小説家になろう計画3

小説第1部の歴史部分は一の谷の合戦です。本当は第1部だけで終らせる予定だったのですが、字数が足りず桶狭間の第2部も書く羽目になっています。とりあえず第1部なんですが、ラブ・ロマンス部分はともかく歴史解釈部分の見直しを少ししています。ブログ用に書き直しても良かったのですが、ラクして原作から出してみます。


第1部ラスト近くです

ここで彼女は思い切ったように切り出してきます。

    「ちょっと思いついた事があるねんけど、鵯越支道は当時もあったん?」
    「これについては根拠は見つからへんかった。鵯越道は会下山から福原に向かうのがメインやけど、大輪田の泊に行くのには遠回りやから、当時からあっても不思議ないぐらい」
    「でもさあ、騎馬武者が通れる道やったんやろか」
    「それは・・・あの辺に住んでたから知ってるんやけど、たぶん鵯越支道の後身みたいな道があって、物凄い急な坂でクルマで走るのも大変やった」
    「私はたとえ道があっても軍勢は通れるレベルじゃなかった気がするんだ。清盛が妙法寺参詣のために整備された鹿松峠とは違うと思うの」
    「通れなかったらなんか変わる」
    「地図作ってみてん、
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    義経鵯越道を選ばんかったんは、この道が一の谷に通じてなかったからやと思わへん」
    「何が言いたんか、わかってきた気がする。平家は鵯越道からの攻撃に備えて会下山をガッチリ固めてる予想やな」
    「そうなの、そこを固められると山道での押し合いになって突破できないと考えたんじゃないかしら。会下山を突破されるとモロ福原やし」
    「なるほど」
彼女の意図が読み切れないもどかしさを感じながら話は続きます。
    義経の作戦って実はかなりシンプルやったと考えてるの」
    「どういうこと」
    「平家陣地西側から攻められるルートは実質3本に絞られるでしょ、そのうち鵯越道を外したら残りは2本じゃない」
段々意図が見えてきた気がしました。軍勢が豊富にあれば湊川の合戦の足利軍の様に山陽道・鹿松峠・鵯越道の三方から押し寄せることが出来ますが、義経の軍勢では二手ぐらいが精一杯との判断です。
    義経山陽道と鹿松峠の軍勢の振り分けで主力を鹿松峠にしたのが唯一の奇策じゃないかしら。これが結果として平家の裏をかく結果になったのよ」
聞きながら感心してしまいました。平家陣地に藍那から通じるルートは無数にあるわけでなく、さらに当時の騎馬武者が通れる道となれば限定されます。義経は攻め口に山陽道と鹿松峠を選び軍勢を差し向けたのが作戦の本質なのは納得できました。
    鵯越の逆落としも、少し見方を変えてもイイと思うの」
    「平家軍が峠の上にいたとか」
    「上にはいなかったのは延慶本でわかるやん。教経や盛俊が鹿松峠の東の麓で待ち構えていたのは間違いないけど、少しだけ峠を登っていたのよ」
    「少しだけってどれぐらい」
    「高さにして5丈」
内心「あっ」と思いました。当時の峠道の状況は不明ですが、現在の鹿松峠の旧道は何度かクルマで走った事があるから知っています。これも急な曲がりくねった坂道ですが、清盛はこれを騎馬でも通れるように整備したと考えています。だから通れたのですが道は当然狭くて、敵とぶつかれば横に展開するスペースなどありません。この峠道の高さ5丈ぐらいの地点に拠点守備に適当な個所があったと考えても無理はありません。
    義経は峠を下ってきて、平家の防御拠点を見つけたの」
    「だから義経は峠道を外れた」
    「ちょっと違うと思う。そんな峠道から外れるのはやはり無理。だから平家軍の目の前で崖を下ったの」
これまた「あっ」です。逆落としの最後のところは私も不明でして、短いとはいえ峠道を外れて下りるのは相当な困難を伴います。そこに無理があったのですが、平家防御拠点が高さ5丈のところにあって、柵とかの防御施設を迂回するために崖を下ったのなら合理的です。
    「ブラボー。まったく無理がないよ、平家にすれば源氏軍が柵に向かって来るのではなく、崖から飛び降りて行ったのでビックリ仰天するわな」
    「そうなの、平家もこれを見て対応するには峠道を下らなきゃいけないけど、その間にドンドン源氏軍は下ってしまうの」
    「そっか、平家を峠道を下りるのより、義経隊が崖を下る方が早いもんね」
    「それで最後は数で圧倒されて支えきれなくなったと思うの」
義経による強襲の実相はこれで解けた気がします。延慶本で登り直すのは難しいとしていたのは、そんなところから登り直しても今日の合戦に間に合わないの意味だったかもしれません。もう一つ教経は延慶本では鹿松峠を越えて逃げています。ここも解釈に困っていたのですが、目の前から義経隊が飛び降りていなくなれば鹿松峠は通れます。また教経隊がトットと逃げてしまったら残された盛俊隊はさらに苦戦になります。

    「まだあるの」
    「まだ?」
    「一の谷ってホントに平家の本営だったのかしら」
    「本当は大輪田の泊で、陸上用が一の谷って・・・」
    「違うと思うの。長田神社の建物利用の話があったけど、建物だけなら八棟寺だってあるよ。平家の本営はあくまでも大輪田の泊。だから宗盛は合戦が始まると船に乗ったのよ」
    「でも延慶本に一の谷は・・・」
    判官贔屓での脚色だと思うの。一の谷合戦の勝因は義経の一の谷攻略だから、ここに重点を移して本営を攻略した話に仕立て上げたんじゃない」
義経記程ではないにしろ平家物語成立時も判官贔屓はあったとして良いかと思います。一の谷の比定問題は鉄拐山麓の一の谷は地形と位置で否定できますが、長田神社一の谷も平家物語の描写のような堅固な城郭が何故に必要であったかの疑問が残るところです。一の谷を堅固にするより、それこそ東西の木戸の強化こそが平家に取って必要な工事である気がするからです。これが一の谷の要塞化がなかったのであれば、それ以前に平家が守ってもいなかったとしても話の辻褄は合います。すべては義経が落とした一の谷がどれだけ凄かったのかの脚色であったとの解釈は納得可能です。
    「根拠はある?」
    「延慶本の一の谷の説明の時に前陣に生田の森、福原が挙げられるのはわかるけど、湊川が出てくるのが不思議だったの。あれは一の谷を本営として見ると不自然だけど、大輪田の泊を本営として見れば納得できる気がするの」
    「一の谷の前陣に湊川があっても良いとは思うけど、より相応しいのは大輪田の泊を本営にした時かもしれへん」
    「まだあるわ。長田神社に本営があったのなら、鹿松峠を守るのなら本営の軍勢を動かすべきじゃない」
そういえば大手の範頼軍から見えた教経の鹿松峠方面への移動は、湊川からの移動となっていました。教経は大輪田の泊に続く道の湊川方面、いや大輪田の泊本営の防御の担当だったのかもしれません。
    義経は一の谷にある本営を襲った訳でなくて、山陽道と鹿松峠からの二方面攻撃で西の木戸を突破して大輪田の泊の平家本営を狙った作戦だと思うの」
    「なるほど納得や。そう考えると一の谷こそ突破されたけど平家は一挙に崩れた訳じゃないね」
    「私もそう思う。一の谷は焼き討ちされたけど平家軍は義経軍の大輪田の泊への進攻をかなり食い止めたんじゃないかなぁ」
玉葉に残る梶原景時の報告書にも義経は一の谷を落としたとはなっていますが、福原は範頼であり、大輪田の泊に至っては言及されていません。これは平家物語になりますが越中前司盛俊も落ち延びるのをあきらめて討死しています。これは義経の強襲は丸山方面の進出には成功したものの、そこから一の谷を一挙に覆滅できたわけではなく、逆落としで崖を下った後も相当な時間の平家の抵抗を受け続けていたとも解釈できます。
    「そうなると真っ先に崩れたのは生田の森の知盛?」
    「生田の森は大輪田の泊から遠いし、退路が断たれそうになるのは軍勢が一番動揺すると思うの」
通説とはまったく違う一の谷合戦が頭の中に展開されています。きっと彼女の頭の中に展開されるイメージと同じのはずです。それにしても二人がたどり着いた結論の意外さに驚いてしばらく言葉も出ませんでした。
    「・・・これが一の谷の真実なの」
    「それはわからへん。ただ歴史の解釈は、事実の断片を一番合理的に説明できたものが真相に近いはずやねん」
    「じゃ、これが真実かもしれないのよね」