宇治川の合戦

玉葉の軍勢の数え方

とりあえず吾妻鏡から、

7月21日 癸未 天晴 [玉葉

午の刻、追討使発向す。三位中将資盛大将軍として、肥後の守定能を相具し、多原方に向かう。予の家東小路(富小路)を経る。家僕等、密々見物す。その勢千八十騎と(慥にこれを計うと)。日来、世の推す所七八千騎、及び万騎と。而るに見在の勢、僅かに千騎、有名無実の風聞、これを以て察すべきか。

この時に資盛が号していた人数はどうも

[吉記]

今日新三位中将資盛卿・舎弟備中の守師盛、並びに筑前の守定俊等、家子を相従えたり。資盛卿雑色宣旨を頸に懸く。肥後の守貞能を相伴い、午の刻ばかりに発向す。都廬三千余騎。法皇密々御見物有り。宇治路を経て江州に赴く。

ちなみに倶利伽羅峠が5/11、7/25都落ち、7/28義仲入京ですから、都落ち前の平家の動きの一端ぐらいに思えば良いかと思います。ここで興味深かったのはまず今日のテーマは宇治川の合戦ですから、京都から近江に出るのに宇治路を割とポピュラーに使っていた点です。近江から都のメイン・ルートは逢坂越えの東海道で良いと思っていますが、宇治路(宇治川ライン)も併用していたぐらいの見方です。

もう一つ興味を引いたのは玉葉での軍勢の数え方です。つまりは騎と人の使い分けです。正式には騎とは小隊単位を表します。「僅かに千騎」たって人数にすれば1万人ぐらいになるのですが、ここはどう読んでも

    1000騎 = 1000人
まさか騎馬武者1000人と歩兵部隊9000人の軍勢を「僅か」とは表現しないと思うからです。


wikipediaより

  • 義経軍は11月初めには近江まで到達
  • 頼朝は弟の源範頼を新たに援軍として派遣し、正月20日、範頼軍と義経軍は、それぞれ勢多と田原から総攻撃を開始する。義経軍は義仲軍と交戦して宇治の防衛線を突破し(宇治川の戦い)、そのまま入洛して法皇の身柄を確保した。義仲は近江粟津で戦死した。

ここの記述の根拠は吾妻鏡であり、その吾妻鏡の根拠は玉葉で良さそうです。つうか宇治川の合戦までの経過の殆どを吾妻鏡玉葉の記録に頼っています。その肝心の玉葉の記録なんですが殆どが、

    伝聞
つまり九条兼実が宮中なり、知人なりから聞いた噂話ぐらいに取って良さそうです。玉葉の伝聞は正しい事もありますもガセも入っています。嘘ではないですが正しい事もあり、結果的に間違っている事もあるぐらいに見る必要があります。とりあえずwikipediaが取り上げている2点を検証してみます。


義経軍は11月初めには近江まで到達

吾妻鏡から拾っていきます。

日付 出典 内容
11/2 玉葉 その替わり九郎御曹司(誰人や、尋ね聞くべし)を出立し、すでに上洛せしむと。
11/3 玉葉 伝聞、頼朝の上洛決定延引しをはんぬ。その弟九郎冠者、五千騎の勢を副え上洛せしむべしと。然れども猶以て不定
11/4 玉葉 伝聞、頼朝の上洛決定止めをはんぬ。代官入京なり。今朝と。今日布和関に着くと
11/7 玉葉 頼朝代官今日江州に着くと。その勢僅かに五六百騎と。忽ち合戦の儀を存ぜず、ただ物を院に供さんが為の使と。次官親能(廣季子)並びに頼朝弟(九郎)等上洛すと。
11/10 玉葉 伝聞、頼朝使供物に於いては江州に着きをはんぬ。九郎猶近江に在ると。
どうも九条兼実は11/2に義経の名を初めて聞いた様です。一方で私がわからなかったのは次官親能です。次官親能とは斎院次官親能こと中原親能のことでwikipediaより、

父・広季と親交があった九条兼実をはじめとして多くの公家との関係が深く、義経が初めて上洛した時には京都の人々は義経の名を知らず、親能が総大将だと思っていたという。

だから親能の名が良く出て来ます。そこはともかく、ここまでの玉葉の記述を読む限り義経は近江にいそうな感じはします。つうか兼実は義経の名どころか存在も知らなかった訳で、兼実に伝聞を伝えた人物もまた義経を知らなかった可能性も低くありません。義経が「義経」と名乗って行動した結果が玉葉に反映されていると見たいところです。では義経が本当に近江に居たかどうかですが、

日付 出典 内容
閏10/22 玉葉 また聞く、頼朝の使い伊勢の国に来たりと雖も、謀叛の儀に 非ず。先日宣旨に云く、東海・東山道等の庄土、不服の輩有らば、頼朝に触れ沙汰を致すべしと。仍ってその宣旨を施行せんが為、且つは国中に仰せ知らしめんが為、使者を遣わす所なりと。
12/1 玉葉 伝聞、去る二十一日院の北面に候する下臈二人(公友なり)伊勢の国に到り、乱逆の次第を頼朝代官(九郎、並びに齋院次官親能等なり)に告示す。即ち飛脚を差し頼朝の許に遣わす。彼の帰来を待ち、命に随い入京すべし。当時九郎の勢、僅かに五百騎。その外伊勢の国人等多く相従うと。また和泉の守信兼同じく以て合力すと。
寿永2年は10月と11月の間に閏10月を挟むので注意が必要ですが、閏10/22の時点で頼朝は伊勢進出を示唆したとの記述があります。さらに12/1の記事は重要で、
    去る二十一日院の北面に候する下臈二人(公友なり)伊勢の国に到り、乱逆の次第を頼朝代官(九郎、並びに齋院次官親能等なり)に告示す。
これは院の使者が11/21に伊勢に居た義経に会ったとしています。個人的に気になるのは、11/4の玉葉のこの部分です。
    今日布和関に着くと
「布和関 = 不破関」は良いとして、不破関を通ると言う事は東山道を使って近江に入った事になります。この頃には甲斐源氏と頼朝は協調路線を取っており、武田信義自体もwikipediaより、

武田軍は源範頼源義経と共に義仲の追討・一ノ谷の戦い・平家追討山陽道遠征・壇ノ浦の戦いに参加した。

こうなっていますから甲斐源氏信濃源氏東山道を使って近江を目指していてもおかしくない事になります。玉葉の伝聞に間違いがある可能性は残りますが、義仲追討の源氏軍は東海道東山道に分かれて都を目指していたと取れないだろうかです。それも

こうです。先行していたのは義経で10月中旬ぐらいには伊勢に入り、まずこの噂が義経の名(現実的には親能の方が有名だったかも)と共に都に伝わっていたぐらいの可能性を考えています。つまり先入観として大将軍は義経であるとまず伝わったぐらいです。でもって11月上旬になり東山道の範頼軍が近江に入って来たのですが、これも兼実は義経軍の一部と解釈したんじゃなかろうかです。でもって義経も当然ですが近江にいると考えてその旨を記録した可能性です。範頼が東山道経由だった傍証として平家物語より、

 尾張の国より大手、搦手二手に分つて攻め上る。
 大手の大将軍、蒲御曹司範頼、相伴ふ人々、武田太郎、加賀美次郎、一条次郎、板垣三郎、稲毛三郎、榛谷四郎、熊谷次郎、猪俣小平六を先として、都合其勢三万五千余騎、近江国野路、篠原にぞ着きにける。
 搦手の大将軍は、九郎御曹司義経、同じく伴う人々、安田三郎、大内太郎、畠山荘司次郎、梶原源太、佐々木四郎、糟屋藤太。渋谷右馬允、平山武者所をはじめとして、都合其勢二万五千余騎、伊賀国を経て宇治橋の詰にぞ押し寄せたる

平家物語では尾張で分かれたとなっていますが、範頼軍はもともと東山道であった可能性もあるとは思います。ここのポイントは範頼軍は不破関を通って近江に入っている可能性が高いぐらいです。


義経軍の進路

範頼軍が不破関経由で近江に入り瀬田橋を目指したのは問題はありませんが、義経はどう進んだかです。平家物語に伊賀に進むとなっていますが東海道では伊勢の次は伊賀ですから当然の進路になります。ただそのまま東海道を進めば範頼軍と合流するだけになり、それでは軍勢を分ける意味が乏しくなります。少なくとも義仲は完全に二方面から頼朝軍が押し寄せて来るのを知っての対応をしているからです。まず平家物語には、

東国より前兵衛佐頼朝、木曽が狼藉鎮めんとて数万騎の軍兵をさし上げられけるが、既に美濃国伊勢国に着くと聞こえしかば、木曽大いに驚き、宇治、勢田の橋を引いて、軍兵どもを分かち遣わす。折ふし勢もなかりけり。
 勢田の橋は大手なればとて、今井四郎兼平八百余騎でさし遣わす。宇治橋へは、仁科、高梨、山田の次郎五百余騎で遣わす。一口へは伯父の信太の三郎先生義憲三百余騎で向かひけり。

これが延慶本では

木曽がかたにはをりふし都にせいぞなかりける。めのとごひぐちのじらうかねみつ、五百余騎にてじふらうくらんどゆきいへをせめむとて、かはちのくにいしかはと云所へさしつかはす。いまゐのしらうかねひら、五百余騎のせいをあひぐして、せたをかためにさしつかはす。かたらのさぶらうせんじやうよしひろ、にしな、たかなし、をだのじらうら、三百余騎にてうぢをかためにむかひけり。

読みにくいと思いますが

  1. 樋口次郎兼光が河内石川へ500余騎
  2. 今井四郎兼平が勢田へ500余騎
  3. 宇治に300余騎
若干数が違います。最後に玉葉です。

義仲勢元幾ばくならず。而るに勢多・田原の二手に分かつ。その上行家を討たんが為また勢を分かつ。

3方面に兵を分けたのは確実と見て良さそうです。後世から見ると行家への配分が多いように思いますが、そういう風に義仲が危険度を判断したとしか言いようがありません。でもって義仲自身は院で頑張ります。では義経の進路はどうであったかですが、

伊勢から鈴鹿関を越えて伊賀に入った義経軍は水口あたりから紫香楽方面に進み、山中を抜けて瀬田川宇治川)の下流に出たんじゃないかと推測します。これが玉葉に言う田原方面の軍勢です。これなら戦術的にあり得ます。つまりは11月上旬どころか義経は近江にいなかった事になります。強引に考えれば先発隊である義経軍が不破関を越えて近江に入ってきた範頼軍と一旦合流の上に山中の道に分かれて進んだ可能性も残りますが、その可能性は少々低いんじゃないかと感じます。


勢田の合戦

これは有名な先陣争いがあり義経軍の圧勝に終わっていますが、もう一つの決戦場である勢田はどうだったんでしょうか。玉葉より

人告げて云く、東軍すでに勢多に付く。未だ西地に渡らずと。相次いで人云く、田原手すでに宇治に着くと。詞未だ訖わらざるに、六條川原武士等馳走すと。仍って人を遣わし見せしむるの処、事すでに実なり。義仲方軍兵、昨日より宇治に在り。大将軍美乃の守義廣と。而るに件の手敵軍の為打ち敗られをはんぬ。東西南北に散りをはんぬ。即ち東軍等追い来たり、大和大路より入京す(九條川原辺に於いては、一切狼藉無し。最も冥加なり)。踵を廻さず六條末に到りをはんぬ。義仲勢元幾ばくならず。而るに勢多・田原の二手に分かつ。その上行家を討たんが為また勢を分かつ。独身在京するの間この殃に遭う。先ず院中に参り御幸有るべきの由、すでに御輿を寄せんと欲するの間、敵軍すでに襲来す。仍って義仲院を棄て奉り、周章対戦するの間、相従う所の軍僅かに三四十騎。敵対に及ばざるに依って、一矢も射ず落ちをはんぬ。長坂方に懸けんと欲す。更に帰り勢多手に加わらんが為、東に赴くの間、阿波津野の辺に於いて打ち取られをはんぬと。東軍の一番手、九郎の軍兵加千波羅平三と。

まずなんですが「九郎の軍兵加千波羅平三」って誰の事かと思いましたが、よく読めば梶原平三景時の事でした。

それはさておき話に当日の話と前日の話が混在しているのでチト注意が必要なんですが、宇治の義仲軍が大敗していますが勢田の範頼軍は「未だ西地に渡らず」つまり瀬田川を渡れていないと見て良さそうです。瀬田橋では宇治橋程には派手な先陣争いはなかったかもしれません。。宇治川で勝った義経軍は速やかに追撃行動に移ったようで、義仲は院を連れて逃げる余裕もなく敗走を余儀なくされています。義仲は粟津で戦死していますが、義仲が目指したのは勢田の今井勢であったのは確実そうです。それは良いのですが、義仲が京都で義経軍の追撃を振り切り今井兼平との合流をした時の様子を平家物語では、

 木曽は長坂を経て丹波路に赴くとも聞こえけり。また、竜華越にかかって北国へとも聞こえけり。かかりしかども、今井が行方を聞かやとて、勢田の方へ落ち行くほどに、今井四郎兼平も、八百余騎で勢田を固めたりけるが、僅かに五十騎ばかりに討ちなされ、旗をば巻かせて、主のおぼつかなきに、都へ取つて返すほどに、大津の打出の浜にて、行く合うひ奉る。

勢田の方が宇治よりも遅れて突破されたぐらいに見たら良いでしょうか。だって勢田と粟津はさしての距離とは思えません。平家物語を素直に解釈すれば今井四郎兼平は勢田を

  1. 宇治橋の合戦中を持ちこたえ
  2. 義経軍の追撃を振り切った義仲が粟津に来るまでには勢田は突破はされていますが、粟津あたりしか退却していない
これぐらいは支えたと見たいところです。宇治川の合戦では宇治橋方面がアッサリ突破されてはいますが、勢田橋方面は相当に時間がかかったぐらいに見て良さそうです。義仲軍は平家物語しか資料はありませんが、1000〜1500人ぐらいと見て良さそうな気がします。一方の頼朝軍も「万」なんて途轍もない軍勢がいたとは到底思えません。吾妻鏡より、

2月6日 乙丑 天晴 [玉葉

或る人云く、平氏一谷を引退し、伊南野に赴くと。但しその勢二万騎と。官軍僅かに二三千騎と。仍って加勢せらるべきの由申し上げると。また聞く、平氏引退の事謬説と。その勢幾千万を知らずと。

官軍とはこの時点で頼朝軍ですが、これまた3000人ぐらいだった可能性は十分あります。だから1500人程度の義仲軍は「戦おう」って気になったのかもしれません。逃げるだけなら湖西の道を北陸に向って一目散って手段もあり、武者が一旦落ち延びて再起を図ること自体は禁じ手でもなんでもありません。頼朝だってそうしています。ただ頼朝軍が「万」と数えられた可能性はあります。この時の義経軍も範頼軍も年貢分の大量の食糧を輸送していた可能性は高いと考えています。つうかそれを理由の上洛でもあります。

たとえば1万石程度の米を運んでいたら1万6000頭の駄馬と馬丁が必要です。義経軍と範頼軍に加えて8000人づつの人夫が加われば、両軍とも万に近くなります。飼葉のための小荷駄隊が加われば楽に万を越します。玉葉で近江でも伊勢でも500騎程度と記載していた頼朝軍が急に膨れ上がったのは先発隊に引き続いて駄馬隊が到着したからもしれません。