日曜閑話59

執念深く「一の谷」です。


フィールドワーク

今日は須磨浦公園に実際に行って見ました。この公園のとくに山上にあがるのはたぶん3回目です。最初は遥かなる小学校の頃、山上遊園にドレミファ噴水パレスと言う室内施設が出来た頃のお話です。音に反応して噴水の吹き出しが変わり、その前でショーをする施設です。次は四半世紀前に遡る学生時代のデート。この時には既にドレミファ噴水パレスは撤去され、ただの噴水公園に変わっていました。

でもって3回目が今日です。これまではロープーウェイ経由だったので鉢伏山展望台から山上遊園にしか行ったことがありませんでしたが、今回は歩きで一の谷の検証のためのフィールドワークです。須磨浦公園の駅からテクテク歩いて登るのですが、殆んどが階段。つうか、鉢伏山展望台までは全部コンクリ舗装でちょっと辛かったと言うところです。標高は300メートル足らずぐらいですが、とにかく急な坂道です。

でもって、今回は鉢伏山から旗振山へ尾根伝いに初めて歩きました。旗振山の由来は、かつて大阪の米相場の動きを旗の合図で伝達した中継所であったはずです。旗振山から鉄拐山へ道は続いて行くのですが、ここで義経道が途中で出てきます。伝説の逆落としルートです。鉄拐山へのルートにハイキングの誘惑を感じたのですが、今回はフィールドワークなので義経道を下りました。

この道を果たして馬連れで下れるかどうかを想像しながらの下山でしたが、最後に一の谷町に下る部分で、

    こりゃ、無理だろう
と思わざるを得ませんでした。それはもう絶壁の丸太階段だからです。周囲を見渡しても、道があるところが「まだマシ」クラスで、他は完全に壁。でもって下りたところに広がるのが一の谷町。瀟洒な住宅街なのですが、ここはもともと山陽鉄道(後に国鉄に吸収される)の外国人技師の住宅が建てられたところと書いてありました。

明治の頃は異人山とも呼ばれたそうで、1990年頃まで異人館が残っていたそうです。さらに驚いたのは鈴木商店の大番頭であった金子直吉の屋敷もあったそうで(今は駐車場になっています)、さらに住宅街の地図には山際に南洋植物園もあったようです。お目当ての安徳天皇の仮内裏跡ですが、住宅街の真ん中ぐらいに綺麗に整備されてありました。


問題はこの地が一の谷であるかどうかなのですが、地形を確かめると山の麓にある台地状の地形である事が確認できました。台地も台地で、斜面は急斜面地崩壊防止事業云々で絶壁がコンクリートで塗り固められています。言ってしまえば谷ではなく丘です。谷らしきものは一の谷町から東側に降りる新坂あたりにありました。一の谷川と赤旗谷川に囲まれたようなところで、今はその谷にデッカイマンションが建っています。そこなら平家物語にある、

一の谷は口は狭くて奥広し。南は海、北は山、岸高くして屏風を立てたるが如し。馬も人も少しも通うべき様なかりけり。誠に由々しき城なり

ここにある程度は近くはなります。ただし、

    奥広し
これはちょっと無理がありそうな気がしました。広いと言うより狭隘です。要害で言うなら安徳宮があるところの方が周囲が絶壁の高台で見晴らしも良く、選びたいところです。わざわざ高台の下のジメジメした谷を選ぶ必然性が乏しそうな気はしました。それと改めて行ってみると結構遠いです。湊川あたりからでも電車で20分ぐらいは必要です。福原や大和田の泊からこんなに遠いところを本営にする必然性がやはり感じられません。塩屋に防衛線を作っての前進基地ならまだしも理解しますが、本営は無理があるだろうです。


山の手

平家物語の老馬からですが、

 大臣殿(宗盛)は、安芸右馬助能行を一門の人々への使者に立てて、「九郎義経が三草方面を打ち破ってすでに攻め入って来たという。山の手が大変なので、各々方、向かってくだされ。」と仰せ遣わされたが、みな辞退してしまわれる。能登殿(教経)の所へも「度々の事ですが、今度もまたそなたが向かって下さ
れ。」と仰せ遣わすと、能登殿の返事には、「戦は狩りなどのように、足元の良さそうな方へ向かおう、悪そうな所へは行かない等と言っていたのでは、勝てなくなってしまう。 何度でもお申し付け下され。危険な方へはこの教経が仰せの通りまかり出て、その一方を打ち破って差し上げましょうぞ。心安く思し召されよ。」と申されたので、大臣殿は殊の外喜ばれて、越中前司盛俊率いる一万余騎を能登殿に付けられる。能登殿は兄の越前三位通盛卿を伴って、山の手へと向かわれる。この山の手と言うのは、一の谷の後ろ、鵯越のふもとである。

ここを改めて考えたいのですが、これが史実かどうかを別にして地名の使い方です。まず宗盛の言葉ですが、

    九郎義経が三草方面を打ち破ってすでに攻め入って来たという。山の手が大変なので、各々方、向かってくだされ
問題にしたいのはこの「山の手」です。JSJ様も指摘されていましたが、平家陣地なり福原からみて漠然と山の方を指すのではなく、特定の地名を指すのではないかと考えられます。まず史実として三草山合戦の後の義経の動きは不明になり、次は一の谷になります。ルートは推測されてはいますが、確実に言える事は義経は一の谷まで平家側と出くわさなかったとして良いかと考えます。

ここで一つ仮定を置きたいのですが、平家物語の作者は一の谷がどこであるかを知っていたと考えています。つまりは地名関係はある程度まで正確であったです。少なくとも知らずに書いてはいないであろうです。ただ完全に正確かどうかは微妙です。現在のように手軽に地図が入手できる時代とは違います。作者がわざわざ合戦場まで足を運んで実地検分したとは思いにくいので、又聞きの知識ではあったであろうです。細かいところは勘違いや、思い違いも混じっているだろうです。

それを念頭において能登守教経が向かったのが、

    この山の手と言うのは、一の谷の後ろ、鵯越のふもとである
これは「山の手」が地名であった事を示唆していると思います。もう少しわかりやすく書くと「山の手口」とすれば良いでしょうか。問題は「一の谷の後ろ」です。一の谷は平家陣地の最も山寄りにあったのだけは間違いありません。だからこそ平家物語にも、

一の谷は口は狭くて奥広し。南は海、北は山、岸高くして屏風を立てたるが如し。馬も人も少しも通うべき様なかりけり。誠に由々しき城なり

神戸でこういう地形は山際には存在しないとして良いでしょう。「一の谷の後ろ」をそのまま解釈しようとしたのが兵庫歴史研究会で、そのために一遍上人縁起から会下山の南側に湊川の巨大な遊水地を想定し、その遊水地こそが一の谷であると比定しています。それはそれで説得力もあるのですが、個人的には遊水地を一の谷城まで表現しない気がしています。要害として一の谷を利用した上で、陸地部分を本営の呼び名に源平ともどもするだろうです。それこそ会下山城の世界です。

私の読み方は「一の谷 = 丸山」説を前提にしていますが、この老馬の部分の「鵯越」を鵯越道とまず仮定します。鵯越道は丸山一の谷の北側から回り込んで会下山方面に出ます。つまり

    一の谷の後ろ・・・一の谷の後ろ(北側)を通り、
    鵯越のふもと・・・会下山に至る
山の手口と表現するから余計にややこしくなりましたが、表現としてこう考えると良いかもしれません。山の手とは鵯越道そのものを指す時と、鵯越道の出口付近を指す時の二通りがあるんじゃなかろうかです。実は鵯越はもう1ヵ所あると推測していますが、それは後述します。


もう一つ、この宗盛の言葉で注目したいのは、宗盛が懸念したのが山の手だけだった事です。これまでにも検討した通り、藍那まで進出すれば進軍ルートとして、

  1. 鵯越
  2. 烏原道
  3. 白川道
この3つの選択が出てきます。ところが烏原道は実際にも使われた形跡はありません。現在は通るだけでアドベンチャー状態だそうですが、一の谷合戦当時もなんらかの理由で通れない事情があったのかもしれません。これについては資料は完全に沈黙しています。烏原道は通れない事にしても白川道への懸念が出てこないのは不思議です。

三草山の陥落により山の手(鵯越道)の懸念を強くするのであれば、白川道へも同時に懸念するのが自然です。これを宗盛や平家側が本当に懸念していないのであれば、白川道は防御の対象にしていなかった、つまり平家の西の防衛線は白川道よりさらに東側に存在した傍証ぐらいになるかと考えます。これは須磨浦の一の谷否定の傍証にもなりえます。

平家は三草山が健在の前提の下に源氏軍が六甲山系の北側に回りこまない兵力配置を行っていたと考えるのが自然です。三草山が健在であれば、源氏軍はこれを放置して進撃するのは難しく、平家陣地の西側や北側に源氏軍は現れないはずだです。決戦は生田の森の東の木戸に集中すればよく、そのつもりで諸将がいたので、

    仰せ遣わされたが、みな辞退してしまわれる
誰もが大手の決戦場に向かいたがり、地味な搦手防衛戦に回されるのを嫌がったんじゃなかろうかです。それが山の手に穴が出来て大童で対応したと見ます。ここで玉葉なんですが、

未明人走り来りて云ふ、式部権少輔範季朝臣の許より申して云ふ、この夜半ばかり、梶原平三景時の許より飛脚を進めて申して云ふ、平氏皆悉く伐り取りおわんぬと云々、その後午刻ばかり定能来り、合戦の子細を語る、一番に九郎の許より告げ申す<搦手なり、まづ丹波城を落とす、次いで一谷を落とすと云々>、次いで加羽の冠者案内を申す<大手、浜地より福原に寄すと云々>、辰の刻より巳の刻に至る、猶一時に及ばず、程なく責め落としおわんぬ、多田行綱山方より寄せて、最前に山手を落とさると云々

問題は

    多田行綱山方より寄せて、最前に山手を落とさると云々
行綱は「山方」より攻めて「山手」を落とすとなっています。平家の山の手防衛は三草山が健在が前提だったので、鵯越道の途中には防御施設は構築していなかった可能性があると考えます。つまり行綱はやすやすと鵯越道を通り、麓の山の手口で待ち構えていた平家軍を打ち破ったとも解釈できます。たしかNHKでは、行綱が平家物語の坂落としをやったとの説を立てていましたが、可能性はあります。ただ吾妻鏡が問題です。

九郎主三浦の十郎義連已下の勇士を相具し、鵯越(此の山は猪・鹿・兎・狐の外、不通の険阻なり)より攻戦せらるの間、商量を失い敗走す。

行綱はその後、頼朝と反目したのでその功績が吾妻鏡から消えたとの推測ですが、義経だって頼朝にとっては謀反人です。行綱の行動は微妙ですが、行綱が最終的に追放されたのは平家滅亡後のの元暦2年(1185年)6月です。この同じ年の義経ですがwikipediaより、

元暦2年(1185年)4月15日、頼朝は内挙を得ずに朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り、京での勤仕を命じ、東国への帰還を禁じた。また4月21日、平氏追討で侍所所司として義経の補佐を務めた梶原景時から、「義経はしきりに追討の功を自身一人の物としている」と記した書状が頼朝に届いた。

行綱や義経以外にも壇ノ浦の後に追放されたり註殺されたりした功臣はいます。行綱のみここまで徹底無視する理由が謎になります。あえて玉葉から解釈すると、

    一番に九郎の許より告げ申す<搦手なり、まづ丹波城を落とす、次いで一谷を落とすと云々>
この報告は大手の軍監である梶原景時の手によるものです。私は行綱は山の手(鵯越道)から山の手口を落としたものの、その時点では平家軍はまだ崩れなかったんじゃないかと見ています。道からして行綱はさしての軍勢をもっていたとは思えません。確かに山の手口は落としたものの、もしここに平家物語の通りに能登守教経がいたなら、後詰を合わせて逆に行綱を反撃していたんじゃなかろうかです。

もしくは行綱は山の手口を攻撃はしたものの攻め倦み、落ちたのは義経が一の谷を攻撃し、平家軍の中枢が混乱してからであった可能性もあります。行綱の山の手口突破も玉葉にある早期報告段階では功績とはされたものの、後々に検討すると義経の活躍のオマケみたいなものである事が判明し、吾妻鏡に記録されなかった可能性も考えています。


「山の手 = 鵯越道」の仮説を立てていますが、傍証は梅松論にある事は前にも書きましたから省略するとして吾妻鏡

寅に刻、源九郎主先ず殊なる勇士七十余騎を引き分け、一谷の後山(鵯越と号す)に着す。

ここが凄く気になります。どう読んでも

こうなんですが「号す」と言う表現は、吾妻鏡の一の谷関連の部分では、私が読む限りここだけです。どうもなんですが、当時の表現として非常に険しい峠越えの事を「鵯越」としていたんじゃないでしょうか。私は「鵯越の逆落とし = 長柄越」説を取っています。この長柄越は一の谷合戦当時でも使われていた地名であると兵庫歴史研究会は論証しています。にも関らずあえて鵯越義経は号しているわけです。

これは報告書にそれだけ険しい道を越えたとのニュアンスを出したんじゃないでしゅうか。おそらく読む方も

    鵯越」と言うぐらいだから、さぞ凄い峠道だろう
こういうイメージで受け取った可能性です。ついでに言うなら、義経の報告には正しい地名である長柄越なり鹿松峠が抜けていたのかもしれません。だから「号した」です。結局のところ後世には、
  1. 鵯越道の「鵯越
  2. 義経が号した「鵯越
この2つが混在し、号した方は義経がそう言っただけですから、地名としては後世に広まらず、モトの地名である鵯越道のみが残ったんじゃないかです。これは平家物語の作者も完全に混同し、どこを義経が通ったのか特定できないまま、曖昧な情景描写のみで鵯越を誤魔化した可能性があります。それとまたもや吾妻鏡ですが、
    鵯越(此の山は猪・鹿・兎・狐の外、不通の険阻なり)より攻戦せらるの間、商量を失い敗走す
最終的に義経は峠を下ったのでしょうが、「攻戦せらるの間」には鹿松峠の攻防戦も含まれる気がします。丸山一の谷説であれば本営のすぐそばの戦いですから、非常に気色の悪い場所での戦いです。破られれば一挙に本営に雪崩れ込まれます。平家も防御軍を置いていたかもしれませんが、山の手口と同様に「来ない」ところしていたところで、兵は配備しても防御施設まで構築されていなかった可能性を考えます。

そのうえ地形的に大軍を展開しくところですし、援軍を送るにも山の手口も東の木戸も激戦中で手持ちの遊軍が殆んどいなかったのかもしれません。もう少し言うなら、行綱が先に山の手口に攻撃をかけた時点で、源氏の別働隊はこれだけと判断し、本営にいた予備軍もすべてそちらに回した可能性も考えられます。手薄のところに小勢とは言え精鋭ぞろいの義経軍に攻撃され、鹿松峠が「危ない」と感じた瞬間に「商量を失い敗走す」が起こってしまったです。


食傷気味かもしれませんが、歩きながら考えていた事を閑話として提供しこれで休題とします。