ツーリング日和22(第17話)動揺

 初鹿野君の下の名前は美玖だ。これも時々忘れそうになる。男だってそうだが、女なら少しでも親しければ、

『美玖さん』
『美玖先輩』

 こう呼ばれそうじゃないか。だが初鹿野君にそんな気軽に呼べる雰囲気は皆無だ。それどころか名字で呼ぶ者さえおらず部署内ではひたすら、

『主任』

 これでしか呼ばれたのを聞いた事がないぐらいだ。仕事場での初鹿野君のオーラからするとそうなるよな。おそらく初鹿野君と呼ぶのはボクと社長ぐらいじゃないかな。初鹿野主任とさえ呼ぶのはいないぐらいだ。

 そうそう初鹿野君の主任だけどうちの部署の事情だが、所帯が小さいこともあって、部長に次ぐナンバーツーは主任である初鹿野君なんだ。これじゃわかりにくいか。本来ならボクは課長なんだよ。

 これは社長の意向でそうしてるのだけど、星雷社に課はあっても部はない。それで余裕で回せる規模だったからね。規模がかなり大きくはなってるけど、社長はこの体制を基本的に続けている。

 ボクなんだが、成り行きもあって会社の功労者的な立場になってしまってる。だからボクの肩書を部長にしてくれている。これもわかりにくいよな。ボクのことを営業部長と呼ぶのは多いけど、これも本当は正しくない。

 星雷社は社長の次が部長なんだ。ちなみに副社長も、専務も、常務もいない。そうボクの役職は単なる部長なのが正しい。ここでなんだけど営業課には課長はおらず、部長のボクが兼務していることになる。

 初鹿野君の実績からすると主任どころか係長とか、課長になるべきなのだけど、実はそういうポストすら存在しないことになる。主任だってボクが社長に直談判して認めさせたぐらいなんだ。

 社長がそうしているのも実は理由があって、星雷社は社長が学生の頃の仲間と立ち上げたのものなんだ、だけどそういう体制では上下関係がどうしても曖昧になる。肩書の上下より学生時代の仲間意識が強くなってしまう。

 会社の立ち上げに成功した頃に事件は起きたらしい。立ち上げメンバーの構成だけど、男が二人、女が一人だったのだが、社長以外の二人がくっついたんだ。別にそれ自体はあってもおかしくないが、くっついた上で会社乗っ取りを企んだ。

 この計画自体は実行寸前で発覚して防がれたのだけど、その二人を追放して終わりとは行かなかったんだよな。そもそもの会社の役割分担は社長が技術開発、後の二人が営業と事務担当だったらしいが、その二人が社員を引き抜いて行ってしまたらしい。

 その男の人間性はともかく営業手腕は優れていたらしく、子飼いの営業職まで引き連れて抜けられ、困り果てたところにボクが呼ばれたぐらいの関係だ。この教訓から社長は独裁体制を敷き、役職も社長と距離を可能な限り置くことにしたのが今の体制だとか。


 うちの会社の事情はどうでも良い。社長がどんな体制で経営を行おうが社長の勝手だからな。それより今の問題は初鹿野君だ。ここまでになれば、それをどうするかがボクにとっての大問題になる。

 気になっているのは初鹿野君を美玖と呼んでいたのはいるはずだ。そりゃ、そうだろ、恋人同士、さらにそれが深い関係に進めば名前呼びしないわけがない。もっともだが、初鹿野君処女説もあるのはある。

 これは職場ではアンゴルモアの恐怖の大王だから、そんな初鹿野君が色恋に関心があるなんて想像するのも難しいだろ。これは前職の時だってきっとそうだし、学生時代だってそうじゃないかと考えが広がりやすいのは否定しにくいところはある。

 だけどボクは知ってしまったんだ。プライベートの初鹿野君を。そうだ、そうだ、平荘湖で出会った時にすぐに初鹿野君と気づかなかった理由もあるんだ。あの時に最初はメットを被っていたのもそうなんだが、メットを取った初鹿野君を見てもピンと来なかった。

 それはウェアの問題もあったけど、なんとなんと初鹿野君はメガネをしてなかったんだよ。初鹿野君は職場ではメガネをしてる、それもだぞ、よくもまあ、あんなフレームを選んだと言うか、探し出したと思うぐらいの代物だ。

 どんなだって、それは初鹿野君の怖さを余すことなく強調するメガネだからな。あれを外されたらすぐにわかれと言う方に無理がある。だから初鹿野君はずっと近視だと思っていたのだが、

『ダテです』

 はぁ、なんだが、職場ではどうしても女だと軽く見られるからかけてると言ってはいた。理由としてはわからなくもないけど、それにしてもだ。あんなメガネをかけてるから男が余計に寄り付かないんだろうが。

『セクハラ除けです』

 そ、それもあるか。これは良くない事ではあるが、現実問題として存在するし、根本的な解消は難しいところがある。商談ではどうしても上下関係が生じるところがある。ごく単純にはこっちがどうしても買って欲しい立場とかだ。

 この時に向こうが買っても買わなくても良い立場なら、どうしたってこっちが下手に出ざる得なくなる。そこまでは商談の基本に過ぎないのだが、その立場を悪用するのはどうしても存在する。

 食事とかゴルフぐらいの接待の要求ぐらいはまだ良いのだが、それ以上の要求を持ち出して来るのは確実に存在する。これも相手が男性社員ならリベートの要求ぐらいだが、女性社員ならそれに加えてセクハラどころか枕営業も要求してくる。

 これの本当にタチの悪いところは、そういう成功体験を積み重ねてやがるクソ野郎だってことだ。それぐらいの要求は飲んで当然であり、飲まない奴には報復するぐらいはやらかしかねない。とにかく厄介な相手だ。

 もっとも女性社員へのセクハラ要求、枕営業相手だとしても相手を選ぶ。あのメガネで武装したアンゴルモアの恐怖の大王になれば対象外にはなるだろうな。それぐらい同じ部署にいても怖いのが初鹿野君だ。


 だけどボクはメガネをしていないプライベートの初鹿野君を知ってしまった。どうしたって職場での初鹿野君の姿と二重映しになるところは残っているけど、プライベートの初鹿野君は魅力的と言って良いと思う。それじゃ、失礼過ぎる、素敵なレディだ。

 そんな初鹿野君が処女はあり得ないだろう。最後のところは言い出したらキリが無いにしろ、初鹿野君だって恋人がいて、

『美玖』

 こう呼ばれていたはずだ。それだけじゃない、初鹿野君と結ばれてもいるのだぞ。いかん、いかん、初鹿野君のベッドでの姿が頭に浮かんで来てしまう。だからどうしたぐらいの話だけど、なんだろこの気持ち。初鹿野君をそう呼んだやつへの嫉妬なんだろうか。

 そこのところは置いとくとして、わからないのはどうして職場で初鹿野君はアンゴルモアの恐怖の大王であるかだ。妙な言い方になるかもしれないが、社会人になって恋人を見つけるとしたら職場は出会いの場として重要のはずだ。

 職場が恋人を見つけるすべての場ではないが、職場だって欠かせないところになるはず。社会人だって合コンはあるが、それだって職場つながりからのものになってしまうのが多いはずだし、取引先だって同上だ。初鹿野君はそこを切り捨てているのだろうか。

 もちろん結婚が男女の関係のすべてではないが、恋人の一人ぐらい欲しくないのだろうが。そのために媚びを売れと言う気はないにしろ、アンゴルモアの恐怖の大王はやり過ぎだ。やり過ぎと言うより、プライベートの初鹿野君が魅力的すぎる。


 そうなると問題はシンプルではある。わざわざボクにプライベートを見せた意図は一つだ。ボクがそれを受け入れられるかだ。初鹿野君は三十歳を過ぎていて、平均年齢が若すぎるうちの会社ではオバサンとかお局様扱いにするのはいるが、年齢なんて相対問題に過ぎない。ボクと初鹿野君なら釣り合いとしてなんの問題もない。

 女としての初鹿野君だが、性格も容貌もクセはある人だけど、ボクは嫌いじゃない。とくにプライベートを知ってしまうとなおさらだ。なんだんかだとツーリングを重ねてしまったのも、もっと初鹿野君を知りたいのがあったのは否定しない。

 ならば関係を進めるのは自然と言えば自然ではある。だがお泊りツーリングはまだ早すぎる。それをやれば必然として男と女の関係になってしまう。というか、そこに進まないと逆に失礼だ。お泊りツーリングを持ち出したのは初鹿野君だからな。

 この辺は男と女の関係になるの意味が人によって重みが違うのはあるとは思う。早いのになると逢ったその夜にドッキングもあるそうだし、男と女の関係になることも親密さが増した程度しか思わないのもいるそうだ。

 だがボクはそうじゃない。男と女の関係になるのは、重大過ぎるステップだと考えてる。オクテとか、お堅いと言われようがボクはそうなんだ。もっと言えば、そういう関係になるからにはすべてを背負って当然だとも思ってる。これも堅すぎる考え方で、

『一穴主義』

 こう言ってバカにする奴さえいた。けどな、一穴主義を恥じる気さえない。だいたいだぞ、一穴主義の対偶に多穴主義があるのかって言うのかよ。そういう男はいるけど、単なるチャラ男の浮気男のヤリチン野郎だろうが。

 だからじゃないが、知ってる女は学生の時の彼女とヴァージンロードで逃げやがった由衣の二人だけだ。もっと知りたくても縁が無かったのは神棚に上げさせてもらうけどな。誰に何と言われようがボクはそんな男だ。

 ボクが初鹿野君に魅かれ始めてるのはもう否定のしようがない。美玖と呼びたいし、男の女の関係にもなりたくないと言えばウソになる。出張の夜に見えてしまった初鹿野君の素晴らしい体は今でも脳裏に焼き付いてるからな。


 これもまた結局同じところに話が戻ってくる。ヴァージンロードちょっと待った事件の後遺症はまだ残ってるんだよ。一穴主義と威張ったところで、生涯の一穴と決めた女に二度も裏切られているし、二度目の由衣の時には廃人同様にまで追い込まれてしまった。

 だから三回目に踏み出すのが怖い。二度ある事は三度あるって昔から言うじゃないか。初鹿野君が裏切らない保証なんてどこにもないって事だ。そうなんだよな。初鹿野君は明瞭にOKサインを出してくれてはいるけど、それがどこまでOKなのかの判断が出来ないんだよ。

 それぐらい初鹿野君の事を知らないってことだ。あくまでもたとえばだが、これでもボクは会社のナンバーツーの部長だ。社長の信頼も篤い。ボクに取り入る目的の可能性だってある。初鹿野君が枕をする人物とは到底思えないからあくまでも可能性だ。

 そっちの可能性はさすがに低いとは見ているが、初鹿野君に取って男と女の関係になるのにさして意味は深くない可能性はある。職場での態度こそアンゴルモアの恐怖の大王だが、プライベートではまったく違う可能性だ。

 そういう可能性も含めて、もっと初鹿野君を知る時間が欲しいんだよ。こっちは男と女の関係を結べば一穴主義だからな。そのつもりで関係を結んで裏切られたら起こるのは、二度ある事は三度あるになってしまう。三度目はさすがにゴメンだ。そうなったら立ち直れる自信がさすがにない。

 そうなるとお泊りツーリングを断るのがベターなのは百も承知なんだが、これもあくまでも「もし」だぞ、初鹿野君が本気も本気であった時の可能性が残ってしまう。初鹿野君にしてもあそこまで口にしたのなら告白も同然じゃないか。

 どれだけの覚悟をしていたか想像するのも怖いぐらいだ。それもあの場で無理やりではあったが了承もさせられている。それを今さらひっくり返したら、二人の関係は終わりかねない。それはしたくないの思いがあるんだよ。

 そうなると答えは一つか。初鹿野君の提案のお泊りマスツーには行く。だけど男と女の関係になるのは、ヴァージンロ―ドちょっと待った事件を話して待ってもらおう。あの時の話をするのは辛いけど、ここまで来たらしかたがない。

 もちろんそれを聞いて初鹿野君が愛想を尽かせばそれもヨシだ。どっちみち、男と女の関係になるのなら知ってもらう必要はあるから、関係を結ぶ前に話すのが正解だろ。それでツーリング仲間を失う結果になってもそれも運命だ・・・と言い切れるのだろうか。