日曜閑話80-2

先週から逃げている弥生時代から古墳時代の変化の謎を考えてみます。


基本的な歴史の流れ

弥生時代とは稲作技術が伝わり、それにより

  1. 食料の安定増産による人口の増加
  2. 稲作従事のために集落人口の増加が起こり、ムラから都市国家に発展した
  3. 都市国家は近隣の都市国家と抗争状態に進む
これは先進地である北九州が先行し、続いて畿内にも起こったぐらいと見て良さそうです。ただしここから北九州と畿内は運命が分かれます。北九州の状態の方がある意味わかりやすいところがあります。後世なら戦国時代みたいなもので、群雄は割拠しても、これを統一する勢力がなかなか現れない状況ぐらいを想像すれば良いかと思います。一方の畿内は不思議です。高地性集落の存在や、環濠集落の存在からして群雄割拠状態になりかけていたはずですが、なぜかこれが長続きせず、ある時期から畿内全体で戦争ではなく古墳築造に熱中する時代になります。なにか北九州と違う事が畿内に起こったとしか考えようがありません。


なんと言っても記紀しか記録がないのですが、記紀的に解釈すれば西から来た神武が「あっ」と言う間に畿内の抗争に終止符を打ってしまった事になります。お手軽にwikipediaから神武の活躍を引用しますが、

東征がはかばかしくないことを憂えた天照大御神武甕槌神と相談して、霊剣(布都御魂)を熊野の住民の高倉下に授け、高倉下はこの剣を磐余彦に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。そこで、天照大御神八咫烏を送り教導となした。八咫烏に案内されて、莵田の地に入った。

8月、莵田の地を支配する兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)を呼んだ。兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が磐余彦を暗殺しようとする姦計を告げた。磐余彦は道臣命を送ってこれを討たせた。磐余彦は軽兵を率いて吉野の地を巡り、住人達はみな従った。

9月、磐余彦は高倉山に登ると八十梟帥(やそたける)や兄磯城(えしき)の軍が充満しているのが見えた。磐余彦は深く憎んだ。高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が夢に現れ、その言葉に従って天平瓦と御神酒をの器をつくって天神地祇を祀り、勝利を祈願した。

10月、磐余彦は軍を発して国見岳で八十梟帥を討った。11月、磯城に攻め入り、八咫烏に遣いさせ弟磯城は降参したが、兄磯城が兄倉下、弟倉下とともになおも逆らったため、椎根津彦が奇策を用いてこれを破り、兄磯城を斬り殺した。

12月、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てず、天が曇り、雹が降ってきた。そこへ鵄(とび)があらわれ、磐余彦の弓の先にとまった。すると電撃のごとき金色の煌きが発し、長髄彦の軍は混乱し、そこへ磐余彦の軍が攻めかかった。饒速日命長髄彦を殺して降伏した。

翌己未年2月、磐余彦は従わない新城戸畔、居勢祝、猪祝を討った。また高尾張邑に土蜘蛛という身体が小さく手足の長い者がいたので、葛網の罠を作って捕らえて殺した。これに因んで、この地を葛城と称した。これによって、磐余彦は中州を平定した。3月、畝傍山の東南の橿原の地を都と定める。庚申年、大物主の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃とした。

莵田は宇陀と解釈されるようです。現在でも宇陀市に莵田野と言う地名はあります。これが実話なら神武は紀の川を吉野まで遡り、そこから山中(竜門山地)に入り進出したぐらいになります。莵田を占領して根拠地とした神武は後方の吉野も引き続いて勢力圏にしたぐらいに見れます。大雑把に言えば神武は奈良盆地の東南の山岳地帯にまず拠点を作ったぐらいになります。でもここはなんとなく逆で、竜門山地の南側の吉野を先に固め莵田に前進拠点を築いたように思います。

次に八十梟帥との決戦になるのですが、八十梟帥には友軍がいる事がわかります。名前からし磯城に根拠を持つ集団の様です。磯城は莵田の西側、莵田から奈良盆地に下るところぐらいに位置します。どうも神武軍は莵田から磯城への攻撃は避けたようです。でもって国見岳で決戦なんですが、国見岳を御所市の国見山に比定する説がありました。国見山は磯城の西南方向に位置します。この辺が八十梟帥の根拠地もしくは勢力圏だったのかもしれません。

ま、想像ですけど吉野から奈良盆地を窺う神武軍は陽動作戦を取っている気がします。これも結果的にそうなったのかもしれませんが、とりあえず神武軍が吉野方面を制圧した事を奈良盆地勢力は知ったのだと思います。これに対抗するために八十梟帥と磯城は同盟を結んだぐらいです。さらにこの同盟勢力は神武軍より優勢だった可能性です。二つの勢力が合体されると厄介なので莵田に進出して磯城を攻める姿勢をまず示したんじゃなかろうかです。本拠地を見下ろす地点に神武軍が進出しているので磯城軍の主力は動きにくくなります。そうしておいて神武は八十梟帥の根拠地の国見岳を襲ったぐらいです。各個撃破戦術ぐらいの見方です。

最後の長髄彦との戦いは、大和川を下って河内で行われたと見て良いかと思います。


さすがにこの話をすべて史実と受け取る人は少なくなっている気がします。一方で完全な荒唐無稽の作り話と片づけるのも無理があると思っています。実際に起こった事をベースに伝承された可能性は十分にあると思います。ただどこまでが事実で、どこもからが創作なのかは既に検証不可能ぐらいでしょうか。とにもかくにも資料が記紀しかないので無視はできないぐらいです。ここで言えるのは神武的な人物が西から来て、その人物が古墳時代には原型が出来ていたはずの大王家の始祖として伝承されている事です。


神武はいつ来たか

私は2つの可能性を考えています。

  1. 2世紀に銅鐸が巨大化した時期
  2. 3世紀になり銅鐸から銅鏡に祭祀の中心が置き換えられた時期
ごく単純には神武が銅鐸教を畿内に持ち込んだのか、鏡教を持ち込んだのかです。ここも銅鐸教が廃れ、鏡教が隆盛になり古墳時代の幕が開く点から2.の可能性が高いとするのは有力な考察です。ただ欠点もあると考えています。3世紀ともなれば畿内の人口も多いだろうです。神武神話は読めばわかるように武力による征服事業として記録しています。神武が大軍を率いて東征してきたと見れば可能ですが、今度はそんな大軍をどこで調達するかの問題点が出てきます。

神武が来たのは神話では日向ですが、やはり北九州と考えるのが妥当と見ます。当時の北九州は都市国家間の抗争状態と見るのが妥当で、そこから大軍を畿内に派遣できる余力はなかったと見ます。大軍を畿内なんかに派遣したら母国の戦力がガタ落ちになり、近隣諸国のカモになるからです。もしあるとしても、派遣軍ではなく国を挙げての移住計画ぐらいになると見る方が自然です。有力都市国家の圧迫に耐えかねた小都市国家が新天地を求めて畿内に脱出したぐらいの見方です。ただそれでは大軍とまでは行かない規模になります。ま、それ以前に大軍を輸送する船団を作れるかどうかの問題もあります。それと神武軍が必ずしも圧倒的な戦力でなかったのは長髄彦戦の苦戦にも求められます。

小勢で畿内を征服すると考えれば、神武の東征は早い時期の方が有利です。早いほど畿内の人口も少なく、北九州と畿内の技術格差も大きくなりますから、これを利用する事が可能になります。その点を考えると銅鐸教の時期も捨てがたいものがあります。銅鐸教と鏡教の関係は前に論じましたが、本質をキラキラ教と考えると同じものになります。つまりは銅鐸教を持ち込んだ神武の子孫が鏡教になっても差し支えないからです。そこから考えるとこういうストーリーが出てきます。

  1. 神武は2世紀前に大和に入植した
  2. 神武勢力には高い青銅器作製技術があった
  3. キラキラ教の布教(銅鐸配布)により、畿内の盟主(教祖)的地位を得ていった
  4. 神武神話の大部分は大和入植時の諍いの記録である
もう少し言えば神武は畿内にキラキラ教を持ち込む事によって畿内の平和的連合体を作っていたぐらいの見方です。


キラキラ教の二つの流れ

キラキラ教とは太陽崇拝の変形で、太陽の様にキラキラ光る物を畏怖し信仰する宗教ぐらいに思ってもらえれば良いと思います。太陽崇拝自体はごくごく自然に起こる原初的宗教形態の一つぐらいですが、これをキラキラしたものへの崇拝に変化させたのがキラキラ教です。そんなキラキラ教の家元が邪馬台国であった可能性はあると見ます。邪馬台国の有名人は言うまでもなく卑弥呼ですが、これは名前ではない可能性が高いと考えています。別に珍しくもない説ですが、

太陽神の化身みたいな意味合いです。ちなみに日嗣御子の言葉は後世に受け継がれています。これは皇太子の呼び方になります。意味としては次に日を嗣ぐ位置にいる人ぐらいでしょうか。皇太子が日嗣御子なら、とうぜん天皇は日御子になるはずです。女王卑弥呼が一時的であれ北九州の覇権を握れたのはキラキラ教によるものと見る事も不可能とは思えません。それとキラキラ教は卑弥呼一代で北九州に広がったと見るのは無理があり、何世代かの布教運動があったと考えたいところです。布教の結果、キラキラ教の熱心な崇拝者が増え、キラキラ教の宗主たる卑弥呼の下に多くの都市国家が利害を乗り越えて結束したぐらいの考え方です。

後世で無理やり喩えると戦国期の一向宗みたいなものです。戦国期の一向宗の影響力は凄まじいもので、大名の家臣でさえ最後の忠誠心は一向宗に向けてしまうほどのものです。結束力が高い事で有名な家康家臣団でさえ、三河一向一揆の時には家康に弓を引いています。そんな宗教的熱狂が古代のキラキラ教にも起こった結果、魏志倭人伝に残る卑弥呼の時代が訪れたたんじゃないかと考えています。


神武もまたキラキラ教の熱心な信者の可能性を考えています。信者でなくとも教理を利用しようとした可能性はあると見ています。目いっぱい想像の翼を広げますが、神武が見ていたキラキラ教はちょうど勢力拡張期で、キラキラ教を信仰する事により都市国家が長年の確執を乗り越えてキラキラ教祖の下に集まり始めていた時代じゃなかったろうかぐらいです。キラキラ教の下に結集した勢力はキラキラ教の仲裁があれば争いを速やかに中止し、またキラキラ教に攻撃を加える国があれば一致団結してこれに対抗したぐらいです。

大和に入植した初期の神武勢力はまだまだ小さかったと考えています。つまりは周辺に成立しつつあった他の都市国家からの攻撃を懸念する状態と言う事です。神武も抗争絶えない北九州からの移住者ですから、これに対する安全保障戦略が必要と考えたわけです。そこで北九州で見ていたキラキラ教を畿内安全保障戦略として利用したぐらいの考え方です。神武を教祖とし、神武の国を教団として畿内のキラキラ教を興したぐらいです。北九州の様にキラキラ教が広まってくれれば、教団本部である神武国を攻撃する者が減るだけでなく、保護対象として守ってくれるぐらいのところです。神武が布教戦術として用いたのが銅鐸の気がしています。で、北九州に較べて後進地帯の畿内ではキラキラ教がより熱狂的に迎え入れられたんじゃないでしょうか。


もう少し話を紡げば、北九州と畿内に兄弟関係のような2つのキラキラ教が並立し、北九州では3世紀半ばの卑弥呼の時代に一つの頂点を迎えたと見ています。畿内でも唐古・鍵遺跡でわかるように先進地北九州に追いつこうと発展しています。ただその後が違ったのだと考えています。北九州では熱狂の頂点に達した後に萎んで行ってしまったぐらいを考えています。先進地であるが故に、現実を優先させてしまう発想が巻き返してしまったぐらいです。一方の畿内は後進地域が故に逆に信仰が深まり定着していったぐらいを考えています。

なぜにそうなったかですが、カギは銅鏡にありそうな気がしています。


鏡教

銅鏡はそのきらめきにより銅剣や銅矛、銅鐸に取って代わる新たな御神体になったぐらいの理解で良さそうです。卑弥呼もたくさんの鏡を使った光の演出を行っていたと考えます。ひょっとすると銅鏡による光の演出が最終的に卑弥呼を女王に押し上げたのかもしれません。たくさんの鏡を使った演出は効果的だったと思うのですが、たくさんの鏡を使った事が後のネックになった可能性を考えています。つまり信者もたくさんの鏡を欲しがったぐらいです。1枚でも多くの鏡を所有する事が信仰の証、権力の象徴みたいな感じでしょうか。

輸入品は数に限りがあります。そういう状況に上手く対応したのが畿内の神武キラキラ教団だった気がしています。国産銅鏡の量産化の成功です。つまりは三角縁神獣鏡です。これを大量にばら撒く事により銅鐸教から鏡教へスムーズに転換させ、より強い求心力を産みだして行ったぐらいでしょうか。もう一つのポイントは配布元の一元化もある気がします。銅鐸は複数個所と言うか有力集団なら自力で製作されていましたが、三角縁神獣鏡は前に理由を書きましたが下手すりゃ1ヵ所です。生産と供給ルートが1本だった可能性はあると見ています。

三角縁神獣鏡がヤマト政権が配布したか、していなかったかについても議論が分かれるところですが、私は独占供給していた説を取ります。そして配布する時に三角縁神獣鏡に効能のお墨付を与えていたと考えています。単なる貴重品としての銅鏡の配布じゃなくて、「これは効くぞ」の品質保証を付与していたと想像します。そういう有り難い銅鏡を与えてくれる神武キラキラ教団の求心力が強烈に高まったぐらいの考え方です。銅鏡の配布もランク付けされ、より強い忠誠心を示すところには錫メッキが附いた漢鏡を与え、三角縁神獣鏡も品質の良いものを選んで授与したぐらいです。これも想像の世界ですが、限定的であっても錫メッキ技術さえ保有した可能性もあるかもしれません。この技術を持っていれば銅鏡に決定的な力を与えられるのは神武キラキラ教団だけになります。

高まった求心力が畿内王権の原型を形作り、次なる王権の誇示として大古墳の築造を行っていったぐらいです。


さすがに難しいなぁ

古代史ムックシリーズは、別に真相を何がなんでも解き明かそうとしている訳ではありません。現在の考古学でも「良くわからない」「謎」とされている部分を、なるべく無理のない仮説で説明できないかぐらいの試みです。教科書レベルでは

これだけ覚えれば十分の歴史知識ですが、なぜに弥生時代から古墳時代に移行したかの理由を説明するとなれば難題テンコ盛りってところです。ブツで言うと弥生時代畿内で全盛を極めた銅鐸が突如消え失せ、その代わりに銅鏡と古墳築造が大ブームになるのかは不可解です。しかしブツは確実な証拠であり、その存在と盛衰を手がかりとして推理せざるを得ません。私の仮説の根本は神武(つうか神武的な集団)が畿内の状況を北九州と異なる状況にしたぐらいなんですが、とにかく足らないピースが多すぎて埋めようがない状態です。

今日のお話の弱点はキラキラ教仮説ですべてを説明した点です。古代において(現代でも)宗教は大きな影響力を発揮します。歴史でも不可解な事実があった時の説明に宗教を持ち出す手法は珍しくありません。一種のジョーカーみたいなものですが、最大の弱点はキラキラ教自体が完全な仮説である事です。つまり仮説の上に仮説を積み上げている積木細工の様なもので、書きながら強引過ぎると感じた次第です。せめて複数ルートの傍証が欲しかったのですが、さすがは謎の時代でサッパリ傍証が出て来ないのが辛いところです。

でも、これ以上は・・・個人の趣味では限界かなぁ。。。