ツーリング日和23(第9話)備前往来

 朝食を頂いてまずは板井原集落に向かう。智頭の北側ぐらいにある伝統的建築物保存地区で美玖のリクエストだ。と言いながら、智頭まで来てるからボクも見てみたい。国道五十三号を鳥取方面に走り、智頭の町はずれぐらいで、

「あそこのファミマの角に入ります」

 すぐに登り坂になったけど、これも細い道だな。センターラインの無い一・五車線ぐらいだ。このクラスの峠道でもモンキーにはなかなか辛いところがある。それでもモンキーだから対向車が来てもなんとかなるのは助かるかな。

「古峠と言うそうです」

 それしてもの山道だ。ワインディングもあって見通し悪いし、進むほどに狭くなっている気もする。キツイ峠道だけどスピードが出ないからなんとか走れるぐらいだけど、トンネルがあると言うことは峠を越えたかな。

「板井原隧道です。このトンネルが出来るまで板井原にはクルマでは行けなかったそうです」

 トンネルを出たら下るのかと思ってたらフラットだな。程なく三叉路に出て右だな。ここはまた一段と狭いな。

「六尺道だったそうです」

 六尺って一間じゃないか。クルマが入れないところだったから残ったらしいけど、これは秘境だな。おっ、駐車場があるな。駐車場には公民館となってるけど、小学校の分校だったみたいだな。少し歩こう。川を渡って、

「ここは昭和三十年代に建てられたものが多いのですが、ここまで残っているのは珍しく保存地区に指定されています」

 蔵もあってなかなか立派な家が並んでるじゃないか。にしてもここまでになるとクルマは絶対入れないな。

「そうなる前に廃村状態になったので江戸時代のままの地割りが残されています」

 なんでも現在の人口は三人だとか。それでも良く住んでると思うよ。智頭から来たけどスーパーどころかお店屋さん、いや人家さえ見当たらなかったもの。江戸時代の集落ってこんな感じだったんだろうな。

「いつまで残るのでしょうか」

 難しい質問だ。家って人が住んでこそ保たれるんだよな。保存地区だから行政からカネは出るだろうけど、この手の古い建物の維持費用は半端ないはず。

「残って欲しいものです」

 それは同意だ。今日の観光はここまで。後はひたすら神戸に向かって走るのみ。途中で、

「智頭宿は因幡街道より備後往来で栄えたのではないでしょうか」

 可能性はあると思う。鳥取藩も備前の岡山藩も池田家なんだ。二つの家の連携を考えてもなんの不思議もない。そのためには連絡路が必要なのだけど、地形的に美作経由しかないと思う。

「明治からもその流れを引き継いでいる気がします」

 明治からの交通革命は鉄路だ。山陰本線は東西のルートだけど、南北のルートも作られている。ここも大雑把に言うと鳥取市から津山に因美線、津山から岡山に津山線が戦前に開通している。

「姫路との連絡は津山かの姫新線になります」

 そうなってた。他にも但馬に山陰本線で回れば播但線で姫路に接続するけど、

「智頭急行はとにかく遅いかと」

 そうなるんだよ。それでも明治からは鳥取市と津山を繋ぐのに熱中していたとしか思えない。そりゃ、志戸坂峠を越えるのは大変なのはわかるとしても、因幡から播磨に直接繋ごうとしなかったぐらいは言っても良い気がする。

「海路でしょうか」

 やっぱりそっちかな。江戸期の物流は大坂がハブみたいなところがあったんだよな。

「年貢米の換金をする堂島の米市場が有名です」

 それもあって西廻り航路が盛んになっていく。北前船の世界だ。北前船と言えば松前まで行くのが有名だけど、秋田ぐらいまでの往復航路も盛んだったらしい。そうなったのは陸路輸送のプアさが大きいのだよな。

 鳥取藩も例外じゃなく大坂への米輸送は北前船にシフトするのだけど、船は行きと帰りがあって、どちらも荷物を積み込む。ごく単純には鳥取から米を運べば、大坂なりで買い込んだ荷物を持って帰る。

 陸路に比べると海路の輸送量は桁が違う。そこの地に需要があれば、各地から産品を買い集めて運び込んでしまう。海路の優位性は敦賀から京都への琵琶湖の水運さえ衰えさせたと言われてるぐらいだ。

 これだけで結論付けるのは乱暴すぎるけど、因幡人の感覚として大坂へは海で繋がっているから陸路での接続に熱心じゃなかったのかもしれない。それこそ人が行き来できれば必要にして十分ぐらいだ。

「因幡街道もローカルな経済ネットーワークぐらいだったとか」

 志戸坂峠を挟む駒帰宿と坂根宿には往時で八頭の馬が備えられていたとなってるけど、考えようによっては全部で十六頭ぐらいで済むぐらい輸送量しか必要としなかったのかもしれない。とにかく陸路で荷物を運ぶのは効率が悪いんだよな。

「姫路でも因幡街道より西廻り航路が優位だったとか」

 かもしれない。だから陸路でしか行けない備前往来の方が盛んだった可能性はある。これも強引だけど津山には陸路でしか行けないから戦前に鉄路が開かれたのかもしれない。鉄路だって東西には山陰本線があるから、

「京都で東海道線に接続しますから東京でも大阪にも行けます」

 因幡から播磨に出るには地形的に三つのルートがあり、一つは戸倉峠、次が志戸坂峠、もう一つが津山経由だ。津山経由は遠回りに見えるけど、先に津山への鉄路が開かれてしまったから、因幡人にとってはそれで必要にして十分ぐらいになってしまったのかもしれない。

「鳥取の人には申し訳ないと思うのですが、播磨の人も因幡にマーケットとしての価値をあまり認めなかったのもあるかもしれません」

 身も蓋も無いけどそれはありそう。姫路から見たらまずは大坂だし、次が岡山じゃないのかな。岡山ですら関心はどう見ても低そうだもの。ましてや因幡となると、

「鳥取砂丘と二十世紀梨ぐらいしか興味がありません」

 他人の事は言えないけど、後はせいぜい因幡の白兎だ。仮にだぞ智頭急行線が戦前に開通していても、

「下手すると板井原集落状態になったかもです」

 板井原隧道が出来たのは昭和四十年だそうだけど、智頭との交通の便が良くなり栄えたかと言うと逆だ。板井原集落の家が出来たのはトンネルが出来る前のものなんだよな。トンネルが出来たばっかりに集落の人口が消え失せたと言えなくもない。

「トンネルが出来なくてもそうだったかもしれません」

 だけどさ、トンネルを掘ったのは板井原集落を滅ぼすためじゃなかったはず。あの地域の振興を促すためのはずだ。

「なにが卵かニワトリだの世界です」

 だよな。まだまだ先は長いから事故しないように気合を入れよう。

「はい」