第1部一の谷編:ジン・ライムと一の谷の先陣

    カランカラン」
カウベルの音とともに
    「はぁ〜い、お待たせ」
彼女の登場です。私がジン・リッキーを飲んでいるのを見てか
    「ジン・ライムお願い」
ジン・リッキーはジンにライムを絞り炭酸水でわったもので、一九世紀末にアメリカのワシントD.C.のシューメーカーで夏向きのドリンクとして作られ、最初に飲んだ客のジム・リッキー氏にちなんで名づけらています。ちなみにシューメーカーはバーじゃなくレストランだったとなっていますが、バーも付いていたんだろうな。彼女が頼んだジン・ライムはジンにライムジュースをいれてステアしたカクテル。ちなみにジン・ライムをステアせずにシェークするとギムレットになります。ジン・ライムとギムレットは若干レシピが変わるとする意見もありますが、同じカクテルでもレシピの基本は同じでもバーテンダーによって微妙に変わるのでジン・ライムをシェークしたものがギムレットにしておきます。

私はジン・ライムと聞くと大瀧詠一のロング・バケーションを思い出すのですが、ちょっと聞いてみます。

    「ジン・ライムで思い出すことってある?」
    「そうやね、やっぱりVelvet Motel」
    「ロング・バケーション!」
    「そうそう」
世代が一緒というか同い年なので知っていて当然ですが、思っていることが一致するだけで楽しくなります。
    「長いこと一の谷やってるけど、一の谷になかなか着かへんなぁ」
    「だから最初に言ったやん。一の谷には謎が多いって」
    「で今日は」
    「二月六日の夜に義経がどこにいたかを考えようと思うんや」
    「やっぱり藍那?」
現在多いのは藍那説です。藍那には一の谷に進撃するにあたってどちらに向かうか考えた相談が辻があります。
    「相談が辻ってどんなとこ」
    「左に曲がれば鵯越道で高尾山から会下山の方になるんや」
    「じゃあ、右に曲がれば?」
    「白川から多井畑の方に行くんや」
相談が辻は実際に見ても何の変哲もないところですが、地図の上では大きなポイントになります。

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これは明治期の地図ですが、相談が辻で左右にわかれると途中から行き来できない地形になります。道は無いこともないのですが、騎馬武者が通るには無理があるってところです。
    「行ったことあるの?」
    「どっちも歩いてみた」
    「ガチやね。今度一緒に行こ」
彼女の『今度行こ』は何度もあったのでさすがに慣れましたが、さすがに誰にでも言っているのか疑問になってきました。まあ、彼女の口癖かもしれませんが、現実としては鉄拐山も行きましたし、丹生山にも登っています。
    「ここも不思議よねぇ。鉄拐山を登って一の谷を襲撃しようと思えば白川の方にいかないとあかへんし、高尾山にも義経馬繋ぎの松ってあるもんね」
    「そうやねん。どうもやねんけど、平家物語の後の方の本は高尾山に登る描写を優先している感じがあるねん」
    鵯越道やったら藍那に泊まる方が良いけど、それじゃ熊谷次郎直実親子と平山武者所季重の先陣の話が成立せえへんと思うの」
    「どういうこと」
    平家物語って合戦の生き残りの人の『家の武功譚』の集積って説を読んだわ」
    「そうやろな」
    「その中でも熊谷・平山の先陣話は有名やったと思うの」
    「ボクもそう思う」
    平家物語の成立にも諸説あるけど、まだ当事者が生きている間に聞けた可能性もあると思うの」
平家物語の成立にも諸説ありますが吉田兼好徒然草に『後鳥羽院の御時』と書かれており、また平家物語の作者を信濃前司行長としています。信濃前司行長九条兼実の家司であったともされ、武功談を直接もしくは原型に近い形で聞き書いた可能性は私もあると思います。
    「後の本では脚色が多くなってわかりにくいけど、延慶本の描写を読み取ればどこに義経がいたかわかると思うの」
    「なるほど。まずは義経と直実・季重は同じ陣中に居たことになってるね」
    「そうよ抜け駆けの最中に巡視中の義経に出くわして誤魔化すシーンまでついてるわ」
    「えっとえっと、直実が陣を抜けたのは寅の初めだったよね」
    「つまりは三時過ぎぐらいになるねん」
    「西の木戸に着いたのは卯の二刻前や」
    「卯の二刻は六時やけど、六時には土肥実平隊が矢合わせを始めるから、五時半ぐらいやと思うねん」
    「そうなると二時間ぐらいで義経の宿営地から一の谷の西の木戸に熊谷・平山は到着したことになるね」
    「そうやねん。二時間じゃ夜道を藍那から西の木戸まで行くのは無理やと思うねん」
    「たしかに」
ここのところ彼女は冴えに冴えています。あの読みにくい延慶本をここまで読むのは大変やったと思います。
    「もう一つわかる事があるねん。直実がなんで三時ぐらいに、急にソワソワして抜け駆けを決断したかの理由もわかる気がする」
    「卯の刻に近いから?」
    「もちろん、それもそうやけど、抜け駆けの先陣が手柄として成立する条件を考えてみいな」
今夜の彼女は冴えすぎて怖いぐらいです。抜け駆けの先陣は面白いところがあって、抜け駆け自体は禁じられていますが、成功したら大手柄になります。では、とにかく早くに敵の前に現れたら先陣になるかといえばなりません。先陣とは相手と最初に戦う事が第一条件になります。ここは抜け駆けじゃなくて普通の先陣をまず考えた方がわかりやすいですが、当時の合戦の手順的には、
    一段目:名乗りをあげる
    二段目:矢合わせをする
    三段目:矢戦に移行
    四段目:突撃
こんな感じに進みます。突撃といっても集団戦法がない時代ですから乱戦になるわけです。この矢戦から最初に突撃した者が先陣になります。ちなみにこの後は『先陣の○○を討たすな』と続いて突撃になるぐらいで良いかと思います。こういう状況なら誰が最初に突撃したかは味方の誰もがわかるのですが、抜け駆けの場合は少し様相が異なります。抜け駆けの先陣では行った時点では味方は誰も見ていない事になります。ここで、ちょこっと戦って引き返し『オレが先陣だ』と言っても先陣は成立しないのです。相手と戦って後続の味方が到着するまで頑張り、自分が先陣として戦っているのを認めてもらう必要があります。そのためには、
  1. 合戦開始時刻、場所がわかっていること
  2. そこに味方より早く到着して戦闘を始めること
  3. 味方が到着するまで戦い続け、その姿を確認してもらうこと
抜け駆けの先陣で難しいのは、あんまり早く先陣を始めてしまうと、とにかく数が少ないので味方が到着するまでに討ち取られてしまう危険が高くなります。ですから理想的には味方の少し前を進み、先陣として戦い始めてまもなく味方が駆けつけてくれるような状態にすることです。
    「わかったぞ。直実は土肥実平隊が、今にも出陣しそうになっていたからソワソワしてたんだ」
    「そうやねん。実平隊が先に出陣してしまうと、これを追い越さないと先陣が出来なくなるから、今が絶好のチャンスと思ったんやと思うねん」
    「じゃ、二月六日夜は実平も義経も一緒だったことになるやん。実平はどこかで義経と別れて二月六日夜は塩屋で宿営していたの説も多いんやけど」
    「実平隊がもし塩屋に宿営していたらどうなると思う」
    「どうなるも、こうなるも、直実や季重は実平陣地をすり抜けて・・・」
    「無理よ。時刻的に塩屋に実平がいても出陣準備でもう起きてるわ。むしろ塩屋に実平がいないから直実は抜け駆けの先陣をやろうと決断したと考える方が無理がないよ」
    「そっか、塩屋に実平隊がいれば抜け駆けの先陣自体が起こらなかったんやね」
参りました。源氏搦手軍はどこかで西の木戸に向かう実平隊と、一の谷に向かう義経隊に分割されるのですが、どこで分割されたのかについては様々な解釈や説があります。私も三草山から藍那までの間であれこれシミュレーションを考えていましたが、彼女の言う通り二月七日早朝に分割されたと考えれば無理がなくなります。
    「じゃ、直実はどのコースを取って西の木戸に向かったん」
    「それも延慶本のままで良いと思うわ」
    「たしか延慶本には、

    いざうれ小次郎、西の方より播磨路へ下りて、一の谷にの先せむ

    やから、義経陣を抜けてまず西の方に向かい、そこから播磨路を通った事になるね」

    「この播磨路は山陽道の播磨の国部分で良いはずよ、延慶本にはこうとも書かれてるわ

    山沢の有けるを標にて下りけるほどに、思ひの如くに播磨路の渚にうち出でて

    海岸線の道やから塩屋に出た以外に考えられへん」

今日は完全にしてやられました。歴史談義に勝ち負けなんてないのですが、これだけ細かいとこまで読み込んで彼女が論を立ててくるとは気持ちの良いほどです。
    「ホンマに凄いわ」
    「今日も褒めてくれる」
    「もちろん、花丸だよ」
    「嬉しい。何回も延慶本読んで、地図とにらめっこしてたら思いついてん」
    「なんか盛り上がるなぁ、次回は宿営地の特定やろ」
    「まかせとき、山本君ばっかりに今度は負担かけへんよ、私だって戦力だもん」
ちょっと引っかかるのがやはり最後の言葉。どうも高校の時に何かの共同作業をやったようです。それがコトリちゃんにとって強い思い入れになってるのだけはわかりますが、そんなことあったっけ。たしかに高校時代のコトリちゃんは私にとって恋愛対象としてすら守備範囲外の女性でしたが、そんな冷たいあしらいをやったことはないと思うのやが。