一の谷の義経軍の進路の新仮説

これは以前に散々やったので二番煎じどころではありませんが、チョット新しく思いついたことがあるので紹介しておきます。


吾妻鏡の記述

吾妻鏡から拾ってみます。

寿永3年 出典 内容
1/20 宇治川の合戦
1/21 吾妻鏡 源九郎義経主、義仲が首を獲るの由奏聞す
1/22 * *
1/23 * *
1/24 * *
1/25 * *
1/26 吾妻鏡 伊豫の守義仲並びに忠直・兼平・行親等の首を請け取り、獄門の前の樹に懸く
1/27 吾妻鏡 遠江の守義定・蒲の冠者範頼・源九郎義経・一條の次郎忠頼等の飛脚、鎌倉に参着す。
1/28 吾妻鏡 小山の四郎朝政・土肥の次郎實平・渋谷庄司重国已下、然るべき御家人等の使者鎌倉に参る。
1/29 吾妻鏡 関東の両将、平家を征せんが為、軍兵を卒い西国に赴く。悉く今日出京すと。
玉葉 また聞く。西国の事、追討使を遣わさる事一定なり。今日すでに下向(去る二十六日出門)すと。
2/1 吾妻鏡 蒲の冠者範頼主御気色を蒙る。
2/2 吾妻鏡 樋口の次郎兼光を梟首す。(中略)源九郎主事の由を奏聞せらると雖も、罪科軽からざるに依って、遂に以て免許有ること無しと。
2/3 吾妻鏡 今日行家入洛す。その勢僅かに七八十騎と。
2/4 吾妻鏡 平家日来西海・山陰両道の軍士数万騎を相従え、城郭を摂津と播磨の境一谷に構え各々群集す。
玉葉 平氏主上を具し奉り福原に着きをはんぬ
2/5 吾妻鏡 酉の刻、源氏の両将摂津の国に到る。七日卯の時を以て箭合わせの期に定む。
吾妻鏡 平家この事を聞き、新三位中将資盛卿・小松少将有盛朝臣・備中の守師盛・平内兵衛の尉清家・恵美の次郎盛方已下七千余騎、当国三草山の西に着す。源氏また同山の東に陣す。三里の行程を隔て、源平東西に在り。爰に九郎主、信綱・實平が如き評定を加え、暁天を待たず、夜半に及び三品羽林を襲う。仍って平家周章分散しをはんぬ。
2/7 一の谷の合戦
ここにある玉葉吾妻鏡の引用文ですが、これにプラスアルファしながらムックしていきます。


2月4日

平家物語より

さる程に、源氏は四日寄すべりかしが、故入道相国の忌日と聞いて、仏事をとげさせんがために寄せず。五日は西塞がり、六日は道虚日、七日の卯の刻に、一の谷の東西の木戸口にて源平矢合せとこそ定めけれ。さりながらも、四日は吉日なればとて、大手搦手の大将軍、軍兵を二手に分つて都を発つ。

ここも解釈で諸説渦巻くところで、平家物語では後白河は源氏に平家追討を行わせる一方で、平家には和睦の使者を出しているとも記述されています。それをトータルして和睦気分の平家が源氏軍の「奇襲」を受けたのが敗因なんて説もあります。それはそれで面白いのですが、私は一の谷の平家軍が間抜けでもなく、臆病でもなく、戦意溢れる軍勢の解釈で今日のムックを進めます。

この忌日から吉凶云々の話は平家物語しかないのですが、平家物語全部を確認していませんが一の谷ぐらいしか強調していない気がしています。つまり源氏軍が考えた事ではなく、後白河の意向じゃないかと考えています。源氏にしてもようやく正式の官軍になった訳ですから、この後白河のアドバイスは無碍に出来なかったぐらいの状況を想定しています。では元々の源氏軍の作戦計画はと言うと2/4に一の谷総攻撃の予定で、1/29に平家追討令を受けたら直ちに出陣して一の谷に向うぐらいです。これに後白河からの忠告が入ったぐらいの想定です。2/4の様子は平家物語より、

二月四日の辰の一点に都を発つて、その日酉の刻に摂津国昆陽野に陣を取る

時刻関係のニュアンスだけ書いておくと

    卯の刻・・・夜明け時
    辰の刻・・・早朝
    午の刻・・・正午前後
    酉の刻・・・夕方、黄昏時
    戌の刻・・・日没時
おおまかにこんな感じです。早朝に都を出発し夕方に摂津国昆陽野に着いたぐらいの意味合いになります。昆陽野は都から約50kmぐらい、西国街道にありますから源氏軍が昆陽野に宿営したのは信じて良いと思います。ここで問題は平家物語にあるように都を華々しく出陣したんだろうかです。玉葉より、
寿永3年 内容
1/29 又聞、西国事、被遣追討使一定也、今日已下向(去廿六日出門)云々
2/1 昨今、追討使等、皆悉下向云々、先追落山陽道之後、漸々可有沙汰云々
2/4 官軍等分手之間、一方僅不過一二千騎云々
これはどう読んでも源氏軍は五月雨式に都から移動していったと受け取れる記述です。源氏軍は当初の作戦である2/4一の谷総攻撃のために、1月下旬から前進基地とも言える昆陽野に順次集結していたんじゃなかろうかです。ここはもう一歩踏み込んで考えると、源氏軍は早期開戦を望んでいたとも受け取りたいところです。寿永3年2月4日は新暦で3月17日であり、都から関東に帰るのに20日程度の日数が必要であり、農繁期を控えて武者たちの「帰りたい」の要望と、兵糧問題も絡んでくる問題が背景にあったぐらいです。ここで昆陽野が前進基地的な性格があったんじゃないかと考えるのは、都から1日の距離であるのが一つですが、地理的に
  1. そのまま西国街道を進めば一の谷の東の木戸に至る
  2. 少し北上すれば有馬街道に通じる
  3. 能勢の多田行綱の本拠地とも近い
これぐらいの理由は挙げられます。ここで後白河の意向は無視できないので、早期攻撃のために出陣は都からでなく昆陽野からの出陣を源氏軍は企画したと考えたいところです。その傍証が吾妻鏡です。2/5の記事に参加する武者の列挙がありますが、平家物語を始めとする軍記物語は武者名を列挙するところに多くのスペースが割かれており、これはいわゆる「勢揃い」として良さそうです。この勢揃いは記述上のものだけではなく、当時の軍勢に取って大きな儀式的な意味があったんじゃないかと思っています。ごく単純には勢揃いが済ませた後の軍事行動が軍勢の「出陣」みたいな感じでしょうか。吾妻鏡ではその勢揃いを2/5に行ったと記録しています。

ここで問題なのは2/5に本当に勢揃いを行ったかどうかです。吾妻鏡は両将(範頼と義経で良いと考えます)は2/5の酉の刻に昆陽野に到着したと記述していますが、そうなれば勢揃いは夕方に行われた事になります。夕方に行ったら悪いとは言いませんが、やるなら翌朝に行い、そのまま進軍の段取りじゃなかろうかです。とりあえず夕方は飯作っている、さらには食っているはずだからです。なおかつですが、その日の夕に三草山に義経率いる搦手軍が到着し、そのまま夜襲をかけています。そんな芸当は絶対に不可能です。さらにさらになんですが、2/5の夜に三草山に夜襲を行わないと義経は2/7の一の谷にこれまた絶対間に合いません。

ここで2月4日問題になるのですが、吾妻鏡平家物語の記述に引っ張られたんじゃないかと考えています。つまり酉の刻に昆陽野に到着した記述をそのまま書いたです。一方で2/5の勢揃いは幕府の公式記録に残っているぐらいです。ここは修正を入れて考えるのが妥当かと思われます。つまり、

  1. 2/4早朝に範頼、義経は都を出発し、2/4の夕方(酉の刻)に昆陽野に到着した(平家物語
  2. 2/5早朝に勢揃いを行い、範頼大手軍は一の谷東の木戸に進み、義経搦手軍は三草山に進んだ(吾妻鏡
平家物語吾妻鏡の記述を合わせて考えると、こうするのが妥当と見ます。


三草山の比定

ここからの問題点は2つで吾妻鏡では源氏軍の摂津国昆陽野付近での集結に反応して平家軍が三草山に出陣したとなっています。それはさすがに無理があって、当時の事で情報伝達速度、軍勢の移動日数が必要です。平家軍が三草山に進出した理由として考えられるのは、

  1. 源氏軍が三草山方面に進出してくる情報を聞いた
  2. 平家軍の独自行動
1.で考えれば義経搦手軍の先発隊が三草山方面に進出しつつありの情報に呼応したものになります。これは無理があって2/5の時点で源氏軍は昆陽野の集結しています。たしかに戦術的に源氏軍が軍勢を分けて六甲山の北方の有馬街道方面に進んで来る可能性を考慮するのはありですが、それなら「なんで三草山なんだ?」の疑問が出て来ます。今日の推定では源氏軍の昆陽野集結は1月下旬ぐらいから始まっています。平家軍は源氏軍の作戦をもっと単純に考えた可能性があると思っています。つまり源氏全軍がそのまま一の谷東の木戸に進んで来ると想定したです。そういう想定の下にこういう積極作戦を立てたんじゃなかろうかです。この平家軍の動きを知ったのが2/4夜ぐらいの見方です。源氏軍も背後を取られるたら戦術的に嬉しくなくなりますし、後白河法皇後鳥羽天皇の身柄を押さえられてると政治的に圧倒的に不利な状況になります。そこで急遽義経が三草山に迎撃に向ったぐらいを想定します。


問題の三草山ですが、昆陽野から考えると能勢近辺に比定する意見が出て来るのは肯けるところです。ただ戦術的に言えば能勢近辺に三草山を比定すれば源氏主力軍との野戦での合戦の覚悟が必要です。一の谷を手薄にして、能勢あたりで主力決戦を行うのは愚策と見ます。ですからやはり丹波路沿いの三草山を比定したいところです。平家の戦術として源氏軍と衝突しやすい有馬街道を避けて丹波路まで迂回して都を目指す戦術だったと見たいところです。

ではでは現在の三草山がそうだったかと言うと違うと思います。平家物語には2/5夕に源氏が着陣したのは小野原だとなっています。幸いな事に小野原の地名は現在でも存在します。この小野原は現在は篠山市の一部なんですが、ここに丹波路が通っています。なおかつ小野原から西に向えば峠道があり、それを越えると現在の加東市になります。地理的に言うと

  • 小野原は丹波
  • 西に向かって峠を越えると播磨
場所的に延慶本平家物語にある

たんばとはりまのさかひなるみくさのやまのひんがしのやまぐち、おのばらにぢんをぞとつたりける。

ここにピッタリになります。つまり三草山とは現在の三草山ではなく、丹波と播磨の国境の峠であったと私は比定します。そう考えると吾妻鏡にある、

平家この事を聞き、新三位中将資盛卿・小松少将有盛朝臣・備中の守師盛・平内兵衛の尉清家・恵美の次郎盛方已下七千余騎、当国三草山の西に着す。源氏また同山の東に陣す。三里の行程を隔て、源平東西に在り。

これも峠道の東西の登り口に陣地を敷いていたとすれば無理はありません。義経の夜襲は峠道を越えて平家軍に襲い掛かった事になります。ここで問題は「三里」なのですが、鎌倉期の1里は450〜550mであったとされるので1500mぐらいになります。この峠は私も何度も走った事がありますが、なだらかな道で距離も「そんなものだと」思います。
ここまでの動きを地図に落として見ます。まず全体図です。おおよそですが都から摂津国昆陽野まで50km、摂津国昆陽野から小野原までも50kmぐらいです。少々遠いですが移動可能な距離と見ます。

次に三草山周辺図です。

だいたいですがこんな感じになります。現在の三草山はもっと西側になりますが、この当時は丹波と播磨の間の峠を三草山と呼んでいたと推測します。


三草山の比定の検証・延慶本の義経の謎のセリフ

延慶本平家物語

義経がせいの中に、あうしうのさとうさぶらうびやうゑつぎのぶ、おなじくしらうびやうゑただのぶ、えだのげんざう、くまゐのたらう、げんぱちひろつな、いせのさぶらうよしもり、むさしばうべんけい、くまがえのじらうなほざね、しそくこじらうなほいへ、ひらやまのむしやどころすゑしげ、かたをかのはちらうためはる、そのせい七千余騎は義経に付け。のこり三千余騎はとひのじらう、たしろのくわんじやりやうにんたいしやうぐんとして、山の手をやぶりたまへ。わがみはみくさのやまをうちめぐりてひよどりごえへむかふべし」とてあゆませけり。

読みにくいので可能な範囲で漢字を入れます。

義経が勢の中に、奥州の佐藤三郎兵衛継信、同じく四郎兵衛忠信、江田の源三、熊井の太郎、源八広綱、伊勢の三郎義盛、武蔵坊弁慶、熊谷の次郎直実、子息小次郎直家、平山の武者所季重、片岡の八郎為春、その勢七千余騎は義経に付け。残り三千余騎は土肥の次郎、田代の冠者両人大将軍として、山の手を破りたまへ。我が身は三草の山をうちめぐりて鵯越へ向ふべし」とて歩ませけり。

ここの義経の謎セリフも理解できる部分が出て来ます。延慶本も写本時期で異本があるらしく、漢字置き換え版にしますが、

同じき六日の日の曙に、大将軍九郎御曹司義経、一万余騎を二手に分けて、土肥の次郎実平に、七千余騎をさしそへて、一の谷の西の木戸口へさしつかはす。我が身は三千余騎で、一の谷の後、鵯越を落とさんとて、丹波路より搦手へこそ向かはれけれ。

後に出した方が通本に近い内容で、先に出したのが延慶本のよりオリジナルに近い方だと推測します。とりあえず話は2/6の朝の話で良さそうです。夜討で三草山の平家軍を蹴散らした後の義経の方針ぐらいで良いかと思います。前者と後者で義経本隊と土肥直実の別動隊の兵数が逆転していますが、そこは置いておきます。この時点で義経は三草山の平家別動隊を破る目的を果たした訳です。次の戦術目標は一の谷合戦への参加であったと考えて良いかと思います。矢合わせは2/7ですから、その時までに搦手軍を一の谷に急行させる必要があります。そいでもってこの時点で義経軍は丹波播磨国境の播磨側に居る事になります。つまりは三草山(峠)の西側です。ならば

    我が身は三草の山をうちめぐりて鵯越へ向ふべし
「三草山をうちめぐりて」とは再び三草山(峠)を引き返す進路を取るとの解釈でエエんじゃなかろうかです。一方の土肥次郎隊は三草山(峠)を西に進み、そこから現在の国道175号線を南下し、明石方面から塩屋に向ったぐらいと解釈します。この推測を地図に落とすと

結果的には延慶本のオリジナルが一番真相に近い可能性はあります。


ムックからの結論

しかし延慶本もすべて正しいとは言えません。あくまでも私の推理なのですが、平家物語成立時に義経は既に英雄視されていた気がします。とくに一の谷の合戦は義経鵯越が決め手で勝利したのは事実に近いところがあります。そのために平家物語の作者は

    鵯越は最初からの作戦計画であった!
この前提で一の谷を組み立てたんじゃなかろうかです。そうであれば
  1. 源氏軍は最初から大手と搦手に分かれていた
  2. 義経搦手軍は最初から丹波路を通って三草山を目指していた
こうしても不思議有りません。別にそうであっても史実と同じ組み立てが可能だからです。しかしそうでなかった証拠が吾妻鏡に残っており、2/5に義経摂津国昆陽野にいたとなっているからです。この先が完全に推理なんですが、吾妻鏡には「両将」と言う表現を使っています。これが後世の結果としての両将なのか、一の谷攻撃の時にもともと摂津国昆陽野で大手と搦手に軍を分ける作戦であったので両将なのかは誰にもわかりません。ただ摂津国昆陽野という場所は六甲山の北側を回って平家陣地の背後に入り込む進路を選択できる地点とは言えます。

搦手担当であった義経の本来の作戦は、搦手軍のうち別動隊を塩屋方面に迂回させて陽動隊とし、平家軍の目が陽動隊にひきつけられている内に鵯越を越えて一挙に平家軍の心臓部を奇襲する作戦を考えていた可能性はあります。軍を分けるのは山田で義経は藍那道を通って藍那に密かに抜ける計画です。これが三草山に平家軍が進出した事により事情が変わり、三草山で平家軍別動隊を破った後に最初の作戦計画を変更したぐらいの考え方です。どちらにしてもかなりの移動距離を義経搦手軍は強いられた訳で、これだけの距離を連日移動しながら合戦を行えたのに驚嘆しています。


オマケの多田行綱

玉葉より

自式部権少輔範季朝臣許申云、此夜半許、自梶原平三景時許飛脚申云、平氏皆悉伐取了云々、其後牛刻許、定能卿来、語合合戦子細、一番目自九郎許告申(搦手也、先落丹波城次落一谷云々)、次加羽冠者申案内(大手、自浜地寄福原云々)自辰刻至巳刻、猶不及一時無程責落了、多田行綱自山方寄、最前被落山手云々

多田行綱の一の谷の事績はこれだけしかありません。これについてあれこれの推理が為されているのですが、上記した源氏軍の進路から考えて行綱も2/4時点で摂津国昆陽野の集結に加わっていた可能性が高いと考えます。2/5朝には義経軍は三草山の平家別動隊対策に搦手軍を率いて急行しますが、行綱はそのまま有馬街道を通って六甲山の北側の「山手」に進出したんじゃないかと考えます。行綱が有馬街道を通った傍証として、唐櫃に今でも残る多聞寺を焼き討ちしたとの伝承が残っています。

行綱がいつ焼打ちしたかは定かではありませんが、当時の多聞寺は僧兵も要する軍事勢力で、これが平家方であると有馬街道の通行に支障が生じます。そのために源氏への加担を要請したがこれを拒否されたために焼打ちを行ったと言うお話です。これが2/5ないし2/6のお話であった可能性は十分あります。これによって義経の搦手軍が問題なく有馬街道を通過で来た手柄を

こう表現していた可能性です。最近はそのまま鵯越から行綱が逆落としを行ったとの異説も出ている様ですが、なにせ記録に乏しすぎて何とも言えません。少なくとも、義経が通った鵯越(私は長柄越と比定)とは別の鵯越道を通って、会下山方面に攻撃をかけていた可能性は十分に残るぐらいにはさせて頂きます。