多田行綱研究

とにもかくにも資料が少ないので「おもしろい」と思います。


清和源氏の源流は満仲ぐらいの理解で良く、多田に本拠を持ったことで多田満仲とも呼ばれています。また多田を本拠としたので多田源氏、摂津にあった事から摂津源氏とも呼ばれているのですが簡便にwikipediaから家系図を引用します。

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摂津源氏は家系上では清和源氏の本家筋にあたりますが、御存知の通り興亡の激しい家系で満仲の三男の頼信が関東に地盤を築いた上に頼義・義家と傑出した当主を得たことで源氏の本流は河内源氏に移ったぐらいの見方で良いと思っています。ほいじゃ多田源氏は源平期に摂津源氏の本流であったかというとこれまた微妙なようで、源平期で摂津源氏で歴史に名を残しているのは源三位頼政です。頼政摂津源氏の家系上は傍流なのですが、保元・平治の乱を生き抜き三位の高位に昇ったことから氏の長者的な位置にいたとの見方もあります。

もともと本家筋だったはずの多田源氏が目立たないのは、結局のところ当主に人材を欠いたぐらいで良い気がします。行綱は8代目当主となっていますが、初代満仲、2代頼光の後は8代の行綱までほぼ歴史的に無名として良い気がします。もちろんなんにもしていなかった訳ではなく北摂多田の歴史には

代数 名前 官位
3代 頼範 従五位下・蔵人・右近将監・左衛門尉
4代 頼国 正四位下讃岐守・美濃守
5代 頼綱 従四位下・下野守・三河
6代 頼仲 従四位下・蔵人・土佐守
7代 明国 従四位下・蔵人・下野守
8代 行国 従四位下佐渡
9代 頼盛 従五位下・蔵人・摂津守
10代 行綱 正五位下・蔵人・伯耆
wikipedia家系図と相違はありますが、本流の河内源氏と同様に摂関家の爪牙として受領階級に位置していたんだろうぐらいは推測できます。源氏全体にいえることですが、満仲以来摂関家に使えることで宮中の地位を得ていたのですが、時代は摂関政治から院政に移り、摂関家の勢力の衰えは源氏のの衰えに連動します。源氏の英雄である義家もこれに苦しむ事になります。院は摂関家色の濃い源氏より平家を取りたて、やがて清盛の出現により平家全盛の時代が訪れますが、摂津源氏摂関家から院に軸足を移すのに苦闘したぐらいでしょうか。

行綱の先代の頼盛は弟の頼憲と家督を巡って争い、最終的に頼盛は後白河に、頼憲は崇徳に付いて保元の乱を戦っています。当然ですが乱の勝利者である後白河に付いていた頼盛が家督争いの勝利者になり、息子の行綱が家督を継ぐことになります。つづく平治の乱では「どうも」義朝には加担しなかったようで、高台寺日記には

傳曰、仁和寺ヲ守護シ又六波羅ヘ参候シ粉骨ヲ尽セシ當家一族、但馬守綱光・其子蔵人隆経・同弟五郎丸正綱・但馬蔵人仲頼・其子丹波介為頼・蔵人頼実・弟頼重・頼次・国光・朝行・国行・右馬助国基・弟信光・小国次郎政光・摂津五郎実忠・村上次郎宗平・高木四郎信光・同五郎頼忠・陸奥守貞信・同一子信家以上二十騎雑兵合テ五百余人トキコヘシ、云々

平治の乱の後の平家全盛時代での栄達はなかったにしろ、生き残ったってところでしょうか。


一の谷までの行綱

行綱はwikipediaには生没年不詳となっていますが、北摂多田の歴史には、

『高代寺日記』によれば摂津守多田頼盛の嫡男太郎行綱は保延元年(1140年)四月に生まれたとあることから、平治の乱(平治元年・1159年)のときには十九歳であり、鹿ケ谷の変(安元三年・1177年)のときには三十七歳、一の谷合戦(寿永三年・1184年)のときは四十四歳、鎌倉幕府から勘当されたとき(元暦二年・1185年)には四十五歳であったことになります。没年は「讃岐多田氏系図」に、文治五年(1189年)十一月廿四日とあることから、享年五十歳と言うことになります。

高代寺日記自体が武家家伝塩川氏

塩川氏の家臣にあたる人物が書き残したという『高代寺日記 塩川家臣日記』が伝わっているが、こちらも江戸時代の成立であり確実な史料とはなりえないものである。

この辺の評価は私の知見を超えますが、年齢的には「そんなものか」ってところがありますから参考にしておきます。行綱が歴史の表舞台に登場するのが鹿ケ谷の変になってしまうのですが、この変の本質は平家台頭によって官位の昇進を阻まれた貴族たちの不満ぐらいに見ています。でもって鹿ケ谷の変もややこしい経過があり、同時進行的に叡山と後白河の間に紛争が持ち上がることになります。院側近の処分を求めた叡山に対し、やむなく配流で対応した後白河でしたが、それでも処分が足りないと叡山がごねる展開です。

そうこうしているうちに都で大火があり、叡山が原因として天台座主を逮捕・配流にしますが、座主を護送中に叡山が奪回みたいな騒ぎがあり、さらにその直後に行綱の密告があったぐらいと記録されているようです。どこまで清盛が関与していたかは不明ですが、この鹿が谷の変で後白河側近を一挙に処分したぐらいと見ることも可能な気がします。問題は密告した行綱への待遇ですが高代寺日記には、

行綱ヲモヘラク、今年氏剛権ノ最中ナリ、ナマシ井ニ陰謀シアヤマリテハ末代ノ厚難ナリ、先祖ノ遺命ヲ背キ武官ノ権ヲ奪ンコトイカゝナリ、其上時節イマタナレハ、本意ヲ遂ルコト叶フマシ、此儀外ヨリモレ平氏シルニヲイテハ永ク源家ノ滅亡ナリ、智アサマシキ平氏ナレハ忠言ニコトヨセ、通達シ宥置、重テ兵衛佐義兵ノ助トセント案定シ、同廿九日、六波羅ニ赴コレヲ告ル、清盛一度怒、一度ハ忠言ト悦フ

末尾の

    清盛一度怒、一度ハ忠言ト悦フ
微妙な表現で、クーデターの存在とクーデターに加担していた行綱に怒りを一度見せたぐらいに私は解釈します。それでも密告の功の評価が必要と政治的に判断した清盛は、最終的に行綱を許したぐらいに私は思えます。讃岐の「多田氏系図」では密告の褒賞として屋島に6万石を賜ったの記述がある一方で、尊卑分脈では安芸に配流なんて記録もあるようなのですが、私としては清盛に功罪帳消しぐらいの対応をされて、生き残ったが冷遇ぐらいの地位に置かれたと想像しています。

もう少し鹿ケ谷の変を考えたいのですが、当時までの政治状況として源氏全体として伝統的な摂関家附属から、院への転換運動の真っ最中だったのがありそうに思っています。そこにもう一つのファクターが出てきます。平家の台頭です。行綱が当時の政治状況をどう見ていたかは結果から考えるしかありませんが、平家に不満を持つ貴族連中は院の一員でもあると見て良いと思っています。この連中が勝てば行綱は院の栄達メカニズムに入る目論見があったとは思っています。

一方で行綱は武人でもありますから、平家の軍事力も知っていたと見ます。平治の乱の時に19歳であれば出陣していた可能性もあり、平治の乱で義朝が敗れたのも京都で見聞しても不思議とは言えません。でもって鹿ケ谷に集まった連中は平家への不満派ではありましたが、清盛を始めとする平家一門を追い落とす具体策を持っていなかったぐらいは考えられます。平家は貴族であるのと同時に当時最大の武家集団です。鹿ケ谷の不満派は宮廷クーデターぐらいは可能でも、その次の段階で武力に訴えられたら行綱では刃が立たないの判断が出たと思っています。それこそ平治の乱の義朝の二の舞になってしまうぐらいです。


鹿ケ谷の変後の行綱の行状ははっきりしませんが、息を詰めるように逼塞していたぐらいを想像します。同時に自分の栄達を阻む平家の存在に反感を強めていたぐらいです。時代は以仁王の令旨を呼び水として再び動き出します。頼朝挙兵、富士川の合戦、義仲の上洛となってくるのですが、行綱は義仲の台頭と歩調を合わせて動き出したぐらいで良いようです。玉葉より

又聞、多田蔵人大夫行綱、來属平家、近日有同意源氏之風聞、而自今朝忽謀叛、横行摂津河内両国、張行種々悪行、河尻船等併點取云々、両国之衆民皆悉與力云々

多田の地は山陽道に近く、行綱が暴れれば西国からの物資が京都に流れなくなります。一説によれば平家が都落ちを決断した理由の一つに、行綱の行動により背後が危うくなったからともされています。義仲は上洛に成功しますが、義仲も軍事的才能はあっても政治的才能はイマイチ(まあ後白河相手では清盛でも苦戦していますが・・・)であったようで後白河と不和となり、この時に行綱は後白河に付いて法性寺合戦を義仲と戦い敗れます。ここで一の谷を考える時に微妙な官職への任命の有無が出てきます。

これに行綱が任命されたと言う説とそうでない説があるようです。なんとも言えないのですが、個人的にはドサクサで任命された可能性はあると思っています。とくに法性寺合戦で兵を集めたい後白河は、畿内の有力武家である行綱を是が非でも引き入れたかったと考えられますから、これぐらいの官職を餌として持ち出しても不思議とはいえないでしょう。義仲時代はその後も混乱しますし、義仲が宇治川で敗れてから一の谷まで日が少ないわけですから、行綱が一の谷当時に惣追捕使のままであったとしても無理があるとはいえないぐらいです。もっとも正式の除目として記録に残されたかどうかは不明です。


昆陽野

宇治川に引き続いて一の谷になるのですが、大手の範頼軍が京都から昆陽野に進んだのは確からしいと思っています。昆陽野は京都と一の谷の中間位のところで、一の谷から平家軍が出撃してきても、それを迎え撃つための時間がある場所とも言えます。ただそれだけの理由であれば別に昆陽野ではなく、葦屋の駅家で宿営しても良かったんじゃなかろうかと思わないでもありません。今回のネタモトは足利健亮氏の著書からのものですが、昆陽野は古代において交通の要衝の地位もあったと考えられます。具体的には3つの交通路が交差しており

  1. 古代山陽道
  2. 有間道
  3. 長尾山の直道
山陽道は見たままで、このまま西に進めば生田の森の東の木戸に通じますし、史実でもそうなったぐらいで良いかと思います。

2つ目の有間道が興味深くて、現在の長柄橋あたりから真っ直ぐに道が走り、昆陽野を突っ切って有馬温泉に通じていたとされます。有馬温泉は日本でも屈指の古湯ですが、都に近い関係で王朝人にも愛された温泉です。記紀でも有馬温泉豆知識より

舒明天皇が631年9月19日から86日間、孝徳天皇は647年10月11日から82日間と、いずれも長期滞在

これも現在の天皇のように葉山の御用邸で静養って規模ではなくて、それこそ宮廷の百官を引き連れての大がかりなものだったとしてよく、天皇が有馬にいる間は朝廷も有馬にあった状態じゃなかったかと想像します。天皇だけではなく有力貴族も有馬温泉に行ったであろうことは容易に想像され、都から有馬への交通路は官道として整備されていたとなっています。つまり昆陽野から有馬温泉までは道は存在し整備されていたであろうです。一の谷合戦で問題なのは有馬温泉から西の道の整備はどうであったんだろうです。これも案外整備されていた可能性があります。たとえば神功皇后三韓征伐で伝承によれば神功皇后

  1. 西宮から上陸し甲山に兜を埋めて必勝祈願
  2. 丹生山で船に塗る朱(水銀)を求める
  3. 三木の君が峰で宿営
また播磨風土記美嚢郡では、ほぼ志染里の紹介に費やされていますが、これは億計王・弘計王伝説のための部分も大きいでしょうが、東から美嚢郡にアプローチするのは有間道から湯の山街道(併せて有馬街道)がメインだった傍証になると考えています。湯の山街道は三木合戦の時に秀吉が有馬に行くために整備されたとなっていますが、それ以前も丹生山から三木城への兵糧輸送ルートとして使われています。この兵糧輸送ルートを遮断するために丹生山の明要寺は焼き討ちされています。一の谷当時も当然交通路として使えたとみたいところです。


3つ目の長尾山の直道ですが古典に読みとる北摂の自然と文化には、

多田の城辺山の中に直道があるという。この道を特定することはできませんが、神功皇后の時代の天皇、中哀天皇が、丹波の国に行って帰ってきた道だという。丹波に抜ける道は、現在は亀岡に向かう国道四二三号線です。それに相当するような道があったのでしょう

この直道も昆陽野付近で古代山陽道に交差していた可能性がありそうです。


一の谷の行綱

一の谷での行綱の記録は玉葉玉葉を引用している吾妻鏡だけとして良いでしょう。具体的には

一番に九郎の許より告げ申す(搦手なり。先ず丹波城を落とし、次いで一谷を落とすと)。次いで加羽の冠者案内を申す(大手、浜地より福原に寄すと)。辰の刻より巳の刻に至るまで、猶一時に及ばず、程無く責め落とされをはんぬ。多田行綱山方より寄せ、最前に山手を落とさると。

この記述のもとは大手の軍監であった梶原景時が京都に送った速報で、これを聞いた九条兼実の知人が兼実に話したものを書き留めていたものです。梶原景時の評価も複雑なのですが、頼朝がその文官的な能力を高く評価していたのは事実として良いかと思っています。速報とはいえかなり整った報告書であったと想像しています。玉葉に残っているのはおそらく冒頭部に近い内容と思っています。そこには3人の大将の名前がありますが、この3人を並べたのはある意味同格の御大将であったんじゃなかろうかです。

武家の手柄の評価は色々ありますが、純粋の武功だけなら景時の息子の景季の二度の懸とか、熊谷親子・平山季重の先陣、さらにはゴッソリ平家一門の討ち死にがあったのでそれも大手柄のはずです。そういう個人の武功ではなく御大将の功績をまず筆頭に書くと言うのが、景時流の頼朝に評価された報告法であったぐらいの見方です。そこに大手の範頼、搦手の義経と並んで行綱がいるのですから、行綱も範頼・義経と同格の御大将として独立部隊を率いて一の谷に参戦していたと私はみたいところです。

昆陽野では一の谷攻撃のための勢揃いが行なわれています。吾妻鏡より、

2月5日 甲子

酉の刻、源氏の両将摂津の国に到る。七日卯の時を以て箭合わせの期に定む。

大手の大将軍は蒲の冠者範頼なり。相従うの輩、

(中略)已下五万六千余騎なり。

搦手の大将軍は源九郎義経なり。相従うの輩、
(中略)已上二万余騎なり。

平家この事を聞き、新三位中将資盛卿・小松少将有盛朝臣・備中の守師盛・平内兵衛の尉清家・恵美の次郎盛方已下七千余騎、当国三草山の西に着す。源氏また同山の東に陣す。三里の行程を隔て、源平東西に在り。爰に九郎主、信綱・實平が如き評定を加え、暁天を待たず、夜半に及び三品羽林を襲う。仍って平家周章分散しをはんぬ。

ここにも平家物語にも行綱は登場しませんが、行綱が多田から一の谷に向かうとすれば、

    多田 → 長尾山の直道 → 昆陽野 → 有馬街道
こうなるはずです。つうか行綱が昆陽野から有馬街道を進むので範頼は昆陽野に宿営したんじゃなかろうかと想像します。一の谷合戦時の源平の兵力はいつもの如く不明ですが、強引に吾妻鏡を参考にすれば
  • 大手の範頼軍が5600
  • 搦手の義経軍が2000
平治の乱摂津源氏が京都に送った兵力は高台寺日記から、

以上二十騎雑兵合テ五百余人トキコヘシ

一の谷時点で行綱が摂津惣追捕使であったなら乾坤一擲で1000人ぐらいを動員した可能性ぐらいを考えます。源平の兵力差は微妙な上に、強固な平家陣地を攻撃しなければならないので、関東源氏軍にとっても行綱を味方にする、ましてや敵に回したら大変厄介ぐらいに判断したんじゃないかと思います。だから昆陽野だったと。

2/5の勢揃いの時点で義経も昆陽野にいた仮説は前にやったので省略しますが、2/5時点で義経と行綱が昆陽野にいたのなら2人は一緒に2/6の朝から有馬街道を通り藍那に向かった可能性が出てきます。これは別行動になる方が不自然でしょう。この一緒に昆陽野から藍那に向かった点が数ある一の谷の謎の一つのヒントになります。義経の作戦行動で不可解なのは、とにかくにも六甲の北側から山を越えて平家陣地に攻め込んでいる点です。それも日程的にギリギリの綱渡り的な代物です。

そういう地理知識をどこから入手したのかが一つの謎なんですが、昆陽野から藍那まで行綱と義経が同行したのなら謎は解けます。この間に行綱やその配下から聞いただけでなく、道案内も獲得したんじゃなかろうかです。行綱の人柄は残された事歴からは判断し難いですが、この時は大敵の平家軍討伐の共通目的をもっており、義経が行綱を立てて教えを乞えば、あえて意地悪はしないんじゃなかろうかです。行綱も関東に頼朝がいるのは十分承知しており、最終的には頼朝の機嫌を取る必要があり、義経に意地悪して恨みを買うのは単純に損なだけだからです。


行綱が義経と同行しているというか、義経有馬街道に回りこんで来ている情報は平家物語を信用すれば平家も知っていたとして良さそうです。決戦の前夜に山の手防衛のために能登守教経と前越中司盛俊を増援軍として派遣することを決定しています。でもってこの時の「山の手」とは平家軍も2つ想定した気がしています。

  • 鵯越
  • 鹿松峠を越える長坂越
一番重視したのは鵯越本道から会下山に攻め込まれることだったので、教経を会下山に、長坂越や鵯越支道も可能性は捨てきれないので盛俊は明泉寺に配備されたぐらいを考えます。鵯越本道と支道の関係は

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行綱と義経が分かれたのは伝承の相談が辻だったのかもしれません。相談が辻は

    右に曲がれば白川方面
    左に曲がれば鵯越
こういう場所になります。ここで義経ですが本来は搦手の御大将ですから塩屋の実平軍との合流を行わないといけません。塩屋の実平軍と合流するには、
    相談が辻 → 白川 → 車 → 多井畑 → 塩屋
こういうルートになります。そういうルートを進んで実平軍と合流する相談をやっただけでしょうか。この辺は想像だけしかありませんが、相談が辻の名が残るぐらいですから長坂越の奇襲プランを行綱に話した可能性はゼロとはいえないぐらいです。もし奇襲プランを話していたら、行綱の鵯越道進撃は可能な限り派手なほうが望ましい事になります。それこそ盛大に松明を焚き、夜道の鵯越道に源氏軍出現を見せ付ける必要性です。これについては平家物語に描写があり、決戦前夜に平家陣地の様子から義経が間に合ったと歓声を上げるシーンがあります。

これも良く考えれば不思議な描写で、仮に義経が三草山からそのまま隠密行動で南下していたのなら、大手の範頼軍は山の手に義経が来るなんて想像は難しいところです。来るのなら行綱軍のはずです。平家物語の描写をあわせると昆陽野で行綱が与えられた役割は、鵯越道を越えて山の手から平家陣地に押し寄せる作戦だったと思えます。距離と、平家軍の防衛陣地があれば間に合わない可能性もあり、これが間に合ったので大手の範頼軍が歓声をあげたぐらいなら話が通ります。


後はサッパリわからないのですが、鵯越道は相談が辻から現在の星和台を通り、西鈴蘭台駅から鵯越霊園に向かうぐらいの理解で良いはずです。江戸期で藍那から兵庫まで3里(= 徒歩3時間程度)となっていますから、ある程度早い時間帯に鵯越霊園のある高尾山に行綱軍は進出したんだろうぐらいは想像できます。ひょっとしたら高尾山に平家の前進基地的なものがあり、これを攻め落としたので玉葉に「最前に山手を落とさると」と書かれたのかもしれません。ただそこから積極的に攻め寄せたかどうかが不明です。なんとなくですが高尾山の行綱は積極的な行動をしてなかった気がするのです。高尾山に行綱がいれば、その軍勢は

  1. 本道から会下山
  2. 支道から明泉寺
  3. もしくは二手にわけて両方攻撃
これが考えられのですが、はっきりしないもしくは、支道から明泉寺方面に攻撃姿勢を示したぐらいです。明泉寺にいる盛俊は長坂越と支道の両方の防御を考えないといけないのですが、目に見える行綱軍に関心の重点が移り、長坂越方面の配備を手薄にしたぐらいの見方です。全部想像なんですが、そういう行動に行綱がなったのは義経と示し合わせてのものだったのか、一の谷の平家軍は強敵ですから、大手や搦手の関東源氏軍の動きを見てから動こうと判断したのかは不明です。山の上にいるうちなら大手や搦手の戦況が源氏不利ならいつでも安全に退却できるぐらいの判断で、一度山を下れば逃げ場のない決戦になるぐらいといえば良いでしょうか。

行綱が消極的行動に終始したのか、実はもっと積極的に動いていたのかは何の資料も残されていませんが、大きな戦果が得られなかった傍証はあります。行綱は一の谷の翌年に頼朝により多田庄から追放されてしまいますが、その後も行綱は数年は生きていたようで、子孫は讃岐に多田氏系図を残しています。摂津の多田にも高台寺日記や塩川家臣日記が残されていますが、行綱が一の谷で獅子奮迅の大活躍をしていたのなら、先祖の栄光として少しぐらいは書き残していても良いだろうぐらいです。これらの文献は江戸期の創作の見方もありますが、そうなら余計にそうするんじゃなかろうかです。

一の谷の行綱ピースは近年になり注目され、義経鵯越の奇策は行綱が行ったの解釈も出ているようですが、私はやはりそうでなかったの解釈を取りたいところです。真実は誰にもわかりませんけどねぇ。