延慶本より、
一万余騎、たんばぢにかかりて、みくさのやまのやまぐちに、そのひのいぬのときばかりにはせつきたり。
三草山の義経軍は1万騎としています。一の谷の時は
そのせい七千余騎は義経に付け。のこり三千余騎はとひのじらう、たしろのくわんじやりやうにんたいしやうぐんとして、山の手をやぶりたまへ。わがみはみくさのやまをうちめぐりてひよどりごえへむかふべし」とてあゆませけり。
通本はどうかというと
都合その勢一万余騎、同じ日の同じ時に都を発つて丹波路にかかり、
これも三草山は一万騎で一の谷は、
六日も曙に、九郎御曹司、一万余騎を二手に分かつて、まず土肥次郎実平をば七千余騎で一の谷の西の手に遣わす。我が身は三千余騎で一の谷の後ろ鵯越を落とさんと、丹波路より搦手にこそ回られけれ。
前から気になっていたのですが、一の谷の兵力分割は
* | 延慶本 | 通本 |
義経隊 | 7000 | 3000 |
実平隊 | 3000 | 7000 |
何回も出している一の谷西側の道の様子ですが、
まず古代の山陽道は塩屋付近の浜が狭くて通れず、須磨から多井畑を抜ける迂回ルートを使っていました。これが徐々に海岸が広くなり、一の谷期には塩屋を直接通れるようになっています。そのために迂回ルートは古道越と呼ばれる姫街道になったとされていますが、この古道越のうち多井畑から須磨の部分はかなり衰微したようです。一方で塩屋から多井畑ルートはそれなりに健在であったようで、これは塩屋から多井畑厄神参詣ルートとして必要であったからとして良さそうです。
ここでまずポイントは妙法寺で、清盛は妙法寺を鞍馬に見たてて庇護しています。福原から妙法寺に至るルートですが、どうも妙法寺から南に下り板宿に出るルートは明治期になるまで使い物にならなかったようで、そのために明泉寺を経て鹿松峠を越えるルートが活用されたようです。寺社参詣は信仰の面と娯楽の面がありますが、福原に都があった頃に妙法寺参詣は貴族の楽しみの一つであったともされます。さて清盛は舞子方面にも別荘があり、その行き帰りに妙法寺参詣を行っていたの伝承もあり、この時に多井畑厄神もセットであったらしいです。つうのも鹿松峠を越えて妙法寺行くのは良いとして、そこからの道が未整備なら再び鹿松峠を越えなければなりませんから、妙法寺と多井畑は結ばれていて当然のはずです。
それと塩屋もポイントです。塩屋の地名は伊達ではなく、古代から製塩を行っています。この塩は福原にも運ばれたでしょうが、多井畑や妙法寺も必要ですし、藍那や山田荘も必要です。塩の道として藍那からの道が多井畑に通じているのは自然でしょう。それと鹿松峠が整備されたなら、藍那からの道が接続される方が自然です。藍那から福原へは鵯越道がメインですが、大輪田の泊を目指すなら鹿松峠の方が近くなります。
この峠は坂は急ですが、たとえば六甲山を越えるとか、生駒山を越えるのと比べるとはるかに容易です。鵯越道で高尾山を越えるのも似たようなところがあるのですが、たとえば吾妻鏡の
鵯越〔此山猪鹿兎狐之外不通險阻也〕
これは大げさすぎるってところです。妙法寺から明泉寺までの標高図を参考までに出しておきますが、
おおよそですが100メートル登って、100メートル下りるぐらいの峠道です。そのうえで清盛時代には参詣道として整備もされています。おそらくですが険しさの程度は徒歩ならともかく、馬で越すにはチト難しい程度ではなかったかと考えています。それでも鹿なら通れると聞いた義経が例の「馬も四足」発言が出たぐらいを想像します。あくまでも私の想像ですが、馬が通れない険路って評価が平家物語でかなり誇張されて表現されている気がします。
この鹿松峠を軍勢が越えられるかですが、湊川の合戦で足利直義が越えています。一の谷合戦と湊川の合戦では150年の差はありますが、この150年間に鹿松峠の道の質が良くなっているとは思いにくいところがあります。むしろ一の谷の時の方が良い可能性さえあると思います。鹿松峠は知る人ぞ知る抜け道と言うよりは、一の谷期でもかなりポピュラーな道であったと考えています。
一の谷陣地の描写を延慶本より、
さんぬるしやうぐわつより、ここはくつきやうのじやうなりとて、じやうくわくをかまへて、せんぢんはいくたのもり、みなとがは、ふくはらの都にぢんをとり、ごぢんはむろ、たかさご、あかしまでつづき、かいしやうにはすせんぞうの舟をうかべて、うらうらしまじまにじゆうまんしたり。いちのたにはくちはせばくておくひろし。南は海、北は山、きしたかくしてびやうぶをたてたるがごとし。馬も人もすこしもかよふべきやうなかりけり。誠にゆゆしきじやうなり。
ちょっと整理すると
まず後陣ですが言うまでもなく海路の拠点です。つうか播磨は安全圏として前提しているとも受け取れます。先陣なのですが、-
第1防御ライン・・・生田の森
第2防御ライン・・・福原
第3防御ライン・・・湊川
平家陣地には重要拠点として一の谷本営と大輪田の泊があります。東から源氏軍が攻め寄せるとして生田の森の東側の生田川がまず第1線になるのはわかりやすいところで、いわゆる東の木戸で良いかと思います。第2線は福原とはなっていますが、この頃の福原は基本的に焼け野原ですから、大輪田の泊道が山陽道に合流する地点の東側ぐらいにあったと推測します。福原そのものの防衛と言うより、大輪田の泊と一の谷の防衛です。
第3線の湊川は第2線を突破された時の防御になりますから、山陽道を西に進む源氏軍と、大輪田の泊を襲ってから一の谷に進む源氏軍への対策となりそうです。ここで食い止めて押し返す、もしくは時間を稼いでいる間に山陽道を西に逃げるぐらいです。明石まで逃げられれば後陣がありますから、船で屋島に逃げられるぐらいでしょうか。
平家軍の戦略が狂ったのはやはり三草山の敗戦で、これで北からも西からも義経軍の脅威が及びます。とくに一の谷本営は先陣なしで剥き出しで源氏軍と接触する状態になったと見て良い気がします。三草山の平家軍は2/5の早朝に潰走していますが、一の谷に敗報を届けた者がたどったルートは
-
三草山 → 明石 → 一の谷
ほどなくみくさのやまへはせつきて、ゑつちゆうのせんじもりとしが陣の前にかりやを打てまちかけたり。
ここにも三草山が出てくるのですが、一の谷への山の手ルートは具体的には鵯越道と鹿松峠になりますから、盛俊は鹿松峠対策で明泉寺方面、教経は鵯越道対策で会下山方面に陣を構えたぐらいを想像します。そうやって山の手防備は強化はされましたが、西や東と違い防御施設に依っての防衛線ではなく、陣を構えての迎撃態勢だったぐらいを想像しています。
源平両軍の実数はどれぐらいかですが、吾妻鏡より
源九郎主先引分殊勇士七十餘騎。着于一谷後山。〔号鵯越〕
偶然かどうかわかりませんが「七十餘騎」で1騎につき10人と数えると700人になり、そうなると実平隊は30騎で300人になります。ここで義経の搦手軍が100騎1000人とすれば、吾妻鏡で昆陽野の勢揃い時の兵数が範頼大手軍5万6000騎、義経搦手軍2万騎馬ですから、比が同じであるなら280騎2800人になります。ではでは延慶本の範頼軍の数の描写は、
はまのてよりは、がまのくわんじやのりよりたいしやうぐんとして三千余騎にておしよせたり。
これまた奇妙に符合します。そうなると源氏軍は全部で4000人弱ぐらいになります。この数字の傍証として玉葉に、
源納言示し送りて云く、平氏主上を具し奉り福原に着きをはんぬ。九国未だ付かず。四国・紀伊の国等の勢数万と。来十三日一定入洛すべしと。官軍等手を分かつの間、一方僅かに一二千騎に過ぎずと。
「一方僅かに一二千騎に過ぎず」が義経搦手軍を指すとすればこれまた妙に一致します。源氏軍が4000人程度だったとすると平家軍もチョボチョボぐらいで良い気もします。でもって源氏軍4000人を関東から兵糧付きで送り込むのに必要な人数は、
騎数 | 将兵 | 馬丁 | 軍馬 | 駄馬 | 将兵+馬丁 |
1 | 10 | 9 | 1 | 9 | 19 |
100 | 1000 | 900 | 100 | 900 | 1900 |
200 | 2000 | 1800 | 200 | 1800 | 3800 |
300 | 3000 | 2700 | 300 | 2700 | 5700 |
400 | 4000 | 3600 | 400 | 3600 | 7600 |
500 | 5000 | 4500 | 500 | 4500 | 9500 |
600 | 6000 | 5400 | 600 | 5400 | 11400 |
700 | 7000 | 6300 | 700 | 6300 | 13300 |
800 | 8000 | 7200 | 800 | 7200 | 15200 |
900 | 9000 | 8100 | 900 | 8100 | 17100 |
1000 | 10000 | 9000 | 1000 | 9000 | 19000 |
1100 | 11000 | 9900 | 1100 | 9900 | 20900 |
1200 | 12000 | 10800 | 1200 | 10800 | 22800 |
1300 | 13000 | 11700 | 1300 | 11700 | 24700 |
1400 | 14000 | 12600 | 1400 | 12600 | 26600 |
1500 | 15000 | 13500 | 1500 | 13500 | 28500 |
次加羽冠者申案内(大手、自浜地寄福原云々)自辰刻至巳刻、猶不及一時無程責落了
辰の刻(8時)から巳の刻(10時)ぐらいまで生田の森方面の平家軍は健在だったと受け取っても良さそうですから、巳の刻ぐらいに義経搦手軍が福原にまで進出し、平家軍が総崩れになったのかもしれません。細かい点の想像はともかく、奇襲でなく強襲として考えても無理なく成立するぐらいを結論とさせて頂きます。