一の谷合戦再考・距離と時間からの検証

軍勢の1日の歩行距離

鎌倉から京都まで軍勢がどれほどの日数が必要だったかを考えるとき、源平合戦で参考になるのは範頼の上洛記録です。範頼は一の谷の後に鎌倉に帰り、もう一度上洛しています。、

  1. 範頼が鎌倉を出陣したのは寿永3年8月8日であった
  2. 範頼の京都到着は寿永3年8月27日(玉葉
日数的には19日間になり、距離としては鎌倉から京都までは概算で475kmになるので、1日の平均歩行距離は単純計算で25kmになります。ただなんですが範頼が東海道を進んだかどうかは不明です。最初の宇治川戦の時の範頼軍には甲斐源氏が多く加わっています。そうなるとルートとして
    鎌倉 → 御殿場 →(甲斐路)→ 甲府 →(東山道)→ 京都
このルートの可能性も十分にあるわけです。この場合なら鎌倉から京都まで概算で510kmぐらいになり、1日の平均歩行距離は27kmぐらいになります。範頼がどれほどの軍勢を率いていたかは不明ですが、「万」単位は大袈裟としても3000人ぐらいはいたって不思議ありません。それぐらいの軍勢の1日の平均移動距離は
    25〜30km/日
これぐらいになります。軍勢は多くなると移動速度は落ちると考えて良く、1000人規模でせいぜい30km弱ぐらいと見ても良いと思っています。


2/5の吾妻鏡記事の検証

義経の移動記録で重視したいのは吾妻鏡の2/5の記事で、

  • 酉の刻、源氏の両将摂津の国に到る。七日卯の時を以て箭合わせの期に定む。
  • 平家この事を聞き、新三位中将資盛卿・小松少将有盛朝臣・備中の守師盛・平内兵衛の尉清家・恵美の次郎盛方已下七千余騎、当国三草山の西に着す。源氏また同山の東に陣す。三里の行程を隔て、源平東西に在り。爰に九郎主、信綱・實平が如き評定を加え、暁天を待たず、夜半に及び三品羽林を襲う。仍って平家周章分散しをはんぬ。

素直に読めば昆陽野に酉の刻(要は夕方)に範頼と義経が昆陽野に到着しているのに、その夜に三草山で義経が夜襲を行うのは不可能です。ここは文章の解釈を若干変える必要があると思います。昆陽野で2/6の酉の刻に範頼と義経が合流してから三草山合戦に向ったのではなく、義経は三草山合戦を済ませてから昆陽野に駆けつけたと読むべきなんじゃないかと思います。つまり三草山合戦は2/5の夜ないし2/6の未明に行われたの見方です。とりあえず吾妻鏡にも三草山合戦が行われたのは、

    暁天を待たず
こうなっていますから、夜明け前の襲撃であったと解釈する事は可能です。三草山合戦が終了後に義経は昆陽野に移動し酉の刻に範頼と合流したと考えるなら可能性はあります。問題は三草山から昆陽野に1日で移動できるかです。距離的には46.7kmです。軍勢を引き連れてなら1.5日は必要な距離になります。ここでなんですが、義経は三草山合戦終了後に軍勢を分けたと推測しています。根拠は延慶本平家物語になりますが、

義経が勢の中に、奥州の佐藤三郎兵衛継信、同じく四郎兵衛忠信、江田の源三、熊井の太郎、源八広綱、伊勢の三郎義盛、武蔵坊弁慶、熊谷の次郎直実、子息小次郎直家、平山の武者所季重、片岡の八郎為春、その勢七千余騎は義経に付け。残り三千余騎は土肥の次郎、田代の冠者両人大将軍として、山の手を破りたまへ。我が身は三草の山をうちめぐりて鵯越へ向ふべし」とて歩ませけり。

このうち義経

    我が身は三草の山をうちめぐりて鵯越へ向ふべし
これは義経が夜襲のために越えてきた三草山を引き返し、さらに昆陽野まで移動した上で鵯越に向うの意味に解釈します。一方の土肥実平別動隊ですが、
    残り三千余騎は土肥の次郎、田代の冠者両人大将軍として、山の手を破りたまへ
これは敗走する平家軍を追撃しながら南下し、明石から塩屋に進む事を意味すると思います。義経が昆陽野に移動したのは、おそらく源氏軍の戦略が、
  1. まず義経軍が三草山の平家軍を退ける
  2. 退けてから改めて一の谷の攻撃期日(矢合わせ)を決める
こういう手筈であったからだと推測します。義経はどうしても範頼と直接会って最終打ち合わせをする必要があったぐらいです。問題は義経がどれほどの兵を率いていたかですが、このヒントが2/7の吾妻鏡にあります。

寅に刻、源九郎主先ず殊なる勇士七十余騎を引き分け、一谷の後山(鵯越と号す)に着す。

ここはもう義経軍が70人であったと受け取って良いかと思います。想像ですが編成は騎馬隊と足の強い下人の選抜隊で少人数編成だったから、三草山から昆陽野までの46.7kmを1日で移動できたと考えます。兵糧とかは昆陽野で範頼軍から受け取れば良いわけですから、可能な限りの軽量化を行ったぐらいは推測の内です。1000人単位の軍勢での移動距離は冒頭で検証したように30km弱/日ぐらいが精々ですが、100人以下の選抜編成なら健脚者並みの移動距離が可能であったの考え方です。

2/5に昆陽野に宿営し2/6朝に鵯越を目指すのですが、平家物語や伝承を考慮すると2/6夕は藍那に宿営した可能性は高いと考えています。昆陽野と藍那はおおよそ40kmぐらいですら、午後の早目の時間帯に藍那に到着した可能性はあります。さて藍那から一谷後山(妙法寺を比定)までは8kmぐらいです。寅二刻とは午前4時と言うか夜明けの2〜3時間ぐらい前と考えて良いので、義経は深夜に藍那を立ち一谷後山(妙法寺を比定)を目指したぐらいが想像されます。実際的には藍那で飯食って早めに眠り、夜中から行軍を始めて一谷後山を目指したぐらいです。

一谷後山と鵯越道との関係ですが、吾妻鏡にには義経が2/7の未明に着いた場所を「鵯越」と義経が「号」しています。ですが、

  • 藍那から会下山にいたる鵯越
  • 義経が2/7未明に着いた一谷後山から一の谷に至る峠道
この2つは別の道だと考えています。wikipediaより、

この長坂越は、夢野から明泉寺を経て、播州への交通路、鴨越本道の支道であり

「長坂越= 長柄越」と見れますので、義経が「ここはなんと呼ぶか?」と尋ねた時に「鵯越」って答えられた可能性ぐらいはあると見ています。つうか地元の人間に取ってはどっちも「鵯越の道」に違いはないってところです。でもって検証の結論を言うと

    2月5日の吾妻鏡記事は実現可能である
こうなります。


義経の京都出発日の推測

2/5の吾妻鏡記事が正しいと前提すると義経の三草山夜襲は2/5の夜明け前で、さらに三草山の西の山口である小野原に着いたのは2/4の夕方になります。ここで三草山と京都の距離は72.1kmです。この時の義経軍は70人なんて小編成ではなく1000人以上の軍勢として良いかと思います。そうなると72.1kmは急いでも2日かかります。そうなると京都出発は2/3早朝がギリギリとして良いかと思います。別に2/2でも良いのですが、2/2出発なら2/4の午前中に三草山に到着してしまいます。三草山を夜襲で勝ったのは吾妻鏡にも明記してあり、その夜襲が成功した要因の一つとして

    今夜はさすがに襲って来ないだろう
この油断が平家軍にあったとすれば、2/4の夕に着陣したからと見たいところです。そう考えると京都出発は2/3とするのが妥当です。平家物語では2/4に京都を出発したとなっていますが、これは範頼大手軍が出発した時刻と取って良いかと考えています。京都と昆陽野の距離は42.7kmなのでおおよそ1.5日の距離になり、範頼軍は昆陽野に2/5の昼ぐらいには到着してぐらいが推測されます。吾妻鏡に「酉の刻」となっているのは範頼でなく義経が昆陽野に到着した時刻と考えれば話の辻褄が合います。またこれは玉葉にある

寿永3年 内容
2/1 昨今、追討使等、皆悉下向云々、先追落山陽道之後、漸々可有沙汰云々
2/4 官軍等分手之間、一方僅不過一二千騎云々
この辺の記述も矛盾しません。1/29に追討使が決定される前から源氏軍の昆陽野への集結が順次行われ、さらに「官軍等分手之間」とあるので義経搦手軍が三草山に向った傍証ぐらいになりそうです。とくに2/4の記事は京都の留守部隊が1000人ぐらいであった事を示唆していると受け取る事も可能と考えます。


実平と範頼

そうそう土肥実平が三草山から明石を回って塩屋に進んだとして56.6kmです。おおよそ2日の行程になりますが、2/5の朝から出発したとすれば2/6の夕に塩屋到着はさほどの無理なく可能となります。範頼は2/5に昆陽野にいますが、延慶本平家物語より、

五日の日の暮方に、源氏昆陽野を発つて、やうやう生田の森へ攻め近づく。

範頼は2/5の夕方になって昆陽野を出たようです。昆陽野から生田の森まで22kmぐらいですから、2/6の午前中には東の木戸の前に着いたぐらいは推測されます。ここなんですが、わざわざ夜間行軍する必要性に乏しいので、昆陽野からもう少し西に進んだぐらいの地点で宿営を行った可能性も十分にあります。そうですねぇ、2時間ぐらい歩いて距離にして5kmぐらい生田の森に近づいたぐらいの地点です。そこまで進んでおけば2/6の昼頃に生田の森の前に着きますから、2/7の矢合わせのための時間調整を行ったぐらいです。


では実相は

義経と実平に絞って日程表を作り直してみます。

寿永3年 義経 実平 補足
2/3 京都出発 京都 → 三草山が72km
どこかで宿営
2/4 宿営地出発
三草山西側に到着
2/5 未明 三草山合戦 三草山 → 昆陽野が46.7km

三草山 → 塩屋が56.6km

昆陽野 → 藍那が40km

藍那 → 鵯越後山が8km
昆陽野に向う 塩屋に向う
昆陽野到着 宿営
2/6 藍那に向う 宿営地出発
藍那到着 塩屋着
2/7 深夜 鵯越後山に到着
西の木戸
午前 長柄越
たぶん戦術ポイントは三草山合戦の後に少人数(70人)編成になった義経軍の移動速度の気がしています。表だけじゃわかりにくいので地図にしてみると、

おおよそこんな感じです。


義経は三草山合戦の後に少人数にする事によって移動速度を向上させていますが、この兵力は奇襲にのみ使える兵力であり、それこそ500人ぐらいの平家部隊と正面からぶつかれば、どうしようもありません。昆陽野から藍那に至る有馬街道も親平家勢力の多いですし、地形的にも谷間ですから待ち受けられたら義経の奇襲は成立しなくなります。ですから有馬街道の確保のために露払いの軍勢を先行させておく必要があります。その役目を担ったのが多田行綱じゃなかっただろうかです。玉葉に行綱の手柄として記録されている、

多田行綱自山方寄、最前被落山手云々

「最前」の解釈問題になるのですが、これを「前もって」ぐらいに受け取れないだろうかです。行綱が有馬街道方面にいた傍証として多聞寺焼打ち伝承が遺されているからです。後は行綱が一の谷の本戦に参加したかどうかですが、可能性として鵯越道を進んだ可能性は十分あります。これが義経と打ち合わせの上なのか、行綱独自の判断かは確認しようがないのですが、当時の常識として六甲山の北側からの有力攻略路として鵯越道は平家にもあったぐらいに考えて良い気がします。

ただ義経が通った長柄越も可能性として残ります。平家も判断に迷ったと思いますが、先に平家にその動きを察知されたのは行綱軍の気がしています。行綱も2/7に一の谷に進出するには夜間に鵯越道を踏破する必要があり、その時に使った松明が平家にも見えたぐらいです。行綱に奇襲のつもりがなかったとすれば、むしろ盛大に松明を掲げてもおかしくありませんから、平家にすれば鵯越道から源氏の軍勢が寄せて来ているとの判断です。平家物語に大手の範頼軍が「義経来る」と士気が上がるシーンがありますが、あれは行綱の動きとそれに呼応した能登守教経の動きだったのかもしれません。

鵯越道から直接には一の谷に下りるのは難しいですが、道自体は一の谷の頭上を通る様な形になります。そりゃ平家に取っては目障りと言うか、気になって仕方がない存在になります。義経の奇襲は2/7に一の谷の合戦が始まってすぐではなく、合戦がある程度たけなわになった時点で敢行されています。平家側にしてみれば、

三方の対応に追われただけではなく、
    これ以上の源氏軍はいない
こう考えたとしてもおかしくありません。その判断の下に三方以外に配置していた平家予備軍を前線に送り込んだと考えています。そうやって手薄になった長柄越を義経は進んだぐらいを考えます。一の谷はこれまでも執拗なぐらいムックしていますが、あれこれあった疑問点はほぼ説明可能になったと思っています。