第1部一の谷編:桜モヒートと義経強襲説

    「カランカラン」
カウベルが鳴って
    「ゴメン、遅くってなってもた」
今日は私が遅くなりました。彼女はマスターと何か談笑していたみたいですが、私は何気なく
    「今日はXYZにする」
XYZはホワイト・レディーのベースをジンからラムに変えたものですが、シティ・ハンターで印象的な使われ方をされていたカクテルです。ただオーダーした後にちょっと後悔。これじゃ終りにしたい意味に受け取られたらどうしようです。その彼女は何にするか迷ってマスターに相談しています。XYZは拙かったかなとヒヤヒヤしながら見ていたのですが、
    「なにか良いのないかなぁ、今の気分に合いそうなの」
    「はい、かしこまりました」
んんん、ちょっと妙だ。バーは曖昧な注文でも応じてくれますが、最低限の条件は出さないといけません。たいした条件ではありませんがショートかロングか、ベースは何にするかみたいな調子です。後はサッパリ系とか甘い系とか聞かれて考えてくれるのですが、気分だけじゃいくらなんでもです。でも、さっきマスターと何か話をしていたので、その時に『気分』を察してくれたのかもしれません。
    「お待たせしました桜モヒートです」
これの基本はもちろんモヒートなのですが、桜リキュールが入っているのが特徴で、ほんのりピンク色になっています。面白いのは味でなんと桜餅。なんか餡子の入っていない桜餅を飲んでいるような感じになります。
    「あれ、まだ私はこんな気分?」
    「今日はまだこちらがお似合いかと」
    「そうかもね」
彼女は満足そうに飲んでいますが、私の頭の中は「???」のままです。いったいどんな気分なんだろう。
    「前の時に平家の西側の防御兵力がチョボチョボぐらいの話したやんか」
    「そうやった」
    「平家は軍勢を西の木戸と鹿松峠に振り分けたんやけど、仮に平家軍も千人として西の木戸が七百人、鹿松峠が三百人やったと思ってるねん」
    「その可能性はあるわね。平家は鵯越道も警戒しとかなあかんから、千人以上おっても鹿松峠はそんなものかもしれへん」
    「ほいでもって義経は七百人を率いて鹿松峠を越えたんやないかと思てるねん」
    「ちょっと待ってよ。義経が少数による奇襲を行ったのはいくらなんでも常識やない」
    「たしかに殆どの歴史教科書とかも義経が少数奇襲を行った前提で書いているし、その前提であれこれ研究してはる。でもさぁ、義経が少数だったって前提の根拠はなに」
    「えっと、えっと、根拠は平家物語。少数じゃないと鵯越の険路を越えられないからじゃないの」
    「そうやねんけど、既に険路説は鹿松峠で否定したんや。それと肝心の平家物語でも延慶本では義経が七千騎を率いてるって書いてある」
    「それは誤写じゃないの」
    「いや複数個所でそうなってるから、最古の平家物語では義経が搦手軍の主力を率い、実平が少数の別動隊を率いたになってるんや。後の本より信用できるかもしれへんやん」
延慶本での義経隊の人数描写は三ヶ所あり

  • その勢七千余騎は義経に付け。残り三千余騎は土肥次郎、田代冠者両人大将軍として、山の手を破りたまへ。
  • 源氏の搦手一万余騎なりけるが、七千余騎は九郎義経に付きて三草の山に向かひぬ、三千余騎は播磨路の渚に沿うて一の谷へぞ寄せたりける。
  • 義経、「よかめるは。落せや、わかたう」とて、先に落しければ、落ち滞ほりたる七千余騎も我をとらじと皆落とす。

義経軍は義経隊が七千騎、土肥実平が三千騎に分割されたとなっています。

    「じゃ、義経が七百人率いてたらどうなるの」
    鵯越は強襲になる。丸山の近くに住んでた時期があるんで、明泉寺の附近の地理もだいたいわかるんや。あの辺は狭苦しいところやから、義経が峠道を外れて下りたとしても、逆落としの物音に平家軍が気づかへん方が不自然やねん」
    「それは短時間でドット逆落としたからやない」
    「五丈もあるんやで。ドットなだれ落ちた時に、誰かが転んだら後から来るものはエライ目に遭うで。それに逆落としいうても、騎馬武者だけが下るんやなくて、従者の下人も下るんや。一小隊ごとに順番に逆落とししたと考える方が自然やんか」
    「いわれてみればそうねぇ、落ちる時に物音が響くし、音がすれば見に来るやろね」
    「そうなんや、その状態で義経は勝ってるんや」
    「でも火攻めをしたからじゃない。油の調達は多井畑厄神でできるし」
    「火攻めはしてる。でも火攻めって注意しないと自分が火に取り囲まれる危険があるんや。当時の風向きは不明やけど、一つの可能性として南風やったかもしれへん」
    「海風循環ね」
    「もしそうだったら、平家軍に向かって火を放っても自分の方に燃え広がってくる可能性があるやん。だから火を放ったのは明泉寺付近で鹿松峠を守っていた盛俊・教経の軍勢を蹴散らして丸山から一の谷に入ってからの可能性もあると思うねん」
    「でもそれだけじゃ、もうちょっと根拠はないの」
    「あるよ。これは熊谷直実が鹿松峠方面に回されて、先陣が出来なくなることをボヤくシーンやけど、

    この大勢に具して山を落とさむには功名深くもあるまじ。その上明日の戦は打ちこみにて誰が先と云事あるまじ。

    直実は鹿松峠に向かう軍勢が『大勢』と言ってるんや」

一の谷の歴史ムックもそろそろ終わりに近づきました。やるとしても後一回ぐらいです。コトリちゃんは堪能してくれたみたいですが、一の谷が終わったら私はどうなるのだろう。『歴史君』扱いで、また次の話題をやるだけなのでしょうか。気になるのは前々回のホーセス・ネックの勝負師気分と、今回の桜モヒートの意味ありげなマスターとのやり取りです。なにか綾があるのか、私の思い過ごしか、私と関係ないところで話が展開しているのか。グルグル頭の中を答えの出ない疑問がひたすら回っています。