ツーリング日和23(第7話)二つの峠

「お風呂を頂いて来ます」

 これまた懐かしすぎるお風呂に入ってから夕食。そこから今日の因幡街道のまとめと言うか、感想みたいな話になった。まずだけど佐用経由の因幡街道も、山崎経由の因幡街道もおおよそで言うと走りやすかった。

「難所さえ越えれば後はそれほどで良いと思います」

 山崎経由なら戸倉峠であり、佐用経由なら志戸坂峠だ。標高なら志戸坂峠が低いけど、険しさなら互角だったかもしれない。

「クルマでは越せない点でそうです。ですが、二つの峠の差が鳥取道になったで良い気もします」

 どちらの峠もクルマを通すためにトンネルを掘っているけど、

「新戸倉トンネルと志戸坂峠トンネルの差になります」

 そうなってしまう。無理やり感は嫌と言うほど感じたのはさておき、志戸坂峠トンネルは高速道路の一部として使えたけど新戸倉トンネルでは絶対無理だ。戸倉峠に高速道路として使えるトンネルを掘ろうと思えば、どうだろ、新神戸トンネルクラスが余裕で必要になるはずだ。

「鳥取県と言っても姫路市ぐらいです」

 戸倉峠に高速用のトンネルを掘るのは技術的に可能だろうけど、それだけの予算をかけての経済効果は当然試算されるはず。鳥取県と言うか山陰との交通路を整備しても、申し訳ないけど、さほどのものが期待出来ないぐらいはわかる。

「だから志戸坂峠トンネルは今でも一般道です」

 鳥取県の人には悪いけど、それぐらいの必要性しか認められなかったしか言いようが無い。

「あれはどう感じました? この辺は神戸に住んでいて、兵庫県の人間のバイアスが大き過ぎるところがありますけど」

 あの辺の鳥取県、岡山県、兵庫県の県境は旧令制国の国境と同じはずなんだ。因幡街道は平福宿まで播磨で、次の大原宿から坂根宿までが美作になり、志戸坂峠を越えると因幡になる。

 でもさぁ、平福宿と大原宿の間に釜坂峠があるにしても、交通圏とか、経済圏からしたら播磨の気がするんだよな。佐用経由の因幡街道だって平安時代からあったし、国司の交代ルートでもあったみたいだから、官道に準じる扱いぐらいはされてたはずだよ。

「大原から津山に通じる国道なんて四二九号です。調べても古来からの街道とは思いにくいところがあります」

 そうなんだよな。美作の人には申し訳ないけど志戸坂峠まで播磨でも良い気がするぐらい。どうしてこうなったかだけど、

「美作の鉄からですが・・・」

 美作が古代の製鉄の先進地であったのはわかったけど、鉄の産地は東に東に移動しているで良さそうなんだ。これは砂鉄資源の枯渇もあっただろうが、

「後山の話をどう取りますか?」

 美作の製鉄が讃容郡に広がっていたのは播磨風土記からでもわかるのだけど、製鉄のためにはとにかく大量の木炭が必要になる。後山のあたりでは青山、赤山の話が残っていて、赤山とは木炭生産のために木が切り倒されてしまった山を指すようなんだ。

 古代製鉄は砂鉄資源も重要だったろうけど、それと同じぐらい木炭供給も重要だったと見て良い気がする。播磨の製鉄は千種鉄の名を遺しているけど、

「佐用川流域から千種川流域に移り、さらに揖保川流域に移ったと見るべきです」

 これはそこで砂鉄が採れるのが最大の理由だけど、同時に木炭資源の枯渇も連動してのものと見れなくもない。

「播磨の鉄のルーツは美作で、それが美作道からもたらされたとするのは妥当です。ですが、これを吉備から播磨への進出ルートと見れないでしょうか」

 美作道の成立はとにかく古いはず。吉備王権は美作も領域にしていたのは確実だけど吉備から東に進むとしたら、今でさえ岡山県と兵庫県の連絡路はプアだ。歴史的にも隣国だけど備前と播磨が争ったのは殆どないはずなんだ。

「瀬戸内海の海路はありますが、陸路なら最初に出来たのは美作道だと考えます」

 美作の吉備人は早くから美作道から佐用に進出し、佐用から千種川流域に入植していた気がするんだ。北は志戸波峠まで、南は坂越までぐらいかな。

「吉備王権の版図だったはずです。これに対し出雲王権の播磨進出は遅かったと見ます。だから戸倉峠を越えて揖保川流域に進出したと考えます」

 この仮説の展開なら揖保川を南下して姫路平野を制した出雲王権が播磨の原型になるかな。吉備王権にしろ、出雲王権にしろ、それこそ神代の時代に大和王権に服従するのだけど、吉備王権の解体の時に平福以南の吉備王権の版図が播磨になってしまった可能性はある。

「因幡人の深層意識にそういうものが残っていたのかもしれません。戸倉峠の向こうは親戚が住んでいるところで、志戸坂峠の向こうは異国人の住んでいるところぐらいです」

 そんなものが本当にあるのかどうかなんてわかるはずもないけど、統一国家が出来た後の佐用経由の因幡街道の扱われ方が説明できる気がするのは美玖に同意だ。律令期だって官道である美作道を使い佐用から北上して志戸坂峠を越えて因幡に向かっている。

 江戸期の鳥取藩は参勤交代のために街道を整備しているし、江戸期を通じて往来も盛んだったはず。どれぐらい栄えていたかは平福宿や大原宿で見てきた。それなのにだ。

「明治以降は冷遇されていたと見て良いと思います。因幡人にとって戸倉峠は越えて行くべき峠であり、志戸坂峠は越えさせてはならない峠だったのではないでしょうか」

 なんかそんな気がした。言うまでもないけど、すべて仮説と言うより感想だよ。わからない現象には仮説を立てるけど、仮説の裏付けを取るのが専門家であり、仮説を立てるのを楽しむのが歴史好きだ。

「それでもなんかスッキリした気がします。だから鳥取藩だって若桜往来をあれだけ重視したのじゃないでしょうか」

 かもな。鳥取から南下すれば智頭往来と若桜往来に分かれるぐらいで良いと思う。智頭往来はそのまま参勤交代ルートになるけど、若桜往来は若桜に行くためだけのものじゃないはず。若桜から戸倉峠へのルートを重視した表れのはず。

「最後に気になるのは戸倉峠から山崎までどうしていたかです」

 なんだよな。山崎藩の北側は天領ぐらいに漠然と思っていたけど、まず山崎藩が宍粟郡の南半分ぐらいを占めている。じゃあ、宍粟郡の北半分だけど、

「三日月藩、尼崎藩、旗本領がパッチワークのように散りばめられています」

 だけど山崎藩以外は飛び地だから、

「そんな気がします」

 大名家は他国の旅人を嫌うのだよ。宿場町の名前はダテじゃなく、この辺は藩によって変わる部分はあるにしろ、旅籠とか木賃宿のような宿泊施設は宿場町しか設置を認められなかったで良いはずなんだ。宿屋以外は旅人を止めるのさえ禁止しているところはいくらでもあったんだ。ただ人は動くだろ。動けば宿屋が必要になる。

「渡世人とか」

 あれも活動していたのは天領だ。大名領では宿泊規制が厳しすぎて活動できなかったとされている。一宿を借りたくても無理だったぐらいで良いと思う。天領がそうできたのは取り締まる役人が少なかったからのはずだし、大名領の飛び地や旗本領もそうだったんじゃないかな。