刺青と古代史

Bugsy様の

さて 個人的には残念ながらですが、北九州から瀬戸内海をめぐり今でいう近畿地方では そんな「皆黥面文身」の庶民は昔からいたのでしょうか 大いに疑問です。熊襲や隼人の風習は歴史のかなたに消えてわからないのですが 記紀の記述を見て、なにやら神様だって刺青を示唆する文言や 神様以外ですら漁労民族や農民だって皆黥面文身をしていたような人間は出てきませんねえ。古くから半島を通じて もっぱら北中国の政権と交流があったせいでしょうか。少なくとも大和王朝と被支配階級にとって刺青の風習は無縁だと思います。

邪馬台国大和朝廷は この文化的な相違一点を取ってみても無関係な政権だったと思います。

これへのレスを考えている内に長くなってしまったのでエントリーにしてみます。そうそうレスが遅くなったのはなにぶん本業が1年のピークの時期に入っているためと釈明しておきます。かつてはこんな状態でも連日エントリーを上げてた時期もありましたが、過去の栄光を懐かしんでも仕方がありません。それと刺青の歴史をある程度ググったのですが、あんまり目ぼしい情報がなく、wikipediaの範疇を出ない事を先にお断りしておきます。


最古の記録とされるもの

いきなりwikipediaより、

古代人の皮膚から入れ墨が確認された例としては、アルプスの氷河から発見された5300年前のアイスマンが有名であり、その体には入れ墨のような文様が見つかっている。

また、1993年に発掘された2,500年前のアルタイ王女のミイラは、腕の皮膚に施された入れ墨がほぼ完全な形で残されたまま発掘されている。

アイスマンの刺青についてはさらにwikipediaより、

背後や脚に刺青の跡があり、オーストリアのドルファー博士の調査ではその位置は胃腧、三焦腧、腎腧、崑崙など腰痛に効果のある現代のツボの位置と一致しておりつぼ治療をした痕と推測されている。これは5300年前にヨーロッパのアルプス山脈付近に高度な医療技術があったことを示唆している。

漢方医学的な高度な医療技術があったかどうかはとりあえず置いておくとして、アイスマンの刺青はカラパイアの世界最古の冷凍ミイラ“アイスマン”の親族が現世に生きていた!(オーストリア研究)より、

こういうもののようです。次にアルタイ女王ですがMOUNTAIN HIGH TATTOO WORKSの【話題】シベリアの永久凍土から発見、2500年前の王女と戦士のタトゥーより

アルタイ山脈地方、ウコク高原の永久凍土から発見されたミイラは、ウコクの女王、あるいはアイス・プリンセスと呼ばれています。古代ギリシャの歴史家であり、“歴史の父”と称されるヘロドトスが紀元前5世紀に記した遊牧民の姿は、アルタイ地方のパジリク古墳群に見られる人々を示すと考えられており、発掘されたミイラに見られる華麗なタトゥーは「もっとも精巧な古代の刺青」として知られています。

どんなものかですが、

ミイラの画像 復元図
アイスマンの刺青は「刺青と判断できる」程度ですが、アルタイ女王(及び戦士)の刺青は現在の刺青を髣髴させるものになります。ごく簡単には遅くとも2500年前には刺青技術は確立されていたと考えて良さそうです。


これは有名ですが

男子無大小皆黥面文身

黥面とは顔に施された刺青であり、文身とは体に施された刺青です。つまりは男子は全員全身に刺青が施されていたと解釈できそうです。wikipediaより、

縄文・弥生期の日本は、世界でも有数の入れ墨文化を有していたと考えられている。縄文時代土偶には入墨を思わせる紋様が描かれている

邪馬台国でもそうであったと見て良いと思っていますが、畿内についてはwikipediaより、

  • 古代の畿内地方には入れ墨の習俗が存在せず、入れ墨の習俗を有する地域の人々は外来の者として認識されていた、との主張も存在する。 これは、古事記神武天皇紀に記された、伊波礼彦尊(後の神武天皇)から伊須気余理比売への求婚使者としてやって来た大久米命の“黥利目・さけるとめ”(目の周囲に施された入れ墨)を見て、伊須気余理比売が驚いた際の記述を論拠とするものである。さらに、日本書紀には蝦夷が入墨をしているという記述があり、全員入墨をしていたという邪馬台国大和朝廷とでは、入墨に関して正反対の態度が伺える。
  • これに対して、顔に入れ墨と思しき線が刻まれた人物埴輪が畿内地方からも出土している例や、出土地域による図案の違いから類型化もなされている事実などが、反証として挙げられている。

この程度しか推測材料はないのですが、私の見解として神武東征軍は刺青の習慣が無く、畿内の先住部族にはあったぐらいを考えています。


大陸の刺青

古代日本でも大陸の影響は大きいのですが、とりあえず三国時代には刺青の習慣が魏にはなかったとしてよさそうです。無かったから倭人が刺青を施しているのを記録したと解釈するのが自然と考えます。つうか刺青には古代より二面性があり、

  • 装飾・呪術的・権威の意味合い
  • 刑罰
大陸でも夏の頃は刺青の習慣はあったようです。魏志倭人伝

夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害

夏后少康とは夏の6代目の王ですが、その子どもが会稽の領主になった時に蛟龍の害を防ぐために「斷髮文身」をするようにしたとなっています。これは読み方になりますが、夏后少康之子が刺青技術を会稽に広めたと見れない事もありません。少なくとも夏王室は刺青を忌避していなかったぐらいに受け取っても良い気がします。大陸での刺青文化が衰退した理由として考えられるのは、

    身体髪膚、これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始め也
つまり儒教的な教えが広まり定着したためと見たいところです。儒教と言えば孔子になりますが、儒教孔子が創造したものでなく、当時の礼儀の集大成みたいなものと見れば良いかと思います。孔子も何度も触れていますが、儒教の理想像として周の文王が出て来ます。夏は商に滅ぼされ、商は周に滅ぼされるのですが、どうも周の文化は夏商と違い刺青を忌避したんじゃなかろうかと想像しています。儒教的な教えが大陸文化の主流になっていったのは史実として良いと考えていますから、儒教が刺青を放逐したぐらいです。これは大陸だけの特異例ではなく、タトゥーの常識その1・タトゥーはファションではない。「歴史と背景」より

  • キリスト教では「死者を悼んで身を傷つけたり、入れ墨をしてはならない。わたしは主である。死人のために身を傷つけてはならない。また身に入墨をしてはならない。わたしは主である。」(レビ記 / 19章 28節)
  • イスラム教では「イスラム教の宗教庁宗教高等委員会は日常生活に関して市民から寄せられた質問を審査し、タトゥーは許容される行為ではないとの判断を出した。」

まあ禁令が出るぐらいですから、刺青文化がもともとあり、これを宗教上嫌ったぐらいと見て良いと思っています。大陸の儒教もまたそうであっても不思議とは言えません。


日本の刺青文化

大陸文化は当時の先進文化であり、これを取り入れるのに懸命であったことは説明の必要もないでしょう。wikipediaより、

古代の日本における入れ墨の習俗が廃れるのは、王仁および513年の百済五経博士渡来による儒教の伝来以降と考えられ、以降の律令制の確立とともに入れ墨は刑罰としての入墨刑に変化した。

こうなるのは自然なんですが、上流階級と言うか支配者階級はともかく、庶民階級は違った様相があったようです。wikipediaより、

一方では、律令制の確立と密接な関係を持つ遣唐船の乗組員達に入れ墨の習俗があったとされ、後に発生した倭寇集団もまた入れ墨を入れており、海上交易や漁撈を生業とする人々の間では、呪術と個体識別の目的で広く入れ墨が施された。

おそらく支配者階級は大陸文化にならって刺青を排除したのでしょうが、それは庶民階級まで必ずしも及んでいなかったぐらいに見えます。それと当時の僧侶は一級のエリートです。このエリートである僧侶のうち、密教では刺青文化が受け継がれていたとの記録もあります。wikipediaより、

儒教と対立した密教の僧侶によって、入れ墨の技術が継承された。山岳仏教出身者であり、書寫山圓教寺を開いた性空は、胸に阿弥陀仏の入れ墨を入れていた

ここまでムックしてきて思うのですが、日本の刺青文化は大陸や半島とやや違う流れがあった気がしています。儒教の影響により刺青が忌避された点では同様ですが、大陸や半島では儒教の影響が庶民レベルまで浸透したのに対して、日本では支配者階級のみに留まった可能性です。そのため

  • 支配者階級(及び上流階級も)にある者は刺青はしない(すれば失脚する、ないしは批判的な目で見られた)
  • 庶民階級は自由に刺青を行っていた(刺青をしていてもとくに差別をされた訳ではなかった)
江戸期に庶民階級では高度の刺青技術が発達しましたが、支配者である武士が刺青を施す事はマナーとして宜しくないの慣行です。江戸期の武士で刺青を施してあったとして有名なのは遠山景元ですが、景元の刺青の具体的な記録はないとされます。個人的には「あった」と思っていますが、公式にあるとなれば町奉行なんかになれず、公式には「無い」とされていたんだと思っています。ただ「あるらしい」の噂は広がっていて、だから庶民的と言うか庶民の味方みたいなイメージが形成され、「遠山の金さん」みたいな伝承になったぐらいを考えています。


神武と刺青

卑弥呼邪馬台国に刺青文化があったのは出土土器や魏志倭人伝から明らかだと思います。では畿内征服王朝を築いた神武一派はどうだったのでしょう。実に微妙なお話で、畿内から出土した土器の文様では賛否両論があるのは上記した通りです。主流は「無い」ですが、一方で奈良期に至っても庶民階級(たとえば遣唐使船の船員)には刺青文化が定着しています。それと本格的に支配者階級から刺青が追放されたのは6世紀の説もあります。何が言いたいかですが、神武も全身に紋々を背負っていた可能性は否定できないってところです。Bugsy様は畿内の出土土器に刺青文様の後が少ない点を取られていますが、実際のところは上述したように微妙な点が多々ある気がします。

神武が西から畿内に来たのは他に参考にする資料もないので前提にします。問題はどこの西からやって来たかになります。これまでの古代史ムックから当時の先進地帯であった北九州を想定しています。ここはもう少し広く北九州文化圏から来たと考えたいところです。そうであれば神武も刺青文化があると考えた方が自然です。ただここで少し見方を変える事も可能です。そう

    何故に神武は畿内に来たか?
そりゃ「フロンティアを求めて!」になるのですが、見方を変えると故郷の地にいれなくなる事情が発生したとも考えられます。この「いれなくなる事情」の刺青が関連した可能性があるんじゃなかろうかです。邪馬台国は北九州にあったと私は推測・比定していますが、邪馬台国に代表される北九州は先進地帯ではありましたが統一王権的なものが確立されなかったと見ています。あえて喩ええれば古代ギリシャとか、春秋時代ぐらいの都市国家レベルです。邪馬台国も古代アテネやスパルタぐらいで盟主的な地位にはいましたが、広域王権まで進まなかったぐらいの見方です。

それぞれの都市国家は独自の風習を持っていたとして良いと思いますが、神武一派はある時期から大陸の影響を受けて刺青を忌避する文化を形成していたぐらいです。刺青には宗教的・呪術的な意味もあるのは上述した通りですから、刺青文化を忌避すると言うのは宗教が違う異教徒的な位置づけをされたぐらいはどうでしょうか。異教徒というか異分子と言うか、異端的な扱いを周囲の都市国家から受ければ、故郷に居づらくなり畿内遠征を余儀なくされてしまったぐらいのストーリーはあってもエエじゃないかぐらいです。ここに前に考察した鏡教を絡めてもエエかもしれません。

とにかく刺青は後世になってアングラ文化かしてしまったのは史実として良さそうですから、記紀でもそういう扱いになっていると考える方が自然と思います。また庶民に広まっていたとしても、そういう記録は古くなるほど残されません。せいぜい庶民文化が高まった江戸期ぐらいからがせいぜいと思っています。果たして神武が紋々を背負っていたか、そうでないかはたとえ神武の墓が発見され、神武の棺が発見されても判明しないと思っています。