執念深く「一の谷」です。
今日は須磨浦公園に実際に行って見ました。この公園のとくに山上にあがるのはたぶん3回目です。最初は遥かなる小学校の頃、山上遊園にドレミファ噴水パレスと言う室内施設が出来た頃のお話です。音に反応して噴水の吹き出しが変わり、その前でショーをする施設です。次は四半世紀前に遡る学生時代のデート。この時には既にドレミファ噴水パレスは撤去され、ただの噴水公園に変わっていました。
でもって3回目が今日です。これまではロープーウェイ経由だったので鉢伏山展望台から山上遊園にしか行ったことがありませんでしたが、今回は歩きで一の谷の検証のためのフィールドワークです。須磨浦公園の駅からテクテク歩いて登るのですが、殆んどが階段。つうか、鉢伏山展望台までは全部コンクリ舗装でちょっと辛かったと言うところです。標高は300メートル足らずぐらいですが、とにかく急な坂道です。
でもって、今回は鉢伏山から旗振山へ尾根伝いに初めて歩きました。旗振山の由来は、かつて大阪の米相場の動きを旗の合図で伝達した中継所であったはずです。旗振山から鉄拐山へ道は続いて行くのですが、ここで義経道が途中で出てきます。伝説の逆落としルートです。鉄拐山へのルートにハイキングの誘惑を感じたのですが、今回はフィールドワークなので義経道を下りました。
この道を果たして馬連れで下れるかどうかを想像しながらの下山でしたが、最後に一の谷町に下る部分で、
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こりゃ、無理だろう
明治の頃は異人山とも呼ばれたそうで、1990年頃まで異人館が残っていたそうです。さらに驚いたのは鈴木商店の大番頭であった金子直吉の屋敷もあったそうで(今は駐車場になっています)、さらに住宅街の地図には山際に南洋植物園もあったようです。お目当ての安徳天皇の仮内裏跡ですが、住宅街の真ん中ぐらいに綺麗に整備されてありました。
問題はこの地が一の谷であるかどうかなのですが、地形を確かめると山の麓にある台地状の地形である事が確認できました。台地も台地で、斜面は急斜面地崩壊防止事業云々で絶壁がコンクリートで塗り固められています。言ってしまえば谷ではなく丘です。谷らしきものは一の谷町から東側に降りる新坂あたりにありました。一の谷川と赤旗谷川に囲まれたようなところで、今はその谷にデッカイマンションが建っています。そこなら平家物語にある、
一の谷は口は狭くて奥広し。南は海、北は山、岸高くして屏風を立てたるが如し。馬も人も少しも通うべき様なかりけり。誠に由々しき城なり
ここにある程度は近くはなります。ただし、
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奥広し
平家物語の老馬からですが、
大臣殿(宗盛)は、安芸右馬助能行を一門の人々への使者に立てて、「九郎義経が三草方面を打ち破ってすでに攻め入って来たという。山の手が大変なので、各々方、向かってくだされ。」と仰せ遣わされたが、みな辞退してしまわれる。能登殿(教経)の所へも「度々の事ですが、今度もまたそなたが向かって下さ
れ。」と仰せ遣わすと、能登殿の返事には、「戦は狩りなどのように、足元の良さそうな方へ向かおう、悪そうな所へは行かない等と言っていたのでは、勝てなくなってしまう。 何度でもお申し付け下され。危険な方へはこの教経が仰せの通りまかり出て、その一方を打ち破って差し上げましょうぞ。心安く思し召されよ。」と申されたので、大臣殿は殊の外喜ばれて、越中前司盛俊率いる一万余騎を能登殿に付けられる。能登殿は兄の越前三位通盛卿を伴って、山の手へと向かわれる。この山の手と言うのは、一の谷の後ろ、鵯越のふもとである。
ここを改めて考えたいのですが、これが史実かどうかを別にして地名の使い方です。まず宗盛の言葉ですが、
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九郎義経が三草方面を打ち破ってすでに攻め入って来たという。山の手が大変なので、各々方、向かってくだされ
ここで一つ仮定を置きたいのですが、平家物語の作者は一の谷がどこであるかを知っていたと考えています。つまりは地名関係はある程度まで正確であったです。少なくとも知らずに書いてはいないであろうです。ただ完全に正確かどうかは微妙です。現在のように手軽に地図が入手できる時代とは違います。作者がわざわざ合戦場まで足を運んで実地検分したとは思いにくいので、又聞きの知識ではあったであろうです。細かいところは勘違いや、思い違いも混じっているだろうです。
それを念頭において能登守教経が向かったのが、
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この山の手と言うのは、一の谷の後ろ、鵯越のふもとである
一の谷は口は狭くて奥広し。南は海、北は山、岸高くして屏風を立てたるが如し。馬も人も少しも通うべき様なかりけり。誠に由々しき城なり
神戸でこういう地形は山際には存在しないとして良いでしょう。「一の谷の後ろ」をそのまま解釈しようとしたのが兵庫歴史研究会で、そのために一遍上人縁起から会下山の南側に湊川の巨大な遊水地を想定し、その遊水地こそが一の谷であると比定しています。それはそれで説得力もあるのですが、個人的には遊水地を一の谷城まで表現しない気がしています。要害として一の谷を利用した上で、陸地部分を本営の呼び名に源平ともどもするだろうです。それこそ会下山城の世界です。
私の読み方は「一の谷 = 丸山」説を前提にしていますが、この老馬の部分の「鵯越」を鵯越道とまず仮定します。鵯越道は丸山一の谷の北側から回り込んで会下山方面に出ます。つまり
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一の谷の後ろ・・・一の谷の後ろ(北側)を通り、
鵯越のふもと・・・会下山に至る
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山の手 = 鵯越道
もう一つ、この宗盛の言葉で注目したいのは、宗盛が懸念したのが山の手だけだった事です。これまでにも検討した通り、藍那まで進出すれば進軍ルートとして、
この3つの選択が出てきます。ところが烏原道は実際にも使われた形跡はありません。現在は通るだけでアドベンチャー状態だそうですが、一の谷合戦当時もなんらかの理由で通れない事情があったのかもしれません。これについては資料は完全に沈黙しています。烏原道は通れない事にしても白川道への懸念が出てこないのは不思議です。三草山の陥落により山の手(鵯越道)の懸念を強くするのであれば、白川道へも同時に懸念するのが自然です。これを宗盛や平家側が本当に懸念していないのであれば、白川道は防御の対象にしていなかった、つまり平家の西の防衛線は白川道よりさらに東側に存在した傍証ぐらいになるかと考えます。これは須磨浦の一の谷否定の傍証にもなりえます。
平家は三草山が健在の前提の下に源氏軍が六甲山系の北側に回りこまない兵力配置を行っていたと考えるのが自然です。三草山が健在であれば、源氏軍はこれを放置して進撃するのは難しく、平家陣地の西側や北側に源氏軍は現れないはずだです。決戦は生田の森の東の木戸に集中すればよく、そのつもりで諸将がいたので、
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仰せ遣わされたが、みな辞退してしまわれる
未明人走り来りて云ふ、式部権少輔範季朝臣の許より申して云ふ、この夜半ばかり、梶原平三景時の許より飛脚を進めて申して云ふ、平氏皆悉く伐り取りおわんぬと云々、その後午刻ばかり定能来り、合戦の子細を語る、一番に九郎の許より告げ申す<搦手なり、まづ丹波城を落とす、次いで一谷を落とすと云々>、次いで加羽の冠者案内を申す<大手、浜地より福原に寄すと云々>、辰の刻より巳の刻に至る、猶一時に及ばず、程なく責め落としおわんぬ、多田行綱山方より寄せて、最前に山手を落とさると云々
問題は
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多田行綱山方より寄せて、最前に山手を落とさると云々
九郎主三浦の十郎義連已下の勇士を相具し、鵯越(此の山は猪・鹿・兎・狐の外、不通の険阻なり)より攻戦せらるの間、商量を失い敗走す。
行綱はその後、頼朝と反目したのでその功績が吾妻鏡から消えたとの推測ですが、義経だって頼朝にとっては謀反人です。行綱の行動は微妙ですが、行綱が最終的に追放されたのは平家滅亡後のの元暦2年(1185年)6月です。この同じ年の義経ですがwikipediaより、
元暦2年(1185年)4月15日、頼朝は内挙を得ずに朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り、京での勤仕を命じ、東国への帰還を禁じた。また4月21日、平氏追討で侍所所司として義経の補佐を務めた梶原景時から、「義経はしきりに追討の功を自身一人の物としている」と記した書状が頼朝に届いた。
行綱や義経以外にも壇ノ浦の後に追放されたり註殺されたりした功臣はいます。行綱のみここまで徹底無視する理由が謎になります。あえて玉葉から解釈すると、
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一番に九郎の許より告げ申す<搦手なり、まづ丹波城を落とす、次いで一谷を落とすと云々>
もしくは行綱は山の手口を攻撃はしたものの攻め倦み、落ちたのは義経が一の谷を攻撃し、平家軍の中枢が混乱してからであった可能性もあります。行綱の山の手口突破も玉葉にある早期報告段階では功績とはされたものの、後々に検討すると義経の活躍のオマケみたいなものである事が判明し、吾妻鏡に記録されなかった可能性も考えています。
「山の手 = 鵯越道」の仮説を立てていますが、傍証は梅松論にある事は前にも書きましたから省略するとして吾妻鏡の
寅に刻、源九郎主先ず殊なる勇士七十余騎を引き分け、一谷の後山(鵯越と号す)に着す。
ここが凄く気になります。どう読んでも
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一谷の後山 = 鵯越
これは報告書にそれだけ険しい道を越えたとのニュアンスを出したんじゃないでしゅうか。おそらく読む方も
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「鵯越」と言うぐらいだから、さぞ凄い峠道だろう
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鵯越(此の山は猪・鹿・兎・狐の外、不通の険阻なり)より攻戦せらるの間、商量を失い敗走す
そのうえ地形的に大軍を展開しくところですし、援軍を送るにも山の手口も東の木戸も激戦中で手持ちの遊軍が殆んどいなかったのかもしれません。もう少し言うなら、行綱が先に山の手口に攻撃をかけた時点で、源氏の別働隊はこれだけと判断し、本営にいた予備軍もすべてそちらに回した可能性も考えられます。手薄のところに小勢とは言え精鋭ぞろいの義経軍に攻撃され、鹿松峠が「危ない」と感じた瞬間に「商量を失い敗走す」が起こってしまったです。
食傷気味かもしれませんが、歩きながら考えていた事を閑話として提供しこれで休題とします。