藍那古道

 かなり前ですが一の谷の合戦のムックをやった時に三草山から鵯越までのルート考察をしたことがあります。義経軍は残された記録には2/4の夜から2/5未明に夜襲をかけて平家軍を破り、2/7の日の出には一の谷陣地の西の木戸に達しています。

 そうなると2/5の朝は草臥れて寝ているはずです。しかし、この辺は実際の合戦時間がどれほどであったかの問題が付いて回ります。源平合戦当時でなくとも奇襲が完全に成功すれば負けた方は潰走になりますが、実際の戦闘時間は三十分もないかもしれません。

 とにかく夜襲ですから追撃も容易じゃないでしょうから、平家軍が逃げ去ったっらトットと休憩時間になった可能性も十分にあるとも考えられます。ここも、もう少し強引に話を進めて三草山の合戦は2/4中に終わっていたんじゃないかとも考えています。

 そう考えるのは、三草山から一の谷までの距離になります。とにかく三草山から二泊で一の谷に到着しないとならないからです。このうち二泊目ですが、長々とムックした末に2/6は多井畑厄神と私は比定しています。そうじゃないと熊谷・平山の先陣争いが追い越し問題で成立しないからです。

 そうなると2/5はどこになるかですが山田まで義経は来てもらわないといけません。この辺は研究家も苦慮しているところで、三草山から山田まで30キロ以上あるのです。当時の一日の歩行距離の目安は40キロ(≒ 10里)です。これは夜明けから日暮れまで歩いてのものです。

 そうなんです、三草山の出発を昼頃になんかにすると山田まで半分過ぎたぐらいで日が暮れてしまいます。これが9時ぐらいに出発できれば山田に着くのは不可能ではなくなります。

 では山田に何があったかですが、鷲尾氏としか考えられません。鷲尾氏は山田の土豪ぐらいと見てよく、その勢力は山田から藍那、白川から多井畑方面まで一族は広がりはあったと見てよさそうなのです。義経は京都を出る前から鷲尾氏の協力を得ていて、鷲尾氏の館に向かって三草山から直行したと考えています。

 ここで一の谷の隠れた登場人物である多田行綱ですが、山田村郷土史に、

寿永三年二月源平一の谷の合戦の時は、摂津源氏の党多田蔵人行綱義経に属し、先発隊として丹生山田に来り、義経軍の三草より来るものと会し、藍那村相談の辻より鵯越に出で、山田の住人鷲尾三郎経春に高尾より鉄拐山までの山路を案内せしめ一の谷城に拠れる平軍を一掃したり。

 とにかく行綱の記録は玉葉ぐらいしかないですから注目しても良いと考えています。行綱が一の谷の合戦に参加していたのは確実ですし、範頼の大手軍に属していないのもまた確実ですから、一の谷の裏手に当たる山田に進出していても不思議無く、義経と合流していても不思議無いぐらいです。

 山田からは藍那古道を経て藍那に。藍那は谷間の村ですが、そこから坂道を登り詰めると相談が辻です。相談が辻は地理的には、右に曲がれば白遍路と呼ばれた塩屋に続く道になり、左に曲がれば鵯越道で高尾山を超えて会下山に通じます。

 2/5に行綱軍と合流した義経は、2/6の夜明けとともに相談が辻を目指し、そこで行綱と別れたと見ています。つまり行綱は鵯越道で高尾山を目指し、義経は白遍路で塩屋を目指したぐらいです。

 白遍路は前に歩いたことがありますが、今回は藍那古道を歩いてみました。藍那と山田を隔てているのは里山で、山道ですがよじ登るような急峻な個所はなさそうでした。つまりは馬を曳いて容易に超えられると思います。

 単なる感想ですが、これで一の谷の義経ルートは全部解明したように思いました。ちょっと満足したかもしれません。