日曜閑話82-4

やっと4世紀目前にたどりつきました。お次のテーマは箸墓古墳です。築造時期は歴博はC14測定を基に3世紀半ばを主張されていますが、もう少し遅く3世紀末から4世紀初頭を私は考えています。つうかそれに間に合わせるように魏志倭人伝記紀などと長い間格闘していました。力業の部分は多々ありますが、なんとか辻褄を合わせたと思っています。


完成当時のイメージ

現在の古墳ははっきり言って森と言うか小山になっています。あれから完成当時にどんな様子だったかを想像するのは案外容易ではありません。ただイメージは欲しいところです。そこで大型古墳の復元が行われている五色塚古墳を再訪してみました。近場でお手軽だったからと言われればそれまでですが、現物の箸墓古墳を見るよりもイマジネーションが膨らむと思ったからです(箸墓古墳は神戸からでも必ずしも近くないのも大きな理由です・・・)。

後円部(五色塚古墳
後円部から前方部を見る(五色塚古墳
少しだけ注釈しておきますと、五色塚古墳は基壇も合わせて3段構造になっています。現在は最上段にのみ埴輪模型が並べられていますが、かつては3段全部に並べられていました。その数は2200個と推定されています。実際に見て感じる印象は存在感と重量感の凄さです。大きさもそうなんですが、葺石の視覚効果は思わず畏敬と言うか畏怖の念を抱かせてくれます。これは巨大建造物を見慣れた現代人でもそうなんですから、そんなものがなかった古代人に取ってはなおさらじゃなかったかと感じた次第です。五色塚古墳兵庫県下最大の古墳ではありますが、箸墓に較べると小ぶりです。データで較べておきますと、
箸墓古墳 五色塚古墳
墳丘長 278m 194m
前方部 130m 81m
高さ 16m 11.5m
後円部 150m 125m
高さ 30m 18m
箸墓古墳の方が一回り以上は確実に巨大である事がわかって頂けるかと思います。そんなものが出現し、これを見た古代人がどれだけ驚かされたかは十分に想像できます。


なんのために作ったんだろう

考古学的表現なら「大王の権威を示すため」で終わってしまいます。そりゃそうなんですが、政治的な意図が込められていたはずです。古墳の成立過程から言うと箸墓古墳から突然の様に古墳が巨大化したと言っても良さそうだからです。箸墓古墳がある纏向古墳群には先行する纏向式前方後円墳は存在しますが、大雑把ですが周壕まで含めて100m程度です。ここで五色塚古墳の真横に小壷古墳と言うのがあります。これが墳丘長で67mとなっており、周壕があればこのクラスと見て良いと思っています。五色塚古墳見学の時にもらったパンフから引用しますが、

見ればお分かりの通り、箸墓古墳前の古墳とは桁違いのものになっているのが判ってもらえると思っています。単に大王の個人的な権威のためだけに、これだけの大古墳を「突然」作ったとするだけで良いのだろうかです。作っても良いのですが、作るのならもうちょっと中間のステップがあってもエエんじゃなかろうかです。徐々に巨大化してこのサイズに到るまでの中間過程がある方が自然な気がします。私の仮説としては

    これだけ巨大なものをいきなり作る必然性があった
大王の権威はそれに付随したものの気がしています。


誰が作ったのか

箸墓古墳は時代を一変させるような巨大古墳であるにも関わらず大王墓の指定を受けていません。お手軽にwikipediaから、

倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)、大物主神(おほものぬしのかみ)の妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来(みた)す。倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「君常に昼は見えずして、夜のみ来す。分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀(みすがた)を勤(み)たてまつらむと欲ふ」といふ。大神対(こた)へて曰(のたま)はく、「言理(ことわり)灼然(いやちこ)なり、吾明旦に汝が櫛笥(くしげ)に入りて居らむ。願はくば吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。ここで、倭迹迹姫命は心の内で密かに怪しんだが、明くる朝を待って櫛笥(くしげ)を見れば、まことに美麗な小蛇(こおろち)がいた。その長さ太さは衣紐(きぬひも)ぐらいであった。それに驚いて叫んだ。大神は恥じて、人の形とになって、其の妻に謂りて曰はく「汝、忍びずして吾に羞(はじみ)せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。よって大空をかけて、御諸山に登ってしまった。ここで倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて座り込んでしまった。「則ち箸に陰(ほと)を憧(つ)きて薨(かむさ)りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。(所々現代語)

これは書紀の崇神紀にあるのですが原文はすこぶる手強いので割愛します。個人的に女性の墓として伝承されている点に注目します。言ったら悪いですが、当時で女性のためにこれほどの大古墳を作るだろうかです。作ったって悪くないのですが前例などない空前の大工事です。大王が権威を示すために作るのであれば、后であっても女性のために作るのではなく、あくまでも自分のために作るはずです。また后のために作ったとしても、それ以上の巨大古墳を自分のために作ると考えるのが自然です。

だから卑弥呼説が出るのですが、当ブログではさんざん苦労して畿内説を否定しています。卑弥呼邪馬台国は北九州にあり、卑弥呼は北九州で死んで葬られていると前提しています。ほいじゃ畿内に征服政権を樹立した神武の墓かと言えば・・・それならそれでもう少し伝承が残っていても良さそうなものです。ただこれまでのムックにより神武東征から箸墓古墳築造まではそれほどの期間的猶予はありません。神武の畿内進攻は260年頃と推測していますから、神武の次かその次ぐらいが築造しないと間に合わない事になります。

書紀では神武の後に欠史八代があり次が崇神です。本当に欠史なのかどうか、いや神武と崇神は同一人物じゃないかとの議論はあります。あえて推測すれば神武の後継(または神武の次の次)も定番の様にもめた可能性はあると思っています。神武後の後継のゴタゴタが欠史八代じゃないかの見方です。そういう混乱期を経て権力を掌握したのが崇神であるとの解釈です。神武は初代なので特定しやすいですが、二代目以降は誰が誰なのか判らなくなりますが、便宜的に神武世代の実質的な後継者は崇神とさせて頂きます。つまりは崇神箸墓古墳を作ったのだろうです。それ以上は時間が許しません。


壱与女王

壱与の歳を考えると面白いのですが、神武の死を268年に仮定していますからこの時に壱与はまだ34歳です。ただ壱与女王と邪馬台国のその後の行方は皆目不明です。可能性の一つとして邪馬台国で再びの混乱が起こったぐらいは想像できます。あくまでも魏志倭人伝を何度も読んだ私の感想に過ぎませんが、どうにも邪馬台国同盟の結束は末期的な印象があるからです。男王では既に結束は保てず、卑弥呼に続いて13歳の壱与を女王に立てなければならいぐらいだからです。

神武は卑弥呼の弟と仮定していますから、邪馬台国の混乱に際して畿内に亡命した可能性はゼロではないと見ています。壱与女王は邪馬台国でも卑弥呼同様に象徴であって実権は乏しかったと考えています。亡命した壱与女王も崇神政権に参加する気はなかったかもしれませんが、崇神政権の中枢部には象徴としての卑弥呼信仰が根強くあり、その後継者の壱与にも同様のそれも熱狂的な崇拝を行ったぐらいです。

崇神にとってもメリットはあり、壱与への崇拝現象は政権への求心力を高めます。壱与が畿内に亡命する事で畿内政権への求心力が異常に強まり、古墳時代の幕を開いた可能性も十分にあると思っています。崇神もそういう壱与の象徴としての求心力を十分に利用した気がします。その壱与が死んだ時に崇神はこの死を最大限に利用したんじゃないかと思っています。そう前例のない壮大な箸墓古墳の築造です。壱与の生身の後継者を作らず、神にしてしまう事で永遠の求心力を保とうとする政略です。


崇神の気になるエピソード

崇神紀のエピソードで注目したいのは

  1. 四道将軍
  2. 来宮中に祀られていた天照大神倭大国魂神(大和大国魂神)を宮中の外に移した
1.は至極単純に後継者戦争の様子、もしくはその後の仕上げと見ています。国家は隆盛期にある時は内紛が起こっても、内紛後により強力な国家を作り上げます。この後の古墳時代を考えるとベタな見方ですが、畿内広域王権は四道将軍により確立したと見ても良いかもしれません。ここで気になるのは2.のエピソードです。書紀の崇神紀より

五年、國内多疾疫、民有死亡者、且大半矣。

六年、百姓流離、或有背叛、其勢難以紱治之。是以、晨興夕綃、請罪藭祇。先是、天照大藭・倭大國魂二藭、並祭於天皇大殿之内。然畏其藭勢、共住不安。故、以天照大藭、託豐鍬入姬命、祭於倭笠縫邑、仍立磯堅城藭籬。(藭籬、此云比莽呂岐。)亦以日本大國魂藭、託渟名城入姬命令祭、然渟名城入姫、髮落體痩而不能祭。

普通に読めば疫病対策のお話です。対策と言っても当時の事で神に祈るぐらいしかないのですが、その時に取った行動に不可解な点があります。当時の宮中に2つの神がとりあえず祀られていた事がわかります。

  • 天照大藭
  • 倭大國魂
天照大神の説明は不要かと思います。もう一つの倭大國魂はチト複雑で、別名「日本大国魂神」とも言い大国主命とする意見もありますが本居宣長は別だとしているようです。崇神紀にもこれに関連して大物主神崇神の夢枕に立つ話があるので、

是夜夢、有一貴人、對立殿戸、自稱大物主藭曰

なんとなく「大物主神大国主命 = 倭大國魂」の気もしますが、一方で天照の荒魂説もあります。この辺はwikipedia系図の方がかえってわかりやすいかもしれません。

天照大神天津神系の象徴とすれば倭大國魂(= 大物主神大国主命国津神系の象徴ぐらいの見方です。それを宮中から外に出すと言うのが良くわからん行動です。理由は書紀にあるように、

    然畏其藭勢、共住不安
「然れども其の神勢を畏れ、共に住むを不安とす」ぐらいに読み下すのでしょうか。これを先ほどの壱与仮説で考えると話がある程度通ります。壱与の死後も壱与を祭神として祀っていたのですが、壱与人気は死後も絶大だったぐらいの見方です。つまりは「壱与 = 天照大神」です。死後とは言え崇神よりも壱与に崇拝が集まり過ぎるのは宜しくなく、宮中の外に出したのがこのエピソードぐらいじゃないかと考えています。


前から疑問だったのですが伊勢神宮は日本の神社の中でも別格の存在です。にも関わらず何故に伊勢にあるのだろうです。簡便にwikipediaより

伊勢神宮内宮の祭神・天照大御神は皇祖神であり、第10代崇神天皇の時代までは天皇と「同床共殿」であったと伝えられる。すなわちそれまでは皇居内に祀られていたが、その状態を畏怖した同天皇が皇女・豊鋤入姫命にその神霊を託して倭国笠縫邑磯城の厳橿の本に「磯堅城の神籬」を立てたことに始まり、更に理想的な鎮座地を求めて各地を転々とし、第11代垂仁天皇の第四皇女・倭姫命がこれを引き継いで、およそ90年をかけて現在地に遷座したとされる。

理由として考えられるのは2つあるのですが、2つは手段と目的として一つになっているぐらい思っています。一つは天照信仰が熱狂的すぎて大王をないがしろにする勢いが出てしまったぐらいです。どこにこれを置いてもそうなるので、大和から外に移してしまったぐらいです。ところが大和から外に出してもやはり熱狂が起こるためにさらに移動させたぐらいです。これを何度か繰り返すうちに、御神体を動かせばその地を熱狂させ、去った後は大王への求心力が高まる事を発見し、積極的に転々とさせていったぐらいを考えています。書紀の垂仁紀に

倭姫命、求鎭坐大藭之處而詣菟田筱幡筱、此云佐佐、更還之入近江國、東廻美濃、到伊勢國。時、天照大藭誨倭姫命曰「是藭風伊勢國、則常世之浪重浪歸國也、傍國可怜國也。欲居是國。」故、隨大藭教、其祠立於伊勢國。因興齋宮于五十鈴川上、是謂磯宮、則天照大藭始自天降之處也。

近江から美濃を回って伊勢に向かった事が書かれています。他にもwikipedia元伊勢には28の宮が記録されているようです。一回りして畿内王権が固まったので伊勢に落ち着いたぐらいでしょうか。