藍那歴史散歩

やっと仕事も納めたので歴史散歩に行ってきました。目的地は藍那。義経が一の谷の決戦前夜に宿営したと伝承されているところです。


相談が辻

平家物語で有名な相談が辻です。

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画像は鵯越方面に向かう道から相談が辻を撮影したもので、山の向こうが藍那になります。山と言っても藍那から標高差100m程で藍那駅から私の足で歩いて15分ぐらいのところです。とにかく案内板どころか「相談が辻」てな表記が皆無でして、事前に下調べしておいて良かったと思います。そうじゃなきゃ、知らずに通り過ぎてしまうぐらい何の変哲もないところです。それはともかく、この地点のポイントは、進路を鵯越道方面に取るか、白川方面に取るかの分岐路であったぐらいに想像します。

西に進めば高尾山越の鵯越道になり、これは会下山に通じています。東に進めば、白川方面に進む事になり、妙法寺方面から長柄越に進めますし、さらには塩屋方面にも進めます。伝承として「相談」となっていますが、興味を惹かれるのは誰と相談したかです。平家物語では腹心の弁慶とかと相談、もしくは軍監の土肥実平と相談したぐらいが候補に上がりますが、私の研究では土肥実平は三草山で義経と別れ塩屋に進んだと考えています。つまりは実平は相談が辻にはいなかったと言う事です。

では消去法で弁慶ぐらいになりますが、義経が果たして弁慶と相談するだろうかです。弁慶は義経の忠臣であり、とくに頼朝に追われてからは機知を働かした伝承(船弁慶とか、勧進帳とか)がありますが、戦略・戦術の相談相手の地位に当時いたかは少々疑問です。つうか相談が辻の時点で義経の戦術は固まっていたと見たいところです。こんな切羽詰まった時点で今さら弁慶に相談しないんじゃなかろうかです。ほいじゃ「相談」が実在しなかったかですが、1人だけ相談が辻の時点で「相談」する相手の候補がいます。多田行綱です。


行綱と義経の「相談」

行綱の一の谷の記録は玉葉

多田行綱自山方寄、最前被落山手云々

これしか残されていないとして良さそうです。他には唐櫃の多聞寺の焼打ち伝承ぐらいでしょうか。吾妻鏡には綺麗に無視されています。この吾妻鏡に無視されている点の解釈の仕方は一考に値すると思っています。たとえば2/5に昆陽野で源氏軍は勢揃いを行っています。そこにも行綱の名はないのですが、これはその時に昆陽野に行綱はいなかったとも受け取れます。では何をしていたかですが、摂津の多田から有馬街道を先行して進んでいたと考えています。でもって2/6時点で藍那まで進出していた可能性は十分あります。そこに義経は合流したって不思議有りません。行綱と義経の格の上下の問題は私には判別できませんが、同格に近いから「相談」したぐらいの解釈があっても良いかと思います。

では何を相談したかです。もう想像の世界ですが、行綱は藍那から鵯越道経由で会下山に攻め込む戦術を立てていたとまず見ます。これは立てただけではなく実行されたと見ています。会下山に進めば平家軍の心臓部である福原を衝く事ができるからです。行綱は義経もこれに同道すると考えていても不思議有りません。ところが相談が辻まで進んだ時に、義経鵯越道を進まないと行綱に告げたんじゃなかろうかです。つまりは行綱が鵯越道を進んで会下山に向うのなら、義経白川道を進んで妙法寺に至り、そこから長柄越で一の谷を目指すと「相談」したぐらいを想像しています。


鵯越道と長柄越

平家物語の欠点の一つに多田行綱の行動を除外している点があります。行綱の一の谷の行動が不明なので私も散々手こずっています。ここも見方を少し変えると浮かび上がってくる点があります。一の谷では大手の生田の森方面に範頼軍が進んだのは確実として良いでしょう。また塩屋方面から搦手主力と言うべき土肥実平軍が進んだのも確実と考えています。そこにもう一つ確実に源氏軍が進んだルートがあると考えています。鵯越道から会下山に進んだ軍勢です。鵯越道から源氏軍の脅威があったあった事は平家物語にも、

おほいとの、あきのむまのすけよしゆきをししやにて、ひとびとのもとへのたまひつかはされけるは、「くらう義経こそ、みくさのてをせめやぶつて、すでにみだれいるよしきこえさふらふ。やまのてがだいじでさふらへば、おのおのむかはれさふらひなんや」とのたまひつかはされたりければ、みなじしまうされけり。

「やまて」とはどこかになりますが、

このやまのてとまうすは、いちのたにのうしろ、ひよどりごえのふもとなり

ここに能登守教経と越中前司盛俊を急遽派遣しています。ここが具体的にどこかの解釈が分かれているのですが、一の谷を丸山、「ひよどりごえ」を鵯越道と解釈すれば鵯越道が通じる会下山方面じゃなかろうかになります。この教経軍の移動は夜間に行われたと平家物語ではなっており、この時の松明の動きで「義経軍来る」と歓喜するシーンが描かれています。もう一つポイントは剛勇を謳われた教経が一の谷の合戦では活躍していない点です。教経が戦っていなかった訳ではないと考えています。教経が戦っていたのは鵯越道から会下山方面に向かってくる源氏軍だったんじゃなかろうかです。

鵯越道を源氏軍が進んでいたとなると「誰が」この源氏軍の指揮を取っていたかになります。義経が取ってしまえば、

  1. 義経は鉄拐山の麓の通説の一の谷に進めない
  2. 私の仮説の妙法寺から長柄越にも進めない
もう一つの問題は鵯越道から一の谷に下れるかです。これは地形を知っている者から言わせれば、上から見下ろす事が出来ても到底下れるようなものではいってところです。鵯越道は急な尾根の上に存在しており、だからこそ会下山まで下らざるを得ない道であったと考えています。平家物語

一の谷は口は狭くて奥広し。南は海、北は山、岸高くして屏風を立てたるが如し。馬も人も少しも通うべき様なかりけり。誠に由々しき城なり。

この表現は伊達でないってところです。鵯越道から一の谷に向うには会下山の教経軍を突破する必要があり、鵯後道を進んだ源氏軍はこれを容易に突破できなかったら、この方面での戦果は乏しかったと見て良いかと思っています。つまりは鵯越の源氏軍は義経でなく行綱が取っていたって考え方です。鵯越の名前が混乱するのは吾妻鏡

寅に刻、源九郎主先ず殊なる勇士七十余騎を引き分け、一谷の後山(鵯越と号す)に着す

長柄越は鵯越道の支道であったともされ、土地勘に暗い義経は長柄越こそ鵯後であると思い込んでいた可能性はあると見ています。


一の谷合戦の実相

平家の戦略は

  1. 一の谷から京都を目指す姿勢
  2. 別動隊を播磨から丹波に進ます姿勢
この2方面作戦であったと考えだしています。源氏軍もこれに呼応して一の谷を直接目指す範頼大手軍と、丹波方面進出を阻止するための義経搦手軍の2方面作戦であったとして良いかと思っています。範頼軍が陣を取った昆陽野は丹波方面と一の谷方面の両方を窺える戦略ポイントに位置します。でもってなんですが、主戦場は丹波であったと見て良いと考えています。理由は単純で、平家軍が丹波を制圧すれば源氏軍は一の谷を攻める事は出来なくなります。一の谷なんかを攻めれば京都を平家軍に占領されてしまうからです。

源氏軍が一の谷を攻めようと思えば、まず播磨から丹波に進む平家軍を撃退しないといけないということです。もちろん丹波方面に主力を投入して膠着状態にでもなってしまうと、今度は一の谷の平家軍が上洛を行いかねません。そのため一の谷の平家軍の上洛を迎え撃つために範頼軍は昆陽野に陣を取り、義経軍は丹波進出を目指す平家軍を迎え撃ったぐらいが基本構図じゃなかったろうかです。本来と言うか、通常なら丹波に進む平家軍と、義経軍は一進一退の攻防戦を展開する「はず」だったのですが、史実は三草山での義経の圧勝劇に終わってしまいます。

義経は三草山の勝利を最大限に活用したと思っています。逃げる平家軍を追って播磨に土肥実平を派遣します。派遣するだけでなく塩屋方面への進出を命じ、2/7に一の谷の東西挟撃作戦を命じたとみています。三草山の合戦は2/5未明の夜襲ですが、一の谷攻撃プランを範頼と打ち合わすために2/5夕には三草山から昆陽野まで動いたとしか言いようがありません。前に軍監問題を考えましたが、戦術的に逃げる平家軍を追って戦果を拡大するのは好ましい事であり、さらに最大の戦略目標である一の谷を攻撃する戦術に軍監である土肥実平は同意するしかなかったと思います。

もう一つですが、範頼軍を挟撃に間に合わせるための打ち合わせに搦手の大将である義経が必要である点も同意せざるを得なかったと思っています。つうか搦手軍主力を率いることが出来るのは軍監である実平以外におらず、範頼と戦術を協議できるのも義経しかいない点で御大将が別行動を取ることに首肯せざるを得なくなったぐらいです。範頼も既に土肥実平がそういう作戦で動いているのなら応じざるを得ず、2/7の矢合わせのために昆陽野を出陣し生田の森に進んだぐらいが真相の気がしています。

ただこの時点での義経の戦略は東西挟撃だけだったかもしれません。昆陽野に到着した時に行綱軍の動きを初めて知ったんじゃなかろうかです。行綱軍が北六甲を進んでいるのなら、これと合流して鵯越道を攻めるのが義経が浮かんだ昆陽野での作戦だった気がします。同時に関東源氏軍が2/7に一の谷に総攻撃をかけるので、これに呼応して欲しいの要請です。これもまた義経クラスが使者として必要だった気がしています。義経が最終的に鵯越の戦術にたどり着いたのは藍那到着後だったかもしれません。いわゆる鷲尾三郎伝説です。この時まで平家陣地への北からの進撃路は鵯越道しかないと思っていたら、長柄越を使うと一挙に一の谷を衝く事が出来る情報の入手です。

そういう戦術を最後に行綱に話し、行綱と別れたのが相談が辻だった・・・なんて話を考えながら歴史散歩を楽しんでました。