日曜閑話77-2

延々と古代史整理をやってるんですが今日のテーマは「母系」です。

歴史は表向きは父系で語られます。記紀万世一系論も父系は一つである事の論証書の性格があります。もう少しわかりやすく言うと、たとえば蘇我氏の娘が大王家に嫁ぎ、その息子が大王位に就いても問題なしの父系です。また父系の範囲も広くて継体天皇なんて応神五世の孫ってな自称ですが、それでもセーフです。記紀を全部読んでいる訳ではありませんが、大王家の婚姻原則は、

  1. 嫁は臣下の氏族であっても無問題
  2. 娘は臣下に嫁がない
2.については自信がないのですが、あれだけ異母兄妹の結婚が多いのは、娘の嫁ぎ先に困った一面もありそうな気がします。この問題は現在の皇室でさえあり、内親王の結婚問題には複雑な手続きが必要になります。古代でも臣下に嫁いだ例があるかもしれませんが、ここしばらく記紀系図を見ている限り、あっても例外的な気がします。このため大王は父系1系になり、母系も存在しない事になります。女性天皇も推古、皇極(斉明)、持統、元明、元正といますが、皇位に就く以前は皇后として父系の子孫を作り、即位後に臣下男性を旦那にして母系を作ることはありません。それでもの例外になりそうだったのは史上唯一皇太女から皇位に就いた孝謙(称徳)ですが、釣合の取れる配偶者なぞ存在する訳もなく、母系は残していません。蘇我大王がもし存在していたとすれば、これは父系がどう遡ってこじつけても大王家とは別なんだろうと考えられます。

ここでJSJ様のコメントなんですが、

記憶がはっきりしないのですが、梅原猛氏の著作であったかと思うのですが、
この時代、大王の子は母親の実家で育てられたという説を読んだ記憶があります。
同母子にしばしば同じ名が付けられた(たとえば穴穂部皇子穴穂部間人皇女)のは成育環境にちなんだからである。
近親相姦のタブーが、同母子と異母子で異なるのも、同じ場所で育てられたか違う場所で育てられたかの違いだろう。
という話であったかと思います。

これも確認しようがないのですが、記紀を読んでいる内にある事に気が付きました。気が付いたと言うより、そうなってるんじゃないかの推測です。大王には複数の妃がおり複数の皇子が生まれます。皇女はとりあえず置いておきますが、皇子は大王位になれなかったら独立する必要があります。兄弟継承も多かったので皇子全員がそうなるケースも珍しいとは言えません。大王の息子クラスでも運が良くないと大王家から所領はもらえなかったと見ます。さらに独立してからも子孫がまた生まれる訳です。全部大王家が面倒見ていたらキリが無いので多くの部分は母方が面倒見ていた可能性です。

大王家に氏族が嫁がせると言うのは大王家との結びつきを強める政治的な意味合いと、生まれた皇子のお世話もヨロシクがセットになってたんじゃなかろうかです。もっとも後世の武家の様に独立できずに部屋住みみたいな生涯を送った皇子も多分いただろうと想像しています。そういう皇子の多くは事歴はもちろんの事、その多くは記紀系図にさえ名前を残していないのかもしれません。

もう一つ、皇子や王女、さらにはその子孫の王の名前ですが、独立した住所地に因んでいる場合が多い気もしています。こちらの方は例外も多いと思いますが、案外と関連性が多い気がします。つうか記紀を編纂する時によく事歴がわからないものは「そうした」可能性は十分あります。ただでも良く似た名前が多いですから、そうでもしないと書ききれないと言うところです。これぐらいを踏まえて押坂彦人大兄皇子家を見なおしてみたいと思います。


押坂王家

押坂彦人大兄皇子は父が敏達、母が息長真手王の娘広姫となっています。広姫は皇后であり第1皇子でしたから「大兄」の美称が付けられています。通説では蘇我氏系に圧迫され、皇位は敏達の兄弟である用明、崇峻、推古と回り皇位に就けなかった人物ぐらいで良いかと思われます。それと私の推測が多分に入りますが、ある時期までは奈良県広陵町に比定される水派宮に住んでいます。用明紀にエピソードもに記されています。それでも名前は「押坂」が付いています。たぶんなんですがそのまま水派宮に住んでいたら「水派」彦人大兄皇子と呼ばれた気がするのですが、最終的に押坂に住んだので「押坂」彦人大兄皇子となったと考えて良さそうです。ここに母系の話を絡ませたいのですがwikipediaより、

蘇我氏の血を引かない敏達王統の最有力者であって、忍坂部(刑部)・丸子部などの独立した財政基盤を有し、王都を離れて水派宮(みまたのみや、奈良県河合町か)を営んでいた。

忍坂部(刑部)は允恭紀によれば允恭の皇后である息長安中姫のために設けられたものとなっています。母が息長真手王の娘広姫である事と合わせて押坂彦人大兄皇子は最終的に母方の息長氏を頼ったと見る事は無理とは言えないと思います。ちなみに丸子部については比定は無理のようです。丸子部由来の地名は主に東国に多いの詳細な研究があり、東国に果たしてそういう所領を持っていたかは何とも言えません。

ここで押坂彦人大兄皇子家を押坂王家と呼ぶことにしますが、押坂彦人大兄皇子は妃が4人おり6男1女の名前が確認できます。このうち歴史的に重要なのは糠手姫皇女と大俣王の系列になります。糠手姫皇女は敏達の娘であり伊勢大鹿首小熊の娘の菟名子となっています。伊勢大鹿氏と言う古代豪族もいたそうですが、糠手姫皇女の子である田村皇子はどの母系を優先して意識していたのだろうかです。傍証は2つで、

  1. 和風諡号が息長足日広額天皇
  2. 墓所の名前が押坂内陵
ごくごく素直に祖母の息長氏を意識していたで良さそうです。検証例が一つしかないのですが、田村皇子は押坂王家の跡取りと考えて良く、跡取りはその王家に伝わる母系意識を引き継ぐんじゃないかと見ています。そうなると舒明と宝女王の子どもである中大兄皇子も息長母系の意識を受け継いでいる可能性があります。つうか確実に受け継いでいるとして良さそうです。証拠は天智となった時に息長氏の地盤とも言える近江大津に遷都しているからです。どう見ても息長母系をバリバリに意識していたとしか思えません。


茅渟王

もう一人の大俣王は問題です。この女性は漢王の妹と書かれているだけで事歴が全然見えないからです。息子は茅渟王でこれまた無名に近い人物ですが、茅渟王の子どもに宝女王(皇極、斉明)、軽王(孝徳)がいます。さらに宝女王と田村皇子は結婚し、そこから中大兄皇子大海人皇子が生まれてくるわけです。判らないなりに手がかりを探して見ます。大俣王の名前を近い時代で系図的に2カ所発見しました。

  1. 敏達の夫人の春日老女子の息子の大派皇子を大俣王とも呼んだ
  2. 敏達の夫人の春日老女子の息子の難波皇子の息子に尊卑分脈では大俣王が入る(記紀には無い)
大派皇子はwikipediaより、

別の記述では「大俣王」とも書かれることから、敏達天皇の孫「大俣王」と同一人物と見る説もある。

この解説も良くわからなくて、敏達の孫の大俣王は記紀ではなくて尊卑分脈系図に現れる難波皇子の息子ぐらいしか見当たりません。学説では敏達の孫に大俣王が確実にいると見ているのか、尊卑分脈系図の解釈をそう考えているのかどちらかの様な気がします。まあ大俣王は「王」であって「皇子」でないので敏達の孫世代以降の人間ぐらいにしても良いぐらいは言えるでしょう。そうなると大俣王は春日老女子の母系の誰かの可能性が高いぐらいは言っても良さそうな気がします。

そうなると後は名前にある地名での関連を考えるぐらいになります。茅渟王茅渟は素直に考えて河内に関連した地名です。そうなると難波皇子の子ども(春日老女子の孫)ぐらいに「漢王の妹の大俣王」がいた可能性がありそうです。漢王も完全に謎の人物ですが系図にさえ残らないぐらいの人物なのですが、難波皇子家で部屋住みで終わった程度じゃなかったかと見ます。ここまで考えると難波皇子家は春日母系じゃないかの推測が出てきます。ほいじゃ春日氏とはどんな氏族かと言うと、

孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命を祖とする和珥氏(和珥臣)の支族。姓は臣。和珥氏一族の一部が大和国添上郡の春日に移住し、その地名を姓として名乗る。春日姓を称し始めた時期は明らかでないが、雄略朝以降と考えられている。なお、枕詞として「ハルヒ(春日)のカスガ」という言い回しがあり、転じて「かすが」に「春日」の漢字を当てるようになったとされる。

和珥童女君(春日和珥臣深目の娘:雄略妃)、糠君娘(和珥臣日爪の娘:仁賢妃)、荑媛(和珥臣河内の娘:継体妃)と、多数の后妃を輩出し、天皇外戚として勢力を持った。その後、嫡流は大春日氏を称し、ほかに大宅氏・小野氏・粟田氏・柿本氏の諸氏が分立する。

う〜ん困った。まさに神話の時代に大王家の外戚として勢力を揮ったぐらいしか言いようがなく、さらに根拠地は河内ではなく大和です。難波皇子と春日母系を結びつけるには根拠が薄弱なところがあります。春日氏の飛び地みたいなものが河内にあったにしても良いのですが、難波皇子の妻に注目してみます。実はこれが「不詳」なのです。難波皇子家は栗隈王 → 美奴王と続いて行き、橘氏に続く系譜をたどるのですが、難波皇子の妻は不詳だそうです。不詳と言う事はそもそも妻が1人だったか複数だったかも不詳と言う事になります。

ここで強引なのですが、難波皇子の妻の1人に河内に関連した氏族の娘がいたんじゃないかと推理します。また難波皇子は母系の春日氏でなく、妻の河内系氏族を頼って独立し「難波」の名前が付けられたとします。そうでもしないと難波皇子が難波に行ってくれないからです。そういう難波皇子の子どもに漢王がおり、さらに妹の大俣王がいたんじゃないかぐらいです。そいでもって茅渟王は母系の難波皇子家を頼って難波で独立を果たしたぐらいです。

まあ春日氏も河内にまったく無関係と言う訳ではなく垂仁紀39年の注釈にこういう記載があります。

一云、五十瓊敷皇子、居于茅渟菟砥河上、而喚鍛名河上、作大刀一千口。是時、楯部・倭文部・藭弓削部・藭矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・藭刑部・日置部・大刀佩部、幷十箇品部、賜五十瓊敷皇子。其一千口大刀者、藏于忍坂邑。然後、從忍坂移之、藏于石上藭宮。是時、藭乞之言「春日臣族名市河、令治。」因以命市河令治、是今物部首之始祖也。

石上神宮の神宝にまつわるお話で、概略を書けば、大量の武器を作りこれをまず忍坂にまず収蔵した。その後に石上神宮に移し、その時に神託により春日臣市河が管理する事になった。その春日臣市河が物部氏の始祖になったぐらいです。ただ物部氏神武天皇と一緒に船に乗ってきた家系伝説がある氏族です。書紀の記載は物部氏の始祖になったと言うよりは、物部氏石上神宮を管理するキッカケになったぐらいに読むべきなのかもしれません。ちなみに現在も石上神宮の神主は物部氏の末裔です。ついでに注目したいのは五十瓊敷皇子です。記紀や伝承では河内に足跡が多くみられるようです。とりあえず上の引用文でも「居于茅渟菟砥河上」となっています。後は手を抜いてwikipediaからですが、

ある種の英雄的・伝説的人物になっています。垂仁紀の注釈はこれまた力業で読めば、春日氏と物部氏の関係の深さを示したものかもしれません。難波皇子家がそれなりに栄えたのなら、かなりの有力氏族のバックアップが必要で、河内なら物部氏が代表的になります。茅渟王家もまた大きな力を有していたとしか思えませんので、同様に物部氏を含む河内系氏族のバックアップがあった気がしています。


押坂王家と茅渟王家は異母兄弟を始祖としますが、母系の点で異なるとまず考えます。では押坂王家の田村皇子と茅渟王家の宝女王の間の2人の息子はどうなるかです。中大兄皇子は確実に息長母系を意識しています。大海人皇子は同母兄弟ですからやはり息長母系だろうかです。これは少々疑問があります。後年の2人の確執と支持勢力を考えると母系は異なると考えたいとところです。大海人皇子も押坂王家を継げる立場にはありません。なんと言っても兄貴に中大兄皇子がいます。大海人皇子も独立するには誰かを頼る必要があり、これを母系に頼った可能性があります。つまりは宝女王の実家である茅渟王家です。

実はこう考えると個人的な謎がいくつか解ける部分があります。私は大海人皇子中大兄皇子の10歳下に設定しています。つまり乙巳の変時に9歳になります。そこから孝徳の難波朝が始まりますが、孝徳崩御が17歳の時になります。そこから斉明時代が7年続くのですが、大海人皇子が台頭してくるのはこの時期からです。これはヒョットして斉明天皇大海人皇子を実家の茅渟王家の後継者に考えていたんじゃないかと見ています。茅渟王家には孝徳の息子の有間皇子がいますが、斉明4年に殺されます。そうなると茅渟王家の血統は中大兄皇子大海人皇子に絞られます。

中大兄皇子は息長母系の押坂王家の人間になっていますから、頼ってきた大海人皇子を斉明が可愛がった可能性はあります。その辺はヒョットして古代的常識だったのかもしれません。茅渟王家は物部氏との関連が深いとしましたが、守屋戦死後に物部氏の残党氏族は茅渟王家を応援していたんじゃないかと想像しています。それだけでなく蘇我宗家滅亡後の蘇我氏も、入鹿を殺した押坂王家よりも茅渟王家支持に流れた可能性も考えています。孝徳の難波朝でも、斉明時代も蘇我氏は高い地位を占めているからです。つうか乙巳の変で入鹿暗殺に加担した分家蘇我氏は押坂王家の中大兄皇子に附いたと言うより茅渟王家の孝徳に附いた可能性も考えています。

その力があったからこそ孝徳は即位し、都を難波に置いたぐらいの考え方です。孝徳と斉明は姉弟喧嘩しており、その結果が孝徳置き去り事件に発展し飛鳥に都が移りますが、斉明時代でも相変わらず茅渟王家が実権を握っていた可能性です。

そんな強大な茅渟王家を大海人皇子が受け継いだら中大兄皇子には強力過ぎるライバルになると言うところです、そのために最初は4人の娘を大海人皇子に嫁がせて懐柔策を取り、近江大津に遷ってからは暗殺を狙う関係になって行ったと見れないかです。壬申の乱の前に大海人皇子が吉野に逃げたのも、河内の茅渟王家の力をアテにした部分が大きかったぐらいです。たしかに押坂王家はありますが、ここは息長氏の出店みたいなものであり、中大兄皇子にとっては頼り切れない弱さがあり、大海人皇子にとっては容易に粉砕できると見れるぐらいではなかったかです。


まあ母系だけですべてを語るのは無理がある気もしますが、こういう見方も可能ぐらいのお話でした。