昨日のムックは書紀の舒明紀以降の王族の呼称原則はどうやら、
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死亡時の呼称を原則とするらしい
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漢皇子 = 天武
ここの多米が田目に当たるとされています。上宮記では一女なんですが、これ以外に男がおりそれが高向王であるとの説です。他には前にムックした高向玄理を推す説も多いです。もちろん厩戸皇子を含む他の用明の皇子の子を推す説もあります。とりあえず高向王と漢皇子で判っている事は斉明紀の
初適於橘豐日天皇之孫高向王而生漢皇子
これしかないわけです。ここは問題を単純化して
- 用明の孫
- 高向玄理
- 舒明の后になっている
- 大王位に就いている
西暦 | 事柄 | 天智 | 孝徳 | 斉明 | 舒明 | 蝦夷 | 有間 | 備考 |
594 | 斉明誕生 | * | * | 0 | 1 | 8 | * | * |
596 | 孝徳誕生 | * | 0 | 2 | 3 | 10 | * | |
622 | 厩戸皇子死去 | * | 26 | 28 | 31 | 36 | * | |
626 | 天智誕生 | 0 | 30 | 32 | 33 | 40 | * | |
629 | 舒明即位 | 3 | 33 | 35 | 36 | 43 | * | 舒明時代12年間 |
640 | 有馬皇子誕生 | 14 | 44 | 46 | 47 | 54 | 0 | |
641 | 舒明崩御 | 15 | 45 | 47 | 48 | 55 | 1 | |
645 | 乙巳の変、難波遷都 | 19 | 49 | 51 | * | 59 | 5 | 孝徳時代9年間 |
653 | 孝徳置去り事件 | 27 | 57 | 59 | * | * | 13 | |
654 | 孝徳崩御 | 28 | 58 | 60 | * | * | 14 | |
655 | 斉明即位 | 29 | * | 61 | * | * | 15 | 斉明時代6年間 |
658 | 有間皇子刑死 | 32 | * | 64 | * | * | 18 | |
660 | 難波行幸 | 34 | * | 66 | * | * | * | |
661 | 朝倉橘広庭宮遷幸、斉明崩御 | 35 | * | 67 | * | * | * | |
663 | 白村江 | 37 | * | * | * | * | * | 天智称制6年間 |
665 | 間人皇女死亡 | 39 | * | * | * | * | * | |
667 | 近江遷都、天智即位 | 41 | * | * | * | * | * | 近江時代5年間 |
672 | 天智崩御、壬申の乱 | 46 | * | * | * | * | * | |
*舒明は誕生は593年説、蝦夷誕生は586年説を取っています。 |
天豐財重日足姫天皇、思欲傳位於中大兄而詔曰、云々。中大兄、退語於中臣鎌子連。中臣鎌子連議曰、古人大兄、殿下之兄也。輕皇子、殿下之舅也。方今、古人大兄在而殿下陟天皇位、便違人弟恭遜之心
古人大兄皇子は天智の兄としていますが、それだけでなく大王位即位年齢に達しているとの見方が有力です。欽明以後の即位年齢はすべて30歳以上であり、この時の天智はまだ19歳です。おそらく古人大兄は30歳ぐらいになっていたんじゃないかと見る説が多いところです。10歳程度年長の皇子がいる馬子の娘の法堤郎女を押しのけて斉明は妃になっているわけです。ただでも再婚で分が悪いのに、その上に初婚相手が臣下ではさらに分が悪いと素直に思います。よって用明の孫説を取ります。まあ、舒明の后になるだけでも分が悪いのに大王即位になるとなおさらってところです。
古代の近親婚への倫理観は現在とはかなり異なります。異母兄妹は全然問題ありませんし、田目皇子の様に異母(厩戸皇子の母)との結婚もありです。斉明も用明の孫との結婚であるなら、現代人が思うほどマイナス材料にならなかった可能性はあるかもしれません。ただこれは相手が王族であったらで、臣下となるとさすがにマイナス点は大きい気がします。
さて再婚相手の田村皇子が当時どれほどの地位にいたかです。推古紀や舒明紀を読む限り継承レースは田村皇子と山背大兄王の一騎打ちの様相を呈しています。大王位の継承は常に火種になるところがあり、この一騎打ちは厩戸皇子の死の直後から始まっていたと見るのが妥当です。個人的なポイントは田村皇子は蘇我氏へのカードとして法堤郎女と古人大兄皇子を持っていたわけです。しかし蘇我氏カードはこの継承戦で言えば田村皇子の切り札になりません。そりゃ相手は山背大兄王だからです。田村皇子としては蘇我氏カード以外の非蘇我氏氏族の支持を積極的に集める必要があったと考えるのが妥当です。
厩戸は622年の死去です。この時田村皇子31歳、斉明30歳。でもって翌年に天智が生まれます。田村皇子と斉明の結婚時期はここの気がしています。ここで考えないといけないのは田村皇子が結婚した斉明は何を持っていたかです。田村皇子が大王位を目指していたのなら、斉明と結婚する事が大王位継承レースで非常に有利に働くとの計算があったはずです。そうじゃなければ現在と違い当時の30歳の子持ちと再婚しないと思います。斉明には悪いですが、田村皇子が斉明の色香に目が眩んで結婚したとは到底思えないからです。
結婚して子供が出来る事自体は何の不思議もないのですが、田村皇子にとっては斉明に自分の子を早く産ませる事も継承レースでは重要であったとも考えています。これで斉明の実家と実家を支持する氏族を味方に引き入れる事が出来るぐらいです。田村皇子が大王になった後ですが、
二年春正月丁卯朔戊寅、立寶皇女爲皇后
これも異例とされます。通常は即位と共に立后する事が殆どです。1年待ったのは蘇我氏との根回し工作もあったとは思いますが、さすがに子持ち再婚の斉明を后にするのは異論があったぐらいに見ています。しかし田村皇子は絶対に斉明を后にする必要があったのだと見ています。
漢皇子は生きているの仮説にしていますが、扱いはどうであったかです。とにもかくにも斉明は高向王と離婚(ないしは死別)している訳です。その時に漢皇子はどこに引き取られて養育されていたかが問題になります。古代では結婚していても母系の実家で皇子なり皇女を育てる事が多いとなっています。それならば漢皇子は高向王の家ではなく斉明の実家で養育されていた可能性は高いと見ます。後は斉明の愛情になりますが、后となったから切り捨てようとするのか、我が子だから庇護し盛り立てようとするかです。漢皇子の行方自体が不明ですから推測になりますが、庇護し、盛り立てる方向に斉明は動いた可能性はあると考えています。傍証は斉明紀の記載が漢王でなく漢皇子である点です。