兵庫津ムック9・経が島と築島の比定補足

元禄期の汀線

兵庫津遺跡第52次発掘調査報告書の掲載地図を見てもらいます。

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この地図は元禄絵図と現代地図を重ね合わせたものなのですが、これに明治期の地図を重ねると少しだけ見えるものがります。築島船入江の西側に島上町・船大工町がありますが、明治期の地図では半分ぐらいは海であった事になります。つまり元禄期の汀線はもっと西寄り(浜寄り)であったって事です。ではでは明治期の汀線にいつなったかですが、やはり兵庫運河開鑿の時と考えるのが自然です。兵庫運河はまず1876年(明治9年)に新川運河が完成しますが、運河開鑿のための土砂はどこかに捨てなければなりません。

新川運河開鑿の時に築島船入江も埋め立てられていますが、それだけでなく島上町・船大工町の東側(海側)の埋め立てに使われたとしても不思議ないってところです。福原会下山人氏の町名由来記に、

新町、兵庫の船入場は経ケ島時代の面影が幾分残っていた、新川開鑿の頃に此船入場は埋立てられた、そこに新町は出来たので、幾念経っても新町である、浜新町も同様である。

ここに出てくる新町と濱新町ですが、新町該当部分は元禄絵図でも既に陸地ですので、私は明治期に埋め立てられたのは濱新町の方であると考えています。濱新町が明治期の新川運河開鑿の時に埋め立てれたのなら、濱新町の北側にあたる船大工町・島上町の東側部分も同様に埋め立てられたとみたいところです。兵庫の町からすると中心街に近い島上町・船大工町を広げることは意味があると思います。


平安期の汀線

ほいじゃ元禄期の汀線はいつからそうであったかです。兵庫津の絵図は江戸期からものしかありませんが、東側は清盛・重源時代から変わっていない可能性は十分にあると考えています。ほいじゃ島上町・船大工町の西側にある築島船入江も清盛・重源時代から同じかといえば変わっている可能性はあると思います。わかりやすいのは天正8年(1580年)の池田恒興による兵庫築城です。恒興は単に兵庫城を作っただけでなく、古湊川を流路変更して旧湊川にし、兵庫津の周囲に都賀の堤を築き、さらに都賀の堤の外周に湊川の支流を引き込んで外堀にしています。

恒興は城池を確保するために経が島の拡張を行い、その時に

  1. 築島船入江は南側の関屋町にあった水路から入港するルートであったが、これをすべて埋め立てた
  2. 関屋町水路を埋め立てる代わりに島上町と船大工町の間に新たな水路を開鑿した。
私はこう考えています。一つわかりにくいのは魚棚町・磯之町です。この二つの町は平安期の推測汀線では海の中になります。埋め立てられたのは恒興の時か、それより前に埋め立てられたのかは・・・不明です。元禄期には存在しているのは確かですが、清盛・重源時代には海であったと考えて良い気がします。


清盛・重源時代の大輪田の泊

以上の考察とこれまでのムックをトータルして、

須佐の入江にあった古大輪田の泊の弱点は南東風がよく挙げられますが、これは航海上の弱点で港湾施設としての弱点は古湊川逆瀬川による水害であった気がします。短期的には洪水による港湾施設の損傷、長期的には堆積作用による水深の低下であり、そのために清盛が考えた改修計画は河口港からの脱却であった気がします。ですから経が島の位置は逆瀬川の河口の北側にあると見たいところです。経が島は南東風対策のための防波堤の意味もあり、人工的な和田岬みたいな意味合いでしょうか。

東西に延びる経が島に対して築島は七宮神社がある岬から南北に伸びていたと考えています。ここでなんですが経が島は清盛がほぼ完成させていたと思われますが、築島は重源の時代に完成したと考えています。築島は東風・北東風対策の意味もあると思いますが、湊の出入口を一つに絞る意味合いもあった気はしています。重源が大輪田の泊の改修事業を完成させた目的の一つに、湊からの税金を大仏再建資金にするのもあったとされるからです。


これが天正期の改修によってどうなったかですが、河川の流路や八棟寺の変遷まで書き直すのが面倒だったので御容赦願いたいのですが、

この時期に古湊川から新湊川に流路変更は行われていますが、それでも天正期はまだ川崎は形成されておらず、七宮神社の北側に佐比江あるスタイルは同じであったと推測します。一方で古大輪田の泊のあった須佐の入江はかなり陸地化していたであろうと思われます。八棟寺は江戸期には真光寺として栄え、その周囲は摂津名所図会に描かれてますが、真光寺周辺はその時点で「かつて海であった」と表現になっています。築島船入江も清盛・重源時代よりよほど縮小している可能性があります。


築島船入江

兵庫津はそれなりに盛衰がありますが、完全に荒廃してしまった時期はなさそうに見ています。にもかかわらず「どうも」時代が下る程、メインの港湾施設であると考えられる築島船入江は縮小してると見れます。池田恒興の改修後が江戸期の基本ですが、清盛・重源時代に較べると見る影もないぐらいでしょうか。何故だろうってところですが、なんとなく船の大きさの気がしています。清盛が構想した大輪田の泊は日宋貿易の拠点で、宋船の来航を計算してのものあったと考えられます。

実際のところ、どれほどの隻数の宋船が大輪田の泊に来航していたかを知る由もないのですが、清盛にすれば「鰻登りである」で考えた気がします。そりゃ、やがては大輪田の泊に隣接して都を移し、清盛が実際に見ている10倍、20倍の規模になっても「余裕で大丈夫」の湊を構想していたぐらいです。しかしそんな時代は清盛の死後も兵庫津に訪れることはなく、簡単にいえば「大きすぎた」ってところでしょうか。

今の兵庫津を見ても想像しにくいのですが、清盛時代もそうですし、江戸期になってからも兵庫津の西側の内陸部は大変利用しにくかったようです。つまりは町が内陸部に向かって広がりにくい地形だったぐらいで、清盛構想程の繁栄に至らなかったとはいえ、兵庫津は重要拠点として働きますが、兵庫津の発展に伴って必要とされた土地は結局のところ海を埋め立てて造られた気がしています。具体的には築島船入江の内部を埋め立てて土地を広げていったんじゃなかろうかです。

港湾施設(及びそれを支える町)のためにドンドン築島船入江を縮小しても、江戸期であってさえまだ十分に機能する港になっていたのが、清盛が構想・設計した大輪田の泊の気がしています。