第1部一の谷編:キール・ロワイヤルで一の谷を特定

マンハッタンの夜から少し間が空きましたが、カウベルが鳴って彼女がバーに登場です。

キール・ロワイヤルシャンパンをカシス・リキュールで割ったもので、フルートグラスに湧き出る泡がとってもオシャレです。私はこれに対抗した訳じゃありませんが、カシス・リキュールをフランボワーズ・リキュールに変えたキール・インペリアルです。王国と帝国の強力コンビで一の谷の謎を解き明かす一夜にしようってところです。
    「・・・一の谷の場所やけど、べつに一の谷の合戦の直後に行方不明になった訳じゃないでしょ」
    「ボクもそう思てる。とくに福原に都のあった時期やったら誰でも知ってた気がする」
    「だったら場所を知ってる人が書いてある記録があるんやないかと思てん」
    「ひょっとして梅松論」
    「知ってたの。苦労してやっと見つけて自慢しようと思ってたのに、悔しい」
梅松論は足利家から見た太平記ぐらいに思えば良いかと思います。南北朝時代の前半のハイライトに一つに湊川の合戦があり、そこの描写に一の谷は出てきます。
    「ボクも梅松論が一番のカギやと思てんねん」
    「そやろ、そやろ」
問題の部分は新田・楠木連合軍を攻める足利軍の少弐頼尚の描写になります。頼尚は

陸地の勢は一谷(いちのたに)を前にあて、むかし土肥次郎実平が陳取たりける塩屋の辺りより始めて、後は大蔵谷・猪名見野あたりまでぞ篝火を焼きたりし。

こういう風に山陽道を塩屋から会下山方向に進撃するのですが、塩屋の時点では一の谷は当然ですが前の方、つまり東側にあるとしています。

    「肝心なんは次のとこやと思てるの

    陸地の御勢も同く打立て、一谷を馳越すと見えし程に、辰の終り(=午前九時頃)に兵庫島を近く見渡したりければ、敵は湊河の後の山より里まで旗をなびかし、楯を並べて?(ひか)へたり。是は楠大夫判官正成とぞ聞えし。

    一の谷を通り過ぎたら兵庫島が見えたってところよ。でもね、鉄拐山の麓の一の谷だって前を過ぎたら兵庫島が見える気がするの」

    「そいでも遠すぎへん。正成がいたのは会下山やけど、鉄拐山の麓から会下山の正成の菊水紋なんて見えるやろか」

    「その辺は昔の人は目が良かったし、あくまでも軍記物語やから『そう書いただけ』で説明できちゃうんじゃない」

軍記物語はあくまでも読み本なので脚色が入ります。書いてある描写が脚色なのか、そうでないかの判断は別の角度から検証する必要があります。
    「・・・ちょっと待ってよ、兵庫島や会下山が鉄拐山の麓から見えへんかもしれへん」
    「なんで」
    「兵庫津に行った時にいうたと思うけど、元禄絵図に和田岬の北側に大きな松林があったん覚えてる。ちょっと地図見てくれる、

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    頼尚が塩屋から東に進んで鉄拐山の麓の一の谷にあたりに来た時点では兵庫島は松林の影になると思うねん」
    「ホンマや、会下山だって山の影になりそうで微妙やけど見えへん気がする」
    「それと『一谷を馳越すと見えし程』にって、一の谷の前を通り過ぎて間もなくぐらいに読むのが無難な気がするんや」
    「それやったら松林通り過ぎたあたりが怪しいね。とりあえずA地点としとこ」
iPadで書きこむのは苦手なのですが一の谷の謎が解けそうなので、そうも言ってられません。
    「問題はあの辺に適当な谷なんかあったかなぁ」
    「A地点って長田神社のあたりやん。あの辺で谷って言っても、ん、ん、ん、わかった気がする」
なにか彼女は閃いたようです。
    長田神社の裏側って谷に見えない。あれは谷そのものやん。拡大した地形図出ない」
    「ちょっと待ってよ。こんな感じでエエかな」

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    「ありがとう、ほらこれはどうみても谷よ」
    「たしかに谷になってる。そうなると次はそこが延慶本の描写と合うかどうかが次の問題やね、

    さんぬる正月より、ここは屈強の城なりとて、城郭を構へて、先陣は生田の森、湊川、福原の都に陣を取り、後陣は室、高砂、明石まで続き、海上には数千艘の舟を浮かべて、浦々島々に充満したり。一の谷は口は狭くて奥広し。南は海、北は山、岸高くして屏風を立てたるが如し。馬も人も少しも通ふべきやうなかりけり。誠に由々しき城なり。

    位置的には先陣の生田の森、福原、湊川と続く一連の場所やからエエと思う」

    長田神社の一の谷の地形やけど、神社のすぐ北側ぐらいが少し狭くなって、その奥が広がってるから『口は狭くて奥広し』で合ってる気がする」

    「北は当然山やけど、南の海は」

    「兵庫津の西側の古湊川流域は低地で浅くともまだ須佐の入江を形成しているとコトリちゃん言うてたやん」

    「そうやった」

    「それと山陽道の位置も証拠になる気がするねん」

    「そっか、古代の官道は出来るだけ海岸線近くを一直線に走ろうとするのに、この辺りはかなり海寄りだから、山陽道近くまで海が迫っていても良い訳ね」

    「南は海もこれでクリア。当時の須佐の入江は一遍上人縁起にあるみたいに島々が点在する感じだったでエエと思うから『海上には数千艘の舟を浮かべて、浦々島々に充満したり』これもクリア」

    「私もついでやけど、南の山陽道以外に西側から入れるところがないので『馬も人も少しも通ふべきやうなかりけり』ここもクリアね」

    「よっしゃ満点回答や」

    「やったね」

コトリちゃんがバッチリ予習してくれていたおかげで、アッと言う間に一の谷の位置が特定できてしまいました。キールの王国と帝国のタッグの賜物かもしれません。
    「もうちょっと状況証拠はあると思うねん」
    「どんなん」
私はちょっと満足してキール・インペリアルを楽しんでいましたから、曖昧な返事です。
    「ここに長田神社があるのもポイントじゃないかなぁ」
これは失念していました。福原の都は平家が福原落ちの時に焼いてしまいましたから、本営にする建物があればベターなのは確かです。神社もそうですが神職の屋敷とか長屋みたいなものも兵舎に転用できます。
    「それと大輪田の泊に近いのも」
平家の水軍は大輪田の泊と駒ヶ林の湊に分かれて停泊していた描写がありましたが、長田神社辺りに本営があれば行き来にたしかに便利です。
    「今日のコンビプレーは最高ね」
    「いやコトリちゃんは凄かった」
    「そんなことないよ。これも山本君に教えてもらった事やもん」
はて、何か教えたっけ。
    「歴史の謎解きする時に、一番合理的と言うか、一番単純に解釈できるのが答えでしょ。だから毎回地形とか、道とかを必死で調べてるんじゃないの」
その通りで、人が進める道、距離、時間は必ず制約されます。それを越えての移動は無理として考えるのが私の一つの手法です。どんな神算鬼謀の持ち主でも空を飛んだりできないからです。
    「せっかく地図作ってるんやからちゃんとまとめようよ。二人の研究成果の発表よ」
またもやiPadと格闘です。でも、コトリちゃんに頼まれて燃えない男性がいないと思えません。なんてったって天使からのお願いですから。
    「とりあえずこんなもんでええやろ」

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    「やったぁ」
    「でもどこに発表するの」
    「ちょっとマスター」
え、マスター呼ぶの
    「見てみて、二人の研究成果よ」
    「これは長田神社あたりの地図ですね」
    「そうなのよ、やっと完成したから乾杯したいの。もう一杯お代わりお願い」
マスターはなんの事やらの表情を浮かべながらカクテルを作りに行きました。
    「じゃ、カンパーイ」
普段でも陽気で明るいコトリちゃんですが、これだけはしゃいでいるのは初めて見ます。
    「これは二人の研究成果よね」
    「そうやけど」
    「私も頑張ったよね」
    「もちろん」
    「ホントに」
    「嘘言ってどうするん」
例の何かへのこだわりですが、コトリちゃんにとっては何か長年の課題が解消されたみたいです。
    「ずっとずっと、こんなんしたかったんだ」
    「歴史ムック?」
    「そうやねん。本気の歴史ムック」
ふと彼女の顔を見ると、さっきまでのはしゃぎ顔から涙顔に変わっています。おいおい泣くほどの事かよ。
    「ホンマにありがとう。今夜は飲もうね」
今までどれだけ飲んでも崩れなかったコトリちゃんが、フラフラになるまで飲む姿を初めてみました。駅までは送ったけどちゃんと帰れたか心配です。帰り道ではコトリちゃんのことを考えていたのですが、前からずっと気になってることがあります。こうやってバーで一緒に飲んではいるのですが、かならずコトリちゃんは夕食をどこかで済ませてから来ます。これも正確でなくて夜になってから『今日はバーに行ける』てなお誘いです。独り者ですし、バーにも近いですし、とにかく天使のコトリちゃんのお誘いですからイソイソ出かけますが、妙と言えば妙です。

もちろん私と違って人気者のコトリちゃんの事ですから、夕食のお誘いは多くても不思議ないのですが、こうも毎回なのはチト不思議です。そういえば兵庫津に行った時も夕食だけは誰かと食べるとして断られています。すぐに思い浮かぶのは彼氏なのですが、彼氏なら夕食だけでなくバーにも来るはずです。マスターもコトリちゃんが男性と来ていたと言っていました。そもそも夕食だけ食べて飲みに行かない彼氏なんているのか疑問です。もしかして今は酒が飲めない彼氏とか。

そんなことを考えてたら電信柱に激突。私も飲み過ぎたようです。