日曜閑話80-3

ちょっと古代の吉野のお話です。


宮滝遺跡

wikipediaより、

8月、莵田の地を支配する兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)を呼んだ。兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が磐余彦を暗殺しようとする姦計を告げた。磐余彦は道臣命を送ってこれを討たせた。磐余彦は軽兵を率いて吉野の地を巡り、住人達はみな従った。

吉野に人が住んでたのかの素朴な疑問です。調べれば実は一発でして宮滝遺跡が出てきます。ここは縄文時代から続く遺跡で、飛鳥から奈良時代の吉野宮もここであったとほぼ特定されています。現時点では弥生後期の遺跡が確認されていないとなっていますが、未だ発掘調査は全体の2割程度とされ、ちょっと無理して弥生後期にも栄えていたと取ります。つまり神武の時代にも存在していただろうです。関心を引いたのはその位置です。地図で示します。

宮滝遺跡は吉野山の東側ぐらいになります。そこから北上すれば宇陀方面に至ります。現在の地名でも莵田野があるのが確認できます。紀の川に沿って西側に進めば御所方面に進む事も可能です。神武の時代に道がどれだけあったかは疑問としても、距離的に踏破不可能な地形・距離とは思えません。神話に出てくる八咫烏は山道に詳しい人物であったと考えても良いからです。稲作は始まっていましたが、山からの採集食料もまた重要であったはずです。また宮滝遺跡と奈良盆地内の集落との交流があっても不思議ないからです。奈良盆地に侵入するにあたり、宮滝遺跡を神武が根拠地にしていた期間はごく自然にあるかと思います。


吉野宮

「宮滝遺跡 = 吉野宮」なんですが、どれぐらい行幸があったかです。古代王権と吉野からですが、

  1. 雄略天皇二年冬十月に、吉野宮に行幸
  2. 斉明天皇で、二年に吉野宮を作り、五年三月には吉野へ行って宴会
  3. 天武天皇は即位前を含めて二回
  4. 持統天皇は即位前後を含めて三十四回吉野行
  5. 文武天皇が二回、吉野離宮行幸
  6. 七二三年、元正天皇芳野宮に行幸
  7. 聖武天皇は三回芳野宮へ行幸
結構な回数の行幸が行われています。飛鳥に都のある頃なら山を一つ越えれば行けるので、大王家に取っては手近なリゾート地と見えなくもありません。平城京となるとチト遠くはなりますが、それでもまあそんなに遠い訳でもありません。ただなんですが、別に吉野じゃなくてもエエやんはあります。吉野は今でさえ交通便利なところとは言い難いところです。当時ならなおさらな気もします。単に行楽目的だけで吉野に離宮まで作って行くだろうかです。wikipediaより、

吉野宮との関係では、I期が天武・持統朝のもの、II期は聖武朝前後のもの、III期は昌泰元年(898年)の宇多上皇行幸に関連するという。

少なくとも3回にわたって宮殿は建て直されている事もわかります。


三尾鉱山

奈夏県吉野郡下の層歌含銅硫化鉄鉱床概査報告てなものがあります。昭和28年て書いてありますから、えらい古い報告なんですが、

奈良県吉野郡下には多くの層状含銅硫化鉄鉱床が存在する。

そのために

地図に示されている11の鉱山は報告書の時点で既に廃鉱となっている物です。これも、もっと多かったようで奈良県吉野郡史料には50か所以上の鉱山が大正期にあったと記録にあるそうです。とりあえず昭和28年の報告では鉱山の分布をみると吉野山の西側あたりに集中しているのが確認できます。昭和28年当時に稼働していたのは3つですが、そのうちの三尾鉱山に注目してみます。場所は地質調査所「吉野山」に、

吉野郡四郷村三尾にあって,県道から吉野川支流の対岸の北西斜面に開坑している

地図で確認すると、

地図の左側に宮滝が確認できます。その前に吉野川(紀ノ川)が流れていますが、少し上流に遡ると高見川との合流部があります。これを遡っていくと丹生川上神社があり、さらに遡ると三尾の地名が見つかります。三尾鉱山の沿革として

古くは不詳

近代的な鉱山としては昭和15年ぐらいから本格的な採掘が行われたようですが、いつから鉱石が採取され始めたかは「不詳」ぐらいに受け取ります。採れる鉱石ですが、

鉱石は鉱染部の比較的少ない緻密含銅硫化鉄鉱であるが,厚い場合には縞状鉱を伴なうことが多い。東部には蛇紋岩様緑泥片岩中に自然銅・斑銅鉱・輝銅鉱等を多く産する。坑外の鉱石中には少量の磁硫鉄鉱が認められる。

この東部で採れる鉱石が注目されます。三尾鉱山は現在の鉱石マニアでも自然銅が採れる機会のあるところとして知られているそうです。古くから自然銅の採取が行われていた可能性はあるんじゃなかろうかです。


神武と銅

これまでのムックから神武の集団は青銅器製造技術を持っていたと推測しています。銅鐸説を取っても、銅鏡説を取っても銅は絶対必要です。古代の銅の利用は、

    自然銅 → 酸化銅鉱 → 硫化銅鉱
こういう順に進んだとされています。ここも単純化して大雑把に言えば露頭部に自然銅があり、その下に酸化銅鉱があり、さらにその下に硫化銅鉱が広がるみたいな感じだそうです。利用しやすさ、精錬しやすさもこの順です。もう想像の世界ですが神武が宮滝を根拠地にしていた時に村人が自然銅を持っているのを見つけたのではないかと思っています。村人にとっては「変わった石」ぐらいで持っていたのを神武の技術者が自然銅だと気が付いたぐらいのストーリーです。

で、奈良盆地に根を下した時期に吉野の自然銅を集めるように指示を下したぐらいを想像しています。これも強権的に搾取したと言うより win - win の関係で集めた状況を想像しています。と言うのも吉野の村人と神武集団では銅の価値観がかけ離れているからです。神武集団にとっては非常に貴重なものですが、吉野の村人にとっては「こんなものが欲しいのか」ぐらいとすれば良いでしょうか。神武集団は村人が集めた自然銅に対し褒美を出したと考えていますが、村人にとっては価値のないものが褒美に変わって大喜びみたいな関係です。

とにかく自然銅を集めれば御褒美がいっぱいもらえるので村人はせっせと自然銅を集めて回ったんじゃないでしょうか。銅の需要はいくらあっても足りないぐらいだったでしょうから、ますます手厚い御褒美が下される循環です。三尾鉱山でも集めたでしょうが、もっと広範囲に自然銅の採取に吉野の村人は励んで行っても不思議ではないと思います。そういう良好な環境が相当な長期間続いた状況を想像します。


日本史で吉野は何度も登場するところです。大王家から天皇家になっても吉野との関係は非常に良好であったと見て良い気がします。ずっとずっと時代が下って南北朝の頃にも後醍醐天皇を擁して北朝と対峙するぐらいです。幕末でも勤王派とされたところでもあります。そういう傾向は思想ではなく、それこそ神武以来の関係ではなかったかと思った次第です。銅が採れなくなっても「吉野は良いとこ」の記憶が大王家に残り、また吉野側も大王家に沁みついたような恩義と愛着が醸成されたぐらいです。

もうちょっと想像を広げたいのですが古代の青銅器の原料について、輸入説と国産説があります。最近では青銅器の鉛同位体の原料分析なんてのも進んでおり、日本の青銅器の多くの部分の原料が中国雲南省原産の銅ではないかと分析されています。ただなんですが三角縁神獣鏡だけは別物だそうです。これだけはどこの鉱山から掘り出されたものかの特定は無理との説があります。その謎の銅原料の一部が吉野の銅なんて事を考えたりもしています。この辺の議論になると古代史でもホット過ぎるところなので、あんまり深入りは控えておきます。