は外見を変えるのは容易なのよ。性器まで含めて見た目を完全な男にはできる」
    「これのデメリットは」
    「ペニスの勃起は保証できないかな。とにかくやった事がないからね、それと勃起しても生殖能力はないわ。もう一つ、こういう変貌は程度の問題があって、ある程度までは元に戻せるんだけど、男性に作り替えてしまうと元には戻せないわ」

 要するに性転換手術を女神の力でやってくれるってことね。これ以外にあるのかしら、

    「次は解決法とも言えない代物。そのままでいるってやり方」
    「それでは・・・」
    「これも不十分だと思うけど、性欲の解消の相手をしてあげる」
    「まさか小山社長はレズビアン」
    「好きなのは男だけど、少しだけその気があるから、わたしで良ければ相手する」

 そしたら月夜野副社長が、

    「マドカさん。言うとくけどユッキーだけやからな」

 さらに麻吹先生も、

    「マドカ、わたしもイヤだからな。ついでにアカネにも手を出すな」

 小山社長を抱けるのは魅力的な提案だけど、小山社長は女が女を愛するレズビアンとしてマドカを見てるし、マドカは男が女を愛する気持ちで小山社長を見てる。どっかすれ違っている気がする。これなら性転換手術方式がまだマシの気がする。

    「他にはないのですか」
    「最後のが、実はお勧めなんだけど、たぶん一番抵抗がある気がする」

 ここで月夜野副社長が、

    「ユッキーは前に医者やっとってんよ。その最後の百日ぐらいの時に神の能力が目覚めたんや。その時には心の治療まで出来たんや」
    「そこまで大げさなものじゃないけど、いじけきった心を少し素直にしたり、被害妄想で凝り固まってる心をちょっと解きほぐしたり程度だけど」
    「ユッキーは最後の百日の間に、その力を惜しみなく周囲に振りまいて生身の聖観世音菩薩とまで言われたんや。そりゃ、凄かったみたいで、今でも立派なお堂にユッキーの姿を刻んだ観音菩薩像が祀られてる」

 それがマドカにどういう関係が、

    「そうやって心の治療を施した患者のうちにマドカさんのような性同一障害者がおってんよ」
    「まさか心の性転換が出来るとか」

 そんなことが、

    「心の性転換は大げさよ。正直なところでいうと、マドカさんの心を騙しているだけ」
    「ある種の催眠術ですか」
    「マドカさんが知ってる範囲ならそのイメージに近いけど、だいぶ違うよ」

 でもマドカの心はあくまでも男。この心だけは変えられない。これが変わるともうマドカじゃないわ。

    「まあこれはいつでも元に戻せるから、一度試してみたらどうかと思ってるの」
    「いえ、マドカはあくまでも・・・」
    「論より証拠や、体験してみ。ユッキー」
    「そうよね。いつでも言ってね、戻すのは簡単だから」

 アッと思う間もなく、マドカの心に何かが起っています。

    「どう」
    「なんか変な感じです」
    「そりゃそうよ、女の子になったんだから。しばらくそれで過ごしてごらん。結論はそれからよ」

 この日は麻吹先生と一緒に帰ったのですが、どうにも変な感じです。どこがどう具体的に変なのかわかりませんが、マドカのどこかが変わっています。翌日は休日だったのですが、服を選ぶ時からどうも変です。

    「今日はスカートにしようかな」

 仕事場での基本はTシャツにジーパンです。休日もだいたいそんな感じで、もうちょっと改まった時には、仕方なくスカートを履いていました。そうなんです、今までは嫌で嫌で仕方がなかったのですが、女の子ならそれが普通の知識で履いていたのです、それが、自分の意志で履きたいと思うなんて、変過ぎます。街に出て目につくものの感想も、

    「あれ可愛いじゃない」
    「あれイイな」
    「これ欲しい」
 そういうものを女なら可愛いと思い、欲しいと言わないといけない、持ってなければ変に思われるの知識で買っていたものが、自然に欲しくなります。これが心の性転換なのでしょうか。

 翌日は仕事だったのですが、仕事の能力は変わっていないようです。それは良かったのですが、こんな声がヒソヒソと聞こえます。

    「ツバサ先生は抜群に綺麗だけど、相手するのは大変だろうな。サトル先生を尊敬するわ」
    「じゃあ、アカネ先生」
    「そりゃ、アカネ先生もツバサ先生に負けないぐらい魅力的やけど、キャラがね」
    「言える言える。ツバサ先生と違った意味で相手するのが大変そう」
    「だったら、やっぱりマドカさん」
    「なんでも出来るスーパーお嬢様みたいなものじゃない。お相手する男が羨ましいよ」

 そうやって噂話のタネにされるのは良くあるのですが、一度もそれで嬉しいと思った事はありませんでした。でも今は聞くとなにか無性に嬉しく感じてしまいます。そして何気なく思った事に衝撃を受けてしまったのです。

    『そろそろ男も欲しいな』

 そうなのです。マドカがごく自然に男を欲しがっているのです。二週間ほどしてから麻吹先生に呼ばれ、

    「マドカ、どうだ、少しは慣れたか」
    「ええ、なんとか」
    「おもしろいもんだろ」
    「おもしろいというか、自分の気持ちが信じられない思いです」
    「もうちょっと使ってみな」
 変化はさらに進んでる気もします。マドカも化粧はしますが、これまでは女としてやらねばならいないでしたが、化粧品売り場が楽しくてなりません。美容院だってそうです。どんな髪型にするか一生懸命考えてる自分がいます。

 もうアカネ先生を見ても普通の同性の人にしか見えません。恋愛感情の『れ』の字も湧いて来ません。それと注意深く、それまで出来たことで出来なくなってることを探しましたが、とくに変化はないとしか言いようがありません。ただ紛れもなくマドカは女として考えています。それは写真に出ているようで、

    「やっとマドカの写真に対する違和感がわかったぞ」
    「それは、どういうことですか」
    「今までのは無理やり女のフリをした女らしさだったんだ」
    「無理やりですか?」
    「それが今ではごく自然になってる。写真だけでいえばこっちの方がずっと良い。誤解されないように言っておくが、元に戻るなの意味じゃないからな」

 写真の変化はマドカにもわかるようになってきました。たしかにこちらの方がはるかに自然です。これに較べると以前の作品は、どこかにギクシャク感があります。事情を知らないアカネ先生なんてもっとストレートで、

    「マドカさん」
    「どうかマドカとお呼びください」
    「また新境地開いたんだね。見てビックリした。今度こそ個展が開けるよ」

 なにか、このままでイイ気がしています。思い込まされてるだけかもしれませんが、元に戻って違和感と葛藤するより百倍、千倍、いや万倍マシです。なにが本来の自分で、どこを本当は守らなければならいかを考えると複雑なところは多々ありますが、本来に固執するより、今の楽しさを素直に受け入れるべきでないかと。思い切って麻吹先生に、

    「この状態を永久に固定することは可能ですか」
    「ユッキーがいうには可能だそうだよ。でも元には戻れなくなるよ」
    「もう戻る必要はないと思います」

 ツバサ先生は急いで決めることはないから、一年ぐらいは女を経験してからゆっくり決めるように諭されました。

    「言い方がモロで悪いが、男を経験してから決めたらどうかと考えてる」
    「男をですか」
    「それ以上のテストはないだろう」
 男か。マドカの心が本当に女になっているのなら愛せるはず。結論はそれからでも遅くないわ。