三草山の合戦を見直す

三草山の合戦もそれが「どこだ」レベルから諸説が出てくるのが一の谷の合戦の面白さですが、これまでのムックの再整理です。


京都から見た平家軍

都落ち後の平家は紆余曲折はあったものの、基本は山陽道を西から東に向かって都を目指す戦略を取っています。一の谷に陣を構えたのは一の谷以西の山陽道が平家支配になったからぐらいで良いんじゃないでしょうか。一の谷陣地に取って後背地にあたる播磨は重要で、ここを抑えることが出来たからこそ一の谷に進出できたととも言っても良いかと思います。平家の戦略目的は上洛なのですが、上洛ルートは京都から見て2つ想定されると見ています。

  1. 一の谷から山陽道を進み上洛
  2. 播磨から篠山に進出し、そこから山陰道を進み上洛
播磨からのルートは一見迂遠そうですが、篠山まで進めば京都まで2日です。京都から見れば一の谷の平家も脅威ですが、播磨から丹波に入れば京都までたった2日の山陰道方面も不気味って感覚で良いかと考えています。後白河法皇も手を打たなかった訳ではなく、玉葉の2/3に

今日行家入洛す。その勢僅かに七八十騎と。

行家を播磨に派遣しています(義仲と行家の不和の結果でもありますが、行家も播磨からの脅威を認めていたと見なします)。玉葉の2/3の記述は行家の播磨派遣の結果だけを簡潔に記述していますが具体的にはwikipediaより、

行家は11月29日(『玉葉』による。『吉記』では28日)、播磨国室山に陣を構える平知盛平重衡率いる平氏軍を攻撃する。五段構えに布陣した平氏軍は、陣を開いて攻め寄せる行家軍を中に進入させて包囲した。行家は郎従百余名を討たれながら大軍を割って逃げ、高砂まで退いたのち、海路で本拠地の和泉国に到着し、河内国へ越えて長野城(大阪府河内長野市金剛寺領長野荘)へ立て籠もった(『平家物語』「室山」)。

簡単に言えば行家は播磨で惨敗したぐらいで良いかと思います。行家が11月に惨敗した後の播磨に源氏は何もしていなかったで良さそうです。寿永2年の12月から寿永3年の1月は関東源氏軍の上洛対策に義仲は追われ、結果として1/20の宇治川の合戦で義仲は滅亡します。義仲滅亡後の京都の軍事力の主導権は関東源氏が握りますが、この2か月の間に平家は播磨を制圧してしまったぐらいと考えて良さそうです。後白河法皇は新たな京都の軍事力である関東源氏軍を抱き込んで平家追討を命じますが、攻撃目標は一の谷だけではなく播磨から丹波を窺う播磨の平家軍にも対応が必要と判断したとして良いかと推測します。

義経丹波ルートを取ったのは時に義経が騎馬の機動力を駆使した天才的な戦術の一端とするものもありますが、一の谷前の平家軍の動きと京都から見た脅威をを考えると、関東源氏軍に取って必然の作戦であったする方が妥当そうに思います。播磨の平家軍を無視して京都を空にして一の谷に進むわけにはいかないでしょう。


三草山の平家軍

2/5の吾妻鏡より

平家聞此事。新三位中將資盛卿。小松少將有盛朝臣。備中守師盛。平内兵衛尉芿家。惠美次郎盛方已下七千余騎。着于當國三草山之西。

「平家聞此事」は源氏搦手軍が丹波に進んでくる事と解釈して良いと思いますが、無防備であった三草山に急遽派遣されたものではないと推測しています。三草山の平家陣地の評価は玉葉にある梶原景時の報告書に「丹波城」となっています。この城って表現が混乱を招くのですが、戦国期以降の城とはまったくの別物と思います。イメージとしては拠点というか、関所みたいなものでないかと考えています。三草山の平家陣地は「城」のイメージからか、三草山の山の上に築かれたものとして史跡扱いされているのが現状ですが、主戦術が騎馬武者による騎射特化の時代に、馬が登れない三草山に要塞工事を行うとは到底思えません。せいぜい三草山の麓に丹波進出のための準備基地つうか、補給拠点的なものがあった程度が妥当そうに思います。

ここでなんですが平家の戦略目的が上洛としましたが、戦国期の信長のような武力による力業は考えていなかった気がします。戦国期には朝廷も、幕府も権威も実力も失墜していましたが、源平期では朝廷の権威は健在です。平家が上洛するとは朝廷の大実力者である後白河法皇と和睦しての平家復権による上洛で良さそうです。軍事力で脅迫はしても、軍事力で京都を強行占領しての上洛復権は考えていなかった気がします。京都の情勢を平家側から見ると義仲は滅亡した代わりに関東源氏軍が頑張っています。この関東源氏軍が義仲のように京都に居座るかの判断ですが、頼朝が出張っていない点から

    遠からず関東に帰る
この見方は間違っていないわけで、一の谷後に留守部隊を残して主力は範頼とともに関東に帰っています。関東源氏軍が京都からいなくなれば後白河法皇を守る軍事力は無くなり、法皇は嫌でも平家との和睦路線を取らざるを得なくなるぐらいのスタンスで動いていた気がします。問題は関東源氏軍が平家と一戦交えて帰るつもりなのか、そのまま帰るかです。結果は一戦交える事になったのが吾妻鏡にある「平家聞此事」と私は解釈します。

一の谷合戦全体を見て私が感じるのは平家軍の積極性の乏しさがあります。積極性に乏しいは語弊がありますが、関東源氏軍と乾坤一擲の決戦を行う意志が乏しい感じです。野戦になれば坂東武者の方が優勢の観点もあるかもしれませんが、日数を稼げば関東源氏軍は帰らざるを得なくなるとするのが基本戦略であった気がどうしてもします。まあ決戦となれば敗北もありうるので、そこまでのリスクを避けて小競り合いをしながら

    お帰り願う♪
三草山もそんな感じで、吾妻鏡に書かれている平家軍は増援部隊だったぐらいに考えています。小競り合いに持ち込む基本は平家軍の方が多い状態が望ましく、源平期の合戦も兵数の多寡にかかわらず無暗に突撃するものではありません。優勢の敵に突撃を命じようものなら逃げ散ったり(富士川の平家軍とか)になります。


三草山の比定のおさらい

三草山の位置を具体的に記す資料となると平家物語に頼らざるを得なくなるのですが、まず源氏の陣地の位置です。

たんばとはりまのさかひなるみくさのやまのひんがしのやまぐち、おのばらにぢんをぞとつたりける。

ここから拾えるキーワードは

  1. 丹波播磨国境に近く、さらに東側つまり丹波側にある
  2. 地名は「おのばら」
  3. 付近に三草山がある
この条件を満たせば良いことになりますが、そんな都合の良い場所があるかといえば、

丹波播磨国境の東側に「上小野原」「下小野原」の地名があり、ここが「おのばら = 小野原」として良いかと思います。もう一つの三草山の存在ですが、

小野原から西に12kmほどのところに三草山があります。この12kmというのもポイントで、吾妻鏡

源氏又陣于同山之東。隔三里行程。源平在東西

源平両軍の間隔は3里となっており妙に符合します。少しだけ合戦様相を詰めれば吾妻鏡より、

爰九郎主如信綱實平加評定。不待曉天。及夜半襲三品羽林。仍平家周章分散畢。

義経軍が夜襲を行ったのは史実として良いでしょうが、「不待曉天。及夜半襲三品羽林」となっています。実は暁天も夜半も指す範囲が少々広いのですが、この二つが並ぶと特定可能になります。暁天とは夜空の東に日が差し始める状態で寅の刻にあたり、夜半はその前になりますから丑の刻になります。丑の三刻から四刻ぐらいに義経軍の夜襲が開始されたぐらいと取っても良いかと考えます。一の谷の頃はおおよそ日の出・日の入りとも6時・18時ぐらいですから、一辰刻は2時間で一刻は30分になり、丑の三刻で2時、四刻で2時半ぐらいになります。

ではでは義経軍は小野原をいつ出発したかですが、三里は普通に歩いて3時間程度です。ただ夜道ですからもう少し時間がかかったとして4時間とすれば亥の三刻(10時)か亥の四刻(10時半)ぐらいに出発したと見て良い気がします。合戦場所は三草山麓の平家陣地ですから、後世に三草山の合戦として名を残したぐらいでしょうか。合戦の状況は源氏軍が平家軍の将兵を散々に討ち取ったというより「平家周章分散畢」で、不意を衝かれて狼狽し、闇雲に逃げ散ったのが実相で良いかと思います。戦闘時間は1時間から2時間ぐらいでしょうか。ざっとまとめれば、

月日 時刻 事柄
2/4 酉の刻 18時 義経、小野原に着陣
評定・夕食
亥の刻 22時 三草山に出陣
2/5 丑の刻 2時 合戦開始
寅の刻 4時 合戦終了
この合戦でのポイントは幾つもありますが、まずは2/4の夜は源氏軍は寝てないだろうです。そのために合戦終了後に源氏軍が行ったのは
    朝飯を食って寝る
これが絶対になります。これをやらないと次の作戦は何もできません。


三草山合戦のその他のポイント

義経が三草山合戦にあたり何を考えていたかですが、私は矢合わせ日時があった気がします。平家物語より、

さる程に、源氏は四日寄すべりかしが、故入道相国の忌日と聞いて、仏事をとげさせんがために寄せず。五日は西塞がり、六日は道虚日、七日の卯の刻に、一の谷の東西の木戸口にて源平矢合せとこそ定めけれ。

ここも解釈が必要なんですが、2/7卯の刻の矢合わせはあくまでも大手の範頼軍の予定じゃないかと考えています。範頼軍なら無理なく生田の森の東の木戸に到達できます。一方の義経軍は無茶も良いところで、2/6夜に塩屋に宿営したとされる土肥実平でも三草山から75kmぐらいあり、これは2日間ぐらいの道のりになり、2/5に三草山で快勝してやっとこさ間に合うスケジュールになります。つまり源氏は義経軍が2/7の矢合わせに間に合わない予定の決定だったとするのが妥当かと思います。義経軍の本来の目的は、

  1. 播磨から丹波方面への平家軍の進出阻止
  2. 出来れば丹波から播磨に進み、一の谷後背地である播磨を動揺させる
  3. もし播磨制圧が順調に進めば一の谷攻撃にも参加する
優先度としては
    1.>2.>3.
ところが義経は一の谷攻撃参加、それも2/7の卯の刻に間に合わせる事を最優先して行動していたんじゃないかと考える次第です。三草山での源平両軍の兵力差は不明ですが、増援部隊が来たことにより平家優勢であった可能性も十分あると考えています。だからこそ優勢であった平家軍は小勢の源氏軍が攻めてくるとは予想しておらず奇襲で潰走してしまったはありえると思います。一方の義経は小勢であるが故に正面突破は難しいと判断し夜襲を選択したぐらいです。まあ小勢で小野原で平家軍を迎え撃っても勝利は難しいとの判断もあったとは思いますが、小勢で短時間で勝つには夜襲しかないともいえます。

三草山を一夜で打ち破った義経には他にも得たものがあると思います。将兵からの求心力です。義経宇治川でも指揮を執っていますが、正直なところ宇治川の指揮では将兵の信頼・信用を得るのは難しい気がします。あれは義経でなくとも勝てる合戦です。しかし三草山の勝利は義経の決断と行動力による勝利です。義経でなければ勝てなかったと言い換えても良いかと思います。さらに義経は三草山勝利後に平家物語より

同じき六日の日の曙に、大将軍九郎御曹司義経、一万余騎を二手に分けて、土肥の次郎実平に、七千余騎をさしそへて、一の谷の西の木戸口へさしつかはす。我が身は三千余騎で、一の谷の後、鵯越を落とさんとて、丹波路より搦手へこそ向かはれけれ。

義経軍は一の谷の平家軍を攻めるとしています。一見当たり前のようですが、義経軍の本来の役割が播磨の平家軍の牽制であり、戦場としては裏方仕事の割り当てであったのが、主戦場である一の谷に参戦させると聞けば将兵は奮い立ちます。手際は三草山で見ていますから、義経の指揮に誰しも喜んで従うようになったぐらいを想像しています。この求心力は軍監である土肥実平にも及んだと思っています。実平は一の谷攻撃の最終段階で西の木戸担当になり義経と別行動を取っています。

軍監とは頼朝の代理人であり、御大将の仕事を監視し報告するのが本来の役割のはずで、梶原景時がわかりやすい実例です。御大将を監視するには少なくとも戦場では御大将の傍らに居る必要があり、別行動は異例(屋島での景時と義経の喧嘩別れはありますが・・・)です。にもかかわらず実平は別動隊の大将の役割をさして問題なく引き受けているように感じます。


三草山から一の谷へ

義経は三草山で快勝はしましたが、逃げ散った平家軍がどうなったかを知る術はなかったとするのが妥当です。もう少し具体的には、

  1. 他に播磨に有力平家軍部隊がいるのか
  2. いるとしたらどこなのか
  3. 逃げ散った平家軍がどこかで再集結していないか
こう考えた時にもし有力な平家軍部隊が存在するとしたら明石が怪しいぐらいは考えても不思議ありません。室津もありますが、とりあえず一の谷攻撃には関係しないからです。義経の念頭には2/7卯の刻があったとすれば、明石に進んで平家軍を探して撃破するより、これを回避して一の谷進撃を考えたんじゃないかと思います。そこで思いついたのが多田行綱だったぐらいでしょうか。義経に一の谷周辺の地理がどれだけ頭に入っていたかは謎ですが、大雑把に三草山から一の谷は、
  • 南に道を取れば明石に至り、そこから山陽道を東に進めば一の谷
  • 途中から東に折れて有馬温泉方向に進めば一の谷の北側に進出でき、そこから一の谷に通じる道があるらしい
明石が平家軍との衝突を回避するために避けるとすれば、山田荘に向かう道が残るのですが、どうも義経はそこに行綱が進出する予定であるのを知っていたぐらいしか考えようがありません。義経は行綱に道案内を頼んで一の谷に向かう判断を選んだと思っています。とにもかくにも三草山から一の谷は80km近い道のりがあり、丹生山の近辺で伝承の義経道をウロウロする余裕はなく、まっしぐらに山田荘、いや藍那を目指して進んでいったと思われます。