斉明天皇を湯之谷温泉に入れる

 石鎚山の麓に湯之谷温泉と言うのがあり、ここにかつて斉明天皇が入浴した伝説が残されています。ホンマかいなってところですが、それのちょっとしたムックです。

 愛媛と言えば道後温泉ですが、ここには天皇クラスの入浴記録が伊予国風土記逸文に、

  • 景行天皇とその皇后
  • 仲哀天皇と神功皇后
  • 聖徳太子
  • 舒明天皇と皇后
  • 斉明天皇と皇子
 このうち日本書紀にもあるのが、舒明天皇と斉明天皇です。書紀を信じれば斉明は2回行ったことになります。ただ舒明が行ったのは、

十二月己巳朔壬午、幸于伊豫温湯宮

 これはユリウス暦の1月に伊予の温温宮に行ったとなっており、

夏四月丁卯朔壬午、天皇至自伊豫

 これはユリウス暦の五月に帰って来たとなっています。五月に帰って来るのはともかく、ホンマに1月に大和から伊予に旅行した、それも斉明と一緒にと思わないでもありませんが、書紀にはそうなっています。温泉ツアーで虚偽の記録を書いても仕方ありませんから信じることにします。

 斉明が二度目の伊予に行ったのは温泉ツアーのためではありません。百済が新羅に滅ぼされたために、百済復興のための遠征軍を送るためです。斉明は九州の朝倉宮に大本営を移すために瀬戸内海を西に進むことになります。この百済遠征の結果が白村江になります。

 西に進む斉明ですが、

御船西征始就于海路。甲辰、御船到于大伯海

 まず海路で大伯海に到着したとなっています。これは現在の岡山県邑久郡と言いたいところですが、平成の大合併で消滅しています。現在なら牛窓のあたりぐらいで良さそうです。言うまでもないですが、難波津から牛窓まで一気に来れるとは思えません。ここではイベントがあり、

大田姫皇女産女焉、仍名是女曰大伯皇女

 大田皇女がここで大伯皇女を産んだから記録に残されたで良さそうです。しっかし、出産を控えた皇女も連れて行ってるんですね。次が、

御船泊于伊豫熟田津石湯行宮

 伊予の熟田津に船を停泊させ石湯行宮に行ったとなっています。熟田津比定もいくつか説があるようですが、石湯行宮は道後温泉とするのが定説です。斉明も温泉ツアーに来たのではなく、戦争に来ているのですから、伊予からの軍事支援の要請のためとする説もありました。伊予の石湯行宮から斉明は、

御船還至于娜大津

 娜大津は博多なのですが、問題の部分は、

    還至
 これは「還し至る」ぐらいに読み下すのでしょうが、通説では元の航路に戻したと解釈するようです。そうなれば、斉明の伊予訪問は予定外の行動であったとも解釈は可能です。

 ここなんですが大伯海から熟田津に直航したと思いにくいところがあります。斉明が大伯海から西に進むにしろ、山陽沿岸を選ぶはずです。そうなると、どこかでしまなみ海道を通り抜ける必要があります。どこを斉明が通ったかですが、大山祇神社に斉明が献上した禽獣蒲萄鏡が国宝として残されています。

 これは素直に大三島に停泊し必勝祈願を行ったと考えたいところです。そこから道後温泉に寄り道したから「還至」と解釈出来ない事もありませんが、斉明が軍事支援の要請のためにわざわざ伊予に立ち寄るかです。

 伊予は天皇が温泉ツアーを行うほど大和王権に親しい国です。だから、それ以外の目的で伊予に立ち寄った可能性もあるのじゃないかと考えます。当時の軍事行動で重視されるのは兵士の動員や武器兵糧の調達はもちろんですが、神の加護がそれと等しいぐらい重要とされたはずです。

 大山祇神社は越智氏が創建したとされ、越智氏は今治の小市国造の同族です。さらに斉明は舒明と伊予の温泉ツアーをやっています。ですから石鎚山に必勝祈願のために立ち寄った可能性もゼロとは言えないと考えます。

 さて斉明が入浴した石湯ですが、石から割れ出るように温泉がわき出していたとも、岩風呂みたいになっていたとも解釈できますが、湯之谷温泉は冷泉なのです。冷泉であっても泉は神聖視されていましたから、その泉に斉明は入浴したのではないかと考えます。

 冷泉を温めるのに、手っ取り早い方法は焼いた石を放り込む事です。だから石湯だったと。細かい事を言えば舒明が入浴したのは温湯宮であり、斉明が入浴したのは石湯行宮です。この違いは、

    宮・・・・・常設
    行宮・・・仮設
 これぐらいの差があります。斉明は石鎚山に必勝祈願をするにあたり霊泉で身を清めたが、水が冷たかったら石焼風呂にして入浴したぐらいです。

 無理がテンコモリですが、斉明を湯之谷温泉に放り込めたので個人的に満足しています。