ツーリング日和20(第15話)三木の殿様

 金鑵城での取材が終わったらお昼ご飯にGOだ。こういう時に男とマスツーなのは心強いんだ。それも秋野先生と一緒だからどんな店だって遠慮なんかいるものか。

「そうでもないですよ」

 金鑵城から県道七十九号線に出てひたすら北上してた。かなり走ったけど、潜ったのは中国道のはずだ。そこから連れて行かれたのは、

「かいな製麺所です」

 製麺所ってなってるけどうどん屋だ。あははは、秋野先生でもライダー飯なんだ。不満じゃないよ。秋野先生もバイク乗りだって思っただけ。バイクならこういう店が良いよ。かなり人気のある店だから並んだけど二人なら全然苦じゃないもの。讃岐うどんみたいだったけど、味も余裕で合格だ。

 そこから帰り道になるのだけど、途中のサンマルクでお茶にした。そのまま帰っちゃうのは愛想がないものね。そこから聞かされたと言うか教えてもらったのが三木の殿様の話だった。

「おもしろくないと思いますけど・・・」

 三木の殿様ぐらいは地元だから知ってる。だって秀吉を迎え撃って大籠城戦をやってるからね。大河で太閤記のような秀吉が活躍する話なら多かれ少なかれ出て来るもの。それだけじゃない、落城した時に城兵の命を救う代わりに切腹してるんだ。

 だから今でもその時の城主である別所長治の事は地元の人間なら誰でも知ってるし、それを称える祭りだってあるぐらい。全国的な知名度は高くないけど地元では英雄で良いと思う。上の丸公園に行けば、長治の辞世の句の碑だとか、長治が馬に乗っている石像なんかもあるよ。

「その別所氏のお話なのですが・・・」

 昔からの大名じゃないの?

「そんな簡単な話じゃないのです」

 室町時代の播磨の守護が赤松氏ぐらいは聞いたことがある。足利尊氏に味方した赤松円心からそうだったはず。

「よくご存じですね、赤松氏は嘉吉の乱で一度は滅亡します」

 それも歴史の授業で習った気がする。たしか時の将軍を暗殺したとかしないとか。その時に滅亡した赤松氏だけど、あれこれあって政則って人の時に復活したのか。

「政則は赤松氏中興の祖と言われてはいますが、なかなか波乱万丈の生涯を送っています」

 そりゃそうだろ。一度滅んだ家を復活させてるんだものね。とにかく余計な枝葉が多いみたいだけど、話は別所氏の先祖に絞ってくれているみたいだ。話は三木合戦で切腹した長治の四代前の則治って人の話になるみたい。あれっ、政則と則治って名前が似てるな。

「片諱といって、主君から一字を頂いたはずです」

 ある種の御褒美みたいなもんだろうな。さて赤松政則は播磨守護に返り咲いたのだけど、世は応仁の乱が始まり戦国時代に突入としようぐらいで良さそうだ。応仁の乱と直接関係してるかどうかはわかんないけど、山名氏が播磨に攻め込んできたみたいなんだ。

「政則は播磨にいられなくなり堺に逃げ込むことになります」

 また滅亡したのかよ。その時に堺まで逃げた政則の側近として頭角を現したのが別所則治だったのか。則治たちの尽力もあって赤松政則は山名氏を播磨から追い出すのに成功するのだけど、

「その時に東播八郡の守護代になっています」

 それまで守護代は宇野氏だったのだけど、則治は東半分の守護代になったんだな。そこから別所氏は栄えて長治の三木合戦になるってことか。

「シンプルにはそれで良いのですが、則治の出自がはっきりしないのです」

 別所氏って赤松氏の一族、それも名門だったと聞いたことがあるけど。

「なんにも裏付ける資料が残っていないのです」

 則治が台頭してからの記録はあれこれあるそうだけど、則治がどこから出てきた人なのかはっきりしないってどういうことだ。

「そもそもになると、何故に別所氏だったかまでになります」

 元が赤松氏だったとしても、分家とかになると領主になった地名を家名にするのはポピュラーだそう。それぐらいは聞いたことがあるよ。徳川家の親戚だって松平っているものね。

「松平はまた違いますが、藤原氏だって近衛家とか、九条家とかあるでしょう」

 あれって全部藤原氏だったのか。道理で途中から藤原って苗字が教科書に出て来なくなったのかやっとわかった。だったら赤松氏の一族の誰かが別所ってところの領主になっただけなんじゃない。そうだそうだ、三木にも別所ってところがあるぞ。

「別所氏が別所を名乗った説の一つに加西に別所城を作ったからと言うのもあります」

 聞いたことがないお城だな。

「今でも河内城としてハイキングコースにもなっています。伝承では・・・」

 赤松氏は堀川大納言定房の孫の源師季から始まって、その子どもの季房の時に佐用に移り住んだそう。その季房の孫の頼清が加西の別所に住んだから別所氏を名乗ったになってるのか。

「それはあくまでも伝承と言うか先祖伝説みたいなみたいなもので、師季は定房の孫であるのは間違いありませんが、季房は定房の祖父の子です。季房も実在の記録のある人物ですが、さして出世も活躍もしなかった人物であり、佐用に移り住んだ記録もありません」

 えっと、えっと、要するに源定房とは一族ではあるけどかなり遠い親戚ってことか。それとさぁ、ホンマに赤松氏の先祖なんかいな。

「完全には否定できないぐらいですがとにかくマイナー人物です。それと佐用は播磨でも西の端になります。赤松円心も出自がはっきりしない人物ですが、赤松氏の勢力が東播にも及んだのは円心が播磨守護になってからで良いはずです」

 佐用ってそんなところだもの。赤松氏は鎌倉幕府滅亡の時から活躍しだすけど、その遥か御先祖様の時代の頼清の時に加西の領主であったは無理があり過ぎる気がする。だったらどこの別所だったのよ。

「わかりませんが、播磨の別所姓のルーツは姫路の別所の説があります」

 播磨の別所は鹿島神社の麓ぐらいになって、そこは大徳寺の塔頭の寺領だったらしい。秋野先生の説に過ぎないけど、円心の時代に赤松氏の誰かが領主になって別所姓を名乗った可能性があるかもしれないって。

 でもね、赤松氏は嘉吉の乱で一族総崩れみたいになって一度は滅んでるのは史実だ。その時に別所氏だって巻き込まれて共倒れになってるはずだろうって。それはそうだろ。そこから政則による復活劇が起るけど、

「政則が播磨守護に返り咲いたのは長禄の変になりますが、この時に政則はまだ三歳なのです。だから復活は有力重臣の手で行われています」

 まだ三歳だって! そうなると、

「政治の実権は政則にはなかったはずです。そして山名氏の侵攻があったのが二十九歳の時で、この時から則治が突如のように出現します」

 なんかありそうだけど、わかんないな。

「政則は決して凡庸な人物ではありません。成長するとともに自分で実権を揮いたくなったと考えています」

 そんな時に起こったのが山名氏の侵攻で、

「堺に逃亡した時には側近だけだった可能性はあると見ます」

 そうなりそう。そこで才覚を現したのが則治なのか。だとすると、

「政則は他の勢力を抑え牽制するために則治を東播の守護代まで引き立てられたと見ています」

 それならわかる。ドサクサ状態だし、それに応えるぐらいの才能も則治にはありそうだ。でもさぁ、なんで別所なんだ。

「政則の側近になるのは出自が重んじられます」

 そういう時代なのは聞いたことがある。才能があっても生まれが悪いと見向きもされない時代だったらしいものね。この生まれとか出自ってやつは今だってウルサイ人はウルサイぐらいだから、当時なら絶対だったと思う。

「則治は政則の側近になれるぐらいの出自はあったことになりますが、当時だって出自は捏造できたのです」

 それ知ってる。美濃の蝮の斎藤道三だ。

「これもあくまでも仮説ですが、則治は側近になれるだけの出自を得ることは出来ましたが、赤松氏の一族であるとするのは無理だった可能性はあると考えています」

 さすがに地元だからバレるかもしれないよね。えっ、そうであれば則治って赤松氏と関係なかった人になるじゃないの。でも別所氏だし、赤松氏の一族ってなってるよ。

「そこなのですが、赤松氏でも別所氏は名門の家名だったと見ています。政則は則治を引き立てるために別所の家名を継がさせた可能性があると考えています」

 播磨の斎藤道三みたいな話じゃないの。道三も、

 松波 → 西村 → 長井 → 斎藤

 こんな感じで名跡を受け継いだはず。

「あれは小説の創作部分が多いと今はなっていますが、則治が別所氏を名乗った、もしくは名乗れたのに似たようなカラクリがあったと考えています」

 これは蛇足みたいなものだけど、家系伝説では頼清って人が別所氏の初代にはなってる。だけど赤松円心の弟の円光って人が別所氏の名跡を継いだともされてるそうなんだ。赤松円心は中興の祖と言うより実質的に赤松氏の初代みたいな人だから、

「この辺は円光でなくその子であるとなっていたり、円心を継いで赤松家の当主となった則祐の子の持則って説もありますが、注目して欲しいのは誰であっても赤松氏の嫡流に非常に近い家柄なのです」

 江戸時代なら御三家みたいなものか。

「円心より前から別所氏が存在していたかどうか伝説の彼方ですが、円心以降は名門の家柄として扱われているのは間違いないと考えています」

 もちろんだけど殆どが仮説と言うより推測とか、憶測みたいだって秋野先生は笑ってたけど、だからと言ってこれを否定できる証拠もないのが歴史ってことか。こりゃ、面白いわ。こんな授業だったら熱中できたし、歴史だってもっと興味を持てたのに。

「そうは言いますが、今日の話だって、ある程度の歴史の基礎知識がないとチンプンカンプンの話になってしまいます。マナミさんにあれほどの歴史知識があったから楽しんでもらえたのです」

 そ、そうだよね。その基礎知識を覚え込むのが歴史の授業になるのだけど、あんなものどこで応用に使えるんだ。

「それは人それぞれでしょうが、たとえばこうやってマナミさんと話が出来るのに使えます」

 さらに付け加えて、それこそ趣味として楽しんで人生を豊かにすることも出来るのか。学校の勉強なんてなんの役に立つのかってことが多かったと言うより、学年が上がるほどそんなのばっかりにしか思えなかったよね。それこそ、

『こんななんたら公式とか方程式を覚えるのに何の意味があるんだ』

 たしかにあれだけ苦労して覚えた知識のほとんどはその後の人生の役には立っていないと思う。でもまるっきり無駄かと言えば、

「とくに高校ぐらいまでなら活用されずに終わるものは多いと思います。しかし高校生ぐらいなら将来のどこで活用されるかは未知数だと考えています。大学でもそうですし、社会人になってからでも、思わぬ知識が必要になったり、思いもよらないことに熱中するのはありますからね」

 その言葉は今ならわかる気がする。あの頃には、

『勉強できるのは今しかない』

 事あるごとに言われたものだ。反発と反感しか出てこなかったし、ひたすら勉強は苦痛だったけど、こんな時に役に立つものなんだって。

「人生ってそんなものだと思いますよ」