日曜閑話83-1

今日のテーマは神功皇后です。まあ夫の仲哀天皇だけではなくその前の成務、景行まで実在が疑われ、神功皇后自体もこれまた実在が疑われていますが、注目したいのは三韓征伐です。記紀では熊襲征伐を行うために夫の仲哀天皇と共に筑紫に赴いたとなっています。私はそうでなく、北九州の覇権争いに介入したと考えています。既に畿内王権は成立していますが、どこかで北九州を支配下に収めるアクションが必要だからです。北九州は卑弥呼・壱与時代に覇権政権としてまとまっていたと魏志倭人伝に記されていますが、壱与時代もしくは壱与の後に再び戦乱の時代に突入したと見ています。北九州覇権政権は卑弥呼の時代に既に末期的な様相を呈していたと考えています。魏志倭人伝

其國本亦以男子爲王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王

ここを私は、

  1. 男王の覇権政府が70〜80年続いていた
  2. 後継者争いが段々深刻になり、「歴年」すなわち数年の継承者戦争が起こった
  3. 最終的に女性である卑弥呼を立てる事でなんとか収拾した
こう読んでいます。卑弥呼後もまた継承者戦争があり、

更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定

男王が立ったもののこれに反対する者が多く、結局女性の壱与を擁立する事で事態を収拾しています。これは北九州覇権政府が男王で結束できない状態を示していると考えています。男王が立つと

    アイツを王にするぐらいだったらオレがなる
そういう混乱を収拾するには女王を象徴として立てざるを得ないような状況です。当然ですが壱与後も同じような混乱が繰り返される可能性が高いと考えるのが妥当です。たまたま色んな事情で女王の適任者であった卑弥呼や壱与が魏志倭人伝の時代にはいましたが、適任者がいなくなれば北九州戦国時代になっても不思議有りません。神功皇后三韓征伐は東征ならぬ畿内王権による西征と私は考えています。もっとも純粋に征服事業に乗り出したと言うより、そうですねぇ
  1. 北九州の覇権争いをしている一方から援軍を頼まれた
  2. 北九州が覇権争いをしている内に弱体化し、南方勢力(記紀熊襲)の北上があり助けを求められた
こういう頼まれた上での介入のような気がします。熊襲魏志倭人伝にある狗奴国かどうかは・・・わかりません。狗奴は「クナ」と読むはずですから、「クナ → クナソ → クマソ」となった可能性はありますが、どんなものだろうと言うぐらいです。まあ北九州に遠征に出られるぐらい畿内王権は安定していたぐらいは言えると思います。で、本当に三韓征伐まで行ったかどうかは微妙です。半島と北九州の関係は深く、北九州が覇権争いをしているのなら、半島からのなんらかの介入があった可能性は否定できません。渡海してまでの三韓征伐はさすがに微妙ですが、三韓の息のかかった都市国家を打ち破ったぐらいはある気がします。

三韓征伐のエッセンスを重視して考えるとこういうシチュエーションはあるかもしれません。

  1. 北九州全体は南方の熊襲の北上への対処に苦慮していた
  2. 一方で北九州の覇権の動向は三韓の介入が影響していた
1.が熊襲征伐のエピソード、2.が三韓征伐のエピソードです。当初は1.のつもりで北九州に来たら、2.による覇権争いに巻き込まれてしまったぐらいの状況です。仲哀天皇三韓征伐を渋ったのは手を出すと火傷しそうと判断したぐらいの見方です。それを押し切って
    この際、北九州を支配下に置こう
こういう意見が有力となり、哀れ仲哀は排除されてしまったぐらいでしょうか。でもって西征事業は成功したのだと見ています。実在を疑いだせばキリがないのですが、神功皇后の後は応神・仁徳朝になります。つうかその後に磐井の乱がおこるまで北九州は静かになります。静かかどうかは記紀に書いていないだけなのですが、少なくとも大規模出兵の話は記紀からなくなります。まあ考えようによっては応神・仁徳朝は古墳時代のピークにあたります。ピークを迎えられたのは支配下に置いた北九州からの富の流入もあるのかもしれません。

でもっていつ頃に神功皇后三韓征伐が終了し北九州を支配下に置けたかですが、唯一の文献的な資料は晋書安帝紀

是の歳、高句麗倭国、および西南夷・銅頭大師、並びて方物を献ぜり。

「是の歳」とは義熙9年(413年)になります。それまでは東夷としか記されていなかったのが久しぶりに倭国になります。413年の前に倭の文字が出てくるのは晋書武帝紀の

十一月己卯、倭人が来てその産物を献上した

これが泰始2年(266年)の事です。266年は壱与が32歳ぐらいの時になります。そこから150年ぶりに倭が出てくる点を重視すれば、神功皇后三韓征伐は5世紀初頭ぐらいがとりあえず候補になります。そうなると応神・仁徳朝は5世紀の100年足らずと推定されます。神武の死を268年ぐらいに仮定してますから・・・整理のために年表を作っておきます。

西暦
事柄
205 神武生れる
238 卑弥呼邪馬台国王になる
247 卑弥呼死す
250 豊前宇佐に進出
筑前岡田宮に前進基地を作る
安芸多家理宮に前進
備前進出
259 河内・大和進攻
266 晋書武帝紀に倭人使節の記録
268 死亡
3世紀末 畿内王権の原型が出来る
5世紀初頭 畿内王権による西征
413 晋書安帝紀倭国の使者の記録
5世紀末 継体クーデター
神武東征から100年ぐらいして北九州を傘下に置き、そこら辺から応神・仁徳朝が始まり、さらに100年後に継体クーデターが起こったぐらいと推測しておきます。