一の谷再考

三草山合戦の日を考え直す

昨日出した義経の進路推測図です。

2/7は一の谷の合戦になります。そのためか平家物語では

二日路を一日にぞうちたりける

都と三草山の距離はおおよそ80kmぐらいですから当時の目安として「二日路」になり、三草山の合戦を2/4に繰り上げて三草山から一の谷の移動に2日を当てていますが、これだって2/4の都から三草山の移動には相当な無理があります。ほいでは出陣日を繰り上げたくとも吾妻鏡の2/5記事の

源氏の両将摂津の国に到る。七日卯の時を以て箭合わせの期に定む。

摂津国のどこかは平家物語から昆陽野で良いと判断してますから、昆陽野から三草山までは1日で移動できない距離ではないぐらいですが、こっちを取れば2/7の三草山から一の谷までの移動に相当な無理が生じるぐらいです。簡単にまとめると、

    平家物語・・・都から三草山への移動に無理がある
    吾妻鏡・・・・・三草山から一の谷への移動に無理がある
どこに真相があるかなんですが、あえて考えれば
  1. 義経は1/29に平家追討令を受けた翌日の2/1に三草山に向う
  2. 2/3に三草山で夜襲を敢行
  3. 2/4に昆陽野に集結
  4. 2/5の勢揃いから有馬街道を進む
地図にすれば

これが日程的に一番無理が少ないのですが、ネックはわざわざ三草山から昆陽野に引き返している点で、つまり余計な移動距離が含まれる事になります。それでもメリットはあって、吾妻鏡では2/5つまり義経軍が合流してから矢合わせの日を決めたとなっています。これは三草山方面に回った義経軍が昆陽野で合流してから矢合わせの日を決めたと受け取れるからです。つまり源氏軍の戦略として、

  1. まず三草山方面に動いていた平家別動隊を叩くのが優先
  2. 平家別動隊を撃退出来たら合流し、一の谷に向う
平家物語では都からの出陣の時に矢合わせの日を決めたとしていますが、そうではなくて三草山の平家別動隊を撃退してから矢合わせの日を決めたとする方が合理的という事です。もし義経の三草山戦がもう少し長引けば範頼の大手軍は昆陽野で待つぐらいの考え方です。ただそうなると義経搦手軍は有馬街道を進んで事になり、土肥実平も一緒に進んだ事になります。でもって山田ぐらいで義経は藍那方面に進み、別動隊の土肥実平は三木から明石を回り塩屋に向ったぐらいしか考え様がありません。そうなると延慶本平家物語にある

義経が勢の中に、奥州の佐藤三郎兵衛継信、同じく四郎兵衛忠信、江田の源三、熊井の太郎、源八広綱、伊勢の三郎義盛、武蔵坊弁慶、熊谷の次郎直実、子息小次郎直家、平山の武者所季重、片岡の八郎為春、その勢七千余騎は義経に付け。残り三千余騎は土肥の次郎、田代の冠者両人大将軍として、山の手を破りたまへ。我が身は三草の山をうちめぐりて鵯越へ向ふべし」とて歩ませけり。

ここをどう考えるかになります。平家物語の記述ですから無視するのも一つですが、ここもなんとか成立させようと思うと・・・これも無理があるのでが、チト力業ですが三草山合戦の後に

  • 土肥実平は播磨路を南下し、逃げる平家軍を追撃しながら塩屋に向った
  • 義経は来た道を引き返し昆陽野に向った
そうなると播磨路に残る義経伝承は土肥実平のものという事になります。ホント真相はどこにあったのやらになります。私の仮説の日程表を出しておきます。
寿永4年 義経 実平 範頼
1/29 平家追討が出る
2/1 三草山(丹波路)に進軍 待機
2/2 進軍中 待機
2/3 夕に三草山着、夜襲(三草山合戦) 待機
2/4 昆陽野に夕着 塩屋に進軍(播磨路) 京都出発、夕に昆陽野着
2/5 朝勢揃い、有馬街道を藍那へ 進軍中 朝勢揃い、東の木戸を目指す
2/6 夜に鵯越 塩屋着 東の木戸着
2/7 一の谷の合戦
仮定の話なので義経の京都出発は2/2でもエエと思いますし、2/1京都出発、2/2夕三草山到着で合戦明けの2/3の出発は遅かった、ないし休養日として2/4出発でもスケジュールとしては良いと思います。兵の大敵は疲労であり、それぐらいは余裕をもたないと義経搦手軍の体力がもちません。


藍那から一の谷ルート

非常に大きな地図なんですが、藍那から一の谷までの義経軍の推測進路を明治期の地図に落として見ました。

この進路の仮定は一の谷は丸山と比定し、吾妻鏡にある

寅に刻、源九郎主先ず殊なる勇士七十余騎を引き分け、一谷の後山(鵯越と号す)に着す。

これを妙法寺に比定したもので、義経妙法寺から長柄越で一の谷に攻め込んだぐらいの推測です。このルートの信憑性ですが、一の谷から150年後の湊川の合戦にあります。この時は新田義貞大輪田の泊方面に布陣し、楠木正成が会下山に布陣しているところを足利軍が海と陸から攻め寄せて来ます。海の方は置いといて、陸路の方は

この3方面から進撃してきます。つまりはどの道も使えたと言う所です。150年間で道が良くなったか悪くなったかですが、一の谷の時の方が福原に清盛が長くいたわけですから、一の谷の時の方がむしろ良かった可能性もあるぐらいに思っています。平家滅亡後は大輪田の泊こそ継続して使われていますが、福原は田畑に変貌してしまってますからねぇ。

それと通説の本命の一つである鵯越道ですが、ここも源氏軍は進んだ可能性は高いと考えています。藍那に「相談ケ辻」という伝承地があります。ここは一の谷攻撃の前に最後の軍議を開いた場所と伝承されています。伝承は伝承なんですが、地図で確認するとちょうどこの辺りで鵯越道に進むか、白川から妙法寺方面に進むかの分岐地点ぐらいになります。ここで義経は再び軍を分けた可能性はあると思っています。つうてもその前に土肥実平の別動隊を分けていますから、関東からの遠征軍ではなく摂津の多田行綱の軍勢を鵯越道に差し向けたのは十分考えられます。

源平期の鵯越道は会下山に出ていたとの記録がどこかにあったはずで、会下山に至れば福原方面への進出が可能です。鵯越道方面への進出もあっておかしくないと思います。それと一の谷西の木戸は現在の長田神社あたりにあったのではないかと比定しています。


熊谷次郎直実と平山武者所季重

2/7の吾妻鏡より

爰に武蔵の国住人熊谷の次郎直實・平山武者所季重等、卯の刻一谷の前路に偸廻し、海辺より館際を競襲す。源氏の先陣たるの由、高声に名謁る

直実と季重の先陣の手柄は公式のもの、すなわち実在したものとして良いと考えます。では具体的にどんなルートを通ったかは平家物語に頼るしかありません。平家物語の一番古いバージョンは延慶本とされますが、どうも2種は確実にあるようです。直実・季重のシーンを抜き出して較べると(読みにくいので出来るだけ漢字に置き換えています)、

A版(古いと思う方) B版(そうと思わない方)
六日の夜半ばかりまでは、熊谷、平谷搦手にぞ候ひける。熊谷、子息の小次郎を呼うで云ひけるは、「この手は悪所であんなれば、誰先と云ふ事もあるまじきぞ。いざうれ、土肥が請けたまはつて向こうたる西の手へ寄せて、一の谷の真つ先駆けう」ど云ひければ、小次郎、「この儀尤も然るべう候。誰もかくこそ申したう候つれ。さらばとうよせさせたまへ」と申す。熊谷、「誠や平山もこの手にあるぞかし。打ち込みの戦好まぬ者なれば、平山がやう見てまゐれ」とて、下人を見せに遣はす。案の如く平山は、熊谷より先にいでたつて、「人をば知るべからず、季重においては一退ききも退くまじいものを、退くまじいものを」と、独り言をぞしゐたる。下人が馬を飼ふとて、「憎い馬の長喰らひかな」とてうちければ、平山、「さうなせそ。その馬の名残も今宵ばかりぞ」とてうつたちけり。下人わしりかへつて、主にこの由告げければ、さらばこそとて、これもやがてうつたちけり。熊谷がその夜の装束には、褐色の直垂に、赤革縅の鎧きて、紅の母衣をかけ、ごんだくりげといふきこゆるめいばにぞのつたりける。しそくのこじらうなほいへは、おもだかをひとしほすつたるひたたれに、ふしなはめのよろひきて、せいろうといふしらつきげなるむまにぞのつたりける。はたさしはきぢんのひたたれに、こざくらをきにかへいたるよろひきて、きかはらげなるむまにぞのつたりける。主従三騎うち連れ、落とさんずる谷をば弓手になし、馬手へ歩ませゆくほどに、年頃人も通はぬ多井畑といふ古道をへて、一の谷の波打ち際へぞうちいでける。一の谷近う塩屋と云ふところあり。未だ夜深かりければ、土肥の次郎実平、七千四騎で控へたり。熊谷夜に紛れて、波打ち際より、そこをばつと駆せ通り、一の谷の西の木戸口にぞ押し寄せたる。その時も未だ夜深かりければ、城の内には静まり返つて音もせず。熊谷、子息の小次郎に云ひけるは、「この手は悪所であんなれば、我も我もと先に心を懸たるものどもおほかるらん。 熊谷の次郎は、子息小次郎直家に申けるは、「この大勢に具して山を落さむには功名深くもあるまじ。その上明日の戦は打ち込みにて誰が先と云事あるまじ。今度の合戦に一方の先を駆けたりと、兵衛佐殿に聞かれたてまつらむと思ふぞ。その故は、兵衛佐殿しかるべき者をば一間なる所に呼びいれて、『今度のい戦には汝一人を頼むぞ。親にも子にも云ふべからず。戦に於いては智勇を尽くして頼朝をうらみよ』とぞ宣ひける。直実にもかく仰せられし事を承て、一方の先をば心にかく。いざうれ小次郎、西の方より播磨路へ下りて、一の谷の先せむ。卯の刻の矢合はせなれば、只今は寅の初めにてぞ有らむ」とて、うちいでむとしけるが、「あわれ平山は先を心にかけたるとみるものを。平山は先にやこの山を出でぬらむ」と思て、人を遣はして平山が在所を見せけるに、使い帰りて申けるは、「平山殿のおん方には、只今馬のはみ物して、たひげに候ふも、おん主は参りて候げにて、御物の具召し候かとおぼえて、御鎧の草擦りの音のかすかに聞こえ候。御乗り馬とおぼしくて、鞍置てくつばみばかり外して、舎人控へて候。物の具召し候が、平山殿の御声と思しくて、『八万大菩薩御覧ぜよ。今日の戦の真つ先せむずる物を』とのたまふ」と申ければ、熊谷さればこそと思ひて、小二郎直家、旗指ともに三騎あひ具して、播磨路の汀に心をかけてうちいでむとする所に、武者こそ五六騎いできたれ。「只今ここに出で来たるはなむ者ぞ。名乗り候へ」と云けるこへを聞て、九郎御曹司の御声と聞て、直実申けるは、「是は直実にて候。君の御出とうけたまはり候ひて、御供に参り候わむとて候」とぞ申ける。後に申けるは、「御曹司の御声をそのと聞ききたりしは、百千の鉾先を身に当てられたらむも、是には過ぎじと、怖ろしかりし」とぞ申ける。義経は「それがしより先に駆くる者やある。又かたきやおそひきたるらむ」と思て、夜回りしけるなり。「いしう参たり」とのたまひて、引き返すところに、供するやうにて、抜き足にこそ歩ませたれ。「そも汀へいづる道の案内を知らぬをばいかがすべき。生知恵にいでば、いでぬ山に迷ひて嗤われて、恥がましかるべし」と申ければ、小二郎申けるは、「武蔵にて人の申しさうらひしは、『山に迷はぬ事は安き事にて候なり。山沢を下にだに参り候へば、いかさまにも人里へまかる』とこそ申し候ひしか。そのぢやうに山沢をたづねてくだらせ給へ」と申ければ、「さもありなむ」とて、山沢の有けるをしるべにて下りけるほどに、思ひの如くに播磨路の汀にうちいでて、七日の卯の刻ばかりに、一の谷の西の木戸口へ寄せてみれば、城郭の構へやう、誠に夥し。陸には山の麓まで大木を切り伏せて、その影に数万騎の勢なみゐたり。汀には山の麓より海の遠浅まで大石をたたみて、乱杭をうつ。大船数を知らずたておきたり。
お断りしておきますが、A版の方が古い根拠を持っている訳ではありません。ただ
  1. A版の方が分量が少ない
  2. 同じような内容だが、どうも後から創作したエピソードが挿入されている気がする
A版とB版の違いは色々ありますが、長いので略しましたがB版にある頼朝が直実を頼りにすると話したシーンはこの引用の前にあります。一番大きな違いは先陣のために抜け出そうとした時に、義経の巡察隊に出会うシーンです。これは後から作られた創作部分ではないかと思っています。今回はルートの特定が目的ですが、どちらも土肥実平隊の方への移動を試みてるのはわかります。これが興味深い事にA版の方がルートを具体的に示しています。一方のA版は海岸に出た事はわかりますが、どこをどう通ったのかの地名がどこにありません。だからと言ってA版が記述した
    多井畑 → 塩屋 → 一の谷西の木戸
これが正しいとは言い切れないところもあります。その辺も考慮して候補ルートを挙げてみます。

A版にある

    落とさんずる谷をば弓手になし、馬手へ歩ませゆくほどに
これを信じたとしてですが、道の谷側が弓手(左側)とし、馬手(右側)に進むとしています。妙法寺から塩屋に回るには白川方向に少し戻る必要があります。あの辺の地形は妙法寺川の東側に道が通じてますから、左側が谷になり、妙法寺から右に曲がって進む事になります。まあ描写となんとか合っています。問題はそこからで、多井畑に向うには今はバリバリのニュータウンになっていますが、妙法寺川から西側に丘陵地帯を登る必要があります。すごい険しいとは言いませんが、とにかく夜道ですから、多井畑まで抜けるのは大変そうだなと素直に思います。ただ長柄越から多井畑、さらには塩屋へは平家物語では「年頃人も通はぬ」としていますが、当時は結構な交通量があったとの記録も残っていますから、通れない事もないと思います。

ただなんですが多井畑方面に出たのなら、わざわざ土肥実平のいる塩屋を通らなくとも須磨方面に下りるという手もあります。須磨から多井畑、塩屋に抜ける道は古代の西国街道で、西国街道が塩屋回りになってからも姫街道として使われていたとなっています。先陣は名誉ですが、一方で抜け駆けの側面もあり、わざわざ塩屋の土肥実平軍の真ん中を通り抜けるのがどうかと思うところがあります。


そこで思いついたのですが、多井畑方面に進まず直進する選択もあるんじゃなかろうかです。こちらの方が距離は長くなりますが、道は平坦で広そうなところがあります。でもって、そこから垂水に出て塩屋に向った可能性です。垂水からでも土肥実平軍の中を通りますが、

    熊谷夜に紛れて、波打ち際より、そこをばつと駆せ通り、一の谷の西の木戸口にぞ押し寄せたる。
土肥実平隊は浜辺にはいなかっとしてもおかしくありません。もう少し内陸部に陣を構えており、そこを直実は波打ち際を通ってすり抜けたぐらいです。あとは何故に妙法寺から板宿に素直に抜けなかったかですが、この道は当時は非常に状態が悪かった「らしい」ぐらいしか情報がありません。道が悪くて、明治期に整備されるまで浜側と山側の交流が乏しかったとの記録は残されています。


つうか、直実にしろ季重にしろなんですが、一の谷周辺の地理には昏かったはずです。そのうえ夜道です。仮に実平軍が塩屋というところにいるのを知っていても、具体的にどこが塩屋か、どうやったら塩屋に着くのか知っていたとは思えません。ナビなんてもちろんのこと地図だって満足にない時代であり、そのうえ夜道です。まあ先陣のために情報として「多井畑」と言う所を抜ければ塩屋に着くぐらいの情報で飛び出したぐらいを想像しますが、直実や季重当人でさえ、どこを通り抜けたかはわかってなかった可能性は高そうに思います。だから多井畑から須磨に下りなかったのも理由として十分あるぐらいです。