ツーリング日和20(第23話)温泉話

 武田尾って具体的にどこにあるかだけど宝塚の北側の山の奥なんだ。あの辺の地形を大雑把に言うと宝塚ぐらいまでが平地で、その北側ぐらいから山地になるぐらいで良いと思う。ここに温泉があるのだけど見つかったは寛永十八年っていつなんだよ。

 西暦なら一六四一年になるみただけど武田尾直蔵が薪拾いの時に見つけたとなってる。この武田尾直蔵って人は豊臣方の落ち武者って事になってるけど、そうなると大坂夏の陣の落ち武者になるよな。

 大坂夏の陣は慶長二十年じゃわからんやろうが! 西暦なら一六一五年だから夏の陣から二十六年後の話になるはず。武田尾直蔵って当時いくつだったんだろ。四十歳から五十歳になると思うんだけどね。

 武田尾に行くのは電車が便利なんだ。福知山線なら宝塚から生瀬、西宮名塩、武田尾だからね。宝塚から三つ目の駅だし、とくに西宮名塩は大きなニュータウンが作られていて大阪へのベッドタウンになってる感じだ。

 その西宮名塩の次の駅だから感覚的にそんなに秘境感はなさそうに思うのだけど、それもこれも福知山線があるからの気がする。道路で言えば宝塚から三田まで名塩道路があるし、これは国道百七十六号で、大阪から宮津を結ぶ道になる。マナミも三田から北に行くのによく使っている。

 名塩道路だけど昔から街道としてあったで良さそうだ。名塩も今はニュータウンになってるけど昔は名塩紙の産地として有名だったとなってるのよね。三田も九鬼藩があったから、名塩道路がなかったらどうやって大坂に出るかの話しになるものね。

 だけど名塩あたりから武田尾に北上する道は今も見当たらないのよ。明治になって福知山線が敷かれるまでどうやって行ってたのだろうって思うところなんだ。昔の人の足は強かったから山越えだったのかな。

 そうなのよ、宝塚からそんなに遠くないのに武田尾って別世界みたいな秘境になってるで良いと思う。でもなんだけど武田尾温泉は江戸時代からそれなりに栄えてたみたいなんだ。つまり、そんなところまで行ってわざわざ温泉に入ろうとする人が多かったってこと。

 その辺についても瞬さんに教えてもらったんだ。温泉は今でも貴重なものだけど、昔は桁違いに貴重で珍重されてたそうなんだ。どうしてだって聞いたら、

「今みたいにボーリングして掘れませんから、自然に湧き出たものしかなかったからでしょう」

 そ、そうよね。今なら温泉ってボーリングして掘り出すものだし、神戸市内にもそうやって掘り出した温泉が、たしかHATぐらいにもあったはず。でもボーリング技術がない時代なら地面に湧き出た温泉しか利用できないもの。

 それと近畿には昔からの温泉は少なかったそう。瞬さんは日本書紀まで読んでるみたいだけど、日本書紀が書かれた時代なら、

「有馬と白浜しかなかったで良さそうです」

 他に出てくるものとしたら、いきなり道後温泉って言うんだよ。道後温泉って愛媛の松山じゃない。あんなところまで時の天皇が温泉ツアーに出かけてるって聞いてビックリしたもの。道後温泉なんて今ですら手軽に行けるようなところじゃないもの。たとえばモンキーならどうやって行くかわかんないぐらい。

 それだけじゃない、道後温泉も遠いなんてものじゃないけど、有馬だって、白浜だって近いとは言えないよ。その頃の都は奈良にあったはずだけど、古代だよ古代。行くだけでアドベンチャーツアーみたいなものじゃない。日本人の温泉好きは異常だ。

「それですが、温泉にはあれこれ効果がありますよね」

 それぐらい知ってるよ。肌が綺麗になったり、胃腸の調子が良くなったり、他にもなんたらに効くって効能書きがごっそり書いてあるもの。

「これも現在との違いですが、昔は医療と言ってもプアでした」

 それも聞いたことある。昔のセレブはお殿様だけど、そのお殿様が病気になってもたいした治療が無かったとか。これが庶民になると、

「江戸時代にも町医者はいましたが、坊主とセットで呼ばれるなんて話もあったぐらいです」

 それだけ医療がプアだと温泉効果って、

「そういうことです。それこそ万病に効くありがたいものでした」

 それも聞いたことがある気がする。今でこそ温泉は観光旅行に行って入るものだけど、かつては病気治療のための湯治客が多かったらしいもの。病気治療だから長期滞在してひたすら温泉に入ってたんだろうな。

 そんな温泉の数が限られてるから遠くたって、それこそ川を渡り、山を踏み越えても目指したのか。今とは感覚が違うのがわかる気がする。武田尾だってあんな不便そうなところにあるのに、

「そこに温泉があると言うだけで人々は目指したのだと思います」

 考えてみれば有馬温泉だってトンデモないところにあるものね。地図で見れば六甲山を越えたらすぐみたいに見えるけど、今ですら行くのは手軽とは言えないもの。たとえばモンキーなら六甲山トンネルを越えて唐櫃から有馬街道で行くになるはず。

 新神戸トンネルを使っても良いけど、あんなものが江戸時代からあるわけないから、昔は六甲山を越えてたことになる。

「魚屋道は有名ですけど」

 それどこなんだと聞いたら、深江から有馬温泉まで毎日魚を運んでた道だそう。有馬温泉で魚を食べたい人がそれぐらい多かったことになるけど、古代の貴族とかそれこそ天皇さんはどうやって行ってたの。

「地形からして、やっぱり宝塚から名塩道路を通って有馬街道だったと思います」

 ふへぇ、奈良からだよ。京都に都を移してからだって遥かなるみたいなものじゃない。まさしくセレブ連中の優雅な物見遊山だ。まあ、それぐらい温泉ってありがたいものだったんだろうな。

 武田尾温泉が栄えた理由は他にもあるかもしれないと瞬さんはしてた。たとえばだよ、京都や大阪から温泉に入りたいと思えば有馬じゃない。古代からの名湯だものね。だけどさ、そういうメジャーなところって今だってそうだけど、

「昔もそうだと思います。宿泊費も高かったと思います」

 有馬なんてそういう宿泊客のためにわざわざ深江から魚を運ばせていたぐらいだものね。深江から有馬まで魚を担いで運んだりしたら、江戸時代でも値段が高くなる。そんな高い魚料理代を払える人じゃないと利用できなかったかも。

「その辺は温泉宿もピンキリでしょうが、江戸時代の有馬温泉が基本的に高級志向だったぐらいは言っても良い気もします」

 それに比べたら武田尾温泉の秘境感は半端じゃない。だから庶民向きの温泉宿だったのか。行くのは半端じゃないぐらい大変だろうけど、庶民の懐は寂しいものね。それこそ温泉には変わりはないって感じで押し寄せたのかも。

「押し寄せたって程じゃないと思いますよ。それは・・・」

 現在存在する温泉宿は二軒だそうだけど、かつては四軒だったそう。でもその四軒だってわりと最近の話でしょ。江戸時代とかはそれこそずらりと軒を並べてた時代が、

「そういう想像をしたくなるかもしれませんが、武田尾温泉があるところはそれこそ谷の奥なのです」

 瞬さんもグーグルマップを見た程度だとしてたけど、それ以上の温泉宿が建てられるスペースがなそうなんだって。この辺は軒数だけなら昔は小さい宿だったから増えるかもしれないけど、

「現在の温泉街みたいなものをイメージするには無理がありそうな気がします」

 その辺は行ってみてのお楽しみかな。

「今はネットであれこれ調べられますが、それでも実際に行って見て知ることの情報は大きなものです」

 それは絶対にある。ネットの情報量は充実してるけど、それでも実際に見ると全然違うことはいくらでもある。

「西宮砲台なんてそうだったでしょう」

 うん。そうだった。あれは西宮のえべっさんの南側の浜にあるんだ。そこにあるのだけはマナミでも知ってたのだけど、

「幕末の頃に勝海舟が大阪湾防衛のために築きましたが、有名なエピソードは・・・」

 砲台が完成して中から実際に大砲を撃ったら砲煙でエライことになり、こんなもの使い物にならないってされた間抜けな話だ。だからずっとショボイものだと思い込んでたもの。だって幕末とは言っても江戸時代だものね。

 でもって見に行ったんだけど、あのあたりは綺麗に整備された公園になってた。もっとも浜と言っても向かいに人工島が出来てるから、見晴らしとしてはそんなもの。バイクを停めて歩いて行ったんだけど西宮砲台を見た瞬間にビックリした。

 円形の建物なんだけどまず存在感が半端ない。砲台と言うより要塞って感じがしたもの。今は砲台の後ろに団地かマンションみたいなものがあるから画像で見たら小さそうに見えるけど、実際に見ると途轍もなく大きいんだよ。

「高さは十二メートルですが、ビルなら四階建てぐらいになります」

 出来た当時は周囲の高い建物と言ってもしれてただろうから、まさに巨大建造物として良いと思う。その上の方に大砲を撃つための窓みたいなものがぐるりって感じであるんだ。あんなものがあるだけで黒船だって警戒すると思うよ。

「だと思います。撃ち合いになったら黒船の方が不利のはずです」

 当時の黒船は木造船なんだよ。黒船だって大砲の弾が当たれば被害を受ける。だけどさ、あの砲台に黒船の大砲の弾が当たってもビクともしない気がするもの。命中率だって海の上で波に揺れながら撃つのと陸上からだったら砲台の方が有利そうじゃない。

「上陸戦をやっても落としにくいと思われそうです」

 近くまで攻め寄せたってどうやって砲台の中に入るんだろうと思ったぐらい。あんなものの相手をするより、他のところから上陸しようって考えるのじゃないかな。それだけに砲煙で使えないのが惜しいよね。

「あのエピソードなのですが・・・」

 当時は黒色火薬と言って、今の花火と同じらしい。だから煙は出るのだけど、

「思うのですが軍艦から大砲を撃っても同じ状態になるのじゃないでしょうか」

 当時の軍艦って、船の横っ腹に大砲を並べるスタイルだけど、あそこから撃った砲煙は船内に籠るよね。

「当時のことですから換気扇みたいな排煙装置があったとは思えません。だからそうなってしまうのは当時的には仕方がないぐらいで、それを我慢して使うのが常識だった気がしています」

 ここからは勝海舟の人物みたいな話になるけど、勝海舟のエピソードして有名なのは西郷隆盛と談判して江戸無血開城を成功させた話だと思う。だけどね、勝海舟は賢い人ではあったけどとにかく角の多い人物でもあったらしい。

 なんて言うか、周囲の人物がバカに見えるだけでなく、そういう態度をあからさまに示すタイプかな。それでも優秀だから幕府も登用してたけど、そういう性格だから敵も多かったぐらいかな。

「海舟は家茂派でしたから最後の将軍の慶喜と仲が悪かったのもあるそうです」

 ごく簡単には敵が多い人物で、何かあれば海舟の足を引っ張り、失脚させようとするのがウヨウヨしてたぐらいらしい。えっ、それってもしかして、

「あると思うのです。ああいうものは今でも同じですが、完成すれば上司とかが検分に来るのです。そういう人物って大砲の砲煙がどうだとか、実戦の常識なんて知りませんから、立ち込めた砲煙にケチを付けまくった報告書を出した気がしています」

 なんかありそうな気がする。でもさぁ、幕末って色んな意味で危機感があった時代でしょ。そんな時に国防を無視して足の引っ張りなんてするのかな。

「そりゃしますよ。国防なんて大きすぎる課題より、目先の地位とか、出世にしか目がいかないのが人間です。そのためには組織にとって必要な優秀な人材でも敵とか、邪魔とみなせば排除に走ります。それは今でも変わりません」

 時代が変わっても人がやることは同じなんだなぁ。