王と皇子考2

昨日のお話は

  1. 王の息子(一世孫)が皇子であり、二世孫以降は王と呼ぶ
  2. 二世孫以降が大王になった場合、その兄弟及び息子は皇子となる
これは律令制のものですが、書紀でもだいたいそうなっています。例として継体・顕宗・仁賢が確実にあります。これもちなみに
  • 継体は王のまま大王になった
  • 顕宗・仁賢は皇子に昇格した上で大王になった
しかし例外があります。田村皇子は敏達の三世孫ですが書紀には最初から皇子として呼ばれて登場します。例外は田村皇子だけかと思っていましたが他にもいました。舒明紀より、

二年春正月丁卯朔戊寅、立寶皇女爲皇后

宝皇女も敏達の3世孫になります。宝女王は書紀では舒明の後に皇極として即位しますが、舒明紀の段階ではただの三世孫です。にも関わらず皇女となっています。ちなみに男性の場合は皇子と王ですが、女性の場合は皇女と女王になるようです。女性の場合二世孫以降がなかなか書紀に登場しないのですが上宮聖徳法王帝説には、

聖徳法王娶膳部加多夫古臣女子 名菩岐々美郎女 生児 舂米女王 次長谷王 次久波太女王 次波止利女王 次三枝王 次伊止志古王 次麻呂古王 次馬屋古女王【已上八人】

女性の場合は姫と呼ばれたり(息長真手王の娘の広姫)とか、王と呼ばれたり(漢王の妹の大俣王)があったりしますが、皇女と呼ばれるのは一世孫が原則の様に見ています。ただ次の例外は見方が変わります。斉明紀より、

大田姫皇女産女焉、仍名是女曰大伯皇女

大田姫皇女(大田皇女)は天智と遠智娘(蘇我倉山田石川麻呂)の間に生まれた娘で舒明の二世孫です。大田皇女は天武に嫁いでおり生まれた娘が大伯皇女となっています。斉明紀の時点では天智も天武も大王になっていないのですが、後の呼称変更後のものを書紀は使っている可能性も考えられます。ただ次の個所は微妙です。

五月、皇孫建王、年八歳薨。今城谷上、起殯而收。天皇、本以皇孫有順而器重之、故不忍哀傷慟極甚

建王も天智と遠智娘の子どもです。斉明から見れば二世孫になるのですが皇子でなく王です。う〜ん、てなところです。あんまり二世孫以降の記述が書紀には多くなくて、なんとも言えないところがあるのですが、数少ない例をまとめると、

  1. 女性は後に変更された呼称で呼ばれるようだ
  2. 男性は当時の呼称で呼ばれる
  3. 男性の例外は田村皇子のみのようだ
建王に関しては生前に皇子にならなかったから王のままであったの見方は出来ます。要するに皇子で死なず、王で死んだから「王」と記述されているとの考え方です。そうであれば舒明期以降は書紀の編集方針が若干変わったぐらいの可能性が出てきます。田村皇子が何故「皇子」かの謎が説明可能になってしまうからです。


呼称原則から生まれる新たな謎

今、思いついている仮説の導入部に田村皇子を使おうと思っていたのが、今日になってポロポロ他の皇女の例が出てきて「参った」と正直なところ感じていました。もう一度今日あれこれ捻くった舒明紀以降の呼称原則ですが、

    舒明紀以降では死亡時の呼称を原則として呼ぶ
宝皇女も、大田皇女も、大伯皇女も、建王も、田村皇子もこれで説明できてしまいます。悔しいですが説明できるものは仕方がありません。しかしもしその原則が正しければ斉明紀の

初適於橘豐日天皇之孫高向王而生漢皇子

これはどうなるかです。この文章の大意は斉明の初婚の相手は用明の孫の高向王であり、漢皇子が生まれたとなります。そう生まれたのは皇子であって王ではありません。先ほど推理した呼称原則であれば漢皇子は漢「皇子」として死亡した事になります。漢皇子が皇子になるためには書紀上で皇極時代までは生きている必要があります。母の斉明が大王にならないと王から皇子になれないからです。ここに出てくる斉明の初婚の相手の高向王も漢皇子も、その後の所在がまったく不明の人物です。

漢皇子の呼称も考えてみれば複雑です。斉明自体が例外的な女性で、たぶん皇后が再婚と言うのも他に例が少ない気がします。再婚である上に子連れです。その上でもっとややこしいのは斉明が大王位に就いてしまっています。こういう時の連れ子の扱いはどうなるんだになります。その答えが漢皇子と読める気がしています。漢皇子は書紀の他の部分では出て来ないので夭折したの見方もありますが、そうであれば皇子でなく王のはずです。漢皇子はいったい誰になったのだの謎に当然つながっていきます。