蘇我大王ロマン

蘇我大王ロマンは絶対の仮説ですから、その点は誤解ないようにお願いします。


万世一系原理

書紀が大王家の万世一系を目指したとするのも前提ですが、どの程度なら許容範囲であるかです。とりあえず嫡流でなくともOKです。一番典型なのは継体で応神五世の孫ですが問題としていません。女性天皇も許容しています。推古も斉明(皇極)もいますし、記紀編纂の時代は持統女帝です。ただ女帝にも条件があります。

  1. 皇族である
  2. 皇后であった事
  3. 即位してから子孫を作らない
もし即位してから結婚して子供が生まれ、その子が大王位に就くと母系の新たな系統が出来てしまうぐらいでしょうか。神功皇后なんて実質的に大王位にあった気配が濃厚にしますが、あくまでも皇后として書紀は取り扱っています。たぶん出自が皇族ではなく息長氏だからと思っています。単純化すると万世一系原理は
    父系であれば傍流でもなんでもOK
こう解釈しても良いと考えます。そこまで広げておけば大概はクリアできます。当時の人口は多いとは言えず、さらに通婚には身分の壁が歴然とあり、近親結婚さえ繰り返されていますから、手繰れば殆どの貴族階級以上は大王の父系に含まれてしまうと考えられます。記紀編纂時から見ても古い時代なら適当にくっつけておけばすべて大王の子孫にできるぐらいと言えば良いでしょうか。その辺の操作がばれないように、編纂時に集めた各氏族の家伝みたいな書物を隠蔽処分したのはあると思っています。そこまでルーズにやっても蘇我大王は万世一系原理から外れてしまう氏族であったと考えるしかありません。


大王位継承ルール

古代では(古代でなくとも)権力者の継承に紛争はつきものです。書紀でも時代が下るほど生々しく記述しています。たとえば邪馬台国の継承ルールは完全に実力主義だったと見ています。大陸の春秋時代みたいなもので覇者は登場しても継続しない状態です。これは畿内王権でも基本構図は同じだったはずです。ただタマタマ2代続きぐらいで優秀な大王が長期政権を作り上げた状況ぐらいを想像しています。たとえば「神武 → 応神+α」で50年ぐらいです。その時に単純実力主義でない継承ルールを作った可能性を考えています。

大王も人の子ですから自分の子孫に大王位を継がせたいと考えたはずです。血のつながりが尊重されるのは古代ほど重いのも常識でしょう。継承戦争が大混乱を来すのは継承候補者が多すぎる点です。そこで自分の係累にのみ継承権を制限するルールです。wikipediaより

皇親の範囲は、「継嗣令」(けいしりょう)の規定では、天皇の四世孫(玄孫、やしゃご)までが皇親とされた。五世孫は王を称したが、皇孫にはあたらないとされた。後の慶雲3年(706年)2月の格(きゃく)で、五世孫までが皇親とされ、五世孫の嫡子に王の称が許された。

これは律令制のものですが、それ以前の慣習を成文化したと考えても良いと思っています。北九州では王の血筋が広がり過ぎて収拾がつかなかったと考えていますが、畿内では割と限定しやすく、長期政権がタマタマ成立したので定着したぐらいです。これとて最初から一律カットではなく、同盟氏族に広く大王位継承権を与えていたとは思っています。ポイントは代を重ねると継承権が消滅する点です。継承権を更新するには大王位になるしかありませんが、大王は1人であり、何代か直系に近い継承が続けば大王直系以外の継承権は時効になり消えていくシステムです。結果として、

  • 大王継承権者(大王家)
  • 大王継承権者に嫁を出せる氏族(臣下)
継承権を失った氏族も大王家と婚姻関係は結べます。生まれた子供が大王に成れば氏族は外戚として権勢を揮えます。継承ルールの変更により大王位を直接氏族同士が争うのではなく、大王の外戚に誰がなるかの争いになったぐらいを考えています。これでも継承紛争は起こりますが、誰が大王になっても大王家としての継続性は保たれます。もう少し考えれば大王位を巡る争いが間接的になった分だけ、内輪では争っても外部からの介入に対しては一致団結できる様になり畿内王権の継続・拡大が可能になった気がしています。

こういうルールがあるのではないかと思ったのは、後世の藤原氏の在り方です。藤原氏は平安期には実質的に権力のすべてを独占しています。一方で藤原氏内部の権力争いは熾烈です。それでもあくまでも序列上はNo.2であり、トップの天皇になった者はいません。世界史的に見ても奇妙な状態ですが、藤原氏も古代氏族であり、古代氏族として受け継いだ継承ルールが歳月と共に固まり切ってしまったからではないかと見ています。


それでもの別格王家

これは確実にあった気がします。継体戦争の結果は判定勝ちと推測しています。判定勝ちとは河内王朝から大王位は奪ったものの河内王家自体は残ったとの推測です。つまり近江系の継体は大王位に推戴されてはいますが、河内王家は滅ぼされた訳でなく大王権継承別格王家として生き残ったの考え方です。別格とは代を重ねても継承権が消滅せず、その子孫も大王家と同様に継承資格を得るぐらいでしょうか。それぐらいの妥協が継体の判定勝ちです。継体の継承戦の勝者は大和系の欽明ですが、この時も近江王家は滅びなかったと見ます。近江王家もまた河内王家と同じく別格王家になったと考えます。つまり継体戦争の結果、

  • 河内系王家
  • 近江系王家
  • 大和系王家
これが出来上がっていたと考えています。この3つの別格王家の存在は乙巳の変から壬申の乱を説明する時に非常に便利になります。具体的には乙巳の変後に大王に成った孝徳・斉明の存在です。通説では中大兄皇子の傀儡とされていますが、到底そうとは思えない事をこれまで散々ムックしています。つまりは孝徳・斉明の出身母体は強大であったと言う事です。ほいでは孝徳・斉明の出身母体は書紀的にはどんなものかと言うと、敏達の第1皇子の押坂人彦大兄皇子の子どもの茅渟王であるしか判りません。でもって茅渟王も殆ど正体不明の人物です。茅渟王と孝徳の2代で100年以上都であった大和から難波に都を遷させる程の力が養えたかと言われると非常に疑問です。そこに河内系王家の存在があると説明しやすくなります。

近江系は天智の存在です。天智は書紀では押坂人彦大兄皇子の息子の田村皇子の息子です。近江とのつながりは田村皇子の母が息長真手王の娘の広姫であっただけです。一応つながりはあるのですが、正直なところか細い感じです。一方で天智は近江を非常に頼りにしています。孝徳と同様の事を天智も行っています。天智は遠征先の筑紫から大和に帰らず近江に遷都しています。近江こそが天智の地盤である事はあまりにも明白です。なぜに天智と近江がこれだけ強力に結びつくかの説明に近江系王家の存在があると助かるところです。


舒明仮説と押坂人彦大兄皇子

蘇我大王ロマンを考えた時に一番難しかったのは舒明の存在です。散々頭を捻って考え出したのが、

    舒明は蝦夷であるが、田村皇子は舒明ではない
推古仮説の様に「舒明 = 蝦夷」にしようとすれば蝦夷大王は説明不可能になります。そこで蝦夷大王と田村皇子は並立して存在し、田村皇子は舒明にならなかったぐらいの説明です。これはこれで上手い説明と思ったのですが、気になったのは茅渟王と田村皇子の関係です。この2人は異母兄弟となっていますが兄が茅渟王です。歳の差がどれほどかと言うと、茅渟王の娘である宝女王と舒明は一つしか歳の差がありません。だいたい20歳ぐらい歳の差があります。つまり親子ほど年齢差がある事になります。

押坂人彦大兄皇子は結構長生きしていた気配がありますから歳の差の離れた兄弟がいても不思議はないのですが、茅渟王はどう扱われたんだろうです。ここで別格王家仮説を持ち出したいのですが、押坂人彦大兄皇子は大王位にこそ就けなかったものの血統的には有力皇子です。敏達は大和系王家なんですが、欽明→敏達と続く中で別格王家の支配も考えた可能性はあると見ています。また大和系王家が大王を支配している状態で河内系王家、近江系王家が大和系王家に近づきたい思惑もあったかもしれません。その辺の事情で、

  • 茅渟王は河内系王家に養子に
  • 田村皇子は近江系王家に養子に
これは可能性として一つあると思っています。

もう一つ可能性を考えています。舒明仮説と同じ事が起こっていた可能性です。押坂人彦大兄皇子も、茅渟王も、田村皇子も存在はしていたが実は親子関係などなかったです。茅渟王は河内系王家の当主であり、田村皇子は近江系王家の当主であっただけです。これを万世一系で結びつけるために押坂人彦大兄皇子の息子としてしまったぐらいです。あえて整理すると

    河内系王家・・・茅渟王 → 孝徳・斉明
    近江系王家・・・田村皇子 → 天智
    大和系王家・・・? → 天武
ここで宝女王は天智も天武も産んでいる可能性はあります。その上で天智は近江系王家を継ぎ、天武は大和系王家を継いだぐらいはあり得ます。当時は蘇我大王家であったので三派が手を組んでもおかしくないってなところです。


継体と蘇我氏

蘇我氏の台頭は継体戦争にも関連しているのが私の解釈です。大王位継承ルールは上で仮定しましたが、それでもそれを踏み破る人物は存在したはずです。

    勝てば官軍、理屈は後から付いてくる
これを行った人物の代表が継体と思っています。それを稲目もその父も実際にその目で見ているはずです。ヒョットしたら欽明も似たような感じであった可能性も考えています。継体も欽明も可能であるなら蘇我氏だって可能の考えが出ても不思議有りません。馬子は稲目の息子ですからそんなに遠い時代の話ではないからです。いやそれ以前も継体類似のケースはあったとも考えています。蘇我氏が強大であったのは間違いありません。とくに丁未の変で強敵物部氏を壊滅状態に追い込んでからは実力は抜きん出てNo.1です。そういう政治状況になれば理屈を付けて大王継承権があるとして大王位を目指すのが当時の風習としてあったとしても不思議とは言えません。いやその風習に忠実に則って馬子は大王位に就いたと考えています。

それが何故に継体は書紀で認められ、蘇我大王は抹消されのかです。純粋に時代の近さの気がしています。記紀編纂の時代でも継体の話になると大昔のお話です。ところが蘇我氏は近すぎるぐらいです。怪しげな理屈も200年ぐらい唱え続ければ「ま、それでエエんじゃない!」になったぐらいでしょうか。そもそも検証不能になっているからです。継体の時代に活躍した人物の子孫にしても遠い昔の伝承になっています。ところが蘇我氏は近いのです。蘇我氏がいくら理屈を唱えても

    蘇我氏って言うのはそもそも・・・
これを覚えている人物が多すぎる感じでしょうか。どう頑張っても万世一系に連ねるのが無理な新興氏族であったぐらいと考えています。


持統の新ルール

蘇我大王ロマンの最後の難関は持統です。持統本人に聞いてみないと真相はわかりません。持統の系譜は、

    馬子 → 倉麻呂 → 倉山田石川麻呂 → 遠智娘(天智の妃)→ 大田皇女(天武の妃)、持統(天武の皇后)
ついで言えば遠智娘の妹の姪娘は天智と言うワンクッションがありますが、蘇我氏の一族意識はあった可能性があります。曽祖父の倉麻呂と蝦夷、祖父の倉山田石川麻呂と入鹿は対立関係にあったと見れますが、曽祖父の馬子は蘇我一族に取って栄光の記録になるはずです。それでも蘇我大王抹消に同意した理由が必要です。これが難問だったのですが、鍵は一族意識の気がしています。

持統とて乙巳の変から壬申の乱に至る継承紛争を肌身に感じて知っているはずです。大王位の継承とは一族の浮沈をかけたビッグイベントであり、小さくても宮廷内の陰謀戦、大きくなれば壬申の乱に至る事です。継承紛争で頼りになるのは何かと言うと外戚です。平たく言えば実家です。ところが持統には頼るべき実家が壊滅状態です。そういう状況で大王位継承紛争に突き進めば不利どころか命も危ないの保身感覚が最大の理由の気がします。そこで打ち出したのが

    嫡々継承ルール
通説では持統は息子の草壁皇子を溺愛し、ライバルである姉が産んだ大津皇子を排斥して草壁を皇太子にしたとなっています。感情的な部分があったのは否定できませんが、持統にとっては後継は草壁である必要も確実にあったと考えています。皇后の息子が継承してこそ「嫡々継承ルール」が確立するからです。これも苦労したようでwikipediaより、

天武天皇は、2年3ヶ月にわたり、皇族・臣下をたびたび列席させる一連の葬礼を経て葬られた

偉大なる天武を丁寧に葬ったと解釈される様ですが、なんとなく草壁後継に異議があった気配を感じています。つうのも大津皇子の評価としてwikipediaから

立ち居振る舞いと言葉使いが優れ、天武天皇に愛され、才学あり、詩賦の興りは大津より始まる、と『日本書紀』は大津皇子を描くが、草壁皇子に対しては何の賛辞も記さない。草壁皇子の血統を擁護する政権下で書かれた『日本書紀』の扱いがこうなので、諸学者のうちに2人の能力差を疑う者はいない

嫡々継承ルールのために擁立しようとした草壁皇子の質はイマイチどころでなかったぐらいでしょうか。そういう群臣の空気を宥め、草壁後継の既定事実化のための工作期間が天武葬儀の2年3か月だったと見ます。そこに持統の誤算が起こります。天武の葬儀中に草壁皇子が急死してしまいます。当時の皇子の序列として、

  1. 草壁皇子
  2. 大津皇子
  3. 高市皇子
こうなんですが1位と2位がいなくなれば3位の高市皇子が繰り上がる可能性が出てきます。それでは嫡々継承ルールになりません。持統の考え的には草壁の次は草壁の息子である文武でなくてはならないのです。憶測に過ぎませんが高市皇子を抱き込んで文武継承の承認とそのつなぎとしての持統即位が出て来たと考えています。高市皇子が持統の企てになぜ賛成したかですが、高市皇子もまた後ろ盾になる実家が持統と共通しており無い事です。大王位に立候補しても継承戦に勝ちぬける自信がなく、持統に恩を売っての同盟を結んだぐらいに解釈しています。もっと早くから持統−高市ラインの連携はあったかもしれません。

そういうサバイバル戦の最中に現れたのが不比等の気がしています。持統の嫡々継承ルールの補強策として記紀編纂です。サバイバルのために蘇我大王抹消に賛同せざるを得なかったぐらいの想像です。


後書き

去年の末ぐらいから延々と蘇我大王ロマンを追いかけてきました。本当に行きつ戻りつで、推古から入って天武まで下ってから、今度は邪馬台国まで遡って再び下るみたいな「超」がつく泥縄式のムックになってしまいました。それでもムックしただけの知識は得られたと思っています。個人的な結論としては、

  • 推古 → 馬子
  • 舒明 → 蝦夷
  • 皇極 → 入鹿
この蘇我大王三代は十分に成立する余地はあると見ています。ピースを入れ替えても歴史に矛盾が生じないからです。ただですが無理に入れ替えなくとも「エエんじゃない?」の指摘は当然出てくると思います。そう書紀の歴史のままでもエエと言えばエエからです。そういう意味では歴史で遊んでいるだけかもしれません。蘇我大王ロマンに意味を少しでも持たせたいのなら、蘇我大王が存在した方が書紀の歴史よりメリットがあった方が望ましい事になります。

これが案外と難しい話になります。古代史では謎の4世紀とか言われますが、正直なところ蘇我大王がいたとする7世紀だって結構謎です。謎とは書紀以外に有力な記録が残っていない点です。書紀は一級資料であり、内容も充実していますが、大きな欠点として書紀の内容を比較検討できる資料が殆ど存在しない点です。その中でわずかに存在する資料は隋書倭国伝です。隋書に残る男性倭王の記録と書紀の推古女帝は明らかに矛盾しています。隋書倭国伝も一級資料ですから、

  1. 隋書が間違っている
  2. 書紀が間違っている
こう単純化する事も可能です。そうやって考えると蘇我大王が成立し、書紀が間違っている考えも50%ぐらいは成立する事になります。これぐらいのメリットがあるのなら蘇我大王ロマンをムックしても無駄ではなかったと思っています。