日曜閑話80-4

執念深く神武です。


歴史の流れで重視しているポイント

当ブログでは邪馬台国北九州説を取っています。でもって弥生時代後期の様相を都市国家間抗争の時代としています。これは先進地北九州と、それに次ぐ畿内でも起こっていると考えています。そういう状態が

北九州と畿内の差を分けたのが神武(つうか神武的エピソード)じゃないかと見ています。もう一つ重視しているのは弥生時代、とくに2世紀に北九州では銅剣・銅矛、畿内では銅鐸文化が栄えていたのに古墳時代になると銅鏡文化に移行しています。これも神武は関連しているんじゃないかです。


狗奴国に注目

もう一つのポイントが卑弥呼と神武の関係です。「卑弥呼 = ヒミコ = 日御子」と考えれば畿内王権の王の呼称と類似します。原文を読むのが大変なのでwikipediaから引用しますが、

磐余彦は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。

書紀の方だけ引用しておくと

今我是日神子孫而向日征虜 此逆天道也

「日の神」ですから太陽信仰があった事を示しています。太陽信仰自体は原始宗教でポピュラーなものですが共通性はあると考えています。「邪馬台国 = ヤマト」説は昔からあり、畿内説の補強となっていますが、神武が邪馬台国の一員の出身であれば故国の呼称、宗教を使っても不思議ではないと考えています。どう考えているかと言うと畿内のヤマト政権は卑弥呼邪馬台国の分家みたいなものの可能性です。分家が後に栄え、本家が衰えた時に分家が本家になる事は珍しい現象ではありません。また本家と分家が仲が悪くなり、本家争いみたいな状態になるのも良く見られる事です。そういう目で見ると魏志倭人伝に気になる記述があります。

其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王

狗奴國に関する記述はもう1カ所あり

倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和

狗奴国の王の名は「卑彌弓呼」なんですが、とりあえず卑弥呼(日御子)と類似しています。それより注目したいのは「其官有狗古智卑狗」の下りです。これは「その官に狗古智卑狗有り」と読み下すようですが、この狗奴国を紹介する前の記述は女王国に属する国々の紹介となっています。たとえば、

東南のかた奴國に至ること百里。官を兕馬觚と日い、副を卑奴母離と日う。二萬余戸有り。 東行して不彌國に至ること百里。官を多模と日い、副を卑奴母離と日う。千余の家有り。 南のかた投馬國に至る。水行二十日。官を彌彌と日い、副を彌彌那利と日う。五萬余戸ばかり有り。

奴国も、不彌國も、投馬國も女王国の支配下で「官」は女王国から下された呼称と読みたいところです。女王国に属さないとしている狗奴国に「官」が出てくるのは少々不自然な気がします。原文をもう少し注目してみると奴国も、不彌國も、投馬國も「官曰」としていますが、狗奴国は「官有」と表現が少々違います。チト強引な解釈ですが狗奴国もかつては女王国の一員であったと言うか、関係する国であったと読みたいところです。後世で喩えると征夷大将軍みたいなもので、占領したところで独立してしまったみたいなニュアンスです。魏志倭人伝の記述は女王国の人間からの聞き取り部分が多いはずですから、

    狗奴国ちゅうのは女王国がある人物を狗古智卑狗(狗奴征伐将軍)に任じて占領させたところなんやけど、今は勝手やってます。困ったもんだ。
これぐらいの感じです。もう一つ傍証を出します。旧唐書倭国・日本伝からです。

日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。
(日本国は、倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという)

「或云:日本舊小國、併倭國之地」に注目します。ここも取り様だけなんですが、元は女王国(= 邪馬台国)に属する小国であったのが、今はそれを併呑して一体となった。つうか「邪馬台国の今の本家は日本です」ぐらいに解釈できない事もありません。まとめると、

  1. 邪馬台国は王家の一員であった神武を狗古智卑狗に任じて狗奴国征伐に送り出した
  2. 神武は畿内で独立して狗奴国を立て卑彌弓呼、つまり王の呼称を使用した
  3. 狗奴国は女王国側の呼び名で狗奴国も邪馬台国を自称していた
  4. 本家の女王国はその後に衰え、分家の神武邪馬台国が併呑し本家になった
これぐらいの仮説を考えます。


女王国

魏志倭人伝には

その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。

ここの解釈になります。卑弥呼が北九州勢力の盟主であったのはわかります。この記述だけ読むと卑弥呼がいきなり擁立されて北九州を統合したように感じますが、やはり前段階があるとしても良い気がします。卑弥呼の前にかなり統一に近づかせた人物の存在です。かなり英雄的な人物で北九州統合を目前にして(いや成し遂げて)死んだぐらいの感じです。後世で喩えると信長的な存在でしょうか。覇業の後継者で揉めた末に英雄の娘である卑弥呼が統合の象徴として擁立されたぐらいの流れです。魏志倭人伝には「夫婿なく」となっていますが、英雄の妻だった可能性も十分あると思っています。妻だったら北条政子みたいな感じになります。

神武が畿内に遠征した時期を銅鐸文化が花開く2世紀前か、銅鏡文化が台頭する3世紀頃の2つの時期をムックの末に推定しています。今まで2世紀前説を取っていたのは、3世紀では畿内の在地勢力が強すぎるんじゃなかろうかの懸念からです。これは卑弥呼が出現するまで北九州は群雄割拠状態であり、とても有力な遠征軍など畿内に送り込む余裕はないだろうとの根拠からです。これが卑弥呼出現前に北九州が統一されていたと考えると少々話が変わります。統一された北九州の勢力をさらに広げるために畿内遠征が企画された可能性が出てきます。無理やり喩えると秀吉の唐入計画みたいなものです。倭建命でも良いかもしれません。これに英雄の血族(息子かな?)である神武が命じられた可能性です。

神武は河内の長髄彦には手こずりましたが、畿内の征服に成功したと見る事は可能です。女王国ともめたのは戦勝から来る自信と、血統的な正統性の問題が複合したぐらいの解釈です。女王国も英雄の死後、後継者争いで畿内の神武勢力をどうする事も出来ない状況も加わったぐらいは想像の裡です。


唐古・鍵遺跡

唐古・鍵 考古学ミュージアム唐古・鍵遺跡の変遷を引用します。

  • ムラの形成(弥生時代前期)


      やや小高い所を選んで人が住むようになります。遺跡の北部、西部、南部の3ヶ所にムラが形成されたようです。


  • ムラの分立(弥生時代中期初頭)


      3ヶ所に形成された居住区が、それぞれ周りに溝を巡らせて「環濠集落」の形をとります。西側の地区では大型建物も建築されました。


  • ムラの統合(弥生時代中期)


      3ヶ所の居住区が統合され、全体を囲む「大環濠」が掘削されます。大環濠で囲まれたムラの大きさは、直径約400mと考えられます。その周りを幾重にも溝が取り囲んでいました。中期後半には、楼閣をはじめとする建物、鹿、人物などの絵画を土器に描く風習が広まりました。


  • ムラの発展(弥生時代後期)


      中期末の洪水で環濠の大半は埋没しますが、すぐに再掘削が行われています。環濠帯の広さも最大規模となります。後期のはじめには、ムラの南部で青銅器の製作が行われました。


  • ムラの衰退(古墳時代前期)


      弥生時代中・後期には大環濠はなくなり、ムラの規模が縮小します。環濠の一部は再掘削されますが、 井戸などの居住区関連の遺構は大幅に減少します。

もうすこし簡潔にまとめたいのですが、弥生時代の後期の初めに最盛期を迎えるが、以後は環濠も失い衰退していくぐらいと受け取っても良さそうです。この唐古・鍵遺跡と神武を無理にでも結びつけるとwikipediaより

10月、磐余彦は軍を発して国見岳で八十梟帥を討った。11月、磯城に攻め入り、八咫烏に遣いさせ弟磯城は降参したが、兄磯城が兄倉下、弟倉下とともになおも逆らったため、椎根津彦が奇策を用いてこれを破り、兄磯城を斬り殺した。

磯城の名前が見えますが、これを地名と受け取ると磯城郡になり、磯城郡は川西町、三宅町田原本町になります。つまりは唐古・鍵遺跡を含む地域になります。唐古・鍵遺跡が衰退に向かったのは神武の征服によるものじゃなかろうかです。神武東征神話でも読みようによっては磯城が大きな目標であった感触はあります。神話から読み取れば神武はまず吉野に拠点を置いたと見て良さそうです。そこから兎田に進みますが、その次に進むのは磯城と考えるのが順当です。

兎田で神武は八十梟帥と磯城の連合軍を見て激怒したとなっていますが、激怒したと言うより「まともに戦っても勝てへん」ぐらいが真相の気がします。つか八咫烏(たぶん吉野の人間)情報から八十梟帥と磯城は普段は仲が良くないから連合しないの見通しを聞いていたのが狂ったので「困った」ぐらいかもしれません。


年代

大和古墳群は畿内最古の古墳群ですが細分すれば纏向古墳群、柳本古墳群、大和古墳群になります。この中で実は問題なのが纏向古墳群の箸墓古墳になります。これが3世紀半ばの築造と現在はなっています。でもって後は少し遅れて西殿塚古墳、行燈山古墳、渋谷向山古墳が3世紀後半から4世紀初めと推定されています。箸墓古墳がちょっと早すぎるのです。卑弥呼の時代が3世紀半ばですから、神武が箸墓古墳に間に合うには3世紀初頭に東征が必要になってしまう関係になります。

ここで箸墓が3世紀の後半、つうか末にずれてくれたら卑弥呼と神武はほぼ同世代の人間でも良くなります。古墳時代の本当の幕開けは4世紀前後になると話がもうちょっと紡ぎやすくなります。上記した神武も卑弥呼の兄弟であっても良い事にできるからです。ちょうどその頃に神武が唐古・鍵を制圧して大和の覇権を握ったぐらいのストーリーです。ちょっとずらしてもエエ気はするのですが・・・。