第1部一の谷編:多田行綱と丹生山とお弁当

神戸から丹生山に電車・バスを使っていくのはちょっと大変なのですが、今日は三宮から六四系統で六甲山を潜り一一一系統で丹生神社前のバス停を目指します。ここでなんですが、バスに乗ったら二人掛けの席に座るのですが、バスの席は狭いのです。二人で座ったらピッタリ密着しそうになります。前回から妙に意識しすぎている私には嬉しいやら、息苦しいやらです。

    「・・・ここから丁石が始まるねん」
    「丹生山まで二十五丁って書いてあるね」
    「清盛がいた頃は福原から丹生山まで丁石があって、毎月参詣していたなんて話もあるんやで」
    「へぇ、今でも残ってるの」
    「今は残ってないけど、この丁石も清盛が作った可能性があるんだ」
    「ふ〜ん」
    「ところで、最近の一の谷研究のトピックで多田行綱が注目されてるって知ってる?」
    「えっ、多田行綱って鹿ケ谷事件で清盛に密告した人でしょ」
    「そうやねんけど、一の谷の合戦に参加してるんや」
    「嘘や、平家物語の一の谷に行綱なんて出てこおへんかったよ」
    「だから最近注目されてるんや。注目されたんは玉葉の記録で、

    一番自九郎許告申(搦手也、先落丹波城、次落一谷云々)、次加羽冠者者申案内(大手、自浜地寄、福原云々)、自辰至巳刻猶不及一時、無程被責落了、多田行綱自山方寄、最前被落山手云々

    これは梶原景時が朝廷に送った報告書の概略みたいなもんやけど、義経、範頼と並んで書いてあるのは注目してもエエ気がする」

    「えっとこの漢文は


      『一番に九郎の許より告げ申す(搦手なり。先ず丹波城を落とし、次いで一谷を落とすと)。次いで加羽の冠者案内を申す(大手、浜地より福原に寄すと)。辰の刻より巳の刻に至るまで、猶一時に及ばず、程無く責め落とされをはんぬ。多田行綱山方より寄せ、最前に山手を落とさると。』


    これぐらいの読み下しでエエのかな」

    「よくできました。ボクはだいたい読めるけど、綺麗に読み下せへんからビックリした」

    「エッヘン。で、これをどう解釈するの」

    「簡単には三人が並べられるぐらい格が高い、もっとシンプルには大手の範頼、搦手の義経と並んで山手の行綱が存在したぐらいに解釈してもエエ気がしている」

    「具体的にはなにをしたん」

    「最近の研究では義経でなく行綱が鵯越の逆落としをやったんじゃないかの説まで出てる」

    「ホンマにそうなん?」

    「ボクは違う気がするけど、行綱が一の谷に参加していたら説明しやすくなる事が多いねん」

    「でも鹿ケ谷事件で味噌がついている行綱が本当に活躍できたん?」

    「これも玉葉やけど

    又聞、多田蔵人大夫行綱、來属平家、近日有同意源氏之風聞、而自今朝忽謀叛、横行摂津河内両国、張行種々悪行、河尻船等併點取云々、両国之衆民皆悉與力云々

    わかる?」

    「これは難しいなぁ。大意だけやったら、行綱は平家方やったはずやけど源氏に鞍替えしたって噂がある。今朝の話では摂津と河内で行綱が暴れまわり、摂津と河内の人々が行綱に味方してるぐらいかな」

    「ボクもそれぐらいでエエと思う。行綱は鹿ケ谷事件から平家派と見られていたみたいやけど、義仲が上洛する頃から反平家派に鞍替えしたみたいなんだ。平家が都落ちした原因は義仲との決戦の回避やけど、行綱が摂津で暴れまわって、これに不安を感じたのも原因になったんじゃないかとも言われてる。義仲と後白河法皇との仲が険悪になった時には後白河法皇のために出兵したりして、一の谷の頃には親後白河法皇派みたいな位置にもいたみたいなんだ。」

    「ああ法性寺合戦ね。行綱は変わり身が早いね」

    「しかたないやろ、中小勢力が生き残るためにはそれぐらいするよ。後白河法皇との関係も強かったみたいで、一説には摂津国惣追捕使に任じられたって説もある」

    「ホンマ?」

    「確実な証拠はないけど、一の谷当時では摂津でそれなりの勢力を持っていたと見てもエエ気はする」

    玉葉以外になんかないの?」

    「大正から昭和の人で福原潜次郎氏って人がいるんやけど、この人は郷土史研究の草分けみたいな人で、神戸近辺の歴史を研究する時に何度も出てくる大家なんや」
    「それで」
    「福原氏が山田村から公式に依頼されて書いた山田村郷土史

    寿永三年二月源平一の谷の合戦の時は、摂津源氏の党多田蔵人行綱義経に属し、先発隊として丹生山田に来り、義経軍の三草より来るものと会し、藍那村相談の辻より鵯越に出で、山田の住人鷲尾三郎経春に高尾より鉄拐山までの山路を案内せしめ一の谷城に拠れる平軍を一掃したり。

    かなり注目してエエと思ってる。行綱が一の谷に参戦していた話はごく最近になって出てきた話で、福原氏が山田村郷土史を書いた頃には影も形もなかったと思うねん。」

    「私もそう思う」

    「もちろん福原氏は凄い博学やったみたいやから、玉葉は知っていたかもしれへんけど、玉葉の文章だけでここまで書かへんと思う」

    「うん、福原さんは平家物語も読んでたはずやから」

    「そうなると山田村には行綱の伝承が残されていたと考えるのが妥当やと思う。山田村の人間も平家物語ぐらいは知っていたと思うけど、それでも行綱が山田村まで来ていた話をわざわざ作らんと思うねん。行綱は歴史上のヒーローでもないから、ユカリを持たせてもエエことないもん」

    「そうやろなぁ」

丹生山は五一四メートルの里山で、かつての参道だけあって広くて歩きやすい道です。また登山路のほとんどは林間コースになっていて、それも暗すぎず、ちょうど木漏れ日があるような雰囲気のあるプロムナードです。
    「気持ちエエ道やねぇ」
    「うん、ほらまた丁石があるやろ」
    「全部そろってんのん」
    「全部はないみたい、それと阪神大震災の時にかなり傷んだみたい」
    「ここもかなり揺れたんだ」
山道は途中からちょっときつくなり、息が弾みだした頃に平坦な尾根道にかわります。
    「この辺になると風が吹いていて気持ちエエわ」
    「ちょうど尾根筋で風の通り道みたいになってるねん」
    「この辺も感じエエし」
どうも彼女は丹生山の山道を気に入ってくれたようです。私も実は大好きな山です。好みが同じで良かった、良かった。
    「ここが山頂の丹生神社」
    「ふぅ、ちょっと息切れたけど気持ちがイイ道やった。ところで途中で義経道ってあったけどホンマに義経が通ったの」
    「たぶん違うと思う。義経道を本当に義経が通ったと論証している主張もあったけど、三草山から一の谷までの距離と日数を考えると、余計なハイキングをやってる時間がないと思うねん」
    「じゃ、義経は藍那にも行かなかったとか」
    「これは行ったと考えてる。むしろ藍那を目指していたんやないかと思てる」
    「そっか、行綱がここにいたからね」
    「そう考えると義経が藍那に行った理由が説明できると思うんや。三草山から一の谷まで行くんやったら、普通に考えれば明石まで出て山陽道を東に進むのが一番ラクそうに見えるんや」
    「でも明石には平家の後陣があっったんじゃ」
    「だから義経は二月七日の卯の刻に間に合わせるために避けたかったんじゃないのかな」
    「私もそんな気がしてきた」
丹生山からは山田荘が見渡せるのですが、一の谷の合戦の時には行綱と義経がここにいたと思うと、源氏の白旗が見える気もします。いや私に見えているのはコトリちゃんの抜けるような白い肌かもしれません。あんまり日に焼けないタイプなのかな。
    「お腹減った。お弁当にしよ。頑張って作って来たよ」
最後の言葉に震えましたが、お弁当は最高に美味しかったです。だいたい山頂で食べるランチは、そこで食べるというだけでコンビニお握りでも美味しくなるのですが、天使のコトリちゃんが横にいて、天使のコトリちゃんの手作り弁当ですから、このまま昇天してしまいそうでした。もっともさすがに「あ〜ん」はなかったですが、あったら即死だ。お弁当はフルーツのデザートまである豪華版で堪能したのですが、ペットボトルのお茶を飲んでいる時にふと気が付きました。
    「ゴメン、これコトリちゃんのやった」
    「一緒のやつやもんね。いいよ私はこっち飲むわ」
ちょっと待った、ちょっと待った。同じメーカーの同じお茶のペットボトルなので交換しても中身は同じですが、それは口のみしたボトルです。世間ではそういうのを『間接キッス』っていうのだぞ、とアタフタしそうになりましたが、彼女はなんのこだわりもなく飲んでいました。気にならへんのかなぁ。こうやって彼女のお弁当を一緒に食べているのはどうみたってデートにしか見えません。ただのハイキングなりピクニックに見える方がおかしいはずです。何をそんなに力んでいるかと言えば、見えないライバルに対してです。そんな私の内心とは無関係に
    「なんで行綱は平家物語に出て来なかったんやろ」
    「なんでやろなぁ」
    「頼朝の敵になったから?」
    「それはないやろ。義経も範頼も書かれてるし、他のところ、たとえば鹿ケ谷のところには行綱は出てるやん」
    「それもそうやねぇ。ならね、えっと、えっと、行綱は一の谷の合戦の本番に参加しなかったから」
    「参加したって玉葉梶原景時からの報告書にあるよ」
    「だけど参加しなかった」
    「どういうこと」
なにかいつもと逆ですが、彼女がなにか閃いたようです。
    「行綱はこの山田荘まで来ていたし、義経にも会って道案内の斡旋もしたと思うの」
    義経もそれをアテにしていた気がする」
    「それと行綱は源氏やけど、頼朝の家来じゃなくて後白河法皇の家来で山田荘に来ていたと思うの」
これは鋭いと思いました。義経や範頼とは同じ源氏でも確かに立ち位置が違います。
    「それとさぁ、行綱も一の谷の合戦が一日で終ると考えてなかったんじゃない」
    「それは十分にありえるね」
    「だから関東の源氏軍が勝ちそうになるまで洞ヶ峠やってた気がする」
行綱は一の谷で関東源氏軍が勝てそうなら尻馬に乗り、一の谷を落とせずに関東に帰るようなことになれば、自分の兵力を温存して対平家戦を考える腹だったと見ることは可能です。
    「とくに二月七日は開戦初日やから、動くにしてもこの日の結果を見て決めようと思ってたんじゃないかなぁ」
    「ところが一の谷は落ちちゃった」
    「仕方がないので行綱はなにもせずに多田荘に帰った」
コトリちゃんの推理には驚かされました。行綱問題はあれこれ考えていたのですが、どう行綱を動かしても平家物語に残らなかった説明が出来なかったのですが、山田荘まで来ていたけど動かなかったとすれば納得できます。
    「ちょっと感動したわ」
    「何を?」
    「行綱の動きの推理」
    「えへ、山本君に褒められちゃった。初めてじゃないかなぁ」
ん、ん、ん、『初めて』ってなんだ。そりゃ初めてかもしれませんが、『初めて』というからには過去に似たようなシチュエーションがあって、その時はコトリちゃんを褒めなかったってこと。あるとしたら高校時代、それもたった1年の間ですが思い出せません。ハイキングは丹生山から帝釈山を回り、下りて来てから無動寺、六条八幡宮と見て回りました。ちょうど田んぼに水を張っていまして、そこに白鷺が群れをなして飛ぶ風景がなんとも懐かしい感じです。
    「神戸じゃ、こんな風景見れへんね」
    「田んぼも畑もあらへんもんな」
    「こんな風景好き」
歩いていると農家に大きな鯉のぼりが泳いでいるのが見えます。
    「立派やねぇ。山本君とこにもあったん」
    「あんな立派じゃなかったけどね」
    「うちは女ばっかりやからなかってん。男の子が出来たら揚げたいんや」
誰の子を産みたいのか問い詰めたい気持ちを押さえながら、嬉しそうにパチパチと写真を撮るコトリちゃんを眺めていました。ハイキングは天気に本当に恵まれて気持ちの良いものになりましたが、一つだけ予定通りにいかなかったのはバス。バス停で時刻表を確認したら四〇分待ち。タクシーが通りがかってくれるはずもない田舎だし、喫茶店もないので待ちぼうけです。
    「でも楽しかった」
    「そりゃ、良かった。ボクもこの山好きやねん」
    「丹生神社のところに立派なもみじがあったから、今度は秋に紅葉を見に来たいなぁ。また、連れてってくれる。」
そんなもの万難を排してでも連れていきますが、これは好意なんだろか。いや好意は間違いなくありますが、コトリちゃんの好意が「Love」なのか「Like」かが大問題です。コトリちゃんの天使のあだ名はダテでなく、誰にでも本当に優しいので勘違いして轟沈した奴がいた噂を思い出しています。あの時は完全に他人事だったので笑っていただけでしたが、まさか当事者になるなんて夢にも思いませんでした。人生ってホントになにがあるかわからないものです。