播磨守護赤松氏の源流

 室町期の播磨の守護は赤松氏なのですが、この源流はお手軽にwikipediaより、

赤松氏は村上源氏・堀川大納言定房の孫の源師季に始まり、師季の子の源季房(季方とも)が播磨国佐用荘に配流され、その後裔の則景が建久年間に北条義時の婿になった縁で赤松村地頭職に補任された

 あははは、知らない名前のオンパレードです。まず源定房が大納言であったのは史実です。また源師季が定房の子の宗忠の子(つまりは定房の孫)であり、宗忠も実在しています。

 師季は綾小路の姓を名乗り、稲毛重成の娘を室に迎えています。ここは知ってる人は知っているかもしれませんが、稲毛重成の室は北条時政の娘であり、師季の娘はあれこれあった後に北条政子の庇護を受け、土御門通行の室になっているのも史実です。

 師季の最終官位は正三位・侍従・周防権守ですが、村上源氏の興亡の中で鎌倉幕府との交流で要的な人物として扱われていたぐらいはわかります。


 問題は師季の子の時代です。名前として残るのが、

    師成、師行、季房
 このうち赤松氏が祖としているのが季房です。これまたサッパリわからない人物なのですが、資料の声を聴くの調査が興味深いものになります。

寛治七年に(一〇九三)丹波守に補任された季房は顕仲の弟であるが、顕房(一〇九四年に五八才で卒)の晩年の子と思われる。寛治四年に前斎宮媞子内親王未給で叙爵しているが、一〇才前半であったのではないか。

 この調査は詳細なものですが、興味のある方はお読みください。ここで注目したいのは、

    季房は顕仲の弟であるが、顕房(一〇九四年に五八才で卒)の晩年の子と思われる
 顕房って人も子どもがごっそりいてややこしいのですが、定房の祖父にあたる人になります。つまり定房からすれば叔父にあたる人物になり、定房の孫である師季から見れば遠い親戚ぐらいになってしまいます。う~ん、てなところですが、

なお、季房は顕房の子であるが、尊卑分脈では顕房の子雅兼の子とされてしまった。顕房の晩年の子であったこととともに、出世が十分ではなかったことも、情報の混乱を生んだ原因であろう。その子忠房は「従五上」、孫家房は「従五下、加賀守」と記されているが、関係史料を検索しても管見の限り確認できない

 かなり自信がある調査として良さそうです。この調査を否定できる知見などあるわけがないいので、

    季房は師季の子ではない
 こう結論とします。そうなると色んな考え方が広がるのですが、まず季房が本当に赤松氏の先祖かと言えば疑問がテンコモリぐらいでしょうか。まず季房が播磨に配流された可能性は低そうです。

 季房は朝廷での活躍は乏しく、晩年は不遇を嘆いていたかもしれませんが、資料に罪を得て配流されたは無さそうです。ここはもう言い切っても良い気がしますが、季房は播磨にも配流されず、赤松氏とは無縁の人であると。

 ですが誰かが播磨国佐用荘に配流された可能性だけは残ります。その人物が村上源氏の流れの人物であると自称した可能性はあると考えます。いわゆる貴種流離譚的な話を作ったぐらいです。

 そこで使ったのがうだつの上がらない季房だった可能性です。そんなものが通用したかですが、当時なら余裕で通用したかと考えます。ただどの村上源氏の流れなのかの知識が不十分で定房の子孫としたぐらいです。

 これを言い出すとその話を作り出したのが円心の可能性も余裕であります。赤松氏は円心が一代で台頭させたような家です。南北朝の動乱期ですが、まだまだ出自や家柄が大きな力を持つ時代です。

 武家的には清和源氏の方が良い気もするのですが、さすがにそれは難しいと見て、源氏でも村上源氏を選んだぐらいです。

 こういう捏造はバレたらあまり良くないのですが、村上源氏って家系図を見ただけで、どれだけ子どもがおるねんってぐらいいます。その中の端っこの方のうだつの上がらない季房の子孫なら京都の貴族でも、

    そんなんおりましたか?
 これぐらいで終わったのじゃないかと考えています。後は実力です。室町期に大実力者になっていますから、赤松氏の先祖伝説にあえて異議を唱える人はいなくなり、赤松氏の主張が尊卑分脈に記載されたぐらいです。

 もちろん可能性だけで言えば季房ではなく季房の子である可能性は残ります。季房でさえ殆ど資料上に記録は残されていないようですが、季房の子となるともっと乏しくなります。

 また子といっても、形態はさまざまですから、例えば季房が丹波国司時代に手を付けた女の子どもなんてのもありますものね。その女がれこれあって播磨の佐用荘に流れ着いて子どもを季房の子と言ったとかです。

 なんも見つからないかと思ってのムックでしたが、やってみたら案外面白かったです。