生田の森ムック

一の谷関連のムックですがおつきあい下さい。現在の生田の森は生田神社の裏側にこじんまり残っているだけです。Google earthより、

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ところがかつてはかなり広大だったようです。生田神社HPより、

生田の森は古くは北に六甲の山脈がそびえ、南北狭く東西長く、旧生田川(現在のフラワーロード)あたりまで及ぶ広大な森林でした

生田神社の北側は現在は山手幹線が走り、さらにその北側には北野の町が広がりますが、源平期の頃には生田の森がエンドレスで六甲山につながっていたと想像します。西側も旧生田川で良いと思いますが、問題は残りの南側と西側です。まず南側ですがヒントは一の鳥居にあると考えています。せっつ・はりま歴史散歩様から借用しますが、現在ではこうなっています。

ここから北側が生田筋で生田神社に通じます。生田筋は生田神社の参道であったのは間違いあませんが、ここに一の鳥居があったって事は、ここが正面であり玄関であったと考えるのが妥当です。神社本殿から少々距離があるのですが、ここに一の鳥居を設置したというのは、一の鳥居の前に大きな道があったと考えたいところです。現在は三宮中央通となっていますが、古代山陽道は一の鳥居の前を通っていたとするのが自然な気がします。でもってなんですが、一の鳥居の南側は摂津名所図会でも海となっています。

江戸期でも海なら源平期も海のはずです。古代の官道は海岸線を一直線に走ることが多かったので、古代山陽道は一の鳥居と海の間にあったと考えたいところです。問題は生田の森の規模ですが、江戸期の摂津名所図会では一の鳥居から続く参道の左右は田畑のように見えますが、源平期はすべて森だった可能性も十分にあります。古代山陽道は一の鳥居と海岸の間というより、生田の森と海岸の間を走っていたぐらいに想像します。今でこそ生田神社は都会の真ん中にありますが、往時の生田神社は生田の森の中にあっても不思議ないからです。


ほんじゃ西側はどうだったかです。生田神社HPには「南北狭く東西長く」となっています。南北を六甲山から一の鳥居までと仮定すると、この長さでも「南北狭く」としています。そうなると東西はよほど広かったと想像しないといけません。西側の広がりは現在の県庁を越えて大倉山の麓まで広がっていた可能性は十分にあります。つうのも大倉山を越えるとそこには福原が広がっています。大倉山までが生田の森で、それを越えると福原だったはありえる範囲の想像です。福原は京都から向かうと広大な生田の森の西側に広がる都市だったのかもしれません。

そうなると一の谷陣地の東の木戸は旧生田川を天然の外堀に見立てて作られていたと考えるのが妥当です。当時の騎馬武者は森の中を通ることが出来なかったと考えて良く、生田の森自体が東の木戸の北側の障壁になり、東の木戸は古代山陽道の上に作られていたんでしょう。そこまで推測すると東の木戸の位置の特定もおおよそ可能で、現在の国際会館前交差点の西側ぐらいとなります。森と海の間の狭い地形ですから防御施設を作るにはもってこいでしょう。この辺の想像を地図に落とすと、

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東の木戸を守ったのは新中納言知盛だったとされますが、生田神社に宿営を置いて東からくる源氏大手軍と相対したぐらいと想像します。


こんな事をなぜに考えたかですが、一の谷の陣地でもっとも重要な地点は大和田の泊です。平家にとって海路の確保は最優先であったのは確実だろうからです。上陸後は本来なら福原に本営を置きたかったのでしょうが、福原は都落ちに続く福原落ちの時に平家自ら火をかけています。つまりは本営にすべき宿舎が存在していなかったと考えます。もう一つのポイントは、平家の一の谷進出は上洛しての復権のための前進拠点の意味もあったでしょうが、福原再建も意図に含まれていたと考えています。どんな政権の青写真を描いていたかなんて不明ですが、とりあえず清盛時代の復活はあったでしょうから、そのためには福原再建は必要です。

恒久拠点の建設の意味合いが含まれていれば、福原防衛も重要になりますが、現在の地図で単純に見れば福原や大和田の泊から東の木戸の位置はチト遠い感じがしたのです。ところが生田の森が広大であれば話は変わります。生田の森の入り口付近には生田神社が当時も存在しているわけですから、そこを利用しての防衛ライン設置は合理的じゃないかと考えます。そんだけのお話ですが、趣味ですからエエでしょ。