一の谷の合戦・総集編

これまでムックしてきた事をまとめてみます。


都落ち後の平家の動き

平家都落ちから一の谷までの動きです。

年月日 事柄
寿永2年7月25日 平家都落ち
寿永2年8月26日 大宰府に平家着く(玉葉
寿永2年閏10月1日 水島の合戦
寿永3年1月20日 宇治川の合戦
寿永3年1月29日 平家追討の令
寿永3年2月5日 三草山の合戦
寿永3年2月7日 一の谷の合戦
平家の動きの情報が乏しいのですが、都落ちした平家は福原に行き、福原を焼いて大宰府を目指したとなっています。九州は治承4年の段階で鎮西反乱と呼ばれる反平家活動が起こっており、これを平貞能が鎮圧に成功はしていましたがwikipediaより、

平家が最初に目指したのは九州だった。しかし、貞能に平定されていたはずの鎮西の豪族たちは都落ちした平家に非協力的もしくは敵対的なものが多く、一旦は鎮西に上陸した平家はそこから追い出されることになる。

平家復活の原動力となったのは讃岐の田口成良の協力によるものぐらいの理解で良いようで、田口成良も平家の家人で讃岐だけでなく阿波にも勢力を持つ四国最大の勢力であったとされます。田口成良の協力で屋島に根拠地を作り上げ、源氏が頼朝と義仲で正統争いしている間に着々と上洛の準備を進めていったぐらいです。西から広がった平家勢力が備中に達したのが寿永2年閏9月ぐらいと見て良さそうで、これに危機感を覚えた義仲軍との戦いが水島の合戦になります。都落ちしてから3か月後の事になります。水島の合戦で勝利した平家軍は玉葉より

11月2日

十郎蔵人、三千余騎にて丹波国へかかりて、播磨国へぞ下りける。平家は門脇の中納言教盛・本三位中将重衡を大将軍にして、其勢一万余騎、はりまの国室の津につく。十郎蔵人三千余騎の勢皆討とめられて、わづかに五十よきになりにけり。播磨の方は平家に恐る。都は木曽に恐れて、和泉国へぞ落ちにける。

水島の合戦から1か月後には播磨に進出しています。


一の谷の平家の戦略

延慶本平家物語より

山陽道七ヶ国、南海道六ヶ国、都合十三ヶ国の住人等ことごとく従え、軍兵十万余騎に及べり。木曽打たれぬと聞こえければ、平家は讃岐屋島を漕ぎ出でつつ、摂津国と播磨との堺なる、難波一の谷と云う所にぞ籠りける。去んぬる正月より、ここは屈強の城なりとて、城郭を構えて、先陣は生田の森、湊川、福原の都に陣を取り、後陣は室、高砂、明石まで続き、海上には数千艘の舟を浮かべて、浦々島々に充満したり、一の谷は口は狭くて奥広し。南は海、北は山、岸高くして屏風を立てたるが如し。馬も人も少しも通うべき様なかりけり。誠に由々しき城なり。

ここの中で

    後陣は室、高砂、明石まで続き
平家は播磨の瀬戸内沿岸に後方拠点を作っているとの記述ですが、瀬戸内沿岸だけではなく播磨全体を支配下に置いていたと私は考えます。つうか平家が一の谷に進出するには播磨を押さえる必要があったと考えるのが自然です。実際の摂津播磨国境とは微妙にズレはしますが、一の谷の北方、西方は播磨になります。一の谷陣地の北方は六甲山が天然の要害としてありますが、一方で清盛が福原に住んでいた時から福原と播磨を結ぶ交通路は整備されていたはずです。つまりは播磨から一の谷陣地へは峠道ではあっても軍勢の通行は普通に可能であったと言う事であり、その事を平家側は十分に承知してたぐらいです。

一の谷陣地の防衛のためには北方の山の手を考慮する必要はあり、一番確実なのは播磨を支配下に置く事です。これは軍兵を集めたり、兵糧確保にも通じます。ここでなんですが、一の谷合戦は史実として攻める源氏、守る平家の構図となっていますが、平家とて一の谷陣地を守るために進出してきたわけではないはずです。平家が屋島から一の谷に進出してきた目的は上洛を果し、平家の完全復活を目指すためです。上洛戦略を考えた時に、播磨の意味は一の谷防衛ためだけではなくなると思います。平家の上洛戦略は2方向からではなかったかと考えだしています。

  1. 一の谷から山陽道を通り京都を目指す
  2. 播磨から丹波路を通り京都を目指す
ここでなんですが当時の平家軍と源氏軍の置かれた状況の違いですが、
  • 平家軍は兵站線を確保し長期戦が可能
  • 源氏軍は京都の食糧不足があり、さらに農繁期が迫るため長期戦が難しい
源氏軍は史実でも一の谷後に主力は東国に帰っています。そういう状況で播磨から丹波に平家軍が進めばどうなるかです。丹波は京都の西隣であり、ここまで進むと京都は目前になります。光秀の本能寺を思い浮かべてもらうと良いと思います。これを源氏から見ると、丹波まで平家が進出すると一の谷どころではなくなります。とは言うものの、丹波に主力を向けると一の谷から平家軍の主力が進んで来る懸念が出て来ます。これぐらいが一の谷前の状況ではなかったかと考えています。


一の谷陣地の推測図

謎が多い一の谷陣地ですがあれこれムックした結論を出してみます。

播磨を制していた平家は源氏軍の攻め口を東側に想定していたと考えています。旧生田川の西岸が防衛線で、東の木戸は山陽道上に築かれ、左右には柵を設けていたで良いと思います。これを第1線として、福原に予備隊を置いて第2線ぐらいにしたぐらいです。福原の予備隊は第2線と言うより、大輪田の泊の防衛も兼ねていたぐらいでしょうか。福原から会下山を越えた谷間が一の谷と推測しています。一の谷の戦術上のメリットは

  1. 東からの攻撃に対し一番地点となる
  2. 南下すれば大輪田の泊の西岸に近く海路が利用しやすい
  3. 海路が天候等で利用しにくい時には山陽道鵯越道、長柄越を利用して西に逃げやすい
個人的に東からの攻撃に重点を置いた縦深陣地構成と思っています。西の木戸ははっきりしない部分が多いのですが、基本は大輪田の泊西岸と一の谷を守るラインで良い気がしています。明治期の地図でもこのあたりは池が多いのですが、合戦当時はなおさらの湿地帯が広がっていた可能性があると思っています。おおよそ苅藻川を中心に防衛線を築き、西の木戸は山陽道上にあったと推測しています。湿地帯がどれほどの規模でひろがっていたかの傍証ですが、国土地理院に明治期の湿地帯を示すものがあります。

残念ながら西の木戸付近の物はなく東の木戸付近のものになりますが、黄色の部分が湿地帯です。これに近い状態が西の木戸付近でも広がっていたとしても不思議有りません。一の谷の合戦では木戸付近で激戦が展開されたとなっていますが、騎馬武者は基本的に湿地帯には侵入できません。馬の足が取られるどころか、下手すりゃ粟津の義仲の様に馬ごと沈んでしまいます。実際の合戦は山陽道の道の上での戦いに終始していた可能性もあると思っていますし、平家の防衛線も湿地帯を利用したものであったと考えています。


源氏の戦略

源氏側が、播磨の平家軍が丹波に攻め込んでくる情報を確実につかんでいたとして良さそうです。さらにその事に重大な懸念を払っていたのも間違いないと思います。1/29に追討使の命令を受けますが、この時の源氏の作戦の重点はどうやって一の谷陣地を攻略するかではなく、どうやって播磨の平家軍の丹波進出を防ぐかであったと私は思います。もちろんですが丹波に源氏主力が動けば一の谷の平家軍が呼応するのもミエミエです。そこで取った戦略が、

  1. 義経丹波方面に出撃し、播磨からの平家軍を迎え撃つ
  2. 範頼は昆陽野まで進出し、一の谷の平家軍主力を牽制する
範頼が一の谷ではなく昆陽野に留まったのは、
  1. 義経軍が苦戦すれば援軍を送りやすい
  2. 義経軍が敗れても東国に退却しやすい
  3. 義経軍が勝てば一の谷に攻撃しやすい
そういう地点が昆陽野です。また昆陽野は清盛が新都建設の候補地として考えたぐらいですから平坦であり、もし平家軍が攻め寄せて来ても得意の騎射を十分に活かして戦える計算もあったと思っています。トドの詰り源氏軍の戦略は、丹波方面に向かった義経軍の結果次第で動くであったと私は考えます。史実では義経が播磨丹波国境まで進んで来ていた平家軍をたった一戦で壊滅させてしまったために分かりにくくなっていますが、源氏軍の当初戦略では、そこまでの勝利はまさしく想定外だったと思っています。


義経の昆陽野行の理由

源氏軍(範頼軍、義経軍、実平軍)の推測進路を示します。

源氏軍はまず播磨から丹波を窺う平家軍に対して義経軍が2/3朝に京都を出発し、2/4夕に三草山に到着し夜襲をかけます。でもって2/5朝から義経は70騎を連れて昆陽野に向います。ここでなぜに実平軍とともに南下しなかったかの理由が必要になります。鵯越の奇襲を行うにしても別に昆陽野に向う必要性はないところです。また播磨の平家軍を潰走させたので一の谷攻撃が可能になったの連絡にしろ、それこそ伝令を走らせれば十分とも思うところです。しかし吾妻鏡には2/5夕に義経と範頼は昆陽野にいたと明記してあります。これは義経自身が昆陽野で範頼に直接会い、説明し了解を得なければならない事態と言うか、作戦変更があったためと考えたいところです。

推理になりますが源氏軍の当初戦略では丹波方面に進出を企てている平家軍を首尾よく撃破したら、昆陽野に全軍集結の上で一の谷の東の木戸への攻撃が予定だったんじゃなかろうかです。それを三草山で快勝した義経が独断で搦手軍を西の木戸に向かわせたんじゃなかいかと考えています。そのために矢合わせの時期も実平軍が西の木戸に到着した頃になります。これだけ大きな作戦変更は義経が自ら範頼に会う必要があったとの考え方です。この傍証として範頼軍の動きがあります。延慶本平家物語より、

五日の日の暮方に、源氏昆陽野を発つて、やうやう生田の森へ攻め近づく。

延慶本では2/5となっていますが、これは2/6の事だと私は考えます。2/5の酉の刻に駆けこんで来た義経から三草山での勝利と、一の谷攻撃日(矢合わせ)の決定の事後報告を受けたわけで、その日のうちに出発するのは無理だからです。義経は2/5は昆陽野で宿営し2/6朝に出発したはずです。一方の範頼は急な展開に慌てたのだと思っています。範頼は義経軍が帰ってきたた後におもむろに矢合わせの日を決めて動くつもりだったからです。昆陽野陣地は上述したように平家軍が北上して来たら決戦の予定もあった訳で、それなりの防御施設も構築されていた可能性があり、予定外の出発になり昆陽野を出るのが「暮れ方」ではなく午後になったと見ています。

どこまで範頼軍が進んだかですが、昆陽野の10kmほど先に打出駅家があります。打出駅家から東の木戸までも10kmぐらいですから、打出駅家に宿営して夜半に発ち、2/7卯の刻の矢合わせに間に合うように範頼軍は動いたんじゃなかろうかと推測しています。


源氏軍の一の谷攻撃の原初プランは、

  1. 源氏軍は東の木戸を攻撃
  2. 行綱軍は鵯越道から攻撃
こうでなかったかと考えだしています。これは義経も知っており、三草山での快勝の後に
  1. 実平軍は西の木戸を攻撃
これを思いついて加えたぐらいです。義経は昆陽野からは有馬街道を通ったはずですが、ここは鵯越道進攻のために先に行綱軍が制圧していたぐらいを考えています。この「先に」ですが、行綱軍が鵯越道に攻め込んだのはヒョットしたら2/7より前だった可能性さえあると考えています。傍証は玉葉の記録です。

多田行綱自山方寄、最前被落山手云々

問題は「最前」の解釈です。古文でも「さきほど」ってぐらいの意味ですが、これは2/7の矢合わせより前に受け取れそうな気がします。行綱も源氏方ですが、立場的に範頼の配下でも、義経の配下でも、さらには頼朝の配下でもありません。あえて言えば同盟軍で、つまりは独自行動であったんじゃないかの可能性です。延慶本平家物語より

大臣殿、安芸右馬助能行を使者にて、人々のもとへ宣ひつかはされけるは、「九郎義経こそ、三草の手を攻め破つて、既に乱れ入る由聞こえ候ふ。山の手が大事で候へば、おのおの向かはれ候ひなんや」と宣ひつかはされたりければ、皆辞し申されけり。能登殿のもとへも、「度々のことでは候へども、今度もまた御辺向かはれ候ひなんや」と宣ひつかはされたりければ、能登殿の返事に、「戦はさやうに狩漁などのやうに、足立ちの良からう方へは向かはう、悪しからん方へは向かはじなど候らはんには、戦に勝つことはよも候はじ。幾たびでも候へ、強はからん方へは、教経承つて、罷り向かひ候べし。一方打ち破つて参らせ候ん。御心安う思し召され候べし」と申されたりければ、大臣殿なのめならずに喜びたまひて、越中前司盛俊を先として、一万余騎、能登殿にぞ付けられける。兄越前の三位通盛卿を相具して、山の手へぞ向かはれける。この山の手と申すは、一の谷の後ろ、鵯越の麓なり。

平家物語を信じれば

    この山の手と申すは、一の谷の後ろ、鵯越の麓なり
これは会下山を指すで良いでしょう。一の谷は私は丸山説を唱えてきましたが、もっと範囲として広く、高取山と会下山に挟まれた谷全体を指しているとした方が良い気がしています。一の谷から見ると会下山も後山であり、会下山には鵯越道が通じています。でもってそこには義経が攻め込情報を平家軍は持っていなかったはずです。義経軍の主力は三草山から実平が率いて明石から塩屋に回っています。実平軍の行動は隠密行動でもなんでもありませんし、平家は実平軍に義経がいると考えるはずだからです。

しかし平家物語では平家側は鵯越道を重視するだけでなく、相当な危機感を持って対応しています。これは行綱軍が北六甲一帯を制圧した上で鵯越道から一の谷(つうより福原)を目指す軍事行動を起こしていたからだと見たいところです。もう少し言えば平家軍は鵯越道に手厚い防備を施している訳ですから、そんな状態で奇襲はありえないになります。


義経鵯越はいつ思いついたのだろう?

平家物語では義経はそれこそ京都にいる時から鵯越作戦を計画している様になっています。その可能性も残りますが私は違うと思います。三草山での快勝の後のどこかで思いつた気がしてなりません。強いて言えば昆陽野か昆陽野から有馬街道を進む間からぐらいです。義経も昆陽野を出た時点では実平軍に合流予定だったと見ています。昆陽野から塩屋に向うルートですが、有馬街道を使うのは良いとして、2/7の矢合わせに間に合わせるために、藍那から塩屋に向うルートが行綱軍のために可能なっている情報を知ったぐらいを想像します。

義経が2/6夜に藍那に宿営した「らしい」ですが、ここは行綱軍の鵯越道攻撃のための拠点になっており、そこで地元勢力である行綱軍から詳しい地理情報を得たとみたいところです。道案内としての鷲尾三郎伝説もそこで生まれたぐらいです。その時に藍那から塩屋に抜けるルートだけではなく、長柄越えで一の谷に攻め込めるルートの情報も得たぐらいでしょうか。行綱軍は鵯越道に専念していますから、義経は長柄越えをその時に初めて閃いたんじゃないかと思っています。