王と皇子考

基本原則

皇族の身分・肩書は養老律令(継嗣令1条)より、

凡皇兄弟皇子 皆為親王 女帝子亦同 以外並為諸王 自親王五世 雖得王名不在皇親

要は天皇の兄弟と1世孫は皇子と呼びこれを親王とする。二世孫以降は王と呼び、五世孫以降は王と呼んでも皇親皇位継承権)ではなくなると解釈すれば良いようです。皇子と親王は同じぐらいで見て良いかと思います。皇位は通常は皇子から選ばれる事が多いですが、王から選ばれる事があります。その時は大宝令の注釈書である古記に

古記云 未知 三世王即位 兄弟為親王不 答得也

これは王が皇位に就いた時には、王となった者の兄弟は親王(皇子)になるとしています。もちろんこれは律令制の規定ですが、書紀もこの原則にほぼ従っていると考えられます。


継体と顕宗・仁賢ケース

書紀でも皇子が大王位に就くケースが圧倒的に多いのですが、そうでないケースもあります。王が大王位に就いた例として有名なのは継体です。継体紀には、

元年春正月辛酉朔甲子、大伴金村大連、更籌議曰「男大迹王、性慈仁孝順、可承天虬。冀慇懃勸進、紹隆帝業。」

継体は皇子ではなく王と呼ばれています。継体は

譽田天皇五世孫、彦主人王之子也

五世孫ですから王と言う訳です。他には顕宗・仁賢の例があります。顕宗・仁賢は履中天皇の第1皇子である市辺押磐皇子の子です。つまりは二世孫です。この二人がどう呼ばれていたかですが、

三年春正月丙辰朔、小楯等、奉億計・弘計、到攝津國。使臣連持節、以王逭蓋車、迎入宮中。夏四月乙酉朔辛卯、以億計王爲皇太子、以弘計王爲皇子。

顕宗は弘計王、仁賢は億計王と呼ばれており、宮中に迎えいれられた時に億計王が皇太子に弘計王が皇子になっています。二世孫の王が皇太子なった事で、その兄弟も皇子になったぐらいに解釈して良いかと思います。ポイントはわざわざその事を特記しているところと見ています。


田村皇子

継体は王から大王に成り、顕宗・仁賢は王から皇子になってから大王になっていいますが、「どうも」違うケースがあります。田村皇子は敏達の第1皇子である押坂人彦大兄皇子の子です。つまりは二世孫です。田村皇子は推古後に山背大兄王と大王位を争います。ちなみに山背大兄王厩戸皇子用明天皇の1世孫)の子で二世孫ですから王と呼ばれています。一方の田村皇子はまず推古紀より

卅六年春二月戊寅朔甲辰、天皇臥病。三月丁未朔戊申、日有蝕盡之。壬子、天皇、痛甚之不可諱、則召田村皇子謂之曰「昇天位而經綸鴻基・馭萬機以亭育黎元、本非輙言、恆之所重。故、汝愼以察之、不可輕言。」即日召山背大兄教之曰「汝肝稚之。若雖心望、而勿諠言。必待群言以宣從。」癸丑、天皇崩之。時年七十五。即殯於南庭。

さらに舒明紀より、

大臣令阿倍臣語群臣曰「今天皇既崩无嗣。若急不計、畏有亂乎。今以詎王爲嗣。天皇臥病之日、詔田村皇子曰、天下大任、本非輙言、爾田村皇子、愼以察之、不可緩。次詔山背大兄王曰、汝獨莫誼讙、必從群言、愼以勿違。則是天皇遺言焉。今誰爲天皇。」

田村皇子は「皇子」と呼ばれ山背大兄王は「王」になっています。では田村皇子が億計王の様に皇太子なっていたかと言うと舒明紀より、

豐御食炊屋姫天皇廿九年、皇太子豐聰耳尊薨而未立皇太子、以卅六年三月天皇

推古は厩戸皇子が亡くなった後は皇太子を立てずとなっています。つまりは田村皇子は皇太子になっていないにも関わらず皇子となっています。


簡略にしたのか? 綾があるのか?

田村皇子は結果として大王に成っている訳ですから、記載を簡略化して最初から皇子としているだけと解釈して良いのでしょうか。その可能性も無いとは言えませんが、書紀では皇子と王は割と区別がしっかりしている印象があります。それこそ継体や顕宗・仁賢のケースがそうです。ここを先に継体や顕宗・仁賢のケースを先に書いてあるので田村皇子のケースは簡略化した・・・とするには綾が残る気がしています。

田村皇子が「皇子」になったのは皇太子にはなっていなくとも、どこかの時点で「準皇太子待遇として皇子になった」は無いとは言えませんが、それなら推古後継にはもっと本命視されても良い気がします。舒明紀に

天皇既崩无嗣。若急不計、畏有亂乎。今以詎王爲嗣

こうやって阿部大臣が言うのは不可解と感じます。ほいじゃ有力候補者が皇子扱いになっていたかと言うとライバルの山背大兄王は「王」です。根拠としたらたったこれだけしかありませんが

    田村皇子は本当に皇子だったんじゃなかろうか?
ここら辺から天武の謎にアプローチしてみたいと思っています。