因幡の海運考

山陰諸国のうち因幡のみ海路の記載があります。

因幡國,【卅六束。但海路米一石運京賃,稻十四束五把三分。】

これについての研究論文が鳥取大学教育学部研究報告 人文。社会科学 第326 錦織勤

として発表されています。錦織氏の論文で確認できるのは、律令期の因幡の海運に関する情報が延喜式の短い一文以外に実質的に存在しないそうです。延喜式にある因幡から京までの海路がどこを通っていたか、それどころか陸路でさえ判然としないとしています。判らないと言うのは素人に取って「嬉しい」になります。想像の翼が広げられるからです。錦織氏は因幡−京のルートについて従来の研究も踏まえて幾つかの候補を出されています。
  1. 因幡敦賀 → 塩津 → 大津 → 京
  2. 因幡 → 小浜 → 勝野津 → 大津 → 京
  3. 因幡 → 豊岡 → 京
  4. 因幡高砂 → 与等津 → 京
でもって様々な資料を比較検討の末に4.のルートの可能性が比較として可能性が高いとしてしています。功賃比較も含めてかなり詳細な論文です。私も二番煎じをやってみます。各ルートのうち功賃推定が延喜式で可能なのは
  1. 敦賀 → 塩津 → 大津 → 京
  2. 勝野津 → 大津 → 京
  3. 豊岡 → 京(但馬−京の陸路に同じ)
  4. 高砂 → 与等津 → 京(播磨−京の海路に同じ)
因幡から次の地点までの功賃は判別分からの引き算になります。判らないのは小浜−勝野津になりますが、これは敦賀−塩津と同じと見なします。根拠はありませんが、他に材料がないので近似値的にそうします。こうやっておいて各ルートの比較検討をやろうと思ったのですが、播磨ルートで計算したらビックリして思考停止してしまいした。以下に結果を示します。


播磨ルート試算

延喜式より

播磨國海路。【自國漕與等津船賃,石別稻一束,挾杪十八束,水手十二束。自與等津運京車賃,石別米五升,但挾杪一人,水手二人漕米五十石。美作、備前亦同。】

播磨−京のルートは、

    播磨 → 与等津 → 京
こうです。播磨−与等津の功賃ですが、
    50(米:石)×1束 + 18束(挾杪)+ 12束×2(水手)= 92束
1駄(15斗)に換算すると2.76束になります。与等津−京の車賃は1石につき5升(0.5斗)ですから
    50(石)× 0.5斗 = 25斗
これも1駄に換算すると1.5束になります。合計で1駄換算で4.26束になります。50石にすれば142束になります。表にまとめます。
単位 播磨−与等津 与等津−京 播磨−与等津
50石 46斗 92束 25斗 50束 71斗 142束
1石 0.92斗 1.84束 0.5斗 1束 1.42斗 2.84束
1駄(15斗) 1.38斗 2.76束 0.75斗 1.5束 2.13斗 4.26束
さてなんですが播磨だけでなく瀬戸内沿岸諸国は自分の国の港(国津)から出航し、乗り換え無しで与等津まで到着します。そういう瀬戸内沿岸諸国の船に積載するのは、
  1. 税としての米50石(諸国により規定が異なります)
  2. 与等津−京の車賃代の舂米
  3. 食糧
  4. その他の荷物
車賃代は与等津−京は段階ではほぼ税の米だけなので50石運んでいれば播磨の場合25斗(2.5石)になります。海路なので税の50石に加えて与等津−京の車賃である2.5石を載せても運送は可能であるだけでなく、功賃も税の50石分だけであるのが延喜式の穎稲払い方式と解釈しています。これが因幡からとなると話が違ってきます。因幡からの荷物は播磨からの海路を利用するに当たり穎稲払いは無理と見ます。穎稲払いとは単に支払いが穎稲であると言うのではなく、運送の功賃を国府の倉から穎稲で一括払いする意味になります。律令時代では輸送がネックになり、播磨が建て替え払いを仮にしても、今度は建て替えた分の米の輸送問題が発生すると言う事です。

つまり因幡からの荷物を播磨から海路を利用するには、その運賃を因幡から運んできて払う必要があります。延喜式では詳細が不明なので播磨−与等津が播磨国と同じ条件としますが、播磨−京で50石運ぶのに142束(7.1石)の現地払いのための舂米が必要になります。要するに因幡から50石の米を税として運ぼうとすれば、因幡から57.1石の米を運ぶ必要が出て来ます。このための駄馬の頭数は38.07頭ですが食糧やその他の荷物も考慮して39頭に繰上げします。

でもって因幡高砂の駄賃はどれほどになるかです。ちなみに因幡−京の陸路は延喜式で12日、播磨−京は5日です。チト強引ですが因幡高砂を7日・・・いや甘く見て5日とします。延喜式の功賃は1駄3束/日ですから39駄で117束/日、これが5日ですから585束になります。功賃の総額は50石で、

    585束(因幡−播磨)+ 142束(播磨−京)= 727束
1石あたりに換算すると14.54束。もう一度因幡の功賃を出しますが、

因幡國,【卅六束。但海路米一石運京賃,稻十四束五把三分。】

驚いた、驚いた、試算との誤差が1分、0.01束です。偶然の一致にしては近すぎる気がします。個人的には播磨ルート以外を検証する気がなくなってしまいました。


律令期の山陰の海運

日本海側の海運は敦賀以東の諸国では越前、加賀、能登越中、越後と行われています。しかし敦賀以西は因幡がポツンと記載されているだけです。これだけで因幡以西の山陰諸国に海運がなかったと断じてしまうのは無理があります。ここで因幡が播磨ルートを取ったとして、伯耆、出雲、石見ならどうかの試算をしてみます。

国名 行程(日) 費用(束)
延喜式陸路 to 因幡 39駄隊費用 to 播磨 運賃総額 1石換算 1駄換算 陸路功賃
因幡 12 0 117 585 727 14.54 21.81 36
伯耆 13 1 117 702 844 16.88 25.32 32
出雲 15 2 117 819 961 19.22 28.83 39
石見 29 17 117 2574 2716 54.32 81.48 90
こうやって山陰諸国を並べるだけで余計なとこに目が行きます。上り日数を見る限り伯耆、出雲は因幡経由で京に進んでいるで良さそうです。しかし石見はどう見ても違います。日数的に近いのは石見の西隣の長門で21日です。山陰諸国のうち石見だけは瀬戸内に出て山陽道で京に進んでいたらしいと推測できます。石見−出雲間には街道が整備されなかったのかなぁ? 石見は置いといて伯耆も、出雲も陸路に較べると功賃節約には机上計算ではメリットがあると素直に思います。そうなると何故に因幡にのみ海路の記載があり、伯耆、出雲にないかになります。その理由を示す資料が存在していないのは錦織氏だけでなく多くの研究者が認めていますから、勝手に想像の翼を広げる事が出来ます。基本は年料舂米国(&年料租舂米国)であるか否かはあると思います。ではでは3国の中で年料舂米国である因幡がこの費用で舂米を運んでいたかというと否定的です。因幡の海路は1石あたり14.53束、米で7.265斗になり経費が高すぎます。 延喜式で海路の規定がある国の多くは年料舂米国です。例外もありますが、多くはそうです。輸送する時に米と雑物では重量当たりの単価がまったく違います。例を挙げると庸布1段(約2kg)と米1石(約60kg)が同じになります。中央ではリスクの高い海路より陸路に力を入れていたのは多くの研究者が指摘するところですが、大量輸送になる年料舂米輸送では許可していたんじゃないかと推測します。海路輸送を認められた国は雑物輸送でもこれを認めるようにさせたんじゃなかろうかです。この辺は実態先行の追認であったので、年料舂米国でない遠江、加賀、能登、越後、佐渡なんかも認められたぐらいの想像です。一方でこの時に実績のなかった伯耆や出雲は認められなかったぐらいです。 ちなみにもし因幡が年料舂米を播磨ルートで輸送していた時の経費ですが、陸路は路糧だけだったと見ますから播磨−京の石あたり2.84束でなかったかと推測します。もちろんこれは延喜式の規定だけのお話ですから、実態的には伯耆や出雲も因幡同様のルートを使っていた可能性は十分あります。また試算はしていませんが、敦賀や小浜ルートの開発も行われたかもしれません。運賃も舂米だけでなく布で払うようになっていた可能性もあるとは思っています。とにかく米を運ぶのは費用がかかりますからねぇ。