乙巳の変後に大王となった孝徳・斉明は天智の傀儡と言うのが通説ですが、私は否定の立場を取っています。理由は、
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孝徳は河内に遷都した!
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孝徳 > 天智
- 斉明も河内系のはずなのに孝徳置去り事件を何故に協力したか?
- 孝徳の後が何故に斉明なのか?
基本体制は
- 孝徳が大王
- 天智が皇太子
- 斉明は天智の実母
西暦 | 事柄 | 天智 | 孝徳 | 斉明 | 舒明 | 蝦夷 | 有間 | 備考 |
594 | 斉明誕生 | * | * | 0 | 1 | 8 | * | * |
596 | 孝徳誕生 | * | 0 | 2 | 3 | 10 | * | |
622 | 厩戸皇子死去 | * | 26 | 28 | 31 | 36 | * | |
626 | 天智誕生 | 0 | 30 | 32 | 33 | 40 | * | |
629 | 舒明即位 | 3 | 33 | 35 | 36 | 43 | * | 舒明時代12年間 |
640 | 有馬皇子誕生 | 14 | 44 | 46 | 47 | 54 | 0 | |
641 | 舒明崩御 | 15 | 45 | 47 | 48 | 55 | 1 | |
645 | 乙巳の変、難波遷都 | 19 | 49 | 51 | * | 59 | 5 | 孝徳時代9年間 |
653 | 孝徳置去り事件 | 27 | 57 | 59 | * | * | 13 | |
654 | 孝徳崩御 | 28 | 58 | 60 | * | * | 14 | |
655 | 斉明即位 | 29 | * | 61 | * | * | 15 | 斉明時代6年間 |
658 | 有間皇子刑死 | 32 | * | 64 | * | * | 18 | |
660 | 難波行幸 | 34 | * | 66 | * | * | * | |
661 | 朝倉橘広庭宮遷幸、斉明崩御 | 35 | * | 67 | * | * | * | |
663 | 白村江 | 37 | * | * | * | * | * | 天智称制6年間 |
665 | 間人皇女死亡 | 39 | * | * | * | * | * | |
667 | 近江遷都、天智即位 | 41 | * | * | * | * | * | 近江時代5年間 |
672 | 天智崩御、壬申の乱 | 46 | * | * | * | * | * | |
*舒明は誕生は593年説、蝦夷誕生は586年説を取っています。 |
斉明は孝徳の姉で2歳年長です。孝徳置去り事件の時に満年齢では59歳ですが数えでは還暦です。今でこそ還暦なんて珍しくもない年齢ですが、当時的には相当な高齢です。つまりは孝徳より斉明が先に死ぬ懸念が出てきたと考えています。斉明が死に、孝徳が長生きすれば大王の息子である有間皇子の存在が大きくなり、天智を押しのけて次期大王になる可能性が高くなっていくとの懸念です。斉明が有間皇子の存在を気にしたのは斉明時代に有間皇子を罪に陥れて殺してしまった事からも明白です。
孝徳置去り事件は大和に新政権を作ってしまうのが狙いだったで良いと思います。大和は孝徳の前に100年以上都であり、河内に遷都してからも「大和に帰りたい」の空気が確実にあり、これを斉明は利用したものと考えています。孝徳が翌年に崩御したのは予想以上の成果でしたが、孝徳がもう少し長生きしても斉明は大和に新政権を作るつもりだったと私は考えています。
女帝が成立するのはあくまでもその時点で他に適当な男性候補者がいないケースになります。ポスト孝徳には実子である皇太子の天智がおり、能力的にも、功績的にも即位しておかしくありません。しかし即位したのは斉明です。なぜに天智無かったかについては諸説がありますが、一つに年齢問題を挙げる説があります。当時の大王位即位適齢期は不文律で30歳以上があったの説です。しかし天智は数えなら30歳になっており、乙巳の変の時の20歳(数え)では「若すぎる」はまだしもポスト孝徳では説得力に欠けます。
ここの理由がどうしても思いつかなかったのですが、非常に単純な理由が見つかりました。斉明は時間を稼ぎたかったんじゃないだろうかです。斉明も母親ですから我が子に大王位を継がせたいと思ってはいても、その我が子が天智ではなかったと見ればわかりやすくなります。斉明は母親として、
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末っ子の天武が可愛かった!
天武は歴史でもヌッと台頭してきた印象がありますが、斉明時代に斉明が次期大王位にするべく勢力を大きくしたと考えるのが一番理由としてシックリ来ます。「孝徳 > 天智」の力関係があるとしましたが、斉明は孝徳の力の多くの部分を引き継いだと見ています。そのため「斉明 > 天智」の力関係が出来上がり、斉明が大王になるとの意思を天智はどうする事も出来なかったと考えています。
その引き継いだ力のかなりの部分を天武に譲り渡していた可能性です。現大王の寵愛は臣下に新たな波風を起こします。天智で決まりであれば天智に集まりますが、天武の目が出てくれば天武派が自然に形成されるぐらいとすれば良いでしょうか。天智も天武の台頭が見えていたので最初は天武の取り込みを図り(4人の娘を天武に嫁がせる)、後に皇太弟にして懐柔に出たぐらいでしょうか。天智にしても斉明の年齢からして2〜3年程度の我慢と見たかもしれませんが、斉明は長寿で67歳まで生きます。この斉明時代に天武は天智に対抗できるだけの勢力を築き上げたと考えています。
なんと言うかですが、乙巳の変のヒーローであるはずの天智はもう一つ人望に欠けていた印象が私には感じられてなりません。