一の谷の合戦・多田行綱関連資料の発見

他の事を調べていてヒョイと目についたのでエントリーにします。


福原会下山人氏

会下山人氏はwikipediaに載っていないのが遺憾ですが考古学者であり、郷土史の草分け的な人物です。神戸の古地名の由来をムックすると西摂大観によく行き着きますが、神戸の地名部分の執筆者が会下山人氏であり、西摂大観とは別に神戸市内町名由来記も書かれています。内容は現在でも研究者がまず引用されるというか、会下山人氏の研究から発展させる手法も珍しくもありません。記紀風土記などの該博な知識を駆使するだけでなく、そこから新たな角度で更なる考察をふんだんに加えられています。会下山人氏の研究で特徴的と思うのは口碑や地元伝承を豊富に集められている点とも思っています。この点については現在では既に蒐集不能になっている事柄も多く、非常に興味深いものが多々あります。

そんな会下山人氏の著作の一つに山田村郷土史があります。この本は山田村がその歴史を後世に残すために村費で刊行されたもので、会下山人氏に委嘱されています。なにせ村の公式事業ですから村人の前向きの協力が得られたものとして良く、今では失われてかもしれない伝承・口碑を豊富に集められたんじゃないかと推測しています。ちょっと寄り道ですが明要寺の由来についても面白い考察を加えられています。

明要寺は欽明天皇の御代に仏教公伝を行った百済聖明王の王子の童男行者が開基したとなっています。童男行者は明石の船上に上陸し北側に見える丹生山の秀峰に惹かれたの解説は今でも行われ、会下山人氏もこの伝承を大筋では認めています。ただ王子を童男とするのはおかしかろうとされています。童男・童女とは始皇帝の命を受け蓬莱山を目指した徐福が、童男・童女300人を連れて行ったの記録にあるように、童男とは王子ではなく従者と解釈するのが妥当としています。

ではなぜに王子伝承が生まれたかですが、聖明王高句麗新羅との抗争で劣勢にあり日本との同盟強化に熱心であったとされますが、対新羅戦の最中に戦死します。この時に王子の余昌は弟の恵を日本に派遣します。恵は日本の援軍を取り付けて帰国しますが、余昌は王位に就かずに亡父王を弔うために僧になると言い出したとされます。百済も危急存亡の時ですから群臣はこれを強く諌めて王になっていますが、この王子が王にならずに僧になろうとしたエピソードを投影したのが明要寺の童男行者王子伝承だろうとしています。つまりは百済王子である恵の従者が明要寺を開いたのであろうの見方です。

会下山人氏の説もすべてが正しい訳ではありませんが、私の見るところ考え方に妙な偏りがなく、得られた知識から合理的かつ論理的な分析が出来た人物と考えております。


多田行綱の最前を考えてみる

一の谷合戦で近年注目を浴びている人物として多田行綱がいます。ただ一の谷合戦で行綱の活躍は平家物語では全くなく、わずかに玉葉

一番に九郎の許より告げ申す(搦手なり。先ず丹波城を落とし、次いで一谷を落とすと)。次いで加羽の冠者案内を申す(大手、浜地より福原に寄すと)。辰の刻より巳の刻に至るまで、猶一時に及ばず、程無く責め落とされをはんぬ。多田行綱山方より寄せ、最前に山手を落とさると。

これしかありません。これは吾妻鏡にも収録されていますが、ここから鵯越の逆落としを行ったのは義経でなく行綱であるとの主張も出てきています。私も玉葉の記述の解釈には様々に頭を悩ませましたが、個人的に引っかかるのは「最前」の表現です。つまり最前とは、なにの一番前なのかです。とにかくこれだけしか行綱の一の谷の記録がないもので、どうとでも考えられるってところです。ここで会下山人氏の山田村郷土史に興味深い記述を見つけました。

寿永三年二月源平一の谷の合戦の時は、摂津源氏の党多田蔵人行綱義経に属し、先発隊として丹生山田に来り、義経軍の三草より来るものと会し、藍那村相談の辻より鵯越に出で、山田の住人鷲尾三郎経春に高尾より鉄拐山までの山路を案内せしめ一の谷城に拠れる平軍を一掃したり。

この話はこれまで一の谷関連の話をあれこれムックしていましたが初めてみました。つうか、私の仮説では行綱は先発隊として六甲山の北側に展開していたの考えでいましたから、これを裏付けるものとなります。ほいでもってこの話の出どころは会下山人氏が集めた山田村の伝承・口碑とするのが妥当と思われますが、ここも鵜呑みするのは危険だと考えます。おそらく会下山人氏も一の谷は鉄拐山の麓にあったの考えで書かれている気がします。しかし

    高尾より鉄拐山までの山路を案内せしめ
これは地形的に無理があり過ぎます。ごく単純には高尾山から鉄拐山に向かうのは無茶ということです。たしかに相談が辻から左に曲がれば高尾山に通じる鵯越道になりますが、高尾山から鉄拐山に至ろうと思えば、
    高尾山 → 高取山 → 東山 → 栂尾山 → 横尾山 → 高倉山 → 鉄拐山
平面的にはこういうルートを設定できますが、東山から栂尾山の間には須磨アルプスの名所である馬の背があります。
須磨アルプスの馬の背(第44回兵庫労山六甲全山縦走より)
ここを騎馬武者が夜間に通り抜けるのはどう考えても無謀で、昼間だって無理と思います。この相談が辻ですが「辻」というぐらいで、道の分岐点になります。左に曲がれば高尾山に向かいますが、右に曲がれば白川方面に出ます。本当に相談が辻で行綱と義経が相談をしたのであれば、単に相談をしたのではなく軍勢が分かれた地点と見たいところです。つまり相談が辻で、
  • 行綱は高尾山に向かった
  • 義経は白川方面に向かった
この白川方面に向かった義経が逆落としを行ったぐらいです。ほいじゃ行綱は何をしていたかですが、高尾山経由の鵯越道を進んで行ったで良いでしょう。高尾山には義経関連の旧跡がありますが、これは義経ではなく行綱のものであったぐらいです。なぜにそう考えるかですが、高尾山経由の鵯越道では奇襲にならないからです。高尾山は丸山を見下ろす位置にありますが、高尾山まで源氏軍が進出すれば平家軍から見えるからです。ちなみに高尾山からの進軍路としては、
  • 本道から会下山方面
  • 支道から明泉寺方面
これは平家物語になりますが、鵯越道方面の源氏軍の動きに対応して
  • 明泉寺方面に前越中司盛俊
  • 会下山方面に能登守教経
こういう配置を行ったとなっています。地図で示せば、

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こんな具合です。そうやって待ち構えられているところに奇襲は成立しません。実はここからの行綱の動きが不明です。ここから攻め下ったのか、それとも洞ヶ峠をやりながら戦況が傾いてから動いたのかです。なにせ平家物語に書かれてないのでサッパリってところです。でもってもって、玉葉の「最前」を考え直してみます。行綱は源氏軍の動きに合わせて能勢の多田荘から動き出したと考えて良いと思います。具体的には多田荘から有馬街道を通り、一の谷陣地の背後に回り込んだぐらいです。

山田荘に至った行綱は藍那古道を通り藍那に進出し、高尾山(鵯越道)方面に作戦を展開したと考えます。一の谷陣地から見て高尾山は重要な防衛線であり、平家も哨戒・守備部隊を配置していたと考えています。この哨戒・守備部隊は義経が三草山から駆けつけるまでに行綱によって排除された状態でなかったかと推測します。平家物語で宗盛が山の手の危険性を訴える描写がありますが、これは行綱の藍那から高尾山への作戦行動に反応してのものと見れそうな気がします。

行綱の作戦行動は源氏本隊の矢合わせ以前に行われたものであり、これを梶原景時の報告では「最前」と表現したんじゃないでしょうか。


補足

山田村郷土史にはもう一つ同じような説明が記載されています。こちらの方が一の谷合戦時の山田荘の雰囲気を伝える伝承にも感じます。

源氏の所領地として重代其恩顧の民なりしもの一郷挙げて皆然らざるなし。平清盛源氏の勢力を抑圧し、都を摂津の福原に移さんとするや、先づ山田の郷に勢力を注ぎ、丹生山に日吉権現を勧請し、旧都の日枝山に擬し明要寺に寺坊を起し、僧徒の歓心を利し大いに自家擁護に努力せるも、源氏年来の勢力は抜くべきも非ず、寿永の一の谷戦に於て、多田蔵人行綱は早くも此の地に来りて、一の谷後方攻撃の策は、九郎判官と共に籌謀されたり。旧家鷲尾箱木二氏の如き何れも源氏に附従せる徒なりしなり。土俗久しく須磨と山田とは婚儀を結ばずとの説は、此の間の消息を説明して余りありというべし。

この伝承がある程度真実を反映しているのなら、行綱は山田荘の有力者であった鷲尾氏・箱木氏に寝返り工作を行ったぐらいに読み取れます。ちなみに山田荘の伝承では源満仲の時から源氏の所領であったとされ、多田行綱は満仲の摂津源氏の本家にあたります。もっとも行綱は満仲の本家筋ではありますが、山田荘の領主は源為義であり、為義は河内源氏になります。同じ源氏でも摂津源氏河内源氏は一の谷期では少々離れます。ですから伝承では重代の恩顧に山田荘の住人が応えたとなっていますが、実際は逆で重代の恩顧を盾に行綱が寝返り工作を行ったぐらいに思えます。

ただ工作は案外容易であったようで、行綱は山田荘が味方になることを確認した上で能勢の多田荘から進んできたと見たいところです。実のところ問題は行綱と義経が作戦上の打ち合わせを行ったのは事実かと思いますが、当初から合流計画があったのかどうかです。ここを考え出すと長くなるのですが、行綱の作戦行動が早期から行われていたのであれば源氏本隊の本来の作戦は平家物語と違った可能性が出てきます。範頼が山陽道を進んで生田の森の東の木戸を攻撃するのは同じでも、義経の搦手軍が西の木戸を攻めるのは含まれていなかったかもしれません。

一の谷の合戦での三草山の合戦は軽く語られがちですが、三草山後の日程を考えると、義経が三草山に着陣してその夜に平家軍を潰走させないと間に合いません。いくらなんでもその計算は作戦として無茶です。もともとの源氏の作戦は、

  • 範頼が東の木戸から正面攻撃
  • 行綱が鵯越道から山の手攻撃
こうであったのかもしれません。義経の本来の任務は三草山方面から山陰道に進もうとする平家別動隊の抑え役で、一の谷に参加する予定がなかったのかもしれません。