延慶本の二つの「みくさやま」

延慶本九巻に一の谷の合戦が書かれていますが、

  • 「みくさ」が16ヶ所
  • 「三草」が1ヶ所
1ヶ所の「三草」は

さてあきのうまのすけよしやすをおんつかひにて、のとのかみのもとへいひつかはされけるは、「三草山の手、すでにおとされて候なり。いちのくちへはさだよし、いへながをさしつかはされさうらひぬれば、さりともおぼえさうらふ。いくたへはしんぢゆうなごんむかはれさうらひぬれば、それ又心安く候。山の手にはもりとしむかへとて候へば、山はいちだいじの所にてあるよしうけたまはりさうらへば、かさねてせいをさしそへばやとぞんじさうらふが、いづれのとのばらも、『山へはむかはじ』とまうされさうらふ。いかがしさうらふべき。

これは義経が夜襲で攻略した三草山の事であるのは明らかです。では「みくさ」はどうかです。これがどうにももう1ヶ所の「みくさ」がありそうな気がしています。


三草山合戦の「みくさ」

列挙します

  1. げんじみくさのやまならびにいちのたにおひおとすこと
  2. からめでのたいしやうぐんくらうよしつねは、おなじきひきやうをいでて、みくさのやまをこえて、たんばぢよりむかふ。
  3. たんばぢにかかりて、みくさのやまのやまぐちに、そのひのいぬのときばかりにはせつきたり。
  4. みくさのやまはやまなかさんりなり
  5. へいけこれを聞て、みくさやまのにしのやまぐちを、たいしやうぐんはしんざんゐのちゆうじやうすけもり
  6. しちせんよきにてみくさやまへぞむかひける
  7. そのよのうしのこくばかりに一万余騎にて、みくさのやまの西のやまぐちかためたる平家の陣へおしよせたり
  8. みくさやまは、さんぬる夜のよなかばかりに、源氏のぐんびやうに、さんざんにおひちらされさうらひぬ。
  9. いづれの谷へおちて、いづれの峯へこゆべしともしらざりければ、みくさのやまのようちのとき、いけどりあまたせられたりけるを、きるべき者をばたちまちにきられぬ
  10. それらが申候つるは、『小松殿のきんだちは今度はみくさのやまをかためておわしけるが、いちのたにおちにければ、しんざんゐのちゆうじやうどの、さちゆうじやうどのふたところは、船に乗てさぬきのぢへつきたまひにけり。

この10ヶ所は三草山合戦の三草山を指していると判断できます。しかし読み直してみるもので三草山合戦では義経は戌の刻に小野原に到着し丑の刻に襲撃したと書かれてました。


一の谷の平家側の「みくさやま」

平家は三草山が落ちた事に反応して越中前司盛俊、能登守教経を山の手の補強に派遣しますが、

ほどなくみくさのやまへはせつきて、ゑつちゆうのせんじもりとしが陣の前にかりやを打てまちかけたり。

三草山に駆けつけてきたのは教経で、その陣屋は盛俊の陣の前、もうちょっとザックリとは盛俊陣の近くに仮屋を設けたとなっています。この三草山は三草山合戦の三草山とは明らかに指しているところが違う、一の谷陣地内の三草山を指しています。この盛俊隊・教経隊の動きは大手の範頼軍からも見えたようで、

大手のせいは宵の程はこやのに陣をとり、しころをならべてゐたりけるが、みくさの手にむかひたるゑちぜんのさんゐ、のとのかみのぢんの火、みなとがはよりうちあがりて、きたのをかに火をたてけるを

盛俊隊・教経隊は湊川から「きたのをか」に移動したとなっており、これを「みくさの手」に向かうとしています。ここは少し微妙なところで、

  • 「みくさの手」とは守備方面の事
  • 「みくさの手」とは義経軍の事
2つの解釈が成立しますが、その前段で教経が「みくさのやま」に駆けつけたとなっていますから、守備方面と解釈可能と考えています。


一の谷の源氏側の「みくさやま」


ここまでは平家軍の「みくさ」への動きですが次は義経軍です。

そのせい七千余騎は義経に付け。のこり三千余騎はとひのじらう、たしろのくわんじやりやうにんたいしやうぐんとして、山の手をやぶりたまへ。わがみはみくさのやまをうちめぐりてひよどりごえへむかふべし」とてあゆませけり。

ここは

源氏のからめで一万余騎なりけるが、七千余騎は九郎義経につきてみくさのやまにむかひぬ、三千余騎ははりまぢのなぎさにそうていちのたにへぞよせたりける。

これと連動させて読みたいのですが、

  • 実平隊3000騎は山の手を目指すがルートは「はりまぢ」つまり塩屋経由で、山の手とは西の木戸を指す模様
  • 義経隊7000騎は「みくさのやま」を越えて鵯越を目指す
次は「みくさ」の途中描写です。

みかたへむかひて申けるは、「是より下へはいかにおもふともかなふまじ。おもひとどまりたまへ」と申す。「みくさより是まではるばるとくだりたれば、うちあがらむとすともかなうまじ。下へおとしてもしなむず。とてもしなばかたきのぢんの前にてこそしなめ」とて、たづなをくれ、まつさかさまにおとされけり。

急坂に怯んだ義経隊が馬を落として通れるかどうかを試すシーンですが、

    みくさより是まではるばるとくだりたれば、うちあがらむとすともかなうまじ。
みくさを下るとあるので峠と見て良いでしょう。つまりって程ではありませんが、延慶本の義経隊は、
    三草山を越えて下る → 急坂に出くわす → 逆落とし → 一の谷
こういうルートを取ったと書かれています。ついでですから「みくさ」の描写をもう少し具体的に

平家のおわするじやうの上から、じふしごちやうぞさうらふらむ。ごぢやうばかりはおとすといへども、それよりしたへは馬も人も、よもかよひ候わじ。

14〜15丁が峠の距離としています。1丁とは60間なので108mぐらい、15丁なら1.6kmぐらいですが、とくに山道では実際の距離ではなく平地換算の所要時間と見るべきで40分ぐらいってところでしょうか。それと登って下って15丁ですから、大雑把に登り10丁ぐらいの山とも見えない事はありません。よく登る丹生山が登りだけで25丁ですから 、せいぜい標高差100〜150mぐらいと見えなくもありません。それと偶然かもしれませんが、妙法寺から明泉寺あたりまでの歩行時間は地図検索で35分ぐらいとなっています。もう一つ「おとす」となっている高さの5丈とは50尺になり15mぐらいになります。どうも最後の標高差15mが馬では下りられない急坂として描写されています。


一の谷の「みくさ」はどこだ?

まず盛俊と教経は山の手防衛のために湊川から移動していますが、それは生田の範頼軍から見て「きたのをか」となっています。一方で教経は三草山に駆けつけたとなっていますから、

    きたのをか = 三草山
こうなります。三草山に駆けつけた教経は仮屋を建てていますが、これは盛俊の陣の前としています。前ってのが解釈が広いのですが、たとえば盛俊陣より敵に近いって見方も可能です。実は気になるのが仮屋で

おとしはつればしらはたみそながれさとささせて、平家のすまんぎの中へみだれいりて、時をどつとつくりたりければ、わがかたもみなかたきにみへければ、きもこころも身にそはず、あわてまどふことなのめならず。馬よりひきおとし射落さねどもおちふためき、上になり下になりしけるほどに、じやうのうしろのかりやに火をかけたりければ、西の風はげしく吹て、みやうくわじやうの上へふきおほひける上は、煙にむせびて目もみへず。とるものも取あへず、只海へのみぞはせいりける。

襲撃した義経隊は仮屋に火をかけたとしています。この仮屋が教経が建てたものならば、教経は明泉寺方面にいた事になります。つうのも明泉寺は盛俊が陣を置いたとされ、盛俊もこの付近で戦死したとなっています。推測を広げると盛俊は明泉寺を陣とし、遅れて到着した教経は仮屋を建てて陣としたんじゃなかろうかです。「みやうくわじやう」が盛俊陣ともし比定できれば、義経隊が教経の仮屋に火を放った事により、その煙が流れ込んで平家軍が崩れたぐらいになります。盛俊は義経隊の襲撃に対し踏みとどまって戦死するのですが、教経はどうかです。これは上の引用の続きになるのですが、

ところどころにてかうみやうせられたりしのとのかみ、いかが思われけむ、へいざうむしやがうすぐもと云馬に乗てすまの関へおちたまひて、それより船にてあはぢのいはやへぞ落給にける。

すまの関とは多井畑になりますが、船でとなってますから塩屋に落ち延びたとなっています。ここの気になる表現は、

    いかが思われけむ
これは「日頃の武名にもかかわらず」ぐらいと解釈できます。延慶本の教経は皆が嫌がった山の手守備を快く引き受けた時点までは良いのですが、いざ合戦が始まると次の描写は「すまの関」への落去になります。これはどうも最後まで踏みとどまって討死した盛俊との対比で描かれているように感じられてなりません。そうなると盛俊と教経は近いというか同じところを守っており、先に襲われて崩れたのが教経陣であり、それを収拾出来なかった教経は鹿松峠を越えて多井畑方面にいち早く逃げてしまったぐらいに受け取れないこともありません。つうことで
    みくさやま = きたのをか = 鹿松峠
こう解釈しても無理は少なくなります。


三草山 = 高尾山の可能性は?

今日のストーリーは鵯越道で高尾山を越え鵯越支道を使ってもルート的には成立します。鵯越支道説なら襲撃されて逃げた教経が源氏軍のいない鹿松峠を強引に乗り越えて逃走したの説明には有用です。一方で鵯越道は当時の山田荘から福原へのメインルートの一つ(山田荘は福原京時代に天皇家の御料米であったとされます)で凄い難路で道案内探しに苦渋するって道でないのが一つと、一の谷当時に明泉寺方面に下りる鵯越支道があったかどうかは確認出来ていません。

それよりなにより最大のネックは義経鵯越道を使うのであれば義経軍は藍那の相談が辻で、

  • 義経隊は左に曲がって鵯越道へ
  • 実平隊は右に曲がって多井畑へ
こう分かれる必要がありますが、相談が辻あたりの地図を出しておくと、

相談が辻は神戸電鉄藍那駅から坂を登りつめたところにありますが、現在はともかくかつては鵯越道から会下山を通って福原に向かう道と、白川方面から多井畑経由で塩屋(塩の供給地)に続く道の分岐点であったとしてよいと考えています。分かれた後の横の連絡は基本的にプアで、それこそ地元住民しか知らない杣道で、騎馬武者が通るには適さなかったであろうぐらいです。つまりは一度鵯越道方面に進んでしまうと、相談が辻まで戻らないと白川方面(多井畑から塩屋)に行けないぐらいに考えて良いかと思います。

そうなった時に困るのが熊谷直実・平山季重の抜け駆け先陣になります。熊谷・平山は寅の刻の初め(3時)に義経陣を抜け、卯の刻(6時)には西の木戸に到着しています。通本でも夜半に抜けて寅の一刻(3時)までには西の木戸に到着していますから義経陣から西の木戸までの所要時間は延慶本と同じ3時間足らずになっています。3時間足らずでは藍那から塩屋を抜けて西の木戸に到着するのは距離からして不可能です。義経隊にいた熊谷・平山の抜け駆け先陣が史実としてある限り、義経鵯越道を通った可能性は極めて薄いとさせて頂きます。


平家の判断の深読み

行間を読むような作業なんですが、

山の手にはもりとしむかへとて候へば、山はいちだいじの所にてあるよしうけたまはりさうらへば、かさねてせいをさしそへばやとぞんじさうらふが、いづれのとのばらも、『山へはむかはじ』とまうされさうらふ。

宗盛が山の手の防衛強化のために越中前司盛俊隊にさらに増援を送る判断をしています。でもって盛俊隊は明泉寺にいます。山の手防衛は嫌われて諸将に断られ最終的に能登守教経が増援を受諾しています。教経が仮屋を建て陣を置いたのは盛俊陣の前となっています。つまりは教経隊は盛俊隊と同じところを守っていたと読み取れます。そこを義経隊に襲われて潰走するのですが、一つの謎は何故に脆くも潰走したかです。奇襲だからで片づけていましたが、教経は猛将であり、盛俊も勇将です。

奇襲といっても真昼間の襲撃ですし、鹿松峠を越えての襲撃が心理的に不意打ちであったとしても、監視を怠っていなければ源氏軍が鹿松峠を越える頃には確認可能ですし、源氏軍も鹿松峠の坂を一気に駆け降りた訳ではありません。最低限、最後の5丈の急坂の前では立ち止まっています。ごく単純には鹿松峠の上に源氏軍が現れてから、明泉寺方面襲撃までにそれなりに時間があった事になります。教経像の実相はわからないにしろ、その状態であっさり仮屋を焼かれての潰走する理由として物足らない感じがしています。

やはり義経隊の襲撃が奇襲になるだけの要因があったんじゃないかろうかです。もう少し具体的には教経や盛俊が油断しきってしまう状況が出現したんじゃないかです。その原因は平家の情報判断にある可能性があります。源平時代の物見隊・偵察隊についてはよくわかりませんでしたが、義経軍が通った

    山田荘 → 藍那 → 車 → 多井畑
このあたりは清盛が福原を盛り立てるために力を入れていたところです。平家物語などでは源氏にあっさり寝返った描写になっていますが親平家派がいたとしてもおかしくありません。つうか源平合戦自体がこの時点ではどちらに帰趨が傾くか不明なわけで、源氏に全面加担して平家が一の谷でこれを撃退してしまうと後の祟りも怖いってところもあったはずです。義経軍の動きを平家軍に報告する者があったとしてもおかしくありません。この通報者による情報で平家軍は戦略を立てていた可能性があります。

平家に取って問題は義経軍がどこから攻めてくるかです。地図があった方が良いと思いますから、

20161126135943

まず相談が辻から車方面に進めば鵯越道の可能性は消えます。宗盛の判断は義経軍が鵯越道を進まない段階の情報で鹿松峠の防衛強化を考えたのかもしれません。次は車から多井畑に進むのか妙法寺進むのかです。この違いは

  • 妙法寺に進めば鹿松峠越
  • 多井畑に進めば塩屋経由で西の木戸
もうちょっと単純化すれば義経軍の多井畑宿営の情報が入れば西の木戸に進む公算が大きくなるぐらいです。盛俊隊・教経隊は2/6(合戦前夜)には明泉寺方面で備えを固めていますが、2/7朝までに義経軍多井畑宿営の情報が手に入ったぐらいを想像します。いや多井畑宿営情報が手に入らなくとも、2/7卯の刻に西の木戸に源氏軍が現れれば教経の判断として、、
    義経鵯越道にも鹿松峠にも来ず西の木戸を目指した
つまりは明泉寺にいる教経も盛俊も完全に後陣となり当面は合戦に至る心配はなくなります。つまりって程ではありませんが、教経は思うわぬ奇襲に動揺したのではなく、来るはずもないと思い込み油断しきっていたところでの襲撃に動転してしまったぐらいはあるかもしれません。


義経の戦術の深読み

熊谷・平山の抜け駆けにある

はりまぢのなぎさに心をかけてうちいでむとする所に、むしやこそ五六騎いできたれ。「只今ここにいできたるはなむ者ぞ。名乗り候へ」と云けるこへを聞て、くらうおんざうしのおんこゑと聞て、直実申けるは、「是は直実にて候。君のぎよしゆつとうけたまはりさうらひて、おんともに参り候わむとて候」とぞ申ける。のちに申けるは、「御曹司のおんこゑをそのときききたりしは、百千のほこさきを身にあてられたらむも、是にはすぎじと、おそろしかりし」とぞ申ける。

これは熊谷父子が抜け駆けをしようとしたら義経率いる巡視隊に出くわすシーンです。これは延慶本にはあり通本では消えた部分ですが、義経はなんのために巡視隊を率いて夜回りしていたんだろうかです。抜け駆けの先陣防止の意味もあったかもしれませんが、平家への通報者の防止のためだったんじゃないかと見れそうな気がします。私は多井畑宿営説を取っていますが、多井畑厄神も平家からの恩恵を蒙っていたはずです。義経も自分行動が平家軍に通報されている可能性を常に念頭に置いていたのかもしません。なんと言っても多井畑も敵地だからです。

義経が平家軍に知られても良い情報は実平隊が西の木戸に向かう事であり、知られてはならない情報は鹿松峠に反転して向かう事になります。多井畑宿営はそのための欺瞞行動の一環と見ることも出来ます。別動隊編成も早いうちに発表してしまうと通報される危険性があるため、それこそ実平隊が出発寸前の丑の刻になって漸く発表したとしても不思議ありません。軍勢に発表すると多井畑厄神の神官にも知られる危険性が高くなるので、別動隊発表後は平家陣地に通報者が出ないように巡視隊を率いて監視していたぐらいです。

それともう一つ欺瞞戦術を取っていた可能性があります。義経軍の進路ですが実平隊の進路は「はりまぢ」とありかなり明らかです。一方の義経隊は曖昧です。曖昧と言うか「みくさ」の言葉で行き先をぼかしているんじゃないかと思えるのです。義経軍は東国兵ですから地理に昏く、地名にも暗いところがありますから、極端な話、御大将が引きつれて進むところに付いていくだけです。目的地の地名を知られて困るのは地元の人間と平家軍になります。そこで鹿松峠を「みくさ」と故意に言い換えたんじゃないでしょうか。

おそらく平家にとっても「みくさ」といえば三草山合戦のあった三草であり、一の谷周辺には該当する地名はなかった可能性が十分にあります。もし別動隊の存在を通報されても「みくさってどこだ?」の混乱を期待したぐらいです。そう考えると鵯越も暗号かもしれません。三草と鵯越の二つの言葉を掛け合わすと鵯越道襲撃の可能性なんてのも出てくるからです。ただ義経が多井畑にいるとの情報の上ですから、鵯越道襲撃を予想しても2/7に攻めてくる可能性は低くなるぐらいです。

この「みくさ」は勝ち残った源氏軍にとっては固有の地名になり、平家物語が成立する時に集められたとされる各家の武功談でも

    義経と越えた峠は「みくさ」である
こうなっており平家物語でも定着した可能性はありそうな気がします。地名も一の谷の様に失われることはあり得ますが、峠の地名は失われにくい気がします。しかしどれだけ探しても神戸に三草山なり三草峠は見つかりません。だから義経の欺瞞戦術の一つじゃなかったかと考える訳です。