先陣とは合戦で真っ先に敵陣に襲い掛かる者を指しますが、当時の合戦手順では矢戦から白兵戦への転換期にあたり、典型的には敵方の矢が降り注ぐ中、全軍に注目されながらの突撃になります。源平合戦で有名なものに宇治川の先陣争いがありますが、平家物語でも見せ場として華々しく書かれています。先陣は大きな合戦であるほど価値が高いとしてよく、武士の誉れとして褒め称えられる行為になります。一の谷でも熊谷親子・平山季重の先陣があります。
先陣を行った熊谷次郎直実、平山武者所季重は鎌倉武士の典型みたいに後世では扱われたと思っています。いや後世はもちろんですが、存命中も既にそうであったとも思っています。でもってこの二人が最高の栄誉としたのが一の谷の先陣じゃないかと考えています。熊谷・平山は源平合戦を生き抜いています。当然ですが一の谷の先陣については人からも聞かれ、自らも何度も話していたはずで、鎌倉武士にとっては誰もが知っている有名な武辺話として扱われていたはずです。平家物語が成立するにあたっても不可欠な武功談であり、もちろん掲載されています。ここで平家物語の二人の記録も基本は事実をベースにして書かれていると見て良いかと思っています。もっとも物語になるにあたって修飾・誇張・創作が加わった部分があるはずで、そこの選別は難しいですが、独断と偏見で切り分けながら考えてみたいと思います。
今回のお話は時刻がポイントになるので先に少し解説しておきます。当時の時刻は不定時法で、
- 日の出を卯の正刻とする
- 南中を午の正刻とする
- 日の入を酉の正刻とする
- 1辰刻は2時間
- 1刻は30分
- 一刻は0分スタート
- 正刻とは1辰刻の真ん中(三刻)
一の谷の合戦は寿永3年2月7日に行われています。熊谷・平山は義経軍に属していますが、合戦前夜は義経軍は二つに分かれていたのが通説です。
義経隊に属していた熊谷・平山は先陣のために義経隊から抜け出して平家の西の木戸に先陣を行ないます。吾妻鏡より、爰に武蔵の国住人熊谷の次郎直實・平山武者所季重等、卯の刻一谷の前路に偸廻し、海辺より館際を競襲す。
熊谷・平山が先陣を行ったのは間違いないですが、どこを通って一の谷の西の木戸に行き着いたのか判然としません。なぜに判然としないかですが、義経隊がどこにいたのかわからないからです。まず「海辺より館際を競襲す」となっているので、どこかで山陽道に出て、山陽道を西から東に走り抜けたのは確実でしょう。義経隊の場所は不明としましたが、それでも藍那から南下したのだけは確実です。藍那から最終的に山陽道に出る道は2つで
- 古道越を須磨に下る
- 古道越を塩屋に下る
塩屋ルートを念頭にまず置きます。矢合わせは卯の刻であり、これを熊谷・平山も知り、卯の刻の前に西の木戸に到着するように移動したのは事実でしょう。また熊谷・平山の先陣に引き続いて土肥実平隊が駆けつけて来たのも事実と考えています。ここで問題なのは熊谷・平山が塩屋を通って先陣するには実平隊を追い越す必要があります。これまでは熊谷・平山の先陣の時はまだ寝ている塩屋の実平隊を密かに通り抜けたぐらいで軽く考えていましたが、実平隊も卯の刻に西の木戸に到着しているわけです。
塩屋から西の木戸までは約7kmありますから、これを2時間で歩くと考えると実平隊の出発は寅の刻になります。熊谷・平山の先陣は抜け駆けの先陣であり、抜け駆けの場合は見つかると制止されます。実平隊が出発後に山陽道で追い抜くのは難しいんじゃないかと考えます。夜の闇に紛れてと言いたいところですが、寅の刻とは東の空が白み始めた頃を始まりとし、夜の星が消えるまでの時間帯です。寅四刻ぐらいになるとかなり明るく、また塩屋から西の木戸までの地形は山が海に迫る狭いところですから、地理に昏い熊谷・平山が見つからずに追い抜くのは難しい気がします。
そのために塩屋に下らず古道越を須磨に下って先回りする説を考えたこともありますが、延慶本平家物語に、
「そもなぎさへいづる道の案内をしらぬをばいかがすべき。なましゐにいでば、いでぬ山にまよひてわらはれて、恥がましかるべし」と申ければ、小二郎申けるは、「むさしにて人のまうしさうらひしは、『山に迷はぬ事は安き事にて候なり。やまさはを下にだにまかり候へば、いかさまにも人里へまかる』とこそまうしさうらひしか。そのぢやうに山沢をたづねてくだらせ給へ」と申ければ、「さもありなむ」とて、山沢の有けるをしるべにてくだりけるほどに、おもひのごとくにはりまぢのなぎさにうちいでて
海岸線沿いに出た時には「はりまぢ」つまり見えていたのは播磨の海であると書かれています。そうなると、どうでも塩屋を通る必要があります。須磨では摂津の海になるからです。ではでは熊谷・平山が義経隊から抜け出た時刻ですが平家物語延慶本には、
いざうれ小次郎、にしのかたよりはりまぢへをりて、いちのたにのさきせむ。うのときのやあはせなれば、只今はとらのはじめにてぞ有らむ」
ここのポイントは2つで
- 播磨路へ下りる道は義経陣の西側に向かっていた
- 抜け駆け時刻は寅の刻
壽永三年(1184)二月大七日丙寅。雪降。寅剋。源九郎主先引分殊勇士七十餘騎。着于一谷後山。〔号鵯越〕爰武藏國住人熊谷次郎直實。平山武者所季重等。卯剋。偸廻于一谷之前路。自海道競襲于舘際。
ここの読み下しが問題なのですが、通常はこう読むようです。
寅の刻、源九郎主先ず殊なる勇士七十余騎を引き分け、一谷の後山(鵯越と号す)に着す。爰に武蔵の国住人熊谷の次郎直實・平山武者所季重等、卯の刻一谷の前路に偸廻し、海辺より館際を競襲す。
つまり寅の刻に義経が選んだ70騎の別動隊が一の谷の後山に到着した。一方で熊谷・平山は密かに動き西の木戸を卯の刻に襲ったぐらいです。一の谷後山の比定地に私は妙法寺あたりを想定していますが、妙法寺付近から塩屋まで約7kmあり、さらに塩屋から西の木戸まで7kmの計14kmぐらいありますから、寅の刻に出発してもそもそも卯の刻に西の木戸に着くのさえ難しくなります。熊谷・平山は騎馬ですが従者は徒歩ですからね。そこで吾妻鏡の読み方を少し変えてみたいと思います。あえて箇条書きにしますが、
- 義経は寅の刻に別動隊を編成した
- 別動隊は一の谷後山に到着した
義経が藍那というか山田荘を目指した理由は、そこに多田行綱が進出している事を知っていたからと考えています。行綱が山田荘に先行していたことは、山田村郷土史に伝承として残されています。この伝承の信憑性は、そんな行綱の行動を平家物語にはまったく書かれていない点です。源平旧跡には史実に基づくものと、平家物語や源平盛衰記などから作られたものがあると考えていますが、そこに書かれていない伝承なら逆に信憑性が高いぐらいの見方です。
藍那から南に下ったどこかに義経軍は陣を置いていたのですが、これは塩屋でない可能性が強いと思います。延慶本平家物語の描写にあるように、西に向かう山道を下って播磨路の渚に出ているからです。塩屋ではそんな事をせずとも最初っから播磨路で、播磨路の渚があります。ではそんな御誂えの場所があるかと言えば一つあります。多井畑です。ここには多井畑厄神八幡宮が当時からあり、宿営地として寺社を選ぶのは常套手段ですから、義経は藍那から多井畑まで移動して宿営したと見ることは十分可能で、距離も藍那から10kmぐらいですから、2時間ぐらいで到着は可能です。都合のよいことに多井畑厄神には義経が必勝祈願を行った伝承が残されています。
ここまで考えると話はシンプルになり、熊谷・平山は実平隊に先行して塩屋に下り西の木戸に向かい、実平隊もそれを追うように西の木戸に進んだことになり、追い越し問題は発生しなくなります。ちなみに多井畑から西の木戸までも10kmぐらいになります。
三草山で勝った義経はまず山田荘にいるはずの行綱との合流を目指したで良いと考えています。この時は漠然と行綱と一緒に一の谷を攻撃しようぐらいでしょうか。ところが山田荘から藍那まで来てみると行綱が目指してる鵯越の道では合流しても道が細くて戦いにくいのと、藍那から塩屋に抜けられる道の情報を知ったと推測します。塩屋から山陽道を東に進めばに一の谷陣地の西側からの攻撃が可能になり、範頼軍が東から、行綱軍が北から、義経軍が西からの三面攻撃が可能になるぐらいの判断です。
義経は行綱が調達してくれた道案内(鷲尾三郎義久とか)で塩屋に向かいますが、宿営地として御誂え向きの多井畑厄神の話も聞きそこを宿営地として選びます。義経は藍那から多井畑に向かう道すがら、一の谷周辺の地形についての知識を得たと考えています。具体的には他にどんな道があるのかです。それに近い描写が平家物語にもあります。そこで鹿松峠越えの攻撃を思いついたぐらいに考えます。義経が鹿松峠を越える決断を行ったのは多井畑に着いてからかもしれません。
鹿松峠が平家軍の盲点になったのは騎馬武者では越えられないのが当時の常識であったのかもしれません。どうにも平家物語は鹿松峠を超弩級の難所として描写していますが、鹿松峠自体は福原から妙法寺への参詣道として整備されていたとなっています。ただ峠自体はかなりの急坂で、馬も引いて登るならともかく、乗って登るのは難しかったのかもしれません。源平期の武者の戦法の特徴は騎射特化です。特化の産物として超重量級の大鎧(20〜30kg)を着用しており、そのために徒歩戦ではカメになります。超重量級の大鎧を着用した武者は騎馬でないと動くのが大変だったぐらいです。
合戦ですから鎧着用で峠を越える必要があり、騎乗が無理なら歩いて登る必要があります。だから平家軍は鹿松峠を越えて源氏軍は攻めて来ないと計算していたと考えています。義経も騎馬武者が完全武装で鹿松峠を越えるのは無理との情報を聞いたとは思いますが、だから敢えて越えれば「奇襲になる」との判断を行ったぐらいに考えています。ただ義経もその判断に躊躇する部分はあり、最終決定が多井畑に着いてからになったぐらいを想像しています。まあ実平にも反対されたかもしれませんからね。
最後に関係地図を示しておきます。