別所氏の源流

 別所氏は故郷で秀吉と三木合戦をやった大名ですが、この別所と言う姓がどこから出たのかです。これも故郷に別所の地名があり、そこからぐらいと漠然と考えていましたが、どうやら違うようです。お手軽にwikipediaより、

氏祖は平安時代、赤松氏の祖である赤松季房の孫・赤松頼清とされている

 赤松季房については昨日やったのでパスにします。この時期の赤松氏ですが佐用を根拠地ぐらいにして活動しています。佐用ってどの辺になるかですが、播磨でもかなりどころでない西寄りで、美作国境まですぐぐらいのところです。

 円心前の赤松氏については殆ど資料が残されていませんが、鎌倉時代での武家としての地位も低かったとして良いでしょう。この時代の一流とされる武家は鎌倉御家人に名を連ねていますが、赤松氏はそうじゃなかったはずです。円心も悪党と呼ばれていたはずです。

 赤松氏は佐用あたりを中心に勢力を広げ南北朝の動乱に乗じて名を挙げるのですが、赤松氏が東播磨まで勢力圏を拡張したのは播磨守護になってからになります。その勢力拡大過程を研究した論文に詳細に検討されていました。

 この頼清も記録のない人物ですが、加西市の伝承に加西に別所城を築いて本拠地とし、以後別所氏を名乗ったとありました。読んだときは、へぇっと思ったのですが、頼清時代の赤松氏が加西にまで勢力を広げられたかの疑問がどうしてもあります。

 この辺は何かで手柄を挙げて鎌倉幕府なりからご褒美としてもらった可能性はありますが、それならそれで家系伝説に残りそうなものです。ついでに御家人にもなりそうじゃないですか。


 この別所氏でなんですが、赤松氏はかなり名門な家柄として扱われていた節はあります。wikipedia程度しか根拠が無いのですが、

室町時代には、赤松敦光(あつみつ、赤松則村の弟・円光(の実名)またはその子)や赤松則祐の三男の赤松持則が別所氏の名跡を継いだ

 円心の弟(またはその子)にしても、円心の次の当主である則裕の三男であれ赤松氏の嫡流に近い人物です。そこまでの人物が名跡を継ぐとなれば、江戸幕府なら御三家とか、親藩クラスじゃないかと考えられるのです。

 それと名跡を継いだのなら、その時に別所氏に当主がいなかった、ないしはよほど当主として相応しくなかった可能性もあります。つうか、円心なり、則裕の時代に頼清からの別所家は一度は途絶していたのではないかとも推測されます。

 ここも言い出せばキリがないのですが、名跡を受け継いだのではなく円心の弟(またはその子)にしても、円心の次の当主である則裕の三男が起こした家かもしれませんが、資料はすべて沈黙しているようです。

 あくまでも個人的な推測に過ぎませんが、赤松氏は佐用から山崎に勢力を広げ、揖保川沿い下って南下して行ったと見ています。この時に、姫路の別所(鹿島神社の麓あたり)に拠点を構えた赤松氏の誰かが別所氏を名乗ったぐらいです。
 
 別所氏が円心時代にはどうやら存在していたのは確認できそうですが、ここで播磨に大事件が勃発します。嘉吉の乱です。この時に赤松氏は壊滅状態になります。上述した加西の伝承でもこれに参加して一度は滅亡したとしています。

 つまりって程の話ではありませんが、別所氏は円心や則祐時代と嘉吉の乱でも滅亡したとして良いはず。そんな別所氏が再興したのは・・・長くなるので明日に続きます。