シノブの恋:六回目のデート

    『カランカラン』
 期待と不安に胸を膨らませて伊集院さんを待ってる。今日はマルガリータ。フローズン・スタイルの代表的なカクテル。テキーラ・ベースなんだけど、テキーラだけを飲む時にも塩をアテにするのがポピュラーって聞いたことがあるの。

 左手の甲に塩を盛っておいて、それを舐めながら生のテキーラを飲むスタイルかな。一度やった事があるけど、さすがに生のテキーラはちょっとってところ。

    「お待たせ」

 やっと来てくれた。まずはシノブが考えた頼朝の黄瀬川進出の意図を聞いてもらったんだけど。

    「おもいしろいね、実にイイ視点だと思う。吾妻鏡では黄瀬川にお歴々がずらりと雁首そろえてるってなってるけど、実は相模に居たというのが面白い」

 基本的にシノブの意見に賛成してくれたんだ。

    「頼朝と関東の豪族では考え方が違った部分があったと見てる」

 頼朝は京都育ち。いわゆる都会人でイイと思う。当時で都会なんて京都しか無いようなものだし、あらゆる文化の源泉が京都と思ってもイイはず。そんな都会人の頼朝からすれば、関東は草深すぎる田舎と感じてもイイ気がする。

    「頼朝は早く京都に戻りたかったのかもしれない」

 富士川の合戦当時で頼朝は三十三歳。この時の頼朝の指向は西に偏っていた可能性があったんじゃないかと伊集院さんは考えてた。だから駿河にチャンスがあれば、これを見逃したくないぐらいかな。

    「でもね、坂東の豪族はちょっと違うんだ」
 坂東は京都との対抗意識というか、独立志向が底流にあったとしてる。承平天慶の乱とも呼ばれるけど、平将門の行動がそれって言うんだ。将門は新皇を称したけど、あれは京都からの独立宣言と見るべきだって。将門は敗死したけど、その独立思想は受け継がれていたぐらい。

 ただなんだけど、坂東の豪族同士は仲が良くないんだよ。そりゃ、所領の奪い合いを繰り返していたようなもので、誰かを立てて坂東独立国を作るところに進みようがないぐらい。

 頼朝の父の義朝やさらにその祖父の義家が坂東の豪族の求心力になれたのは、坂東から見れば貴種の血であり、坂東豪族との確執が少なかったからじゃないかと。石橋山で敗れた頼朝が短期間で再起できたのも坂東独立国の夢のためじゃないかって。

 坂東豪族が頼朝に求めていたのは、坂東独立国の創設。具体的には所領の保証と、もめ事の公平な仲裁。このどちらもが京都朝廷には出来てなかったんだ。頼朝は求められた仕事を忠実にこなしたと伊集院さんは見てる。

 それが出来たからこそ鎌倉幕府が成立して行ったんだけど、頼朝はあくまでも京都との関係にこだわりがあったと伊集院さんは見てる。

    「そもそも天下を取るってなにかな」
 そりゃ、征夷大将軍になって幕府を開くことだと思ったけど、これを最初にやったのが頼朝。あれも考えれば特殊なスタイルで、幕府って形式的には朝廷の下にあるのよね。そういうスタイルになったのは色んな説があるらしいけど、頼朝の京都への感覚がそうだったかもしれないって。

 そこら辺まではともかく、坂東への内向き志向の坂東豪族と頼朝の間には考え方の相違があったのは確かみたい。伊集院さんは富士川の頼朝の行動は、頼朝の意志を通したものじゃないかとしてた。

    「それが失敗に終わったから、以後は出せなくなったのかもしれない」

 シノブの考え通りなら、頼朝にも勝機はあったはずだって。伊豆が動揺してるぐらいだから、駿河にも頼朝シンパが出ていてもおかしくないだろうって。頼朝が出馬してくれば、東駿河は靡いた可能性もあったはず。

    「でもね、頼朝は武将としては勝ち運に恵まれていないところがあるんだよ」

 頼朝の初陣は平治の乱。負けて命こそ助かったものの、伊豆の蛭が小島に流刑。旗揚げの時の山木重隆館の奇襲こそ成功したものの、石橋山ではコテンパンニやられてる。

    「でも、あれは兵力差が余りにも・・・」
    「そうじゃないと見てる。そりゃ、大庭氏の方が多かったとは思うけど、三浦氏の援軍が来ればなんとかなると考えたから戦ったんだろ」

 なるほど! 平家物語や吾妻鏡では圧倒的な大庭軍の前に善戦奮闘虚しく敗れたみたいに書いてあるけど、そうじゃなくて、石橋山で時間を稼げば十分に勝機があると見たから戦ったんだものね。

    「ボクは頼朝の油断が敗因だと見てる」

 石橋山は大庭軍の夜襲でケリがついてるけど、これが頼朝にとって不意打ちになったんじゃないかとしてるんだよね。確かにそうかもしれない。以後もそうで富士川は参加してないし、本格的な源平合戦になってからも、頼朝は鎌倉を動かず、義経が独りで平家を叩き潰したようなもの。

    「あれも頼朝の計算外だと考えてる。もっと源氏は苦戦するはずだし、その時に関東から大軍を率いて雌雄を決する見せ場があると思ってたはずだよ」
 でも壇ノ浦で平家は滅亡。頼朝の唯一の快勝記録は奥州征伐だけど、言ったら悪いが極めて地味。戦略的には奥州藤原氏を圧倒する大軍勢を動員してだけど、そういう勝利より世間は鵯越の逆落としとか、屋島の奇襲の方を高く評価するものね。


 今夜の歴史ムックはこの辺で終りだけど、富士川の合戦ムックも殆ど終りじゃない。終わったら、終わったら、次はどうなるの。まさかこれでオシマイじゃないよね。オシマイじゃなかったら、次はどうなるのよ。

 新しいテーマで歴史ムックをやるとか。やって欲しいし、やりたいけど、伊集院さんとの関係はそれだけなの。この次はないの。伊集院さんにとってシノブは歴史ムックのお相手だけ。

 コトリ先輩の時もこんな感じで終りそうになっていたと聞いたことがある。その時はコトリ先輩が一発逆転の告白をしたんだけど、伊集院さんはしてくれないの。終わらせるものか、ここはなんとか、

    「伊集院さんは、歴史以外に趣味はありますか」

 そしたらちょっと照れくさそうに笑って、

    「他ですか・・・馬を少々やります」
    「馬?」
    「最近やってないですけど、乗馬が好きなんです」

 へぇ、意外な趣味だ。

    「見せてもらってもイイですか」
    「恥しいな。素人の横好き程度ですよ」

 ここは逃がしてなるものか。粘った末に乗馬クラブに一緒に行くことを約束してくれたんだ。やった、これはデートよね。ステップ・アップ、ステップ・アップ。ところが、

    「だったら結崎さんも乗られませんか」
    「えっ、私が馬にですか」
    「ちゃんと入門コースもありますから」
 ここは受けなきゃ、女じゃない。

シノブの恋:頼朝の目論見は?

 次に会ったらどうするかも重要過ぎる問題だけど、富士川の合戦ムックも大事。頼朝がなぜに黄瀬川に出張って来たかの謎はわかんないのよね。吾妻鏡では平家迎撃のための主題で書かれてるけど、これはまず否定して良いよね。

 だってだよ、頼朝が石橋山で敗れて安房に逃げ、そこから巻き返して相模に舞い戻ってから、たったの十日しか経ってないんだよ。その十日間だって大庭氏や波多野氏へのリベンジ戦をやってた訳だし。

 仮に平家軍の来襲の情報を聞いたとしても、わざわざ隣国まで出て行って迎え撃とうとするのは無理がアリアリじゃない。それこそ箱根の険で防ごうとするはずよ。駿河まで出て行く理由として考えられるのは武田軍との連携ぐらいだし、吾妻鏡の十月十八日には、

来二十四日を以て箭合わせの期に定めらる。爰に甲斐・信乃の源氏並びに北條殿二万騎を相率い、兼日の芳約に任せ、この所に参会せらる。

 こうは書いてあるけど、これって玉葉で武田が平家に送った挑戦の使者の話からの創作の気がする。それにしても、どうして二十四日なんだろう。黄瀬川から富士川まで三十キロないじゃない。なんとなく平家物語に合わせてる気がしないでもない。

 ここも良く読めば気になるところがあって、矢合わせに参加するのは『甲斐・信乃の源氏』は武田軍で良いと思うけど、頼朝は北条時政を派遣するだけってなってる。ひょとっして時政は連絡役として武田軍に向かったとか。よくわかんないな。次のところも気になる。

次いで駿河目代と合戦の事、その伴党生虜十八人これを召覧す。

 ここも読み直してみると微妙。吾妻鏡では鉢田合戦を十月十四日にしてるけど、玉葉では、

去月十六日、着駿河国高橋宿、先是彼国目代、及有勢武勇之輩、三千余騎、寄武田城之間、皆悉被伐取了、目代以下八十余人切頸懸路頭云々

 苦手の漢文だけどなんとか読み下すと、

去る月の十六日、駿河国の高橋宿に着く。是より先、彼の国の目代、及び優有勢武勇之輩、三千余騎、武田の城に寄せる間、皆悉く伐ち取られる、目代以下八十余人、頸を切られ、路頭に懸けられる云々

 『去月』だけど玉葉に記載されたのは十一月五日だから十月を指すのよね。内容的に鉢田合戦を指すのは間違いない。吾妻鏡の

    『彼の頸を富士野傍伊提の辺に梟すと』
 ここは情報伝達速度の参考になりそう。鉢田合戦は十月十四日だから、その二日後に平家軍に敗戦の情報が伝わったと見て良さそうだもの。鉢田合戦の武田の勝利は、隠すようなものじゃなく、むしろアピールしたいぐらいのもで、そのために首をずらりと晒したはず。それでも二日なんだ。

 十月十六日は頼朝が鎌倉を出発した日だけど、高橋宿より鎌倉の方が遠いんだ。さらに鉢田合戦で負けたとはいえ駿河はその時点では平家の勢力圏。武田が早馬でも送らない限り頼朝は鉢田合戦の起ったことすら知らないはず。

 つまり頼朝は鉢田合戦の情報を知らずに動いたはず。いや知っていたら動かなかったと見た方がより正しい気がする。鉢田合戦で武田が勝てば駿河に南下してくるぐらいの判断は出来るはずだし。

 そうなると頼朝は他の情報で黄瀬川に動く判断をしたと考えるべきだよ。頼朝が手に出来そうな情報は・・・うん、やっぱり伊東祐親情報のはず。伊豆は頼朝が相模平定を進めた時点で動揺してたで良いはず。

 動揺してたから親平家の祐親が駿河に脱出を余儀なくされ、親頼朝派に捕縛されたんだよ。親頼朝派の目的は祐親を手土産に頼朝の幕下に入ることだから、祐親捕縛とその処分の問い合わせを頼朝にやったんだ。

 この時に頼朝は駿河の最新情報を入手したと考えるべきと思う。鉢田合戦は十月十四日だけど、その前に甲斐に攻め込むための軍勢の招集が行われていたはずで、その情報は伊豆なら知っていて不思議ないと思う。下手すりゃ、動員の声がかかっていたかもしれない。つまり頼朝が手にした情報は、

    『駿河の平家勢は甲斐に向かって進攻する』

 この情報で頼朝が何を考えたかだけど、駿河の平家軍は甲斐に侵入すれば、それなりの期間は甲斐に釘づけになるに違いないって。もうちょっと付け加えると甲斐に攻め込む駿河勢の主力は東駿河の豪族が主体のはずだって。その状況になって起ることは、

    『東駿河がお留守になってる』
 伊豆は伊東祐親が捕縛されてるぐらいだから、親頼朝派が優勢と判断できるから、この機会に東駿河を頼朝の版図に収めようと考えたんだと思う。


 ここで問題になるのは、いくらお留守状態でも頼朝の率いた軍勢が、どう考えても少ないこと。あの移動速度で大軍が動員できるはずないし、いくらお留守状態の東駿河でも連れて行く軍勢は多いほど仕事はラクになるはずなんだ、

 そうなると頼朝の東駿河進出には反対派が多かったと見るべきね。そりゃ、やっと相模を平定したばっかりのこの時期に駿河に手を伸ばすのは無理があるの意見があっても当然だもの、その辺が吾妻鏡の十月二十一日のところに反映されてる気がする。

小松羽林を追い攻めんが為、上洛すべきの由を士卒等に命ぜらる。而るに常胤・義澄・廣常等諫め申して云く、常陸の国佐竹の太郎義政並びに同冠者秀義等、数百の軍兵を相率いながら、未だ武衛に帰伏せず。就中、秀義が父四郎隆義、当時平家に従い在京す。その外驕者猶境内に多し。然れば先ず東夷を平らぐの後、関西に至るべしと。

 うん、反対派のメンバーが確認できる。千葉常胤、三浦義澄、上総介広常だわ。このメンバーは頼朝派の重鎮だし主力だから、反対されると厄介だよね。だからこの連中は黄瀬川に行っていない可能性が高い。

 それでも頼朝は押し切ったに違いない。おそらく頼朝計算では相模からの軍勢と伊豆の軍勢を合せれば東駿河は取れると計算したんじゃないかな。そっか、そっか、だから矢合わせの時に北条時政が御大将だったんだ。あれは伊豆勢をアテにしたものだよ。

 甲斐に攻め込んだ平家軍は後方の東駿河を取られると壊滅するだろうし、そこから武田との決戦になっても、その時には千葉常胤、三浦義澄、上総介広常らも駿河に出て来るはずぐらいじゃないかな。これが齟齬したのは、十月二十二日かもしれない。

飯田の五郎家能、平氏の家人伊藤武者次郎の首を持参す。合戦の次第並びに子息太郎討ち死にの由を申す。

 飯田家能は家義ともされるけど、石橋山の合戦では大庭景親に付いたけど、途中で裏切って頼朝に付き頼朝の命を救ったとなってる。石橋山の後は安房への同行を断られてるけど、甲斐源氏に身を寄せていたんだ思うんだ。

 飯田家能は富士川の合戦の後に武田信義でなく頼朝に手柄の報告に行ったと見て良いと思う。帰参の手土産ってところかな。さらに家能は十月二十日に黄瀬川に来たのではなく、

昨日御神拝の事に依って、故に不参の由と。

 そう十月二十一日に来たとなってる。玉葉情報では十月十九日の夜に平家は撤退してるから、十月二十日の早朝にまだ残っていた平家軍相手に飯田家能は手柄をあげ、その足で黄瀬川を目指したとすれば、十月二十一日ですらなく、十月二十日の夕には富士川の合戦の情報を頼朝は得た可能性があるじゃない。

 ビックラこいた頼朝は十月二十一日の朝に相模に向ってスタコラサッサと考えれば話の辻褄は合うよ。この仮説が成立するには、武田と頼朝との間に一切の連携がないのが前提になるんだけど、当時の頼朝と武田の関係から十月十八日に矢合わせ、鉢田合戦の褒賞云々があり得ない点からとりあえず立証としても良いと思う。

シノブの恋:頼りになる応援団

    「ただいま」
    「おかえり」

 三十階は酒盛りの真っ最中。シノブも飲み足りないから参戦。

    「シノブちゃん、どうや」
    「頼朝は黄瀬川から動いてないとこまで行って、どうしてあの時点で黄瀬川に動いたかで今日はオシマイ」

 これで済ましてくれないよね。

    「その後は?」
    「えっと、帰って来た」
    「なにもせずに?」
    「ええ、真っ直ぐに」

 これを聞いて二人はひっくり返ってた。

    「今晩ぐらいは帰って来ないと思ってた」
    「そやそや、もう五回目やろ。三回目で告白、四回目でチューして、今夜はベッドイン・コースやと思てたのに」

 それは、それで段取り早すぎるだろ。

    「夢前遥でのロスト・バージン・パーティを明日やるつもりだったのに」

 ふんだ、まだ手もつないでませんよ~だ。でも三ノ宮駅までは送ってくれるんだよね。ちゃんとエスコートしてくれるけど、決して体に触れようとしないのよね。

    「まさかと思うけど女に興味がないとか」

 それはないはず。

    「シノブちゃんが好みでないとか」

 それは自信ないけど興味が無けりゃ、五回も会わないだろうし。

    「歳の差があり過ぎて恋愛対象になってないとか」
    「それはあるかもしれへんで、親子ほどじゃないけど、見た目で言うたら一回り以上は差があるって思てるかもしれへん」

 そこは・・・どうだろ。これぐらいの歳の差は男女の仲では十分許容範囲内と思うけど。この調子で酒の肴にばっかりされても敵わないから、ここは反撃を、

    「コトリ先輩もエラそうに言いますけど、山本先生に告白したのは何回目の時ですか!」
    「えっと、えっと・・・十七回目だったかな」
    「それに較べりゃ、まだ五回目です」
    「ほいでも、あの時のコトリは他に付き合ってたのがいたで。一応そっちが正式の彼氏やったし。ほんじゃあ、その男にも彼女おるんか」

 いないって言ってたけど。

    「ライバルが出て来たんじゃない」
    「可能性はあるで。シノブちゃんがモタモタしているうちに、超積極アタックで落ちてたりして」
    「そんなはずは・・・」
    「恋に油断は禁物よ。掌の中に入ってると思ってても、するっと抜け降りることがあるわよ。コトリだって、よく取り逃がしてるし」
    「ユッキーかって、他人のこと言えへんやろ」

 伊集院さんに限ってそんなことは、

    「どうしたって取り逃がす時はあるかもしれんけど、ここは一発初物でガッチリとピン止めしとかんと」

 あのね、シノブのこの身体での初体験を『ピン止め』は言い過ぎじゃない。

    「そうよ。男は初物喜ぶし、感動してくれるわよ。ついでに白い糊で引っ付けたら効果的よ」

 どうして、ここまでアケスケなのよ。ミサキちゃん、頼むから早く復帰して。やっぱりミサキちゃんは三十階の、いや女神の良識の象徴。

    「ユッキー、白い糊も効果的やけど、真紅の印もエエで」
    「そしてすすり泣きね」
    「そやそや、
    『痛かった』
    こう聞くだろうから、
    『だいじょうぶ。うれしかった』
    これが効くんや」

 効くも効かないもないでしょ。そりゃ、記憶の中では二回目になっちゃうけど、まだ二回目だよ。ドキドキのなかで期待してるのに、計算づくでやるのはヤダ。もっとドラマチックに、ロマンチックに・・・ちょっと待った、ちょっと待った、ホントにすすり泣けるのかな。まさか、まさか、

    「シオリさんも凄かったって聞きますし、ミサキちゃんなんてメガトン級らしいですけど、シノブはどうなんですか」
    「そんなもの、すぐに全開になるで。気つけや。初体験から飛んだら、さすがに退かれるかもしれん」
 やっぱりそうか。女神のアレの蓄積経験って、女の極致みたいなものを楽しめる点はメリットが高いんだけど、相手から見ればヤリマンとか、色情狂と勘違いされかねないのよね。シオリさんもそうなりかけたって言ってたし。

 男って本気の女は初心の方がポイント高いし、感じるのだって、その男の胸の中で段々に感じるようになる方が喜ぶもの。だからバージンの価値は高いんだよ。もちろんバージンじゃなければならないわけじゃないけど、シノブはバージンなのよ。

 せっかくのバージンなのに、いきなり全開じゃ価値ないじゃない。注意しないと飛びかねないのもウソじゃない。とくに好きな男、惚れた男、結婚したいとまで思い詰めてる男には感じ過ぎてしまう部分はあるものね。

 結崎忍時代の初体験は女神が宿る前だったけど、ミツルとやったらダイナマイトだったもの。ミツルって、あんなに凄いとあの時は思ってたけど、あれはシノブが感じまくるようになってたんだ。

    「シノブちゃん、女はこういう時は待つのが基本やけど、行くのもありやで」
    「そうよ、いつも待ってるだけの女なんて古いわよ」

 ユッキー社長も良く言うよ。待ち専門のクセして。でも待つだけが能でないのも確か。こちらからなにかアクションを考えても良い時期かもしれない。

    「そうや、イケイケ」
    「女は度胸よ。押し倒せ」
    「一撃ドカン」
 一撃なんて食らわしたら、伊集院さんに当たった死ぬどころか消滅しちゃうし、外れたら壁に大穴が空いちゃうじゃない。床に当たろうものならビルごと崩壊。

 他人事だと思いやがって。これはシノブの恋なんだからね。それにしても伊集院さんはシノブに恋愛感情を持ってくれてるんだろうか。好意を持ってるのは間違いないけど、これが恋愛感情までになっているかと言われれば自信がなくなってきた。

 たまにあるじゃない。恋愛感情だと思ってたら、妹ぐらいに見られていたとか。いや、そんなはずはない。伊集院さんはシノブの約束の男のはず。

    「シノブちゃん、あんまりモタモタしとったら、コトリが手出すよ」
    「許しません。売れ残りの会は引っ込んでいて下さい」
    「じゃあ、わたしが」
    「廃棄処分寸前が手を出してどうするんですか」
 次はなにかあるはず、いや起って欲しい。

シノブの恋:頼朝の目的

 今日はもう五回目の歴史ムック。十日間で相模平定を終えた頼朝が、なぜに黄瀬川に急行したのがポイントだろうは意見が一致した。

    「吾妻鏡は何かを編集しているのは間違いないと思うんだ。まず、単純には富士川の勝利を頼朝の手柄にしたかったのは確実にあると考えてる」

 これは成功してると思う。今だって教科書的には富士川の源氏の御大将は頼朝だし、勝利者も頼朝になってるし。

    「ただし吾妻鏡を崩すのは、それなりに難しい。そりゃ、現場の証人がその辺に転がってるわけじゃないし、玉葉だって限界がある。いや、吾妻鏡が玉葉や平家物語を踏まえてるから難しいとも言える」
    「日本書紀みたいなものですね」
    「政治が絡むと歴史が歪むけど、政治が絡まないと記録が残らないのが歴史の面白さかな」

 スグルさんが注目したのが十月二十一日の記事。この日の頼朝は三島神社に参拝して神領を寄進したとなっています。

    「頼朝の寄進状が社宝として残ってるんだよ」
    「それは凄い」

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 見せてもらったけど崩し字だ。

    「ボクも恥ずかしながら読めないんだけど、御園、川原ヶ里を寄進するって書いてあるそうなんだ。その気で見ると、ほら『三薗川原両所』て読めるだろ」

 でも日付が変。治承四年の八月十九日と言えば、頼朝が蹶起して山木重隆を襲った日の翌々日。寄進するにも所領もないじゃないの。

    「頼朝の残された文章にも偽造説が多くて、さらに十月二十一日の寄進状の記録にも問題が多いの指摘もあるんだよ」
    「山木館襲撃の成功を感謝して、寄進の約束をして十月二十一日に果たしたの見方はどうですか」
    「ボクの調べた範囲では、十月二十一日の寄進状は存在していない可能性が高い」

 そりゃ逆だろう。取っておくのなら十月二十一日の分の気がする。

    「寄進状の真贋鑑定となると手に負えないけど、三島大社に頼朝が参詣した日の自由度が広がると見れるんじゃないかい」

 スグルさんの意図が見えてきた気がする。頼朝の黄瀬川は来る時も百キロを二日だけど、帰る時なんてもっと神業になるのよね。十月二十一日の三島大社参拝だけど、

秉燭の程、御湯殿。三島社に詣でしめ給う。

 火灯し頃に風呂に入り、それから三島大社に参詣したとなってるから、黄瀬川を出発するのは十月二十二日朝になるはずだけど、十月二十三日には相模国府に着いちゃって論功褒賞までやってるんだよ。

    「やはり軸は十月十九日の伊東祐親の詮議ですか」
    「そうなんだよ、頼朝はこれをやるためだけに黄瀬川に急行しトンボ返りしたと見るべきじゃないかと」
 スグルさんの仮説は大胆で、十月十六日に鎌倉を出発したとして、十月十九日に黄瀬川に到着、その日のうちに伊東祐親の詮議を済まし、夜は三島大社に参詣したかもぐらい。十月二十日朝に黄瀬川を出発して、十月二十三日に相模国府に帰ったぐらい。

 これだったら行きは道中三泊で午前中に黄瀬川着とすると一日三十キロ弱ぐらいになるんだよね。帰りは当時相模国府が大磯にあったとすると七十キロぐらいになり、これも道中三泊だから一日二十キロぐらいになり、相模国府に余裕で午前中に到着可能なんだ。これを表にしてみると、


日付 吾妻鏡 スグルさん説
10/16 鎌倉発 100km 鎌倉発 100km
10/17
10/18 黄瀬川着
10/19 伊東祐親詮議 * 黄瀬川着

伊藤祐親詮議
10/20 賀島に 黄瀬川発 70km
10/21 三島大社参詣
10/22 黄瀬川発 70km
10/23 相模国府着 相模国府着
    「帰りはかなりユックリしてますね」
    「相模国内の視察も兼ねてたんじゃないのかなぁ」

 でもこのスケジュールなら、それなりの供回りを連れて黄瀬川に行くのが可能だよね。

    「吾妻鏡でも一日三十五キロぐらいだから、不可能じゃないけど、たとえば千人ぐらい引き連れていたら、これぐらいの日数が欲しいと思うんだよ」

 黄瀬川はまだ頼朝の版図と言えないところだから、不意の襲撃の危険性もあるもの。ん、ん、見えてきた。

    「たとえば行きは吾妻鏡であったとしても、賀島に行ったのはスケジュールをかなり圧迫してますね」
    「そうだろ。たとえば黄瀬川を二泊三日にして、十月二十一日に黄瀬川発なら帰路もそれほど無理がなくなると思うんだよ」

 それが出来なかった理由は玉葉かも。玉葉では十月十九日まで平家軍が富士川にいたのは確実。しかし伊東祐親詮議の十月十九日が動かせなかったとすれば、

    「だから平家物語の十月二十四日説なんて採用しようがなかったとも考えてる。相模国府に帰ってしまってるからね」

 スグルさんも吾妻鏡の往路部分は正しい可能性は残るとして、

    「これは復路は往路より近いですから、その分の黄瀬川滞在日数を引き延ばした操作の跡とか」
    「そう考えてる。この時点で頼朝が相模を留守にして黄瀬川に四泊も留まるのは長過ぎると思うんだ」

 伊東祐親詮議は祐親を鎌倉なり、相模国府に連行せず。黄瀬川まで出向くだけの意義を考えるべきだとスグルさんは主張して、

    「個人的な因縁もあるとは思うけど、伊豆を支配下に置くための政治的なアピールじゃないかと考えてる」

 伊豆の実力者であった伊東祐親が、伊豆の豪族の手に依って捕えられて頼朝の処分を乞う状態であれば、勢力拡張のチャンスだものね。

    「伊豆は小さいから千人も率いて行けばなびくんじゃないかなぁ」

 ここはもうちょっと考えても良さそうな。頼朝の手にしていた情報がどれぐらいなのかよね。たとえば十月十九日の夜に平家軍が撤退していたとして、黄瀬川の頼朝には十月二十日の夕までには届いた可能性はあるよね。問題になるのは勝った武田がどう動くかだけど。

  • 平家軍を追撃する
  • 黄瀬川の頼朝を駆逐する

 どちらも可能性はあると見て良いと思うんだ。黄瀬川に連れてきた兵力で武田と決戦は到底無理だから、十月二十一日に相模に帰ったは十分あり得ると思うのよね。武田とて相模に攻め込むより、駿河平定が優先するはずだし。


日付 シノブ説
10/16 鎌倉発 100km
10/17
10/18 黄瀬川着
10/19 伊東祐親詮議 *
10/20 武田の勝利を知る
10/21 黄瀬川発 70km
10/22 黄瀬川発
10/23 相模国府着

 往路は吾妻鏡。伊東祐親詮議で伊豆支配を進めていた頼朝だけど、富士川の武田勝利を聞いて大慌てで相模に舞い戻ったとの見方なの。

    「それも面白いけど、鎌倉ならともかく、黄瀬川まで来れば平家軍の接近と、富士川で待ち受ける武田軍の情報ぐらい手に入ったんじゃないかな」

 言われてみれば、

    「ボクがトンボ返り説を考えたのは、黄瀬川で平家軍、武田軍の情報を聞いて、必要最小限の祐親詮議だけ済ませて相模に戻ったと考えたからだよ。平家と武田のどっちが勝ったにしても、黄瀬川くんだりなんかにウロウロしていてもメリットはないだろ」
    「すると伊豆を簡単に手中にするつもりで黄瀬川に来てみれば、富士川方面で大変なことが起っているのを知り、祐親詮議だけ見栄張ってやって逃げて帰ったってことになりますね」

 頼朝は十月六日に相模に入り、敵対勢力の排除を十月十六日まで済ましてはいるけど、まだ荒ごなし状態だから、相模をそう簡単に動きたくないはず。ああいうのって、ちょっとでも油断するとお家再興とか、父の仇みたいな連中が湧いてくるのは常識だし。それでも黄瀬川に進出した理由が重大な気がする。

    「ヒントは十月二十三日にある気もしてるんだ」

 その日は相模国府に戻った日だけど、

初めて勲功の賞を行わる

 コトリ先輩に聞いたことがあるけど、源平武者が戦い理由は大きく分けて二つで、

  • 自分の所領を守るため
  • 恩賞のため
 この上に寄子寄親制があるんだって。どんなものかと言えば親分子分の関係。自分より強いところに所領を脅かされたら、親分が他の子分を率いて助けに来てくれるぐらい。当然だけど、他の子分のピンチにも出て行かないと行けないけど、ある種の攻守同盟みたいなものかな。

 寄親の上にさらに大きな寄親がいて、頂点が武家の棟梁って感じ。ただ合戦の規模が大きくなれば、タダ働きってわけにもいかず、手柄に対して恩賞が出されるんだ。これを公平かつ不満をもたさずに出来るかどうかが武家の棟梁の鼎の軽重みたいなもの。

 このシステムは当時の特殊な状況じゃなく、現在でも同じと考えてる。頼朝は見事にそれを成し遂げたんだけど、恩賞配るにしても原資が必要。大庭氏や、波多野氏を叩いたのも、敵対勢力の排除の意味もあるだろうけど、恩賞の原資の確保の意味もあったと思う。とにかくここまでの頼朝は徒手空拳みたいなものだし。

    「十分可能性はあると考えてる。頼朝は大庭氏や波多野氏の所領から恩賞の原資を得てはいたろうけど、当時の頼朝の脆弱な立場からすると、ある程度大盤振舞にせざるを得ないはずなんだ」

 大盤振舞すれば味方は納得するだろうけど、当然だけど頼朝の手元に残るものは少なくなるのよね。

    「理由は一つとは限らないけど、お手軽に伊豆の所領が手に入りそうと考えて飛びついたのもあっても不思議ないと考えてる」

 他には因縁の祐親の詮議もあるし、舅の北条時政の旧領回復の狙いもあったと伊集院さんはしてた。ただ、どれも決定打じゃないんよね。もう少しムックの必要性はありそうだけどこの夜はオシマイ。ムックは楽しかったんだけど、不満がある。

    「ムックしかしていないじゃない」
 伊集院さんと会うのは歴史ムックを楽しむためだけど、伊集院さんと会うのも目的なんだよ。もう五回目だよ。そろそろ何かリアクションしてくれてもイイじゃないの。そりゃ、いきなりホテルは困るけど、食事に誘うとか、昼間のデートに誘うとか。シノブは待ってるんだぞ。

シノブの恋:頼朝の移動ペース

 なんか歴女の血が燃え盛ってる。吾妻鏡には富士川の合戦の頼朝の所在地をかなり詳しく記録してるのよね。シノブもあの辺の土地勘ないから読んでる時はフムフムぐらいだったんだけど、実際に地図にプロットすると相当なもの。

 富士川の合戦に参加したのは平家軍と武田軍と頼朝軍だけど、この三軍の動きもかなりわかってるのよ。東海道を東に進む平家軍、中道往還を南下する武田軍、そして鎌倉から東海道を西に進む頼朝軍。

 頼朝軍が箱根を越えたルートは足柄道なのもわかってるけど、鎌倉から黄瀬川の移動速度がまず相当なものなの。だって十月十六日に鎌倉を出発して十月十八日の夜には黄瀬川に着いちゃってるんだもの。

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 これが地図での概算だけど百キロほどあるのよ。まあ二泊三日だから実質三日間の行程で一日三十キロ強ぐらいにはなるけど、途中には足柄峠だってあるんだよ。そりゃ騎馬だけで駆け抜ければ可能かもしれないけど、二十万騎を引き連れてなんて絶対無理。

 もしこれが事実であれば、頼朝はほんの側近だけを引き連れて鎌倉から黄瀬川に急行したことになる。せいぜい数百人ぐらいで多くて千人ぐらいかな。それ以上になれば主力が到着するのは十月十九日以降になるのが順当。

 これは平家軍と武田軍の動きと較べると良くわかる。頼朝軍も含めて実数はわからないけど、数千人ぐらいはいたはず。だからあれぐらいの進軍速度になってるんじゃなかろうか。

 コトリ先輩は一の谷の後に範頼軍が鎌倉から京都に向かう速度の概算をしたら、おおよそ一日に二十キロぐらいとしてた。頼朝はその一・五倍の速度だから黄瀬川にいた頼朝軍は少なかったはず。ここでの問題はどうして頼朝はそこまで急いだかだと思う。

 通説では平家軍を迎え撃つためとしてるけど、十月十九日に頼朝がやった事と言えば、伊東祐親の詮議。そうなのよ、平家軍を迎え撃つのなら黄瀬川なんかで腰を落ち着けてるのじゃなくて、富士川方面に動くべきだと思うの。十九日に後続の軍勢が到着するのを待っていたと見るのもありだけど、それだったら一緒に来ればイイじゃん。

 ふと思ったのだけど、頼朝はどれだけ平家軍の動きを知っていたかがポイントの気がしてる。これビックリしたんだけど、石橋山の合戦で敗れた頼朝は安房に逃げて再起するんだけど、鎌倉に入ったのは十月六日なの。そこから十日後に黄瀬川に急行してる事になる。

 そんな頼朝の下にどれだけの情報があったかはかなり疑問。武田軍と平家軍の鉢田合戦は十月十四日だけど、これが十月十六日に頼朝の下に届いていたかはもっと疑問。いや絶対に届いていない。当時の武田軍が急使を派遣したとは思えないもの。

 平家軍の情報も怪しい気がしてる。そりゃ、平家軍がいずれ来るぐらいは知っていたとしても、具体的にどの辺にいて、いつぐらいに富士川なりに迫って来るかは知らなかったとしか思えないのよ。そりゃ、吾妻鏡の十月十六日に、

平氏の大将軍小松少将惟盛朝臣、数万騎を率い、去る十三日、駿河の国手越の駅に到着するの由、その告げ有るに依ってなり。

 こうはなってるけど、距離からするとかなりどころでない無理があるもの。知っていて、決戦する気だったら、それこそ本気で二十万騎集めて箱根を越えるだろうし、当たり前だけど、それだけの軍勢を集め、進軍させるからもっと日数が必要になる。つまり、

    『頼朝は駿河の情勢に疎かった』

 こう結論してイイ気がする。そこまで考えてた時に、

    「シノブちゃん、どこまで進んだ?」

 コトリ先輩も気になってるみたい。気になってるのが富士川の合戦か、シノブの相手か微妙だけど、たぶん両方。この場合の『進んだ?』のココロも微妙だけど、

    「頼朝の移動なんですが」
    「早いやろ」

 コトリ先輩は当時の頼朝の意図をポイントにしてた。

    「石橋山の合戦が八月二十三日やから頼朝は一ヶ月半ぐらいで相模に巻き返して来てるんよ。相模に舞い戻った頼朝がまずやることを考えてみいな」
    「打倒平家」
    「そりゃ、全部がそれにつながるようなもんやけど地盤固めやろ」
 石橋山の合戦は伊豆で挙兵した頼朝が相模に進出しようとした戦いと見ても良さそう。伊豆は小さいうえに、親平家の伊東氏の勢力が大きいから、親源氏勢力の大きい相模に根拠地を築こうぐらいの意図かな。

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 もっともはっきり親源氏なのは三浦半島の三浦氏ぐらいで、相模一番の勢力は大庭氏。大庭氏は頼朝の父の義朝の時に大庭御厨事件があり仲が悪いぐらい。大庭氏、三浦氏以外には波多野氏、中村党がいたけど微妙な関係。

 波多野氏は頼朝の兄の朝長の母の家なんだけど、義朝が母の出自の関係で頼朝重視したので反義朝ぐらいのスタンス。中村党は大庭氏と抗争関係にあり、敵の敵は味方で頼朝支持ぐらい。

 問題は相模の真ん中に大庭氏がいて、親頼朝の中村党、三浦氏が東西に分断されている点。頼朝は中村党の支持をアテに石橋山に進出し、三浦氏との挟撃作戦を考えたぐらいだろうとコトリ先輩は見てる。

 結果は大庭氏が機敏に動いて石橋山の頼朝を粉砕。頼朝があっさり負けちゃったので武蔵からの介入軍も大庭氏に同調して三浦氏も敗北。そこから一か月半で巻き返した頼朝がまずやる仕事は、相模の反頼朝勢力の大庭氏、波多野氏の駆除になるのは同意。

 相模に舞い戻った頼朝には上総介広常を始めとする坂東の有力諸豪が付き従っているから、石橋山と逆の展開で大庭氏、波多野氏が覆滅されていったのが十月六日から十日間の出来事だろうとコトリ先輩は見てるし、シノブもこれも同意。

    「波多野氏が敗れたのが十月十七日、大庭氏が駿河に逃げ落ちていったのが十月十八日でエエんちゃうんかな」

 頼朝の相模平定戦は十日間でほぼ完了したと見て良さそう。

    「ここで頼朝が何を考え、何をしようとしていたかが富士川の合戦の謎になると思ってる」

 たしかに謎だ。相模国内の反頼朝勢力を平定したのなら、次にやるのは、

  • 相模の地盤を固める
  • さらなる勢力拡大

 どっちかだけど、もちろん並行させても良い。

    「頼朝に無い物を考えるのも一つの見方やで」
 ここまで話してコトリ先輩は行っちゃいました。それでもとりあえずここまで下調べしたから、次の時にも伊集院さんと歴史ムックは楽しめそう。