第1部一の谷編:アラウンド・ワールドと三草山合戦本番

    「カランカラン」
彼女の登場、本当に素敵だ。もう意識しまくっている上に、あの天使のコトリちゃんなのですから落ち着かせるのが大変なので私はカナディアン・クラブ。これはライ・ウイスキーなのですが、理由は忘れましたが陽気にさせてくれるウイスキーと呼ばれています。とりあえずそんな力でも借りないとまともにしゃべれません。これはジンにパイナップル・ジュースを加え、ミントリキュールやペパーミントを加えてシェークしグリーンミント・チェリーを添えたものです。このカクテルは航空機での世界一周路線が運航された時のカクテル・コンペの作品ですが、世界一周は無理でもまた彼女とハイキングに行って見たいものです。誘ってみようかな。
    「三草山合戦の続きやるでぇ」
    「ほいきた」
    義経は小野原に向かったんやけど、京都から小野原までの距離を延慶本では二日路、つまり歩いて二日の距離と書いてる。つまり当時の距離感覚でも二日かかる距離で、計算してみると八〇キロメートルぐらいになるんや。京都から一の谷までの地図見ながらやろ、

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    京都から篠山では山陰道でそこから小野原、さらに三草山合戦てな感じやねん」
    「ほんじゃ義経は八〇キロメートルを一日で駆け抜けたの?」
    「それはわからん。小野原到着は戌の刻つまり二〇時って書いてあるから、卯の刻の六時に京都を出発すれば、時速六キロメートルで一三〜一四時間ちょいで到着は可能といえば可能やねん。ただ徒歩の従者がいれば難しくなるけど騎馬だけなら不可能やない。」
    「じゃ一日で駆け抜けたの」
    「微妙。従者なしで御大将が騎馬だけで駆け抜けたってのも無理がある気がする。たぶんやけど、朝廷の手続きは二月三日の午前中に終ったんじゃないかと思てる。大手の範頼の昆陽野やから二月四日早朝に出発すれば到着できるからエエとして、義経は二月三日午後に出発していたかもしれへん。そう考える方が合理的な気はしてる。史実としては二月四日夕には小野原に義経は到着し、その夜に夜襲をかけて平家軍を蹴散らしてしまったってことやろう」
    「ほんじゃ平家軍はいつからいたの?」
三草山の平家軍は早い時期からいた印象がありますが、延慶本の日程では一月二八日ぐらいから源氏搦手軍の小野原集結は始まっている事になります。それを三草山の平家軍は二月四日まで放置していた事になります。放置どころかその夜に夜襲を受けて潰走しています。
    「源氏軍と同じぐらいやと思うねん。延慶本には

    平家これを聞て、三草山の西の山口を、大将軍は新三位中将資盛、同じく少々有盛、備中守師盛、さぶらひには平内兵衛尉清家、恵美次郎盛方を先として、七千余騎にて三草山へぞ向ひける。

    「『平家これを聞て』の『これ』は源氏軍の小野原集結を指していると思わへん」

    「そうしか読めへんわ」

    「聞いてから動いたんやったら、源氏の動きに平家が反応したんでエエと思うんや」

    「でも聞いてから動いても間に合うの?」

    「間に合うのは間に合うねん。ちょっと試算しておくと、


    1. 一月二六日に京都の源氏軍が動き始める
    2. 一月二八日に搦手軍が小野原に到着し始める
    3. 一の谷から三草山までおおよそ二日路


    二月一日から二月二日の間に平家が源氏への動きに対応して駆けつければ、二月四日夜の合戦に間に合うやん」

    「ほんじゃ源平とも同時到着ぐらい」

    「うんにゃ、源氏の方が早いんやけど御大将の義経が来てないから動けなかったぐらいちゃうかな」

    「なるほど、二月四日は平家は三草山に到着したばかりやけど、源氏は義経以外は休養十分だったってことね」

    「距離と日程から三草山に平家軍が到着したのは二月四日ぐらいやと思うねん。延慶本にも田代冠者が

    平家はよも今宵は用心候はじ。夜討よく候らひぬと覚え候

    こうやって提案してるんやけど、これって平家はくたびれて寝てるはずの意味やとおもうねん」

    「実際にも油断して寝込んでいたから負けた訳ね」

平家も疲れと油断はあったでしょうが、まさか源氏が夜の峠道を三里も越えてくると思わなかったとのもあると思っています。この夜襲の描写ですが、後世の本になると松明だけでなく小野原一帯に放火して峠を越えたとしていますが延慶本にはそんな描写はありません。源氏が平家陣地を襲ったのは丑の刻となっていますから、源氏が小野原を出発したのは亥の刻ぐらいになり、松明ぐらいは使ったと思いますが、放火までやればいくら平家でも気がつくと思います。もう一つ良く読めば平家の方の声として延慶本に、

平家の先陣は自ずからから少々用心しけれども、後陣は「今日戦さあり、明日の戦にてぞあらむずらむ」とて、「戦にも寝ぶたきは大事の物ぞ。今宵良く寝て戦せむ」とて

どうも二月四日の昼間にも小競り合い程度の合戦があった気配があります。

    「ほんじゃさぁ、源氏は三草山に平家が来るって予想してたんかなぁ?」
    「たぶんしてなかった気がするんや」
    「理由は?」
    「矢合わせの日程」
矢合わせは延慶本では

七日の日の卯の刻に東西の木戸口の矢合わせと定む。

こうなっていますが、二月四日の戌の刻に義経が小野原に到着ですから、ここから二日で一の谷西の木戸まで進むのは日程的に相当シビアです。史実は三草山に平家軍がいましたが、三草山にいなくとも播磨国内で迎撃される可能性は普通に考えたらあります。三草山はたまたま夜襲で蹴散らすことはできましたが、そうでなければ一の谷の合戦の矢合わせに間に合わなくなります。

    「うんと、それやったら源氏は播磨をすんなり通り抜けて一の谷に進む予定やったとか」
    「矢合わせの日時を基準に考えるとそうなるねん」
    「じゃぁさぁ、じゃぁさぁ、矢合わせは大手の範頼軍だけの予定で、義経軍は播磨制圧が目的だったとかはどう?」
    「その可能性もあるんやけど、違う気がするんや。もしそうやったら、あんな一直線に一の谷に進まへんと思うねん」
    「そうやった」
三草山で夜襲を選択したのはそういう戦機であるとの判断もあったでしょうが、翌日に合戦をやれば矢合わせに間に合わないの判断もあったと見る事も可能です。そりゃ二月五日に平家とフルマッチでもやろうものなら、三草山出発は二月六日になりかねないからです。義経の急ぎ方からすると、矢合わせの日時を守る事はかなり重かったと受け取っています。これは搦手軍の武者もそうだったとみたいところで、手柄は後方攪乱じゃ薄くて、やはり一の谷陣地の合戦に参加しないと意味がないってところでしょうか。
    「でもさぁ、なんで平家は三草山まで出てったんやろ」
    「平家の一の谷陣地にとって播磨は重要地域になるんや」
    「どういうこと」
    「もし山陽道を東に進んできた源氏軍に敗れたら、退却ルートは海路もあるけど、陸路で播磨に逃げるルートも欲しい。海路だけでは軍勢を一遍に収容できないから。実際の合戦でも大輪田の泊までたどり着いても船に乗れず討ち取られた者も多いし。」
    「ふんふん」
    「兵糧確保もある。平家は海上輸送ルートを押さえてるけど、海路は大量輸送に適しても天候に左右されるやろ。だから陸路による兵糧輸送ルートも欲しい訳で、陸路となると播磨の確保は絶対に必要になるんや」
    「海路って不便ね」
    「陸路より大量輸送に適してるけど、いつでも動ける訳じゃないからね」
    「江戸時代の千石船だってそうよねぇ」
三草山の合戦は源平とも誤算が積み重なったものかもしれません。源氏は東西からの挟撃作戦を立てましたが、基礎計算として一の谷から二日路の三草山まで平家は軍勢を送って来ないと考えていた気がします。つまり一の谷からは平家軍は出て来ず、播磨は容易に通過できるはずの見方です。ところが播磨を重視する平家は迎撃軍を素早く送り込んでいます。ここまでは平家の対応の早さが勝っています。ところが、ところが一晩で義経は平家軍を潰走させてしまいます。これは平家に取って大誤算で一の谷陣地は東西からの源氏軍の攻撃に対して備えなくてはならなくなったぐらいです。
    「・・・三草山合戦も色んな見方が出来るんだ」
    「そういうこと」
    「そろそろ私、帰るわ」
    「もうこんな時間かぁ。ところでさ、ボクがコトリちゃんを忘れたのは悪かったけど、コトリちゃんはなんで覚えてたん?」
    「なんでって、同じクラスやったやん」
たしかに同じ教室内には存在していたのは揺るがしようのない事実や。
    「それと、よう話、しとったやん」
これは事実に反する。そりゃ、同じ教室内にいたから挨拶ぐらいはしたかもしれないし、なんかの班で一緒やったかもしれないが、両手いや片手も会話なんてしてないと思う。少なくとも私が記憶している範囲ではそれだけや。彼女が天使のコトリちゃんであるのは判明しましたが、なぜにコトリちゃんが私を覚えていただけじゃなく、わざわざこのバーで声をかけて来たかは謎として厳然と残ります。
    「ところでまたハイキングいかへん」
    「エエよ」
    「どこいく」
    「ほんじゃ、丹生山」
    「楽しみ。今度はお弁当作っていくね」
お弁当の言葉を聞いて、もう思い残すことはないと思ったのは白状しておきます。いや食べてからにしよ。それにしてもこの好意はなんだろう。まあ、そうやって誰にでも親切で優しいから天使の呼び名がついたのですが。