一の谷陣地・西の木戸再考

大輪田の泊のムックはそれ自体でも面白いものですが、本当の目的は大輪田の泊ではなく一の谷のムックです。おおよそ清盛時代の大輪田の泊の概略が判明したので一の谷ムックに戻りたいと思います。


東の木戸のおさらい

東の木戸は生田の森にあったのはまず間違いありません。前に作った推測図です。

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かつての生田の森は広大で、東は旧生田川から、西は大倉山、つうか福原まで広がるものであったと考えられます。この森を源平武者が通るのは無理なため、山陽道と旧生田川が交わるあたりに東の木戸があったとして良いでしょう。福原からチト離れているのがネックですが、ちょうど宿舎に転用できる生田神社があり、このポイントを過ぎると福原周辺に防衛線を築く必要がありますから、ここで東の木戸の攻防戦が展開されたと見ています。


一の谷はここでFA

平家軍は屋島から一の谷に進出し一の谷陣地を築くのですが、そういう時にはまず本営の位置を決めます。直感的には福原なんですが、福原は都落ちに続く福原落ちの時に平家自ら火をかけて燃え落ちています。つまり宿舎に出来るような建物はロクロク残っていなかったと推測します。安徳天皇建礼門院が一の谷まで来ていたかは説が分かれるそうですが、平家は一の谷陣地を一時的な野戦陣地ではなく、福原再建の意図も含めた恒久陣地にする算段があったと見ています。

とはいえ京都には関東源氏軍がいるわけで、殿舎の建設をやっている余裕はなく既存の建物を本営として利用したと考えるのが自然です。東の木戸の宿舎に生田神社を利用したと考えていますが、本営は長田神社を利用するのが一番手っ取り早いと考えます。長田神社とその背後は会下山と長田山に挟まれた地形で、平たく言えば谷です。明治期の地図がイメージしやすいと思いますが、

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谷の入り口付近に長田神社、北側に明泉寺があり間は小盆地状を呈しています。延慶本の

一の谷は口は狭くて奥広し。南は海、北は山、岸高くして屏風を立てたるが如し。馬も人も少しも通うべき様なかりけり。誠に由々しき城なり。

この描写にかなり合います。ここで議論になったのは「南は海」の部分です。長田神社から海までの間はどうなっていたかが難しかったので延々と兵庫津ムックをやっていたのですが、

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大輪田の泊から山陽道への連絡路として大和田の泊道(以下「泊道」とします)が存在します。後の西国街道で良いと判断しますが、泊道が山陽道に合流する近くに長田神社は位置します。直接海とは接してはいませんが、泊道でダイレクトに結ばれていると見たいところです。同時に山陽道にも接していますから東の福原や生田の森との連絡にも適していると見れますし、一の谷の北側は鵯越支道、鹿松峠で播磨への連絡が可能です。

一の谷陣地の背後として播磨は重要で平家は一の谷進出時に播磨も制しています。一の谷からの退路は大輪田の泊からの海路はもちろんですが、海路は天候に左右される部分が大きく、海路が使えない時に陸路で播磨に逃げ、明石や室から脱出するルートも計算に入れていたんじゃないかと考えています。敗れた時のことも配慮しておくのが軍略で、平家に取って一の谷は前進基地ですが、真の意味でのこの時期の根拠地は屋島であったと考えると、大輪田の泊が使えない時の播磨ルートを活用できるのは小さくないと考えています。


ここでもう一度通説である須磨浦公園の東側にある一の谷の否定をやっておきます。一の谷の地名は後世になって地元の人間にも忘れ去られた地名になり、江戸期の人間が比定する時に、船乗りが兵庫津を目指すときの海から見た陸上の地形である一の谷を採用しています。そこにしか一の谷の呼び名が残っていなかったので結び付けられたのですが、須磨浦公園の一の谷を背後から襲撃しようと思えば、

  1. 鉄拐山を登る必要がある
  2. 鉄拐山を下る必要がある
義経道と呼ばれる山道がありますが、実際に歩くとそりゃ凄い急斜面です。人の足なら歩けますが、大鎧を着用した騎馬武者が通れるようなルートとは到底思えません。つうか鉄拐山ルートを源平武者が通れるのなら、殆どの山道は通れることになってしまいます。また延慶本の

ここは屈強の城なりとて、城郭を構えて、先陣は生田の森、湊川、福原の都に陣を取り、後陣は室、高砂、明石まで続き、海上には数千艘の舟を浮かべて、浦々島々に充満したり

一の谷を本営として「生田の森、湊川、福原」の先陣があったと描写されています。先陣は本営を守るように配置される訳であり、本営の位置は先陣である「生田の森、湊川、福原」に囲まれる位置にあると考えるのが自然です。須磨浦公園一の谷は

  1. 湊川の先陣からも遠すぎる
  2. 大輪田の泊から遠すぎる
  3. 陸路として山陽道があるが、北側ルートは通行困難
海路として浜から小舟に乗って沖合の大船に乗り移るのは可能ですが、それより素直に大輪田の泊に近いところに一の谷本営を設ける方が合理的です。付け加えれば宿舎問題もあり、須磨浦公園一の谷なら下手すりゃ地ならしから工事を始める必要があります。そんなところに平家軍が本営を置くとは到底考えられません。


西の木戸

長田神社一の谷に本営を置いた平家軍の西側への防衛戦略で要になるのは大輪田の泊への連絡路の確保です。泊道を源氏軍に抑えられたら逃げられなくなるからです。そうなると泊道が山陽道に合流する地点より西側に西の木戸の防衛線が位置していた事になります。長田神社周辺の明治期の地図を見てもらいますが、

泊道と山陽道の合流地点から西側を見ると気になるのは苅藻川です。神戸の河川の特徴で普段は水も乏しいのですが、それでもこの川を越えての背水の地形を取ったとは考えにくいところです。たしかに普段は水量も乏しい川ですが、雨が降ればたちまち水量が増え、後方を遮断される結果を招く危険性があるぐらいです。やはり基本は苅藻川沿いの東岸を中心に西の防衛線は存在していたと考えたいところです。基本は地形重視ですから、この辺に多い池も利用したところですが、まず蓮池については福原会下山人氏の町名由来記より、

  • 平家物語重衡都落ちの条に「湊川苅藻川を打渡り、蓮の池を馬手に見て、駒ケ林を弓手になし、板宿須磨をも打過ぎて、西を指してぞ落ちたまう」などと見ゆ。
  • 池田村、往古は長田の内であった、蓮の池という池があるので池田という名が出来た

蓮池は源平期に存在し池田あたりは田園であったとみても良さそうです。どうしても関心を引くのは平知章墓と書かれている南北に存在する池です。もしこの池が源平期に存在していたら、狭隘地になり防御地点としてはもってこいなのですが、源平期にあったかどうかは遺憾ながら不明です。

西の木戸の防衛線の北端が長田神社近辺であったとして、南側はどうなっていたかです。平家物語の描写では海まで延々と防御施設が連なっているように書かれていますが、これは東の木戸の描写を「たぶん西側も同じようなものだろう」として使ったものぐらいに考えています。東の木戸は位置的に海までそれほど遠くないですが、西の木戸はかなりの距離になるからです。つうか長田神社から海まで連なるような長城を作り、それを守るための兵力も存在していたのなら、別に守りに徹することなく逆襲すれば良いだけだからです。どう考えても源氏搦手軍の10倍ぐらいは必要になるからです。

平家物語しか参考資料はないのですが、源氏搦手軍で先陣を行った熊谷父子・平山季重、この二人に引き続いて西の木戸に到着した土肥実平もひたすら西の木戸周辺での力攻めをやっていたとしか読めません。少なくとも西の木戸を攻めながら大輪田の泊方面に攻撃を加えたような気配が窺えないところがあります。これは

    西の木戸を突破しないと大輪田の泊には進めなかった
こういう地形であったと考えるしかありません。これも福原会下山人氏の町名由来記からですが、

和田山通、和田山という一丘阜があった、其区域は東西七百十二間、南北五百間、面積十一万四千百九十一坪の松林竹叢であった、中に寺山というて平濶な地もあった、これが輪田寺の址である、後世に福原内裡の跡と見誤られたのはここである、此和田山湊川戦役のとき足利尊氏が上陸して楠氏の退路を扼した所、坪井という地に『尊氏旗立松』という巨木もあった。

元禄絵図で確認すると

元禄絵図は東西が縦なので注意が必要ですが、和田岬の西側に林が広がっているのが確認できます。こういうものは元禄期より源平期の方が広大であるのが一般的ですから、山陽道から南側は広大な林が広がり騎馬武者が通り抜けるのは難しかったと見たいところです。平家軍の西の木戸防衛線の南端は林まであれば必要にして十分であったと見たいところです。


騎馬武者

源平期と戦国期の合戦の様相はかなり異なると考えています。戦国期は歩兵による徒歩戦が主体となっています。歩兵による独立部隊(足軽部隊)が成立し、これが集団で進退します。一方で源平期の主体は騎射特化の騎馬武者です。源平期にも下人と言う歩兵はいましたが、独立歩兵部隊ではなくあくまでも騎馬武者(領主)の従者的存在です。戦国期の歩兵部隊は徒歩である事から、戦場で踏破できる範囲は広いですが、源平期の騎馬武者はかなり狭くなり、歩兵である下人も騎馬武者が通れないところは基本的に進みません。領主を置いてきぼりにして下人部隊だけが進撃するのはありえないぐらいです。

それと源平期の騎馬武者は騎射特化に対応して大鎧と言う超重量級の鎧を着用しています。これが20〜30kgになり、戦国期の3〜4倍に達する代物です。そのために下馬して徒歩戦に移るという発想は基本的にはなかったと見て良さそうで、ごく単純には馬を下りればカメになるぐらいです。馬も「武者+大鎧+弓矢+太刀」を背負っていますから、そうそう軽快に駆け回るってわけにはいかなかったと見ています。あえてイメージすれば重戦車です。源平武者は重戦車であるが故に活躍場所として地形的要素が戦国武者よりはるかに大きかったと私は考えています。

単純には足場の悪いところでは源平武者は戦えませんし、野戦は得意でも要塞攻撃は苦手であったぐらいです。そりゃ防護柵を一つ作られただけで、これを突破するのは騎馬武者では非常に難しくなります。防護柵を突破するには柵を乗り越えるか、柵を破壊するしかないのですが、騎馬武者では柵は乗り越えられず、破壊するにも小領主ごとの独立部隊の寄せ集めで、歩兵である下人の集団的活用戦術はほぼ使えないってところでしょうか。一の谷の合戦の当初の様相が東西の木戸の攻防戦になったのは、

  1. 騎馬武者が実質的に道の上ぐらいしか戦えなかった(下手に迂回すると粟津の義仲のように馬が沈んで自爆する)
  2. 開ければ通れる木戸攻撃が主体となり、破壊が必要な柵攻撃は不活発であった
こんな感じを想像しています。そういう騎馬武者の特性を平家軍も当然のごとく熟知しており、山陽道の東西に木戸を設け、木戸の左右の騎馬が通れる範囲にのみ柵などの防御施設を施していたんじゃないかと考えています。その程度ならわりと短期間で構築は可能と考えられます。