純情ラプソディ:第10話 港都大

 ヒロコが通っている港都大だけど、六甲山の麓のかなり高いところにある。そこがメイン・キャンバスで、隣接するように三つのキャンバスに分かれてる。法学部はその中でも第一キャンバスと呼ばれてるところなんだ。

 そこに通うには阪急からの徒歩。結構な坂を登らないといけないのがネック。だからバスを利用する人もいるけど、ヒロコは節約のために歩きだよ。バイク通学の人もいるけど歩いてる人が多いかな。

 この港都大だけど沿革はかなり複雑。戦前の学制というか大学からしてヒロコにはわかりにくいのだけど、とりあえず元祖は港都高等商業学校。これは先に東京高等商業学校が出来ていて、二校目を西日本に作るって事で出来たで良さそう。

 当時の位置づけでは専門学校になるのだそうだけど、今の専門学校とは全然違って、大学に次ぐ高等教育機関になるそう。というか大学が帝国大学時代で、港都高商は一九〇二年に出来てるけど、大学は東京帝大と京都帝大しかなかったっていうのよね。

 ここも裏話があるそうで高商誘致については神戸と大阪の誘致合戦になり、帝国議会でわずか一票差で神戸に決まったそう。出来たころの修業年限は四年で、さらに二年の専攻科があったのだけど、専攻科を卒業したら学士号を授けられたってなってるのよね。

 学士って今なら単に大学卒業ぐらいの意味しかないけど、帝国大学が二つしかない時代だからムチャクチャ価値があって、

『学士様なら嫁にやろ』

 こんな言葉があったってなってる。エリートの証みたいなものかな。港都高商が学士号を授与できた理由だけど、

 帝国大学・・・旧制高校(三年)→ 帝国大学(四年)
 港都高商・・・予科(一年)→ 本科(三年)→ 専攻科(二年)

 帝国大学コース七年と高商コース六年が同等と認められたかだそう。だからプライドも高かったぐらいかな。戦前の学制はコロコロ変わるのだけど、まず一九二九年に港都商業大学に昇格し、一九四四年に港都経済大学に改称してる。

 一九四九年に戦後に新制大学になった時に港都大になるのだけど、この時に旧制姫路高等学校、港都工業専門学校、兵庫師範学校、兵庫青年師範学校を合併して出来上がってる。一九六四年に港都医科大学、さらに一九六六年に兵庫農科大学、二〇〇三年に港都商船大学も合併して今に至るかな。

 ヒロコが進学した法学部だけど、この源流は高商にあるとなってるんだ。商業学校に法学なんかと思ったのは本音。たしかに高商教育の中心は経済学、簿記、会計、商学だけど、民法、商法を中心として法律学や政治学も必要とされたんだって。さすがだよね。法学部は新制港都大が出来た時に独立したで良さそうだけど、明治以来の伝統学部と言えなくもないぐらいかな。


 港都大だけど大学ランク的には旧帝と張り合ってるぐらいかもしれない。これは関西の三都のライバル意識もあるで良いと思ってる。というのも、高商誘致で神戸に負けた大阪だけど最終的に大阪帝大が出来てるのよね。

 そう京都にも大阪にも帝大があるけど神戸にはなかったことになる。その代わりに高商があるぐらいのバランスだけど、やはり帝大より下に見られてしまう感じ。これは今でもそうだもの。偏差値的には京大や阪大の下だものね。

 その辺の流れが変化しだしたのがエレギオンHDの存在とされている。エレギオンHDはアパレル・メーカーのクレイエールが発展して出来上がったのだけど、あれだけの世界的大企業グループなのに本社は神戸のまま。東京どころか大阪にも動く気配もないぐらい。

 これも名目上の本社は神戸においても、実質的な機能を東京に移すパターンも多いけど、エレギオンHDの場合はガチで神戸が本社。東京はあくまでも有力支社がある程度になってるのよね。

 エレギオン・グループは産学協同のパートナーに港都大を重視してくれてるのよ。大学の評価は研究成果にあるけど、優れた研究成果を生むには研究費が必要。でも文科相からの予算配分は東大重視で、次が京大ぐらいで、その他は残りを分け合ってる感じなんだ。

 だけど港都大はエレギオンHDからの研究費の流れが大きくて、それでレベルが上がってるらしい。そのためか入試レベルでも京大や阪大と張り合う学部も出てきてるぐらいの感じ。学内的にも追いつけ、追い越せの活気があるぐらいで良いと思う。


 エレギオンHDが神戸から本社を動かさない理由は良くわからないけど、一つはネット時代になって本社位置の不利が小さくなっているとも言われてる。ネットを介せばリアルタイムでコミュニケーションをいつでも取れるものね。

 それと東京に本社を置くメリットは他の企業との連携がやりやすいのはあるとされてる。それはわかるけど、エレギオンHDまでの規模になると話が逆転するらしい。そう、神戸に出向いてでも連携を取りたいぐらいかな。その証拠にわざわざ神戸に本社を移転した有力企業も少なくないらしい。

 もう一つ東京に本社を置くメリットは政治的な影響力の行使もある。経団連とかのメンバーになるっての。その延長線上で政府の諮問機関みたいなものの委員になるとかもあり、それによって国の政策とかを企業サイドに有利にするとかね。

 これもエレギオンHDは超越しているとしか言いようがないのよね。エレギオンHDは財界活動自体はお付き合い程度らしいけど、その政治力は日本の他の企業のすべてを合わせたより大きいとされてるの。

 それこそ首相のクビのすげ替えぐらい朝飯前って評判だもの。その政治力は国内だけでなく国外にも強力で、アメリカ大統領や、中国主席、ロシア大統領だって、いつでもサシで話が出来るとも言われてる。

 とにかく東京一極集中となっていたのが、エレギオンHDが神戸に居るだけで変わって行ってるって言われるぐらい。もちろん神戸だって変わってる。ずっと地盤沈下と言われた時代もあったみたいだけど、今では注目先端都市って言われるぐらい。


 そうそう港都大の校舎も立派なのよね。二十世紀の半ばぐらいに大きく建て替えられたけど、風格があってなかなかのもの。この校舎に通うだけでも値打ちがあるって言われてるぐらい。

「カスミン、学食行こう」

 学食も美味しいし、ちょっとオシャレな高級店風から。安くて気楽なバイキング形式まで充実してるんだ。この辺は港都大周辺が住宅地で、学外に食べに行くにもめぼしい店が近所に無いのも大きい気がする。

 それでもってになると、阪急まで下りるしかないけど、阪急の駅前は狭くて、ハッキリ言って大したものじゃないのよね。だから、もう少しとなるとJRまで下ることになる。バスを使えば手間も時間もあまり変わらないのよね。だからコンパとかになるとJRまで行くことが多いかな。もちろん三宮だって阪急で駅三つぐらいだから近いのよ。

 三宮に行くことも多いけど、ヒロコならJRが多いかな。あそこはとにかく生活するのなら便利なところ。区役所もあるし、郵便局もある。銀行なんか数えきれないぐらいあるし、スーパーだって何軒あるかわからないぐらい。医療機関も充実してるし、お気に入りの美容院もある。御飯屋さんもたくさんあるものね。

 ただし高級品は売ってないかな。そりゃ、欲しければ三宮とか元町に行くか、梅田だって遠いとは言えないし。その代わりでもないけど、手軽なバイト先も多い。学生バイトも色々あるけど、コンビニからファスト・フード、塾講師ぐらいならゴロゴロしてるもの。ヒロコもそこでバイトしてるよ。

純情ラプソディ:第9話 エレギオン愛育園

 カルタが終わると大学受験一色の生活に入った。中学までは大学進学なんて夢の世界で、中卒で就職を真剣に考えていたぐらいだったもの。それが里崎先生のおかげで明文館に進学できたから大学進学が現実のものになったんだ。ヒロコが目指したのは港都大法学部。

 ヒロコは資格が欲しかったんだ。大卒も資格だけど、もっと現金にストレートに役に立つ資格。出来れば弁護士になりたいけど、なんとか司法書士になりたかった。それを取れれば一生なんとかなりそうじゃない。

 資格だけなら医師や薬剤師や看護師もあるけど、ヒロコは文系選択。さすがに医学部は難関過ぎたし、血を見るのも苦手だもの。文系なら教師もあるけど、ヒロコのイジメを助けてくれない連中ばかりだったから却下にした。

 港都大法学部も難関だったけどなんとか合格。無事奨学金ももらえる事になった。大学に入ったら勉強もそうだけど、バイトしてお母ちゃんを少しでも助けたい。高校の時はカルタに熱中しすぎて迷惑かけたもの。


 大学に入ってすぐに仲良くなったのがカスミ、カスミンって呼んでる。たいしたキッカケじゃなくて、ヒロコの姓が倉科で、カスミンが如月。なんてことはなくて、出席番号が続きだったから。大人しくて目立たない子だけど、生い立ちを聞いて驚いた。ヒロコも母子家庭で苦労したけど、カスミンに至っては孤児なんだよ。

「うん、本当のお母さんもお父さんもわからない。本当の苗字も名前もね」

 乳児院の玄関に段ボール箱に入れられて捨てられてたんだって。

「まったく犬や猫じゃないのにね。だから本当の生年月日もわからない」

 だから拾われた日が誕生日になり、乳児院の院長先生の苗字が姓になり、名付け親にもなったそう。

「孤児も孤児なりに頑張ったんだ」

 孤児は乳児院から児童養護施設に移されるのだけど、その途中で里親に出されたり、そのまま養子縁組になることもあるそう。でもカスミンはそういうコースには乗らなかったみたいで、

「エレギオン愛育園に選ばれた」
「それって、あの・・・」

 ヒロコも話には聞いて事がある。まるで西洋貴族の城館のような立派な建物で、広大な敷地に各種施設も充実しているそう。むりやりたとえればイギリスのパブリック・スクールみたいな感じかな。

 中の暮らしぶりも聞いたけどちょっと意外だった。建物が建物だからリッチで優雅だと思っていたら、孤児だから自立心を養うと言うか、なんでも自分で出来るように躾けられるで良さそう。

 食事はすべて園生による共同自炊で、小学校の低学年でも出来るところから手伝うそう。玉ねぎの皮むきぐらいは出来るし、配膳や後片付けもあるものね。当番制だそうだけど、プロのコックがいてみっちり鍛えれると聞いて驚いた。

「本当のプロで、どこかのホテルの料理長まで行った人って聞いてる。あれはプロが弟子を教えてる感じかな」

 ここもコックは技術指導やアドバイスはするけど、実際に作るのは園生で、高校にもなるとシェフ的な立場になり、メニューの組み立てから食材の購入まで自分たちの手ですべてやるんだって。

 この自分で出来るようにするのは徹底しているみたいで、洗濯や掃除はもちろんだけど、庭園の手入れ、自家農園の管理まであるって言うんだよね。もちろんボタン付けぐらいは当然だけど、

「洋裁も和裁も一通りは教え込まれるよ」

 整理整頓も厳しくて、常にチェックされるらしい。礼儀作法も専属の講師が年齢に応じて叩き込まれる感じで良さそう。持ち物は支給品になるけど、派手じゃないけど、これがすべて一級品だって。


 勉強も自習室、図書館が充実してて、これまた専属の教師が常にアドバイスを送ったり、勉強が遅れていたりすると、それを補うプログラムを立ててくれるんだって。

「適性は常に見られてたかな」

 勉強は手抜きなしだけど、運動に能力が見い出された者も同じで良さそう。なにしろ四百メートル・トラックを備えた運動場や専用の野球場、サッカー・グラウンドまであるんだよ。さらに体育館や武道場、室内の五十メートル・プールや室内テニス・コートまであり、これも専属コーチがバッチリついてるんだって。芸術系もそうで絵画でも、彫刻でも、音楽でも同様らしい。

「大学進学も奨学金が出るし」

 そのためかカスミンの成績も優秀。立ち居振る舞いも上品なのよね。

「そうでもないよ。エレギオンではたいしたことないよ」

 そうだった。それこそ東大や京大だけでなく、高校から海外進学さえするのもいるのよね。それもハーバードとか、オックスフォードとかの名前がポンポン出てきて、どんな世界だって思ったもの。港都大法学部じゃ、エレギオンでは自慢するようなものじゃないのかもしれない。


 イジメはなかったかと聞いたけど、やはりあったみたい。エレギオン愛育園も学校までは持っていないから、公立の学校に通うらしい。

「全部愛育園で完結させるとかえって良くないって話だよ」

 でも母子家庭のヒロコでもあれだけバカにされたから、孤児のカスミンなんてなおさらだったで良さそう。もっとも愛育園からの抗議はしっかりあったみたいだけど、

「表向きは抑えられても、裏に回って陰湿なのはね」

 なんとなくイジメ経験者同士として気が合ったぐらいかな。そうそうカスミンは愛育園の寮から通っているのだけど、遊びに行かせてもらった。そりゃ、もう立派すぎる門があって、そこの守衛さんに通してもらうシステム。玄関に入ると広いホールになっていて、喫茶室みたいなものまであるのだよ。

「あれは模擬店みたいなもの。園生がやってるの」

 女子寮に案内してもらったのだけど、トイレ付きの六畳ぐらいの個室。

「高校生以上は個室なの。中学生は二人部屋、小学生以下は四人部屋なんだ。トイレは個室にしかないから嬉しかった」

 お風呂は大浴場だって。とにかく、どこもピカピカに磨き上げられてるし園生も礼儀正しい。

「掃除と礼儀作法はとにかくウルサイところだから」

 これが有名なエレギオン愛育園だと良く分かった。カスミンに聞くと教育方針は孤児のハンデを跳ね返し、どこに出しても恥ずかしくない紳士淑女を育成することらしい。だから茶道や華道、習字まで教え込まれ、カスミンもピアノぐらいは弾けるんだって。

「恋は」
「あるよ。男子寮だってあるもの」

 カスミンは苦笑いしてたけど、やはり男女交際はかなり厳しそう。

「それでも、ずっと前に副社長さんに聞いたんだけど、これぐらい厳しくしたって結ばれる宿命にあれば結ばれるってさ」

 副社長って誰だと聞いたら、なんとエレギオンHDの月夜野副社長だって言うから腰を抜かしそうになった。愛育園はエレギオン財団の経営だけど、理事長はエレギオンHDの社長さんで副理事長が副社長って言うんだよ。

 エレギオンHDの経営首脳はトップ・フォーと言われてるけど、すべて女性でその経営手腕は卓越なんてレベルじゃないのも有名。そう簡単に会える人じゃないもの。まさに雲の上の人。

「ねえ、ねえ、どんな人?」
「どんなって言われても・・・」

 カスミンはしばらく考えてたけど、

「あれは園生にとって母親であり、お姉さんであり、恋人みたいな感じ」
「どういうこと?」
「女神だよ」

 女神だって! そういえばトップ・フォーはエレギオンの女神とも呼ばれるけど、

「ヒロコは見たことも、会ったことも無いからわからないと思うけど、あれこそ真の女神なんだ」

 カスミンが言うには気が遠くなるほど美人だし、そのうえで歳というものをまったく取らないって言うのだよ。だから小さい頃はお母さんであり、大きくなれば女ならお姉さんになり、男なら恋人になる感じだと言うのよね。

「でもいくら若く見えるからって」
「カスミと並んでも、変わらないぐらいだよ」

 ホントかな。

純情ラプソディ:第8話 県予選

 ついに迎えた県予選。ヒロコにとっても全国への最後のチャンス。会場は西宮学院附属高校だった。ヒロコたちはこの日のためにユニフォームを作ったんだよ。高校カルタのユニフォームと言っても規定は、

『競技時の服装については、対戦者並びに観戦者に不快感を与えないものを着用しなければならない』

 これじゃ漠然とし過ぎてるけど補足として、

『服装については、和装が望ましいが、大会等で特段の指示がない場合は、Tシャツ、トレーナー、運動着等でもよい。しかし、ショートパンツ、胸の大きく開いた服等は好ましくない』

 さすがに高校生で和装で参加するのはまずいない。だから学校の運動服のところもあるし、競技カルタ部専用の運動服のところあるかな。ヒロコたちはズボンは学校の運動服を使うことにしたけど、上着はそろいの空色のTシャツにしたんだ。

 これも提案したら石村先生が買ってくれたのだけど、元は無地のTシャツだったから、まず背中に、

『明文館高校 競技カルタ部』

 こう二段に書いて、胸には縦書き二行で、

『目指せ全国、百年の悲願』

 正確には百年以上出場していないんだけど、そこは語呂で百年にした。どちらもアイロン・プリントで作り上げたよ。本当は染め抜きにしたかったけど、そこまで予算がなかったのよね。それでもTシャツに袖を通したら闘志がふつふつと湧いてきたもの。


 県予選の参加は十二校。少ないと思われそうだけど、これでも全国的には多い方なんだ。この辺も変遷が様々にあるのだけど、全国キップは全部で六十四枚。これをまず各県に一枚ずつ割り当てる。残り十七枚を予選参加校数に応じてドント式に割り当てるのだけど、ヒロコの県は二枚割り当てられてるんだ。

 県予選の方式もまず六校ずつにグループ分けされて予選リーグを戦うことになる。これを勝ち抜いた上位二校が全国キップを争う決勝トーナメントに進出することが出来るシステム。ちなみに明文館はB組。ちょっと回りくどい方式だけど、トーナメント方式では半分の高校が一試合しか出来ないからこうなったそう。

 初戦はヒロコもバリバリに緊張してけど、みんなもそうだったみたい。だってだよ、明文館は県予選でもずっと勝ってなかったんだもの。ユニフォームのTシャツの文字を鼻で嗤うのもいたぐらい。それぐらいの弱小校だと見下されていたってこと。

 石村先生の指導は偉大だったと思う。初戦に勝ったんだ。そう十二年ぶりの勝利。初戦の勝利に勢いに乗った明文館は次の試合にも勝ち、第三戦は優勝候補筆頭の西宮学園附属高。大会の会場を提供するほどの強豪校。

 ヒロコは勝てたけど、残念ながら二勝三敗で敗北。でもそこから踏ん張った。残り二試合に勝ち、グループ・リーグは四勝一敗で決勝トーナメント進出を決めたんだ。このグループ・リーグ方式になってから明文館が決勝トーナメントに進出するのは初めてだったんだよ。

 決勝トーナメントは変則で、まず優勝すればそのまま全国決定。もう一枚のキップは二位校と三位決定戦の勝者で争われるんだ。決勝トーナメント出場校は、

 A組・・・一位・星甲学院 二位・摩耶学園
 B組・・・一位・西宮学園 二位・明文館

 準決勝の星甲学院に敗れたけど、三位決定戦の摩耶学園には競り勝ち第二代表決定戦に進出。決勝は西宮学園が勝ちまず全国ゲット。明文館は最後の一枚を懸けて星甲学院との決戦に臨んだんだ。

 星甲学院はA組一位で決勝トーナメント準決勝で敗れた相手。もちろん県内の強豪校で去年の代表校でもある。もちろん今年も強いのだけど、ここにはトンデモナイ怪物がいたんだ。

 片岡君と言うのだけど、なんと、なんとA級なんだよ。うちの県予選にA級選手が出てくるのも珍しいけど、ヒロコもメンバー表を見ながら目をこすりそうになったけど、四段じゃなくて五段なんだ。

 ヒロコの県でA級五段なら高校生でダントツ最強だろうし、大学生以上も含めても屈指の強豪なのは間違いない。こんな化物に勝てるわけないじゃない。県予選もここまで全勝だし、付け入る隙も見せてないぐらいの圧勝だよ。

 ただ個人戦じゃなく団体戦なのにわずかにチャンスがある。だって星甲学院も西宮学園に負けてるものね。明文館に勝機があるとすれば、片岡君以外から三勝を挙げた時のみ。そうなると席割が重要になる。

 誰も片岡君に勝てないのはわかっているから、片岡君と対戦するのは一番弱いのが当たって欲しいんだ。もちろん片岡君には負けるけど、これを捨てゲームにして残り四人で三勝を狙うしかないもの。

 席割は自由だけど、試合前に席割票を記入して渡すことになってるんだ。これは相手を見ながら、座る直前で入れ替わるのを防ぐため。明文館が勝つにはヒロコを含めたC級三人のうちの誰かが片岡君と当たること。

 祈る思いで席割を見ると片岡君の相手はヒロコだった。内心やったと思ったよ。これで全国に首の皮一枚つながったと思ったもの。ただチームとしてはそうだけどヒロコは大変な羽目になった気分。

 勝てないとわかっていても一矢ぐらい報いたいじゃない。ボロ負けは恥しいし。この時にヒロコは開き直れたと思う。カルタにすっごく集中できて、邪念を追い出してひたすら札を追いかけられた。

 序盤戦は一枚札や二枚札が多かった。いくら札の配置を記憶していると言っても、札が多いうちは運不運が大きいところがある。この日は運もヒロコに味方したと思う。候補札が多い時は、自分の直感と言うか、さっと目に付いた札が出札かどうかが大きいのよね。

 そうやって序盤戦はヒロコがリードを奪う展開になったけど、札が減ってくるとA級五段の実力はダテじゃなく逆転されちゃった。それでもヒロコは必死になって食らいつき、僅差で終盤戦に突入していった。

 終盤戦に入ると他の四人の試合が先に終わって行ったんだ。隣に並んでいるから嫌でもわかるのだけど、ヒロコのところを残して二勝二敗。そうなんだよヒロコの試合が全国行きを決める戦いになってた。もうバリバリの緊張感だった。

 でも劣勢は劣勢。ここまできてヒロコは四枚、片岡君は二枚。もうギリギリの状態。この状態で相手陣の札を取るのは至難の業になってくる。ましてや相手はA級五段の片岡君。ここで気になっていたのはまだ大山札が残っていたこと。それも片岡君の陣に一枚。持ち札になっているのは、

 わたのはら やそしまかけて

 これのセットになる大山札は、

 わたのはら こぎいててみれば、

 これが空札になっていて、まだ詠まれていない。決まり字は『や』か『こ』だけど、『や』なら出札、『こ』なら空札って事こと。当たり前だけど出札である確率は二分の一。でも位置が悪い。相手陣の下段の左端に一枚状態。

 あそこで大山札となるとそう簡単に取れないよ。でも取りたい。もし取れれば一枚差になり、そうなれば運命戦に持ち込める可能性が出てくる。少なくとももう一枚の片岡君の札を取るより可能性があるはず。そしたら、

『わ』

 出た大山札だ。でもさすがは片岡君、機敏に反応して囲い手にされちゃったよ。するとは思ってたけど、やられると困るのは確かだものね。こういう時はフェイントをかけてお手付きを誘うのだけど、そんなものには動じないか。

『・・・たの』

 あれが空札だったらだけど、今回は取られないけど、次に出札になった時に一枚札になるんだよね。その時に取れるかになるけど、まず無理の可能性が高い。そんなに甘い相手ではないのは思い知らされてきた。

 そうなれば出札に賭けて囲い手を破るしかない。囲い手は強力だけど無敵じゃない。決まり字が出るまで札に触れたらいけないし、今なら下手に触れると空札の時にお手付きになる。

 そう片岡君は親指側を畳に付けて札を手のひらで覆ってるけど、小指側には隙間がある。囲い手破りとは、その隙間に指を差し込んで札を引っ張り出して飛ばしてしまうこと。

『・・・は』

 片岡君は囲い手に出れたから慎重になっているはず。そう、お手付き警戒。五十%で空札だから、決まり字を確認してから取りに行くはず。ヒロコにチャンスがあるとすればそこだけ。

 ここでだけど実際のところ決まり字ルールは殆どの札は関係ないんだよ。だって八十六首は三文字以内に決まり字が出るし、三文字詠む間なんてまさに一瞬。だから決まり字違反になるのではなく、単なるお手付きになるのが関の山。

 それと決まり字が出ると同時に札に触れるのはセーフ。大山札なら第一句の間に触るとアウトぐらい。そんな大山札の特徴は決まり字が第二句の先頭にあることだけど、さらに第一句と第二句の間に少しだけ間が出来る事。

 チャンスがあるならここしかない。第一句が終わると同時にチャレンジする。ここもだけど、ヒロコのチャレンジに反応して片岡君が取りに行ってくれて空札ならお手付きになる。もちろん囲い手破りに成功して取れれば、ヒロコの取りになる。この一枚に全国への可能性のすべてを懸ける。

『ら・・・』

 ヒロコは第一句が終わった瞬間に指を差し入れに行ったんだ。片岡君にもよもやの油断があったかもしれない。上手く差し込むことが出来て、渾身の力で引っ張り出し吹っ飛ばせた。ヒロコにしたら快心の囲い手破りだったけど第二句は、

『こぎいててみれば』

 無情にも空札。お手付きになり勝負を決する送り札をもらって敗北。県代表の夢は散っちゃった。悔しかったな。あれが成功していれば県代表になれたかもしれなかったのに。石村先生は泣きじゃくるヒロコたちに、

「よくやった。顔を挙げろ、胸を張れ。誰にも恥じる事の無い立派な試合だった。ここまで頑張ってくれたのを先生は誇りに思う」

 石村先生はずっとポーカーフェースだったけど、あれはフリだけだったのはヒロコたちは知ってる。本当は熱血型の先生だったんだよ。県予選大会ではヒロコたちと同じぐらい、いやそれ以上に入れ込んでたもの。

 そんな熱血にヒロコたちは引っ張ってもらったんだ。石村先生がいなければ、ここまで来るのは不可能だもの。石村先生も悔しかったと思うよ。絶対に勝つ気で臨んでいたのがビンビン伝わってきてヒロコたちも奮い立ったもの。

 県予選三位の実績を残して高校カルタはおしまい。ヒロコは個人戦出場も辞退した。そして追い出し会で、

「石村先生、ありがとうございました」

 こう言って花束を渡したら、もう顔がグシャグシャだった。

「全国に連れて行ってやる約束を果たせなかったのは今でも無念だ。でもカルタに費やした時間は決して無駄にならない。今後の健闘を祈る」

純情ラプソディ:第7話 段級制

 競技カルタの実力判定の目安に段級制があるのよね。

 E級・・・無段
 D級・・・初段
 C級・・・二段
 B級・・・三段
 A級・・・四段から八段

 カルタの世界で段位は実力を現し、級はその実力で参加できる大会のレベルを現しているぐらいかな。もっともE級無段からB級三段までは段位と級位が連動しているので意味がなさそうだけど、A級が四段から八段まで含む幅広さだから、そうなってるぐらいに思ってる。

 それでもB級までは級位と段位が連動してるから昇級って言葉を使うけど、その必要条件は、全国かるた協会の公認競技会で必要な成績を収める事。カルタの昇級は個人戦の成績の評価になり、たとえばE級無段からD級初段になるためには、E級大会で必要な成績を得れば良い事になる。

 昇級のための必要条件は所属する級での大会で成績を取れば良いのだけど、カルタでは十分条件もあるんだよ。と言うのも公認かるた大会に出場するには、かるた協会に加盟しているカルタ会に所属していなければならないと言うのがある。

 かなりたとえが違うけど、選手とカルタ会の関係は大相撲の力士と相撲部屋の関係みたいなもので、相撲部屋に所属していないと力士は本場所に出場できないぐらい。だからカルタをやる人間はどこかのカルタ会に必ず所属していると思ったら良い。

 寄り道したけど昇級するのは選手じゃなくカルタ会が申請するものとなってるんだ。つまり昇級基準の成績を残した上で、その実力をカルタ会も認めなければならないとなってるんだ。

 だからカルタ会によっては必要条件よりさらに上増しした昇級・昇段条件を課しているところもあるらしい。そんな本格的なカルタ会はヒロコの県にはないけど、カルタの盛んなところはあるって石村先生は言ってた。

 カルタ会とはどんなものかだけど、カルタ教室みたいなものを思い浮かべても、そんなに間違ってないと思う。お弟子さんを集めて、月謝を取ってカルタを教えてる感じかな。じゃあ、カルタ教室なんて存在もしないヒロコのところみたいなところはどうなるかなんだ。

 カルタ会の加盟は学校単位でも出来るんだ。高校や大学もそうだし。カルタの盛んなところなら小学校にもあるって聞いたことがある。もちろん明文館高校競技カルタ部のカルタ会として全国かるた協会に加盟しているからヒロコも出れる。

 そのカルタ会だけど、作るの自体は極端な話、かるた協会に会費を払えば加盟できるだそう。むしろカルタ会を作れるほどのカルタ愛好家を集めるのがネックだね。本当は加盟条件とか、存続条件とか細かい規定はあるそうだけど、その辺はかなり甘くて、ここもまた極論すれば会費さえ払っていれば除名もまずないらしいよ。


 高校かるた選手権は団体戦がメインだけど、チームの強さも段級で推し量ることは可能なんだ。B級以下は段位より級位で呼ぶことが多いのがカルタの慣例なんだけど、ヒロコの県予選に出てくるチームならB級が主力でC級が混じる感じかな。

 団体戦に五人のカルタ経験者どころか部員を五人集めるのに四苦八苦しているところも多いから、D級やE級、E級でもヒロコみたいな初心者さえ混じる事もあるのが高校カルタの県予選の世界。

 これが全国制覇を狙うチームになるとA級が主力になりB級が混じる感じになる。全部A級みたいなところまであるぐらい。だからヒロコの県の代表が全国に行っても活躍できない理由になるんだよ。

 もちろん級位も絶対ではない。昇級するには公認大会に参加しないといけないけど、これが県当たりで一つか二つぐらいしかないんだよね。ヒロコの県なら一つしかないもの。東京ぐらいになるとたくさんあるみたいだけど、都道府県によって昇級条件はかなり違うところはあるのよね。

 だからC級よりB級が必ずしも強いと言えないけど、やはり級位を積極的に取れる都道府県の高校の方が強いよね。それだけ強い対戦相手と試合したり練習する機会が多い事にもなるからね。


 石村先生は高二の三学期になってから公認大会に参加して段級を取らせようとしてた。これはそれぐらいレベルが上がったのと、その実力を目に見える段級として示して自信を付けさせようとした気がする。

 カルタも段級を取るためだけにやっているものじゃないけど、やっぱり実力を形にして見えたら嬉しいし、励みになるものね。ヒロコだってE級無段よりD級初段の方が嬉しいもの。

 他にも色んな対戦相手と戦う経験もあったと思ってる。普段の練習は決まった相手ばかりだもの。石村先生は上達するには強い相手と試合するのが良いとしてたけど、強いだけなら石村先生もいる。でもそれじゃ足りないと見てると思う。

 カルタじゃなくてもと思うけど、あまりに実力がかけ離れるとかえって練習にならない気がする。ある程度までの力の差だから追いつこう、追い抜こうのモチベーションが起こると思うんだ。そういう相手に勝つことで自信がつくみたいな感じ。

「倉科、もう一つ忘れてるぞ」

 そうだった。これも石村先生に言われたけど、同じ力量の相手でも練習と本番は違うって。練習の時だって真面目にやっているつもりだけど、試合の時の真剣さとは異質なものなのはわかる気がする。

 練習と試合の一番の差は、勝利へのこだわりで良いと思う。絶対に負けられないと思う気持ちが、なにくそのパワーを知らず知らずのうちに引き出してくれるぐらい。そのパワーを覚える事が上達に通じて行くぐらいかな。

「本番の時の雰囲気を知るのも重要だ」

 高校野球、とくに甲子園なんかでも同じと思うけど、番狂わせが起こりやすいのはやはり一回戦。球場の雰囲気に呑まれて普段の実力を出せずに負けちゃう感じで良いと思う。これは会場の雰囲気もあるけど、真剣勝負の空気もあると思う。

 カルタもそうで、見慣れた部室で、見慣れた相手と稽古試合をするのと、大会の会場で見知らぬ相手と昇級を懸けて戦うのは違うはず。詠み手だって人がやるわけで、そんなところで一つでも戸惑いが出るだけで不利になるのもね。


 ただ公認大会への参加はお母ちゃんに言いにくかった。公認大会は近くて神戸、さらには大阪や、京都、滋賀や奈良まで出かけないといけないから、交通費がかかるのよね。交通費はまだなんとかなったけど、段級を取得した後が問題なんだよ。

 E級無段はかるた協会に登録するだけで会費は発生しないけど、D級初段になると年会費が必要になっちゃうのよね。さらに段位を取るとその取得料まで払わないといけなくなっちゃうの。ヒロコは思い余って石村先生に相談したんだ。

「わたしは大会に参加しません」

 そう大会参加の辞退を申し出たんだ。そしたら石村先生は、あれこれと事情を聴いてくれて、

「倉科は全国に行きたくないのか」
「段位を取らなくとも行けるはずです」

 石村先生はしばらく考えていたけど、

「他の部員には内緒だぞ」

 段位の申請料や高校に居るうちの年会費を払ってくれると言ってくれたんだ。お母ちゃんに言ったら、絶対に断ると思ったから内緒にしておいた。ヒロコも段級欲しかったんだもの。カルタをやってるとわかるのだけど、やっぱりE級無段は肩身が狭すぎると感じてたし。

 ヒロコは勇躍大会に参加した。出るからには絶対勝たないと懸命だったよ。最初はE級だったけどこれは楽勝。次のD級大会はラッキーな部分もあったけどC級二段まで昇段できたんだ。

 他の部員たちも頑張ってくれて、B級が二人、C級がヒロコも含めて三人のチーム構成になってくれた。このレベルならうちの県予選だったらかなりのレベルだよ。石村先生は県予選の前に、

「よくやってくれた。正直なところ、ここまで付いて来れるとは思わなかった。この成果は胸を張っても良い。県予選の健闘を祈る」

 いつもの石村先生の褒め殺しと思ったら、いつもヌーボーとした先生の目に涙が光っているのがヒロコには見えたんだ。それが見えたのはヒロコだけじゃなかったみたいで、みんな涙ぐんでいた。

「先生、まだ終わっていません。これからが本番です。先生が指導してくれた成果を見せる時がついに来たのです。私たちはかならず全国に行って見せます」

 カルタに明け暮れた高校生活の集大成が高校かるた選手権。これに出るために青春を燃やしたんだもの。ヒロコたちは絶対に勝つ、勝って石村先生と一緒に近江神宮の晴れ舞台に立つんだ。

純情ラプソディ:第6話 取り

 取り方は六種かな。まずは基本中の基本の払い手。左右に薙ぎ払って札を吹っ飛ばす。ヒロコも最初はこればっかり練習してたもの。札の記憶時間は十五分だけど、最後の二分は素振り練習が出来るのだけど、そこでもみんな払い手の素振りをやってるぐらい。

 競技時間中も少しでも時間があれば、やっぱり払い手の素振りをやってるぐらいだよ。競技カルタでは取る手も決まっていて、有効手と言うのだけど、

『競技開始後に、最初に札を取った手、もしくは最初にお手つきをした方の手を有効手とする』

 これを競技中に変えるのはダメってなってる。ヒロコは右利きだから左翼の札は左に払い、右翼の札は右に払うことになる。左右どちらでもスピードが変わらないように練習をするのも競技カルタでは重要なポイントになる。


 払い手は横の動きだけど、縦の動きもあってこれを突き手と呼ぶ。払い手の次に多くて、払い手と合わせると九割以上になる。突き手は石村先生によると習熟すれば払い手より早いそうだけど、使われる状況は払い手より限られる。

 払い手の場合は自陣でも相手陣でも使えるけど、突き手は自陣では使わない。だってとにかく勢いよく突き出すから、そのまま相手陣に突っ込んだらお手付きになるもの。だから使うなら相手陣、とくに下段の札を狙う時に使うかな。

 ここでだけど、こっちが突き手で出札を狙えば、相手は払い手で対抗することになる。そう、縦と横の激突が起こるんだよ。この時の取りのルールが払い手同士の時と違うのもある。

 払い手同士なら出札に近い方が取りだけど、突き手と払い手が激突した時には、札を押し出した方向で判定されることになる。つまり競技線の左右なら払い手、競技線の奥、相手の下段より奥なら突き手の取り。まともに縦と横がぶつかったら怪我のリスクも増えるぐらい。


 次はぐっと頻度が落ちるけど押し手。いろはカルタのように真上から出札を抑えてしまう取り方。これは出札を正確に狙う必要があるから、スピードとしては落ちるからあまり使われない感じ。

 使うとしたら、相手との力量の差があって、余裕で取れる時ぐらいにヒロコは思ってる。でも石村先生によると、上級者でも案外使うそう。理由はお手付きリスクの軽減だって。実戦的には十六枚札とかなら、とにかく一文字目時点では候補札が多いのよね。

 とくに序盤戦は多いから、どうしたってすべての札をマーク出来るわけじゃない。目に付いた札をマークするのだけど、相手がマークする札と全然違う時もよくあるんだよ。この辺はまず自陣の札に目が行きやすいものは確実にある。さらに空札の可能性もあるから、ピンポイントで狙う時に使うぐらいかな。

 まああんまり使わないのは他にも理由があって、押え手の時に突き手なり払い手で来られると激突するリスクが高くなるのはあると思ってる。だからこそ払い手や突き手が多用されるぐらいかな。


 払い手、突き手、押え手が基本の三つだけど、ここからはかなり戦術的な取り方になる妙に有名なのが囲い手。ターゲットにしている札を手で覆ってしまう戦術。これも基本は小指側を畳に付けて覆う感じ。逆パターンでも、もちろんOK。

 囲い手が使われるシチュエーションとして大山札がある。大山札は三種六枚。つまり一組二枚ずつになる。その片方がどちらかの陣内にあって、まだどちらも詠まれていないケースなら使われることがあるかな。

 これもさらに使える条件がある。相手より先に見つけるのはもちろんだけど、狙う札の左右のどちらかが空いていないと使いにくいのよね。だって両側に札があれば、他の札に触れちゃうし、空札だったりしたらお手付きになっちゃうもの。もっとも手のひらを浮かしてお目当ての札の上を覆うのも囲い手の一種らしいけど、あれはあんまり効果ない気がする。


 戻し手は動きに戦術性があるものだよ。その前に構えについても説明しておくけど、歌が詠まれる時は、前の歌の下の句が先に詠まれて、続いて次の札の上の句に入るんだよ。

 上の句が詠まれるまでは有効手は自陣の下段より手前で畳に付けてなければならないんだ。頭は前に出せるけど、それも自陣の上段まで。この頭を出すのもトレーニングが必要で石村先生はそこに壁があるイメージで突き出せってしてたかな。

 だから下の句が始まった時点で対戦者はぐっと前に頭をせり出すことになる。これは相手陣の札に近づくとともに自陣を取りにくくしている意味もあるんだ。最大の目的は相手の下段の札に近づいておくで良いと思う。

 ここも言い換えれば構えとは下の句が詠まれている間の制限の事で、上の句が始まれば解除される。そうでなければ背の低い人が不利になり過ぎるものね。


 そんな状態で使うシチュエーションは狙う候補札が相手陣と自陣にある時。それも左右のどちらか一方に縦に並んでる時に使うことがあるかな。一番使えるのは両方とも下段にある時だと思うよ。

 まず一文字目で相手陣の札を狙うために体も手も伸ばすんだよ。そうしておいて決まり字が出た瞬間に、それが出札なら取りに行くし、自陣が出札なら手を戻して払ってしまう動きが戻し手。

 こういう動きをする意味は、体と手を伸ばすことで自陣の札を取りにくくする意味がある。相手が取るには体と手を掻い潜ってねじ込まないといけなくなるからね。それと自陣の札を狙われると出札がそれじゃないかと思うってしまうのも期待してる。

 難点は手を戻す時かな。札を確認していたら間に合わないからブラインドで払うのだけど、焦ると相手陣の札を触るお手付きを良く起こすんだよね。それと説明ではゆっくりしてる動作に見えるかもしれないけど、現実の時間は決まり字が出るまでの一瞬の動きだよ。


 渡し手は戻し手の横バージョン。左右に候補札があった時に、まず片方を狙って身を乗り出すんだ。戻し手との違いは、候補札がどちらも同じ陣地にあるからお手付きが発生しないこと。

 最初に狙った方が出札なら払うだけだけど、出札じゃなくても払うのが渡し手の特徴。違う方を払っておいて、手を戻して出札を払っちゃうのが渡し手。決まれば左右に札が吹っ飛ぶから豪快だよ。

 渡し手は心理戦でもあると思う。カルタでは決まり字が詠まれる前に取ればフライングになるけど、詠まれてからおもむろに手を出すのじゃなくて、決まり字の前の文字ぐらいには手は動いてるんだよね。

 渡し手が発生するシチュエーションなら、相手もどちらが出札であるか全神経を尖らせてるじゃない、そこで対戦相手が動くと釣られてしまうぐらいかな。相手はその札を払っただけだから、渡し手を狙っているこちらは余裕で払えてしまうぐらい。

 この渡し手も駆け引きが出る事がある。たとえば相手が右側を狙う動きを見せた時にあえて左側を狙うのもある。この場合に取れる確率は五分五分になるけど、自分がリードしている時はそれで十分と考える時もあるのよね。

 逆に接戦とか劣勢であれば、一枚でも取られたくないから、相手が渡し手狙いでもそれを競う選択も出てくる。この場合は双方とも渡し手を意識しているから、左右どちらも火花が飛び散る払い合戦になるぐらい。


 競技カルタの基本は、決まり字を中心とする戦略により出札を素早く特定し、そこから覚えている札の位置に出来るだけ早く手を伸ばす瞬発力とスピードを競うのが本質かな。単純そうに見えて、そういう戦術の妙があるから競技カルタは面白いけど、技量の差は残酷なぐらいに出るのも競技カルタ。

 ビギナーズ・ラックが存在せず、強い方が必ず勝つ競技としてもしても良いと思う。とにかく入り口の決まり字を覚えこむだけでも一苦労だし、それを常に頭の中で利用できるようにするにはトレーニングしかないのよね。

 普通の高校生なら、ヒーヒー言いながら百人一首と作者の名前を覚えたら、二度と御免の世界になるのもわかるもの。競技人口はお陰で増えないけど、その代わりに全国大会への距離が短いのも競技カルタかな。

 そうそう高校カルタの団体戦は強い人も弱い人も混じってやるけど、基本は同等の力量を持つ人が対戦するようになってる。高校カルタでも個人戦ではそうなってるけど、そうしないと試合にすらならないのも競技カルタ。

 それだけじゃなく、上級者になるほどスピードが上がるから、そこにヘタクソがのんびり手を出すと怪我しやすくなるとも石村先生は言ってたかな。上級者同士の暗黙の了解みたいなものがあるとか、ないとか。

 だけど上級者同士の対戦でも怪我は出る。それぐらい取りに出る手のスピードは半端ないって事。だからこそ畳の上の格闘技とも呼ばれてるんだよ。