小説第1部の歴史部分は一の谷の合戦です。本当は第1部だけで終らせる予定だったのですが、字数が足りず桶狭間の第2部も書く羽目になっています。とりあえず第1部なんですが、ラブ・ロマンス部分はともかく歴史解釈部分の見直しを少ししています。ブログ用に書き直しても良かったのですが、ラクして原作から出してみます。
■第1部ラスト近くです
ここで彼女は思い切ったように切り出してきます。
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「ちょっと思いついた事があるねんけど、鵯越支道は当時もあったん?」
「これについては根拠は見つからへんかった。鵯越道は会下山から福原に向かうのがメインやけど、大輪田の泊に行くのには遠回りやから、当時からあっても不思議ないぐらい」
「でもさあ、騎馬武者が通れる道やったんやろか」
「それは・・・あの辺に住んでたから知ってるんやけど、たぶん鵯越支道の後身みたいな道があって、物凄い急な坂でクルマで走るのも大変やった」
「私はたとえ道があっても軍勢は通れるレベルじゃなかった気がするんだ。清盛が妙法寺参詣のために整備された鹿松峠とは違うと思うの」
「通れなかったらなんか変わる」
「地図作ってみてん、
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義経が鵯越道を選ばんかったんは、この道が一の谷に通じてなかったからやと思わへん」
「何が言いたんか、わかってきた気がする。平家は鵯越道からの攻撃に備えて会下山をガッチリ固めてる予想やな」
「そうなの、そこを固められると山道での押し合いになって突破できないと考えたんじゃないかしら。会下山を突破されるとモロ福原やし」
「なるほど」
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「鵯越の逆落としも、少し見方を変えてもイイと思うの」
「平家軍が峠の上にいたとか」
「上にはいなかったのは延慶本でわかるやん。教経や盛俊が鹿松峠の東の麓で待ち構えていたのは間違いないけど、少しだけ峠を登っていたのよ」
「少しだけってどれぐらい」
「高さにして5丈」
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「ブラボー。まったく無理がないよ、平家にすれば源氏軍が柵に向かって来るのではなく、崖から飛び降りて行ったのでビックリ仰天するわな」
「そうなの、平家もこれを見て対応するには峠道を下らなきゃいけないけど、その間にドンドン源氏軍は下ってしまうの」
「そっか、平家を峠道を下りるのより、義経隊が崖を下る方が早いもんね」
「それで最後は数で圧倒されて支えきれなくなったと思うの」
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「まだあるの」
「まだ?」
「一の谷ってホントに平家の本営だったのかしら」
「本当は大輪田の泊で、陸上用が一の谷って・・・」
「違うと思うの。長田神社の建物利用の話があったけど、建物だけなら八棟寺だってあるよ。平家の本営はあくまでも大輪田の泊。だから宗盛は合戦が始まると船に乗ったのよ」
「でも延慶本に一の谷は・・・」
「判官贔屓での脚色だと思うの。一の谷合戦の勝因は義経の一の谷攻略だから、ここに重点を移して本営を攻略した話に仕立て上げたんじゃない」
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「根拠はある?」
「延慶本の一の谷の説明の時に前陣に生田の森、福原が挙げられるのはわかるけど、湊川が出てくるのが不思議だったの。あれは一の谷を本営として見ると不自然だけど、大輪田の泊を本営として見れば納得できる気がするの」
「一の谷の前陣に湊川があっても良いとは思うけど、より相応しいのは大輪田の泊を本営にした時かもしれへん」
「まだあるわ。長田神社に本営があったのなら、鹿松峠を守るのなら本営の軍勢を動かすべきじゃない」
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「義経は一の谷にある本営を襲った訳でなくて、山陽道と鹿松峠からの二方面攻撃で西の木戸を突破して大輪田の泊の平家本営を狙った作戦だと思うの」
「なるほど納得や。そう考えると一の谷こそ突破されたけど平家は一挙に崩れた訳じゃないね」
「私もそう思う。一の谷は焼き討ちされたけど平家軍は義経軍の大輪田の泊への進攻をかなり食い止めたんじゃないかなぁ」
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「そうなると真っ先に崩れたのは生田の森の知盛?」
「生田の森は大輪田の泊から遠いし、退路が断たれそうになるのは軍勢が一番動揺すると思うの」
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「・・・これが一の谷の真実なの」
「それはわからへん。ただ歴史の解釈は、事実の断片を一番合理的に説明できたものが真相に近いはずやねん」
「じゃ、これが真実かもしれないのよね」