ツーリング日和2(第14話)四国カルスト

 七時に起きて風呂に入り、八時から朝食です。かなりシャレた感じでザルに盛られた飾りつけです。荷物をバイクに括りつけ出発です。コトリさんも張り切ってまして、

「四国カルストも人気のスポットやから早出が肝心や」

 今日も杉田さんが先導で、コトリさん、ユッキーさん、ボク、原田と続きます。とりあえずは宿の前の酷道ヨサクを登って行きます。

「曲がるみたいだな」
「やっとヨサクとお別れできるぞ」

 県道三〇四号とありますが、二車線の整備された道ではありますが、とにかく登ります。宿から標高で千メートルぐらいありますからね。

「杉田さん、飛ばすな」
「杉田さんも早いが、それに付いていける原付って、まさにスーパー原付だな」

 見る見る置いていかれました。それでも登り詰めると天狗荘があり、そこで待ってくれています。

「おい原田」
「ああ、これが四国カルストか」

 コトリさんたちも、

「コトリ、ついに来たね」
「ここから天空の道や」

 風景に圧倒されるとはまさにこの事かもしれません。日本には三大カルスト台地と呼ばれるものがあり山口の秋吉台と、四国カルストと北九州の平尾台となってるようです。飛びぬけて大きいには秋吉台で五四〇〇ヘクタールもあるそうです。面積だけなら四国カルストは七四〇ヘクターですかあら秋吉台の一割強ぐらいですが、ユッキーさんは、

「四国カルストの値打ちは高さと眺望よ」

 一番高いところで標高千四百メートルにもなるそうでまさに高原です。コトリさんがこれに付け加えて、

「そうや、幅は三キロぐらいしかあらへんけど、長さは二十五キロぐらいあるねん。高さと長さやったら日本一、このパノラマも日本一や」

 天狗荘があるあたりが天狗高原になりますが、とにかく走って行きます。ユッキーさんもはしゃいでいて、

「細長いカルスト台地の真ん中を走れるのが最高」

 道は一車線ぐらいで、クルマが押し寄せてきたら渋滞しそうです。あれ、五分もしないうちに杉田さんが停まります。

「見晴らし台から展望台に行きます」

 心の中で歩くのかと一瞬思いましたが、コトリさんは、

「展望台は見晴らしのエエところやから作ってあるもんや。これをイカン手はないで」

 ユッキーさんもすたすた歩いて行きます。でも行って正解でした。言葉も出ないとはあんな感じだと思います。ユッキーさんが呟くように、

「日本じゃないみたい」

 天狗高原の展望台を満喫したら五段高原を抜けて姫鶴平に向かいます。

「牛が草を食べてるぞ。この辺は牧場のようだな」
「日本で一番高いところにある牧場かもしれんな」

 天狗高原から道路からは高知の方が見えてましたが、この辺から愛媛の方がよく見えます。道も二車線になっています。

「ずっと走っていたいな」
「こんなルートがこの世に存在するとは」

 風力発電の大きなプロペラが回っているのも高原の雰囲気に合ってる気がします。あそこに見えるスレート噴きの屋根は牛小屋のようですが、杉田さんは右に曲がって入って行きます。
途中で展望所に登り、さらに進むと三叉路に出ます。そこでバイクを停めてなにやら相談しているようです。

「ケヤキ平の大とちの木までどれぐらいや」
「往復で三時間ぐらいでしょうか」
「無念やが今回はあきらめるわ」

 どうやら右の道を行くとケヤキ平の遊歩道の入り口までは行けるようですが、コトリさんたちのお目当ての大とちの木まではかなり遠いようです。

「原田、キャンプ場もあるぞ」
「いつかはキャンプしたいものだ」

 ここの夜は最高だろうな。県道に戻ると姫鶴荘で休憩。ユッキーさんたちは、

「ハイジの世界ね」
「誰も覚えとるかい」

 ハイジってなんだろう。それはともかく、これだけ壮大な景色に圧倒されっぱなしです。杉田さんは、

「天狗高原から姫鶴平が四国カルストでも銀座のようなところだ。だからこの間を四国カルストと呼ぶものもいるし、ここしか見ない観光客も多い。だが、ここから先の大野ヶ原も見ておいて損はない」

 天狗高原から姫鶴平まではまさしく天空の道ですが、大野ヶ原に入ると風景が変わってきます。道の両側に木が生えている山があり、谷間の道と言う感じになります。しばらく走ってから杉田さんが左の道に入ります。ここも一車線半もない狭い道ですが登り詰めると駐車場があります。

「歩くで」

 駐車場から続く道の先には森があり、

「あれが一夜ヶ森や」

 伝説では弘法大師が野宿した時に朝起きると、今まで何もなかったところに森が忽然と出現したそうです。ユッキーさんは、

「お大師伝説にしたら変わってるね」

 コトリさんが補足してくれたのですが、弘法大師の伝説の多くは、霊泉が湧きだしたとか、橋をかけたりとかの類が多いそうですが、

「この森はお大師さんをダシにしとるところに面白みがある」

 それでも変わった森だそうで、周囲に山火事が起こった時にも一度も燃えたことがなく、今でも入らずの森になっているそうです。駐車場に戻ってきた道を引き返したのですが、杉田さんはまた途中で右に曲がります。

「笹岡、この道きついぞ」
「ああ、ボクたちのバイクでも狭いと感じるぐらいだ」

 ヘアピン・カーブを三回曲がって着いたのが源氏ヶ駄場駐車場と書いてあるところ。コトリさんが、

「絶景の寺参りや」

 また歩きです。行き着いた先にはコトリさんの言葉通り寺がありますが、コンクリート造りのお堂のようなもの。ただ名前だけは大きくて、

「大空海山幸福寺は付け過ぎじゃないか」

 するとユッキーさんが、

「まあそうだけど、世の中には湯たく山茶くれん寺もあるからね」

 そんなふざけた名前がと思いましたが、

「秀吉が北野大茶会に向かう途中に名水が湧いている浄土院ってお寺に立ち寄ってお茶を所望したんだよ。秀吉は二杯目のお茶も所望したんだけど、二杯目からは何杯所望されても白湯しか出さなかったからだよ」

 だから湯たく山茶くれん寺なのか。するとコトリさんが、

「それは天下の大茶人の秀吉に住職ごときが二杯目のお茶を出すのを遠慮したからやねん。それを秀吉も気が付いとってんけど、わざとお茶を要求して白湯を何杯も飲んでるんや。つまりは洒落の応酬や」

 もっと驚いたのはその寺が今でもあり、寺には秀吉が戯れに湯たく山茶くれん寺と名付けた石碑まであるそうです。

「それとな、ここから見えるのが源氏ヶ駄場や。」

 これも伝説ですが、源平合戦の頃に平家の軍勢がここまで来たそうです。ところがカルスト台地の白い石の群れが源氏の白旗の大軍に見えて逃げたとか、

「そうなっとるけど、もし実話に基づいているなら逆の気がするわ。落ち延びる平家の落人が源氏の追跡を振り切ったんちゃうか」

 こんなところまで平家が攻め寄せたと考えるより、こんなところまで平家の落人が来たと考える方が可能性はあるかもしれません。

「杉田さん、甘いもんにしようよ」
「では」

 道を戻りしばらく走ると、もみの木と言う店があり、

「見ての通り牛が多いところで、新鮮な牛乳で作るチーズケーキとソフトクリームは名物だ」

 ボクたちはチーズケーキだけにしましたが、コトリさんたちはソフトクリームも食べていました。味はシチュエーションもあるにせよお勧めです。

ツーリング日和2(第13話)土佐の小京都

 お食事処で杉田んさんも交えて夕食。ビールで乾杯してから、

「土佐と言えば司牡丹」

 もう当たり前のように一升瓶で出てきて、

「ここの鮎も美味しいね」
「ああ、祖谷より美味いかもしれん」

 あまごの甘露煮、鰻の手毬鮨、山菜の天ぷら、手長エビの唐揚げ・・・四万十川の恵みのオンパレードと言ったところです。言うまでも無く追加注文もあって、

「久礼って名前の酒もあるやんか、亀泉も美味そうやな」
「鮎に合うよね」

 ボクたちも昨日見慣れましたし、杉田さんも気にせず飲み食いしています。

「コトリ、中村を見た感想は」

 四万十市は中村市と西土佐村が合併して出来たもので、合併時に全国的にネームバリューが高い四万十川に因んだ四万十市になっています。これがコトリさんやユッキーさんには気に入らないようです。

「市町村合併が悪いとは言わんが、由緒ある地名が失われるのは嘆かわしいで」
「町名整理もそうだよね。どこに行っても代わり映えしない町名ばかりになってるもの」

 だから四万十市をここでは中村としますが、ここも小京都と呼ばれるところの一つです。

「中村は別格や。本気で京都に似せようとしとるからな」

 他の小京都は町の雰囲気とかが、どこか京都を思わせるところが殆どのようですが、

「中村は本気で小京都を作ろうとした街や」

 三方を山に囲まれ南に海があるのは京都同様に四神相応の地と言われ、四万十川を桂川、後川を鴨川に見立てだけでなく、石見寺山は比叡山に見立て中腹に延暦寺を模して石身寺が建てられたとされています。

「大文字焼きもあるで」

 ここまで京都に似せたのは、たまたまそういう地形であったのもあったでしょうが、そういう土地を選んで京都を作ろうとしたそうで、そんな中村を作った中村を作った一条氏は京都の貴族です。

「そんな甘いもんやあらへん。五摂家の一つで序列は鷹司家に次ぎ九条家と同格なんよ。土佐に下って来た教房は従一位関白まで務めた一条家の当主。二代の房家も土佐に住んでいながら、正二位権大納言で土佐国司に任じられとる程や」

 つまり中村は本物の京都貴族、それも最上級貴族が京都に似せた街を作ろうとしたところで良いようです。

「あの頃は京都の朝廷も衰微して、各地の有力大名のとこへ亡命するのが流行やってんよ。有名なのは西が大内氏、東が今川氏やな。そんな時代に京都貴族が戦国大名として自立出来たんは奇跡みたいなもんや」

 土佐も僻地ですが、中村はさらに土佐の西の端の僻地になります。しかし一条氏が小京都を中村に築き大名として君臨したために、京都からも他の公家や職人も集まり華やかな文明都市を築いていたようです。

「当時の土佐やのうても飛びぬけとったでエエと思うで。大げさに言えば、土佐の人間が有史以来初めて文化ちゅうものに初めて出会えたぐらいの街や」

 そんな中村ですが一条氏は長曾我部氏に滅ぼされた後は伊予侵略の拠点になり、長曾我部氏が関が原で土佐から追い出された後は、一豊の弟の康豊が中村三万石で支藩のように存在したそうです。

「そやから中村城があったやろ」

 しかし中村藩三代目の豊明が殿中で失態を犯して所領は没収され、侍屋敷は破壊されてしまったそうです。元禄九年に土佐藩に返還された後は郡奉行所が置かれたとなっていますが、

「十八世紀半ばぐらいで四百八十軒、千八百九十七人住んどった記録がある」

 江戸時代には江戸や京都、大阪のような大都市も形成されてますが、人口の八割ぐらいが農民で、いわゆる町民が集まる都市の規模は小さかったとされます。

「まあ千軒あったら大都会やろ。たとえばやが・・・」

 埼玉県に深谷市がありますが、江戸時代は中山道最大の宿場町で、その深谷宿で五百二十五軒、人口が千九百二十八人だったそうですから中村は同じぐらいになります。さらに一条教房以来の京文化の残り香もあったはずだとしていますが、

「昭和二十一年の南海地震の時に根こそぎやられとる。そやから今の市内に目ぼしいものは残っとらへん。残っとるのは碁盤の街並みだけかもしれん」

 だから一条神社だけ見て沈下橋に行ったのかもしれません。

「一条氏の都市がどれほど華やかやったんか、わかりようもあらへんけど、曲がりなりにも京都っぽい都市を作りあげたんは凄いと思てるねん。それだけ京都への思いが濃いかったんやろな」

 考えようによっては、土佐に一条家の当主が移り住んだのが凄すぎることかもしれません。とくに初代の教房は中村の月を眺めながら京都を偲んでいた気がします。それにしてもいくら歴女と言っても良く知っています。

「まあ歴史が好きなんはあるけんど、物見遊山って昔からこういうもんやで」

 そりゃそうですが、

「色んな旅行の楽しみ方はあるけど、名所旧跡を回るのは一つの基本やろ。名所旧跡いうても色々やけど、大抵はなんやかんやと謂れがあるやんか。景色を綺麗とだけ思って旅するもアリやけど、謂れを知っとる方が楽しめるやろ」

 なるほど。昨日言った平家屋敷民俗資料館とか旧喜多家武家屋敷跡も、何も知らずに見たら、

「そういうこっちゃ。タダの古い民家や。ほいでも、そこに平家落人伝説が絡んだら、見え方が変わってくるやんか。祖谷の谷もそうや」

 たしかに、これだったらもっと学校の歴史を勉強しておけば、

「そりゃ、無理やろ。学校は歴史の授業は試験で評価せんといかんから、事実の列挙の暗記科目になってまう。あんなもん苦痛にしかならんで」

 うぅ、そうでした。

「ほいでも、まったくの無駄やないで。なんでも基礎はつまらんよ。基礎があった上で応用を初めて楽しめるんよ。笹岡君だって、今歴史を聞いたらオモロイやろ」

 中村の市街だってボクにはありふれた地方都市にしか見えませんでしたが、コトリさんの話を聞くと、単なる四つ角にも歴史を感じる気がします。そこにユッキーさんが、

「試験科目にならないと勉強しないと言えばそれまでだけど、古典や漢文も役に立つわよ」

 ひぇぇぇ、古典文法にはどれほど苦しめられたことか。

「あれは採点科目だから仕方ないよ。でもね、日本語は変化の激しい言語と呼ばれてるけど、文法は試験で脅されるほど変わってないのよ」

 そうとは思えませんが、

「平家物語の冒頭を覚えてる」

 祇園精舎の鐘の声でしたっけ。するとユッキーさんが、

「祇薗精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理りを顕す。
驕れる人も久しからず、春の夜の夢尚長し。
猛き者も終に滅びぬ、偏へに風の前の塵と留らず」

 よく覚えているものです。

「言い回しは古いけど、意味はだいたいわかるでしょ」

 言われてみれば、

「これって鎌倉時代のものよ。枕草子も覚えてるかな」

 えっと、

「春はあけぼの。やうやう白くなり行く、山ぎは少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」

 そうだった、そうだった。古典の冒頭を暗記させられた。

「これもわかるでしょ」

 だいたいは、

「言語で変わるのは言い回しなの。時代時代で流行り言葉があったり、決め台詞があったりすのよ。用語用法の変化かな。でも枕草子って平安文学よ。それでも、それなりに意味がわかるってすごいと思わない」

 そういうことか。これが試験になれば文法がどうだとか、『いとをかし』とか『あわれ』の解釈問題になるけど、知識として楽しむぐらいは読めるってことなのか。

「これはコトリの持論みたいなもんやけど、歴史って興味があるけど嫌われてるんよ。嫌われてるの社会と古典の授業のせいでエエと思う。あんな授業聞かされて好きになる方が変人や」

 まあバッサリと、

「そやけど人は常に歴史に興味がある。難しゅう考えでんもエエ。笹岡君も原田君も沈下橋見て、いつから誰があんな橋考えたんやろうと思うやろ。それが歴史や」

 加えて人はルーツを知りたがるのと、古いものに魅かれるところが確実にあるとしました。たしかにそうです。昨日だって祖谷の平家落人伝説に興味が湧きましたし、今日だって中村の小京都の歴史に心魅かれています。

「キュレーションという考え方がある。数多の情報の中から本当に役に立つ情報を選別し提供するぐらいに理解してエエわ。とにかくこんだけネット情報があふれる時代やんか。その中からどれが重要か、役に立つかのガイドさんは欲しゅうないか」

 それはあります。これをキュレーションと言うかは自信がありませんが、旅行先でどこを見れば良いか、どこで食べれば美味しいかなんかは、ベスト・テンとかのサイトをまず見るからです。

「ユーチューバーの役割もそれちゃうか。モト・ブロガーやったら、たとえばツーリングに行った時に、どうやったら行けるか、道路状況はどうなんか、時間はどれぐらいかかるかを提供するやろ」

 ええ、そうです。

「どこが見どころかも入るけど、バイク乗りが好むところの情報をどれだけ手際よく提供するかになる。それもや、番組として見て楽しめて、自然に役に立ち、知っとったら知らんやつに、ちょっと自慢できる情報や」

 そうなれば理想ですが、

「歴史もエッセンスの一つや。定番中の定番の名所旧跡の説明や。それもや、やり過ぎてもアカン。単なる歴史スノブになってまう。そやから選びに選び抜いた情報を簡潔に提供するんや」

 そう言われても、

「わからんか。教える方、情報を提供する方はされる方の十倍の知識が必要なんは常識や。そんだけ知っとるから、その情報のキモがわかるんや」

 そうなんですが・・・

ツーリング日和2(第12話)四万十観光

 久礼では食べ続ていたようなものですが、駐車場で誰かを待っています。

「コトリ、連絡は取れたの?」
「おう、そろそろ来るはずやで」

 誰かと久礼で待ち合わせをしているようです。やがて大型のスポーツ・バイクが見えて来てこちらに来て停まりました。メットを取ると、えっ、えっ、もしかして、

「御無沙汰しています。しゃ・・・」
「コトリやで間違うたらあかんで」
「ユッキーよ」

 ボクも原田も目が点です。あのカリスマ・モト・ブロガーのスギさんではないですか。

「こっちが笹岡君で、こっちが原田君。杉田さんを蹴落とそうと張り切っているモト・ブロガーよ」

 蹴落とそうとなんて滅相もない。

「なに言うとるんや。ユーチューバーの世界も弱肉強食やで」
「そうよ。今は杉田さんの上だけど、来年には蹴落として上がる気が無くてどうするの」

 杉田さんは苦笑しながら、

「ライバルの参入は歓迎だよ。相手を蹴落とすのじゃなくて、モト・ブロガーの世界をもっと広げようじゃないか。もっともっと大きくなれるはずだし、そうしないといけない」

 さすがカリスマだ、言うことが違う。それにしてコトリさんやユッキーさんが杉田さんと知り合いだったとは、

「阿蘇にツーリングに行った時に知り合ってん」
「たまたまだけど同じ宿に泊まったのよ」

 阿蘇にもツーリングに行っていたのか。

「コトリさん、ユッキーさん、一人になってしまって申し訳ありません」
「エエねん、エエねん、急やったから来てくれただけで感謝するわ。無理言うてホンマに悪かった」

 コトリさんやユッキーさんて何者なんだ。もし杉田さんを呼んだのなら、昨日か今日のはず。連絡一つで杉田さんが愛媛から久礼まで飛んできているのですよ。そこからコトリさんと杉田さんがなにやら話をして、

「・・・そういうことで頼むわ」
「それぐらいはお安い御用です。任せて下さい」

 杉田さんがボクらに、

「四万十にマスツーで行く。オレが先行するから、次がコトリさんたち、笹岡君と原田君は後ろを頼む。もし、信号とかではぐれたら一条神社で落ち合うことにする」

 久礼から快調に走り四万十市に入り一条神社に。時刻はまだ午後一時半ぐらいです。コトリさんは興味深そうに一条神社に参拝して、

「ここから郷麓温泉に四万十川の観光しながらツーリングにしたいのよ」
「沈下橋を渡ってみたいねん」

 まず国道四四一号を北上、途中で県道三四〇号に入りまずは佐田沈下橋。これは全長二九一・六メートルで四万十川最大の沈下橋です。これを渡ると、そのまま細い道を走り抜け三里沈下橋に。

 そこから県道三四〇号に入り、国道四四一号に戻ったと思ったら今度は高瀬沈下橋を渡り、そのまま左岸の細い道を走り抜けて勝間沈下橋に。この沈下橋は橋脚が三本あるのが特徴だそうです。

 しばらく国道四四一号を走ったら口屋内沈下橋を渡り、またまた左岸の細い道を抜け岩間沈下橋を渡ります。再び国道四四一号に戻り道の駅よって西土佐で一休み。

「杉田さん、まだあるよね」
「もちろんです」

 今度は長生沈下橋を渡り、中半家沈下橋で国道に戻り、

「ここまで来たら半家沈下橋も渡りましょう」

 少し道を外れてこれも渡りました。

「おい、何本渡ったのだ」
「九本かな」
「もう満喫しすぎたよ」

 沈下橋は川が増水した時に沈んでしまう橋で欄干がありません。幅だって一番広い勝間沈下橋で四・四メートル、一番狭い長生沈下橋になると三・一メートルしかありません。正直なところ怖いのですが、

「記念写真、記念写真」
「並んで撮るで」

 必ず途中で停まるのでヒヤヒヤものでした。まだ沈下橋はあるそうですが時刻も押して来たので宿へ直行のようです。土佐大正町で左にルートを取ったのですが

「笹岡、またヨサクだぞ」
「あの酷道、こんなとこまで伸びていたのか」

 祖谷の二重かずら橋に行くのに苦戦した国道四三九号、ちょっと調べると国道四二五号、国道四一八号と並んで日本三大酷道とされているもので通称『ヨサク』です。杉田さんは、

「京柱峠ほど悪くないが、少々狭い道だ。もしついて来れなくなっても宿は道沿いにあるから迷う心配はない」

 よく道を知っておられるのもあるとは思いますが、さすがのハイ・ピッチ。

「原田、無理だ」
「もう見えないな。それしてもあの二人はよく付いて行けるものだ」

 ヘロヘロになりながら狭苦しいワインディングを走っていると、

「あれじゃないのか」
「手を振ってくれてる」

 昨日の祖谷温泉も秘湯ですが、かなりメジャーな雰囲気がありました。そりゃ、ケーブルーカーを使う露天風呂があるぐらいです。それに比べると郷麓温泉はまさに一軒宿で、これこそ秘湯って感じがします。

「晩御飯の時に会おうね」

 部屋に案内してもらい、寛いでいたら杉田さんが来られて一緒に温泉に。ここのお風呂は貸し切り制で檜の湯と離れの湯がありますが、

「コトリさんたちは離れの湯に行ったから・・・」

 檜の湯は名前の通りの檜風呂。硫黄の匂いが漂います。杉田さんにコトリさんたちと、どこで知り合ったか聞かれ、ジャンボ・フェリーで出会って祖谷温泉からここまで一緒にツーリングしてきた事を話すと、

「よく食べて、よく飲まれるのに驚いただろう」

 フェリーを下りてから、すべて料金を支払ってもらってることも、

「気にしないで良いよ。お二人がそれで楽しんでおられるのだから。甘えても罰はあたらない」

 コトリさんたちのバイクが気になったので聞いてみたのですが、

「あれぐらいは走るよ。オレだって追いつけなかったぐらいだ」

 えっ、杉田さんはスーパー・スポーツ。それにレーサーでもあるのに、

「あははは、石鎚スカイラインで振り切られたよ」

 そんなバカな。そんな一二五CCがこの世にあるものですか、

「あのバイクはオレも乗せてもらったが・・・」

 とにかく運転がしにくいバイクのようで、

「すごいチューンしてるのでしょうね」
「チューン? そんな甘いものじゃない。ヨシムラだって、あそこまで出来るものか。ヨシムラどころかワークスだって無理だ。あれは世界でたった二台しかないスーパー・バイクだよ」

 先行してもらった時にはノンビリ走ってましたが、

「そりゃそうだよ。あのお二人がしたかったのは、そういうツーリングだ」
「じゃあ、どうして」

 杉田さんは苦笑いしながら、

「あれはノーマルで十馬力程度のものだ。それでは峠道が苦しいだろう。少しパワーが欲しかった結果があれだそうだ」

 少しって、

「オレも詳細は良く知らない。だがお二人はトンデモない代物になったのをボヤいておられたよ」

 そう言えば今日だって仕事の予定があったはずですが、

「ああそうだった。でもスマホに連絡があった時に夢かと思ったよ。加藤が泣いて悔しがっていたな」

 加藤ってあのカトちゃん。杉田さんにも肩を並べるカリスマ。

「さあ上がろうか」

ツーリング日和2(第11話)本場のカツオ

 明日のツーリング計画を聞いたのですが、

「明日は走るツーリングや」

 高知市の観光をどうするかを聞いたのですが、

「ああ、いらん」
「桂浜もパスで良いわ」

 どうも話しぶりからすると、高知市内の観光も高松市内の観光も良く行ってるようです。

「あんなとこ、いつでも行けるやんか」
「バイクじゃないと楽しめないところに行かなくっちゃ」

 それはそうですが桂浜ぐらい寄っても、

「あそこは高知に行ったら絶対連れて行かれるんよね」
「坂本龍馬の銅像は立派だけど、ああも毎度毎度じゃ、さすがにね」

 何回来てるのやら。ところでお昼は、

「高知言うたらカツオや」
「お刺身とたたき食べなきゃ」

 祖谷温泉は山の幸でしたからね。

「今夜も山の幸になるからカツオは絶対や」

 朝になったら次の宿まで確保して頂いてました。でも高知でカツオなんてどこでも食べられるはずです。

「まあ、そうや。神戸でも食べれるし、東京でだって食べられる」

 じゃあ、どこでも良いのかですが、

「だから高知の中でも、とくに美味しいカツオを食べたいじゃない」

 そんなに差があるのかなぁ、

「あるで。高知のカツオ言うても、大きく分けたら二種類ある。一つは三陸沖とかに遠征して取って来るやつや。これは日数もかかるから冷凍や。もう一つが土佐の沖で釣ってきたやつや」

 なるほど、近海物の方が新鮮で美味しいと言う事か、

「あははは、それほど単純な話やないで・・・」

 カツオは黒潮に乗って回遊しますが、三月ぐらいに高知では初ガツオが獲れ始めるようです。これを上りカツオと言いますが、九月ぐらいから戻りカツオになり、

「十一月ぐらいが脂も最高に乗って旨くなるんやが、それ過ぎると冷凍物の方が美味しくなる」

 今は近海物のカツオが美味しいわけか、

「そういうこっちゃ。そやけど近海物でも新鮮な方が美味しいんよ。生ものやから時間が経てばたつほど味は落ちる」
「そういうこと。今はカツオの旬の季節だから、獲れたてホヤホヤのカツオが食べられるはずなのよ」

 なるほど。でもそんなものをどうやって、

「久礼に行く」
「久礼って須崎の先の・・・もしかして」
「そうや」

 聞いたことはありますが、行ったことはありません。

「原田は行ったことあるか」
「ない。ユーチューブで見ただけだ」

 翌朝はなんと六時起き。風呂を済ませて七時から朝食が始まり、七時半に出発とコトリさんたちに告げられています。ナビで確認すると久礼まで百三十キロで三時間と出ていますが、

「休憩を入れて三時間半ぐらいか」
「いや四時間見ていた方が良いだろう」

 まず祖谷のションベン小僧を見に行って、そこから昨日走った道を大歩危橋まで引き返し、国道三十二号で高知をひたすら目指します。ボクたちだけなら高速も使えますが、コトリさんたちは原付ですからね。

「この道も悪くないな」
「バイクのツーリングなら、こちらの方が良いかもしれない」

 今日はコトリさんたちが先行したいと言われ、高知市内を桂浜まで下って、そこから黒潮ラインに。一時間に一度ぐらい休憩を挟みながらこれはまさに快走。須崎の手前で横浪黒潮ラインに入り、

「こういう道は楽しみたいやろ」
「遅れたって一本道でしょ。次はここで休憩にするから」

 今度はボクらが先行。

「今日はシーサイド・ツーリングだな」
「山道のワインディングも楽しいけど、海沿いの道もバイク乗りにはたまらないな」

 横浪黒潮ラインはバイク雑誌に日本の名コース五十に選ばれたぐらい道で、太平洋の景色が素晴らしいだけでなく、ツイスティでアップ・ダウンを繰り返します。

「まったく遅れる様子がないな」
「どんな改造をしたら、原付があれだけ走れるのだろ」

 改造と言えば驚かされたのがガソリン・タンクが二ヵ所あること。どうにも燃費が良くないらしく、二つを満タンにしてなんとか二百キロだとか。途中の休憩所で、

「これが武市瑞山銅像やな」
「これも見たかったんだ。だって高知で銅像で連れて行かれるのは、桂浜の坂本龍馬とせいぜい室戸岬の中岡慎太郎ばっかりだもの」

 連れて行かれるってどういうこと。接待されるような年齢には見えません。横浪黒潮ラインから国道五十六号に戻り須崎を抜け久礼に入ります。中土佐町久礼の交差点を左折して進んで行くと、

「この辺だが活気があるな」
「駐輪場はこの奥みたいだな」

 駐車場はいっぱいで、ふるさと海岸の無料駐車場に案内されました。歩いて五分ぐらいで大正町市場に戻れます。

「立派ね。カツオの木彫りの看板がイイね」
「大正天皇の下賜金がなんで出たんやろ」
「昭憲皇太后の影響じゃないかな」

 市場はアーケードになっていますが、これが木製のなのが良い味を出しています。それより何より人、人、人。買い物客をかき分けてになります。

「明石の魚の棚みたいやな」
「久礼の方が小さいけど活気は上かも」

 コトリさんたちは、どの店で買おうか見て回っているようでしたが、

「ここにしよう」

 勧められるままにカツオのたたきとお刺身、

「アオリイカとウツボのたたきも美味しそう」

 これを皿に盛ってもらって向かいの食堂に。味噌汁とご飯を頼んで、

「さすが久礼や」
「お塩が最高」

 塩でお刺身を食べたのは初めてでしたが、

「塩で刺身は初めてなんか。塩でも美味い刺身はホンマに美味い刺身やで」
「でも醤油で食べても美味しいよ」

 同じカツオかと思うほど味が違います。

「ウツボのゼラチンのところはいけるな」
「こんな透明のイカはそうは食べられないよ」
「ウルメイワシの刺身なんて食えるのはここだけかもしれん」

 食堂を出た後も串焼きを買って頬ばりながら、

「カツオの心臓もなかなかやな」

 心臓はチチコとも呼ぶそうですがコリコリしてなかなかです。

「ハランボも美味しい」

 カツオの心臓も初めて食べましたが、ハランボはカツオの腹のあたりだそうで、

「マグロで言うたらトロや」

 塩焼きのようですが表面がパリッとして、かむとプリっと身は柔らかくフワっです。口の中にはカツオの濃厚な脂と旨味が広がります。よく食べるのは昨日から知っていますが市場を出てからも、

「くれ天もいけるな」
「ここのドーナッツも懐かしい味がする」

 まあ、次から次へと。それから名残惜しそうに、

「また来よな」
「絶対よ」

ツーリング日和2(第10話)三種の神器

 コトリさんが面白がったのは高知の平家落人伝説との関わりです。ここでユッキーさんが、

「横倉山の鞠ケ奈呂陵ね」

 須崎から北に入った山の中だそうですが、ここに伝安徳天皇陵があるのだそうです。さらに、

「平氏一門八十余名の墓と称される古墳、塚、小祠もあるのよね」

 この鞠ケ奈呂陵ですが驚いたことに安徳天皇の陵墓参考地として宮内庁の管理になってるのです。ただし宮内庁の管理になっているのはここだけでなく、

 ・鞠ケ奈呂陵墓(高知県)
 ・宇倍野陵墓参考地(鳥取県)
 ・西市陵墓参考地(山口県)
 ・佐須陵墓参考地(長崎県)
 ・花園陵墓参考地(熊本県)

 宮内庁管理以外にもたくさんあるそうですが、

「祖谷の伝承やったら八歳で安徳天皇は亡くなってるんよ。ところが横倉山の伝承では二十三歳で亡くなってるんよね」
「それに横倉山の伝承では、祖谷から土佐に逃げ込んで、西熊山、御在所山、宮古野、平家平、稲叢山、越裏門、椿山、別枝都と転々と行在所を変えて横倉山に落ち着いたとなってるの」

 つながると言えばつながるか。祖谷で八歳まで過ごした後に土佐に逃げ込んだと見れますからね。祖谷で亡くなったとしたのは追手を振り切るためかもしれません。そこまで追われるのならやはり本物だったとか。

「あのなぁ、実母の建礼門院は捕まって京都に帰って余生を過ごしてるんよ」

 そうだった。安徳天皇に影武者立てて落としたのなら、実母である建礼門院もセットで落としそうなものだよな。

「壇ノ浦の合戦の、もう一つの側面がある」

 平家の都落ちの時に安徳天皇と三種の神器を抱えて行っています。三種の神器は天皇の正統性を保証する重要な神器であり、これの奪還も重要な使命だったとコトリさんはしています。

「あれって草薙の剣だけが失われたんじゃ」
「他も怪しすぎるで」

 八咫鏡と八尺瓊勾玉は浜に流れ着いて回収されたとなっていますが。

「話やったらな。木の箱に入れとったからプカプカ浮いとったってなっとる。ほいでも土壇場やで、安徳天皇も入水してるぐらいやで。二つとも箱から出して抱えて沈んだはずや」

 安徳天皇の最後の様子も吾妻鑑では二位尼が草薙の剣を持って入水し、安徳天皇は按察使局が抱いて入水したとなっているそうですが、

「平家物語延慶本にはな・・・」

 延慶本とは平家物語でも最古の写本だそうですが、安徳天皇の入水の様子は、

『二位殿は今はかうと思われければ、練袴のそば高く挟みて、先帝を負ひ奉り、帯にて我が御身に結び合わせ奉りて、宝剣をば腰に差し、神爾をば脇に挟みて』

 吾妻鏡は正史になるそうですが、史実について、とくに源平合戦については平家物語を凌ぐと言いきれない部分があるそうで、

「按察使局はタダの女官や。安徳天皇と最期を共にするのなら生母の建礼門院か、清盛の妻の二位尼しかおらんやろ。さらに草薙の剣と八尺瓊勾玉も抱いて入水したとなっとる。この意味わかるか」

 教えてもらったのですが、三種の神器の中でも草薙の剣と八尺瓊勾玉は剣璽と言われ、天皇が常に所持してるものだそうです。

「八咫鏡はデカイからかもしれん」

 今でも剣璽は宮中の剣璽の間に置かれ、天皇が外出する時には必ず持って行くそうです。一方で八咫鏡は箱にしまわれ、宮中の賢所に置かれているそうです。

「コトリは平家物語延慶本が正しい気がするねんよ。天皇は剣璽を常に所持するもんや。死の土壇場に追い込まれた二位尼は、死んでも安徳天皇の正統性を守ろうとしたんやと思うわ。そやから残っとってんやったら八咫鏡や。そやけど流れ着いた話が出てるから、一緒に沈んだと考えるべきやろ」

 ここでユッキーさんが笑いながら、

「頼朝が三種の神器を回収できなかった義経を怒り、義経の不遇の始まりとしている説もあるけど眉唾ね。本当に失われたのは八尺瓊勾玉だけよ」

 はぁ、どういうこと。

「あら知らなかったの。八咫鏡は伊勢神宮の内宮にあるし、草薙の剣は熱田神宮にあるじゃない。壇ノ浦で沈んだのは形代と言ってレプリカみたいなものだよ。無くなれば作り直せば済む話」

 これも日本書紀とか古事記に出てくる話のようで、崇神天皇の頃は草薙の剣も八咫鏡も宮中にあったそうですが、これの神威に怖れ笠縫邑に移され放浪の末に垂仁天皇時代に伊勢に落ち着き伊勢神宮になったそうです。

「八咫鏡はそのままだけど、草薙の剣は日本武尊の東国遠征に持ち出されて熱田神宮に移されてるのよ。宮中にあるのは、そのレプリカの形代だよ」

 壇ノ浦で草薙の剣の形代が失わた後も、伊勢神宮から献上された剣を草薙の剣の形代にしたそうです。

「その後も火事があったりして、形代作り直してるし、ホンモノの方もどうなっているのか見た人はいないよ」

 見れるものじゃありませんからね、

「ユッキーの言う通りやけど、三種の神器の形代は量産できへんのよ。一つあるうちは、それが正統の形代で、二つ目作ったから言うて本物やと言えへんのが鉄則みたいなもんや。高校野球の優勝旗のレプリカみたいなもんかな」

 そういう話につながるのか。天皇もまたそうで後継候補はたくさんいても、安徳天皇が正統の形代の剣璽を持って生きていると、京都で新たな剣璽を作って新天皇が即位しても、ひっくり返される可能性が残ってしまうのか。

「だから祖谷で安徳天皇健在の噂があれば追手が来た可能性はある。土佐に逃げても同じや。転々とした末に横倉山で死んだんぐらいかな」

 ならば、一の谷で負けて、なにがなんでも安徳天皇と三種の神器を守るために祖谷に隠した可能性は、

「それはあらへん。平家も武家や。負けたらどうなるかは知っとるわ。都落ちもやってるからな。平家の最後の切り札が安徳天皇と三種の神器やねんから、そんなもの手放すかい。死ねばもろともや。壇ノ浦がそうなっとるやんか」

 だよな。

「ああそうや、コトリがあれこれ言うたけど、安徳天皇は生き延びた可能性はあるで。合戦に安徳天皇を連れて行く代わりに形代立てた可能性や。合戦やから流れ矢に当たって死んでも困るやろ」

 彦島に留まっていた可能性か。でも顔を見たら、

「誰も安徳天皇の顔を知るかいな。平家方かって知っとるのは一門ぐらいで、下っ端は見た事あらへんはずや。源氏なんかなおさらや。それらしい装束来て目の前で入水したら疑う奴なんておらんやろ」

 でも建礼門院や按察使局は助かっているのじゃ、

「二位尼もホンモノやろ。ニセモノが潔く死ねるかい」

 そ、そうですよね。

「やっぱ落人伝説はロマンがあるんよな。秀頼の子が薩摩で生きとったとか、光秀かって天海僧正になったとかもあるからな」
「義経だって衣川で死なずに成吉思汗になってるし」

 そんな話を聞いたことがありますが。

「どっかにホンモノの話があるかもしれへん。そやけど検証しようがあらへんやんか。それでも祖谷には平家の落人が住み着いた伝承が残っとって、今も語り継いでるのは奥床しいことやんか」

 それにしてもコトリさんもユッキーさんも半端な歴女じゃありません。これだけの事を空でムック出来るなんて、

「コトリは歴女だけどわたしは違うよ」
「そやな。単なる物知りの温泉小娘や」