今日のテーマは神功皇后です。まあ夫の仲哀天皇だけではなくその前の成務、景行まで実在が疑われ、神功皇后自体もこれまた実在が疑われていますが、注目したいのは三韓征伐です。記紀では熊襲征伐を行うために夫の仲哀天皇と共に筑紫に赴いたとなっています。私はそうでなく、北九州の覇権争いに介入したと考えています。既に畿内王権は成立していますが、どこかで北九州を支配下に収めるアクションが必要だからです。北九州は卑弥呼・壱与時代に覇権政権としてまとまっていたと魏志倭人伝に記されていますが、壱与時代もしくは壱与の後に再び戦乱の時代に突入したと見ています。北九州覇権政権は卑弥呼の時代に既に末期的な様相を呈していたと考えています。魏志倭人伝の
其國本亦以男子爲王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王
ここを私は、
- 男王の覇権政府が70〜80年続いていた
- 後継者争いが段々深刻になり、「歴年」すなわち数年の継承者戦争が起こった
- 最終的に女性である卑弥呼を立てる事でなんとか収拾した
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定
男王が立ったもののこれに反対する者が多く、結局女性の壱与を擁立する事で事態を収拾しています。これは北九州覇権政府が男王で結束できない状態を示していると考えています。男王が立つと
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アイツを王にするぐらいだったらオレがなる
三韓征伐のエッセンスを重視して考えるとこういうシチュエーションはあるかもしれません。
1.が熊襲征伐のエピソード、2.が三韓征伐のエピソードです。当初は1.のつもりで北九州に来たら、2.による覇権争いに巻き込まれてしまったぐらいの状況です。仲哀天皇が三韓征伐を渋ったのは手を出すと火傷しそうと判断したぐらいの見方です。それを押し切って-
この際、北九州を支配下に置こう
でもっていつ頃に神功皇后の三韓征伐が終了し北九州を支配下に置けたかですが、唯一の文献的な資料は晋書安帝紀の
「是の歳」とは義熙9年(413年)になります。それまでは東夷としか記されていなかったのが久しぶりに倭国になります。413年の前に倭の文字が出てくるのは晋書武帝紀の
十一月己卯、倭人が来てその産物を献上した
これが泰始2年(266年)の事です。266年は壱与が32歳ぐらいの時になります。そこから150年ぶりに倭が出てくる点を重視すれば、神功皇后の三韓征伐は5世紀初頭ぐらいがとりあえず候補になります。そうなると応神・仁徳朝は5世紀の100年足らずと推定されます。神武の死を268年ぐらいに仮定してますから・・・整理のために年表を作っておきます。
神武東征から100年ぐらいして北九州を傘下に置き、そこら辺から応神・仁徳朝が始まり、さらに100年後に継体クーデターが起こったぐらいと推測しておきます。