播州布団屋台・屋根ムック

布団屋台は泉州で生まれ淡路を経て瀬戸内沿岸に広がったとされています。各地に広がった屋台はその地域で独自の発展をするのですが、播州布団屋台もまたそうです。しかしその変化や発展の経緯は「よくわからない」部分が多々あります。布団屋台には幾つも特徴がありますが、その中で布団屋根の部分を中心にちょっとムックしてみます。


源流の泉州屋台

布団屋台の最古の記録とされるものは貝塚宮・感田神社 太鼓台祭りの、

感田神社の夏祭りにふとん太鼓が担ぎ出されたのは、寛保元年(1741年)で、泉州地方のふとん太鼓では最も古いまつりです。

同神社の記録によれば、「寛保元年のおまつりに北之町だんじりが出されたが、引たん志りは堺から借ってこなかった」と記されており、両者を区別しているところから、このだんじりはふとん太鼓のことと考えられます。

1741年(寛保元年)頃には泉州に布団屋台は存在していたと見て良さそうで、そこからそんなに時代は遡らないとして良さそうです。この原初の布団屋台がどんな形態であったのかですが、1796年(寛政8年)に発行された摂津名所図会が参考になります。

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これは感田神社の記録から50年ばかり後のものになりますが、この布団屋台を当時はどう呼んでいたかですが、

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「太鼓」と呼んでいたとみて間違いありません。ただ地域によっては壇尻とも呼ばれていたようで、長崎のコッコデショは別名境壇尻とも呼ばれるからです。コッコデショは1799年に初めて登場したとなっていますが、おそらくその激しいアクションと7年に1度しか登場しないので、1799年当時の原型をかなり保っていると私は考えています。画像を紹介しておくと、

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摂津名所図会の太鼓と非常によく似ており、18世紀末の布団屋台はこんなスタイルであったと見て良さそうです。これを泉州で布団屋台が使われる最大級の祭礼である百舌鳥八幡の月見祭の現在の屋台と較べてみます。

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200年の歳月の変化は当然あるのですが、摂津名所図会と長崎のコッコデショの雰囲気は残っている気がします。どこに注目するかですが、布団屋根の形態です。屋台の基本構造は太鼓を載せる泥台と呼ばれる足元部分があり、そこに担ぎ棒を装着するのが基本です。その泥台から四本柱が上に伸びて屋根を乗っけています。百舌鳥八幡のものは摂津名所図会やコッコデショと較べると屋根と四本柱の間に斗組や水切り金具が加えられていますが注目点は最下段の布団の大きさです。

四本柱で囲まれた部分を天井と呼びますが、摂津名所図会と長崎のコッコデショでは天井の面積の布団が最下段になっており、百舌鳥八幡でも天井と屋根の間に構造物こそ増えていますが、布団の最下段はほぼ天井の面積程度になっています。布団屋台は泉州から淡路に広まったとなっていますが現在の淡路の屋台は、

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淡路の屋台もバリエーションがありますが、基本形態は百舌鳥八幡の屋台に類似していると思います。特徴として抽出したいのはやはり

    最下段の布団が天井の面積に近い
そういう形態の源流は18世紀末に泉州で既に確立し泉州や淡路ではこれを受け継いでいる屋台が多いと言えそうです。


播州布団屋台・中町の事例から

播州祭り見聞記より屋台の分布を見てもらいます。

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播州屋台は布団屋根の他に神輿屋根があり、神輿屋根は姫路を中心とした西播に広がっています。神輿屋根は素直に御神輿を参考に製作されたとして良さそうで、播州オリジナルとして良いかと考えています。分布図をよく見て欲しいのですが、西から

    神輿屋根 → 神輿屋根・反り屋根混在 → 反り屋根 → 平屋根
こうなっていると見えなくもありません。ここで播州の地域分類を屋台分布で定義したいのですが、
    西播・・・神輿屋根分布地域
    東播・・・平屋根分布地域
    北播・・・反り屋根・反り屋根神輿屋根混在地域
さらに平屋根の東播のうち沿岸部以外の小野・三木を北播とします。


東播地域は泉州と言うか淡路の布団屋根の影響を強く受けたと考えています。そりゃ目の前ですからね。淡路の影響は沿岸部から北上していったと見るのが素直だと思います。一方で北播には神輿屋根・布団屋根以外の別系列の屋台があったと考えています。参考になるのは中区における屋台文化です。中区とは馴染みがない地名ですが、多可郡中町であるとすればわかりやすくなると思います。ここには1842年(天保13年)の絵馬が残されています。

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この絵馬に描かれた屋台は摂津名所図会の50年ぐらい後のもので、泥台・担ぎ棒・高欄・四本柱と基本構造は似ていますが、屋根が一段です。屋根の段数は地域差がありますが、見栄えからすると多段化は早くから行われたと考えたいところです。つうか泉州から淡路に広まった時点で多段化が進んでいたと考えても良く、淡路由来の布団屋根とは別の可能性を考えます。絵馬には布団屋根様の屋根はありますが、これは泉州・淡路直系のものではなく、淡路の布団屋根を真似した程度のものではないかと見ています。

北播オリジナルはもっとシンプルで泥台に担ぎ棒だけの屋台であったと考えています。エラいシンプルですが現在も実在します。西脇の春日神社には暴れ太鼓が奉納されますが、

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これが北播オリジナルの「荷い太鼓」だったとすると播州布団屋台の変遷が説明しやすくなります。多可郡中町の屋台の変遷を断片的ですが追ってみると

西暦 年号 根拠 屋根形態
1842年 天保13年 奉納絵馬 一段平屋根
1874年 明治7年 三木の新町が中古購入 多段平屋根の可能性が高い
1895年 明治28年 中町最古の屋台 反り屋根
新町は中古を購入しているのですが、中町はこれをもっと前に購入している訳で、絵馬の屋台から10〜20年もしないうちに布団屋根屋台に切り替えられた事になります。この新町購入屋台は現在も花尻屋台として健在で、

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この屋台も150年近い歳月の中で何度も改修を受けているはずで、どれだけオリジナルが保たれているかは不明ですが、虹梁が使われている事から平屋根で淡路系の屋台だと考えられます。これは中町が絵馬の屋台から一度は淡路系の平屋根になった傍証になります。さらに明治28年製作の森本屋台は、

ここも古い屋台なのですがオリジナルは良く保たれているとされます。中町では1842年の絵馬の屋台から1895年の森本屋台までの50年間に

    オリジナル一段平屋根 → 淡路系多段平屋根 → 反り屋根
こう目まぐるしくスタイルを変えていったと考えられます。このうちで一番のポイントは先に淡路系の平屋根が導入された点と見ます。


反り屋根と神輿屋根の関係

反り屋根の説明に平屋根からの進化系だの説明は良く見られます。ただよく見ると平屋根と反り屋根の共通点は屋根が布団であることだけじゃないかとも私には思えます。また平屋根からの進化も泉州・淡路型の屋根なら反らす事さえ困難です。ちょっとした思い付きで布団屋根を反らす発想は簡単には出てきません。反り屋根は単に布団の端を反らせたのではなく、布団屋根を何かの形に似せた結果じゃないかと私は推理します。

反り屋根で注目したいのは、屋根の中央部が盛り上がっている点です。これは反りの浅い古い形式のものでも必ずそうなっています。この盛り上がりは布団を反らせただけでは発生しないものです。つまり反り屋根では布団の中央部が盛り上がる事を必要としたんじゃないかと考えます。まだるっこしい言い方をしていますが、反り屋根では布団の中央部が盛り上がる事が絶対に必要であったと考えています。ここで神輿屋根を見て頂きたいのですが、

神輿屋根ですから中央部は盛り上がるというか高くなっています。注目したいのは屋根の端が昇総才と呼ばれる金具で反っている事です。ここで反り屋根をみてもらいますが、

布団の真ん中の盛り上がりが神輿屋根の屋根の部分に相当し、布団の反りが昇総才の金具に相当すると私は見ます。つまりは反り屋根とは神輿屋根を布団屋根で真似たものと考えます。これは他の部分にも痕跡が見られます。井筒は前にやったので置いとくとして、神輿屋根には庇に相当する部分があります。神輿ですから神殿建築の繁垂木を用いていますが、反り屋根でも同様に用いられています。これは神輿屋根に似せる意味と、そうやって布団屋根の底面積を増やさないと見栄えが悪かったのが理由と考えています。


平屋根の進化

さてなんですが反り屋根が神輿屋根に似せた布団屋根ならいっその事、神輿屋根屋台を購入すれば良さそうなんものです。ここの説明が厄介なのですが中町の例から考えると先に淡路型平屋根屋台が広まっていたぐらいしか理由が見付けられません。先に布団屋台があったので、布団屋根に愛着があったぐらいでしょうか。ただなんですが、中町での淡路型布団屋根の使用期間はせいぜい20年ぐらいです。20年でそこまでの愛着が出るかの問題は当然出てきます。

そこでと言うわけではありませんが、中町の西側地域に注目したいと思います。ここは屋台の分布で神輿屋根・反り屋根混在地域となっています。こちらの方がひょっとして淡路型平屋根の導入が早かったのかもしれません。中町は反り屋根分布地域になっていますが、淡路型平屋根をまず導入したものの、同じ布団屋根なら反り屋根の方が見栄えがするぐらいで導入されたぐらいは考えられます。もしそうであれば淡路型平屋根は加古川流域より市川流域に先に広がった事になります。市川流域で神輿屋根に似せた反り屋根が開発され、加古川上流地域の淡路型平屋根を駆逐してしまったぐらいの構図です。

そう考えても次の疑問が出てきます。市川流域の淡路型平屋根を駆逐し、加古川上流域も制覇した反り屋根が北条であたりで南下が止まったのは何故だろうです。地域の好みで済ませても良いのですが、平屋根にその時期に変化が現れ、反り屋根に対抗する魅力を得たんじゃないかは考えられるところです。現在の播州型平屋根を見てもらいますが、

泉州・淡路型とは異なり雲板を使った屋根の底面積の拡大が行われています。それと現在は布団の厚みが増す傾向にありますが、古写真で確認する限り布団はかなり薄くなっています。明治45年に同時新調されたとされる新町と滑原を見てもらいますが、

先々代新町屋台 先々代滑原屋台
泉州・淡路型が布団を厚くし段数を増やして高くする傾向があるのに対し、屋根を薄く低くしている感じがします。この改良により
    反り屋根より平屋根の方が「しゅっとして」格好が良い
こういう嗜好が生まれ平屋根地域として現在に至っている可能性はあると思います。


播州型平屋根の登場地域は

あくまでも私の仮説ですが、反り屋根が神輿屋根の影響を受けて誕生したのが市川流域なら、平屋根が改良されたのは三木・小野あたりではないかと考えます。この辺りが反り屋根と平屋根の境界になるからです。加古川上流地域に反り屋根が広がったのは中町の事例から考えて明治の初めぐらいじゃないかと推測されますから、播州型平屋根も幕末から明治初期ぐらいと考えられます。三木で製作記録が残る最古の屋台とされる久留美屋台が万延元年ですが、評価として最初から雲板はあったらしいとされているからです。

明石町屋台が久留美屋台より古いか新しいかは不明ですが、古い可能性はあります。理由は井筒に平屋根だからです。井筒の技法は神輿屋根や平屋根に一般的に用いられ、平屋根の場合は虹梁になります。久留美屋台も虹梁なのですが、井筒に平屋根の組み合わせになるのは反り屋根を平屋根に改造した場合がもっともポピュラーに発生します。明石町屋台の由来も謎に包まれていますが、反り屋根の中古屋台を購入して平屋根に改造したと私は考えます。この改造時に雲板を使った屋根の底面積の拡大が行われたぐらいでしょうか。

留美は明石町の影響を受けて屋台を製作しましたが、井筒でなく従来通りの虹梁を用いたぐらいです。もうちょっと広げて言うと、三木では明石町と言うモデルが目の前にあったので井筒に平屋根タイプのものが幾つも製作されましたが、三木以外では従来通りの虹梁に平屋根で製作され、雲板による屋根の底面積の拡大だけが広まったぐらいでしょうか。

播州型平屋根の登場は反り屋根の浸透を跳ね返すぐらいのインパクトがあったと考えられるのですが、時期と地域からしてヒョットして明石町が第1号の可能性が出てきます。でもわかんないですよね。今日のお話も殆どが推測で、その上にさらに推測を重ねている部分が殆どです。その点は毎度のことながら御容赦下さい。