孝徳・斉明時代の謎を考える

乙巳の変後に大王となった孝徳・斉明は天智の傀儡と言うのが通説ですが、私は否定の立場を取っています。理由は、

    孝徳は河内に遷都した!
大和に都がある状態は継体・欽明期から100年以上続いています。100年も続けばわざわざ大和から河内に都を遷す発想はそうは出ません。これは孝徳の勢力基盤が河内にあっただけではなく、孝徳が河内に都を遷すのに天智は止めようがなかったと考えるのが自然です。孝徳と天智の力関係は乙巳の変後も
    孝徳 > 天智
こうであったと見ます。その上で謎なのは、
  1. 斉明も河内系のはずなのに孝徳置去り事件を何故に協力したか?
  2. 孝徳の後が何故に斉明なのか?
これについて考えてみます。


河内時代の勢力関係

基本体制は

  • 孝徳が大王
  • 天智が皇太子
  • 斉明は天智の実母
こう見ると考えやすくなります。「孝徳 > 天智」の力関係はあっても天智の力はNo.2ではある上に天智のバックに斉明がいる関係です。このバランスで河内時代はスタートします。この体制のポイントは次期大王は皇太子の天智であるとしている点です。でもって天智は斉明の子であり孝徳の子ではありません。だからなんだと言われそうですが、この時代は皇太子と言っても必ずしも大王位を継げるものではありません。大王位は実力者が争って奪い合うものです。孝徳置去り事件の時の主要人物の年齢関係を再掲します。
西暦 事柄 天智 孝徳 斉明 舒明 蝦夷 有間 備考
594 斉明誕生 0 1 8
596 孝徳誕生 0 2 3 10
622 厩戸皇子死去 26 28 31 36
626 天智誕生 0 30 32 33 40
629 舒明即位 3 33 35 36 43 舒明時代12年間
640 有馬皇子誕生 14 44 46 47 54 0
641 舒明崩御 15 45 47 48 55 1
645 乙巳の変、難波遷都 19 49 51 59 5 孝徳時代9年間
653 孝徳置去り事件 27 57 59 13
654 孝徳崩御 28 58 60 14
655 斉明即位 29 61 15 斉明時代6年間
658 有間皇子刑死 32 64 18
660 難波行幸 34 66
661 朝倉橘広庭宮遷幸、斉明崩御 35 67
663 白村江 37 天智称制6年間
665 人皇女死亡 39
667 近江遷都、天智即位 41 近江時代5年間
672 天智崩御壬申の乱 46
 *舒明は誕生は593年説、蝦夷誕生は586年説を取っています。
私が注目したいのは孝徳の息子である有間皇子が13歳になっている事です。当たり前ですが有間皇子は斉明の息子ではありません。ポスト孝徳は皇太子の天智で決まっているように思われていますが、現大王の息子である有間皇子の存在が河内時代の勢力バランスに影を落としたと見ます。


斉明の懸念

斉明は孝徳の姉で2歳年長です。孝徳置去り事件の時に満年齢では59歳ですが数えでは還暦です。今でこそ還暦なんて珍しくもない年齢ですが、当時的には相当な高齢です。つまりは孝徳より斉明が先に死ぬ懸念が出てきたと考えています。斉明が死に、孝徳が長生きすれば大王の息子である有間皇子の存在が大きくなり、天智を押しのけて次期大王になる可能性が高くなっていくとの懸念です。斉明が有間皇子の存在を気にしたのは斉明時代に有間皇子を罪に陥れて殺してしまった事からも明白です。

孝徳置去り事件は大和に新政権を作ってしまうのが狙いだったで良いと思います。大和は孝徳の前に100年以上都であり、河内に遷都してからも「大和に帰りたい」の空気が確実にあり、これを斉明は利用したものと考えています。孝徳が翌年に崩御したのは予想以上の成果でしたが、孝徳がもう少し長生きしても斉明は大和に新政権を作るつもりだったと私は考えています。


なぜに斉明だったのか?

女帝が成立するのはあくまでもその時点で他に適当な男性候補者がいないケースになります。ポスト孝徳には実子である皇太子の天智がおり、能力的にも、功績的にも即位しておかしくありません。しかし即位したのは斉明です。なぜに天智無かったかについては諸説がありますが、一つに年齢問題を挙げる説があります。当時の大王位即位適齢期は不文律で30歳以上があったの説です。しかし天智は数えなら30歳になっており、乙巳の変の時の20歳(数え)では「若すぎる」はまだしもポスト孝徳では説得力に欠けます。

ここの理由がどうしても思いつかなかったのですが、非常に単純な理由が見つかりました。斉明は時間を稼ぎたかったんじゃないだろうかです。斉明も母親ですから我が子に大王位を継がせたいと思ってはいても、その我が子が天智ではなかったと見ればわかりやすくなります。斉明は母親として、

    末っ子の天武が可愛かった!
これが行動原理であったとの見方です。おおよそですが、母親は末っ子(つうか弟)を可愛がる傾向があります。斉明の場合、天智の時でも高齢出産ですが、天武に至っては631年説でも37歳の時の出産です。当時の養育は母方で行うのが慣例であり、高齢で出来た末っ子の天武を猫かわいがりしていても不思議有りません。こういうケースは斉明だけではなく歴史上では幾らでもあります。そうなると天武の631年誕生説が現実味を帯びてきます。631年説なら斉明即位時は24歳(数えで25歳)になります。後5年ぐらい頑張れば天武も即位適齢期の30歳に達します。

天武は歴史でもヌッと台頭してきた印象がありますが、斉明時代に斉明が次期大王位にするべく勢力を大きくしたと考えるのが一番理由としてシックリ来ます。「孝徳 > 天智」の力関係があるとしましたが、斉明は孝徳の力の多くの部分を引き継いだと見ています。そのため「斉明 > 天智」の力関係が出来上がり、斉明が大王になるとの意思を天智はどうする事も出来なかったと考えています。

その引き継いだ力のかなりの部分を天武に譲り渡していた可能性です。現大王の寵愛は臣下に新たな波風を起こします。天智で決まりであれば天智に集まりますが、天武の目が出てくれば天武派が自然に形成されるぐらいとすれば良いでしょうか。天智も天武の台頭が見えていたので最初は天武の取り込みを図り(4人の娘を天武に嫁がせる)、後に皇太弟にして懐柔に出たぐらいでしょうか。天智にしても斉明の年齢からして2〜3年程度の我慢と見たかもしれませんが、斉明は長寿で67歳まで生きます。この斉明時代に天武は天智に対抗できるだけの勢力を築き上げたと考えています。

なんと言うかですが、乙巳の変のヒーローであるはずの天智はもう一つ人望に欠けていた印象が私には感じられてなりません。