久しぶりに日本書紀

前に日本書紀での年代を遡ってムックしていたのですが、応神と神功のところで引っかかって止まったままになっています。行き詰った感じだったのですが、ようやくヒントがつかめた気がしています。


神功皇后卑弥呼と大陸外交

書紀では

この解釈で書かれているのですが、なんとなく本音では「神功皇后卑弥呼」と信じていなかった気がしています。ではなぜに信じていないのに結び付けたかですが外交のためじゃないかと考えています。推古の時代から遣隋使、さらには遣唐使が断続的に派遣されるのですが、使節は国を代表して大陸皇帝に謁見しています。国書を奉呈するためなのですが、そこではその他の事も話がされています。この時に大陸皇帝の持つ日本知識は隋書倭国伝がわかりやすく、まんま魏志倭人伝知識です。たぶんなのですが大陸皇帝は日本と卑弥呼の関係を尋ねたはずです。

あくまでも想像ですが、中国皇帝に聞かれるまで大和王権の人々は卑弥呼の存在を良く知らなかった可能性を考えています。いや知っていたかもしれませんが、大陸皇帝から聞かれるとは想定外みたいな感じです。そこで卑弥呼を誰かに当てはめる作業が必要になったぐらいです。とにかく卑弥呼は女性であるのは確かですから、伝承の女性大王で該当しそうな人物として神功皇后が出てきたぐらいで、かなりの力業で結び付けている形跡が認められます。

当時の年代の特定法は年干支です。この年干支は60年で一周します。その時に生きている人間であれば、60年分のマーカーがあれば十分なのですが歴史を書くとなれば少々不便なものになります。そりゃ同じ干支年でも60年前なのか、120年前なのか、180年前なのかの区別が判らない時はわからないからです。書紀編纂者は魏志倭人伝にある卑弥呼関係の3つの魏の年号、景初3年、正始元年、正始4年を使って卑弥呼神功皇后を結び付けますが、合わせたのは年干支だけだったんじゃないかと考えています。


神功と応神

神功と応神の関係で書紀が絶対の前提としたらしいものとして、

  1. 神功と応神は実の親子である
  2. 応神の誕生年は庚辰である
  3. 応神の即位は庚寅である
  4. 応神の在位年数は41年間である
理由は不明ですがこの応神条件は崩すことが出来なかったとしか考えようがありません。神功が摂政(実際には大王)になったのは応神誕生の翌年にこれまた設定していますから、景初3年、正始元年、正始4年に該当する年干支は庚辰より後に来る必要があります。さらに魏の使者が見た卑弥呼は女王であるので、応神が即位した庚寅より前でないといけません。干支の並びでは、応神誕生の庚辰から次の庚寅(応神即位)は10年後か70年後になるのですが、庚辰から10年後の庚寅の間に景初3年、正始元年、正始4年の干支年である己未、庚申、癸亥は入りません。文字じゃわからないと思いますから表にしてみます。
西暦 干支 神功紀元 応神年齢 西暦 干支 神功紀元 応神年齢 西暦 干支 神功紀元 応神年齢 西暦 干支 神功紀元 応神年齢 西暦 干支 神功紀元 応神年齢 西暦 干支 神功紀元 応神年齢 西暦 干支 神功紀元 応神年齢
389 69 70 377 57 58 365 45 46 353 33 34 341 21 22 329 9 10 317 * *
390 * 71 378 58 59 366 46 47 354 34 35 342 22 23 330 10 11 318 * *
391 * 72 379 59 60 367 47 48 355 35 36 343 23 24 331 11 12 319 * *
392 * 73 380 60 61 368 48 49 356 36 37 344 24 25 332 12 13 320 * 1
393 * 74 381 61 62 369 49 50 357 37 38 345 25 26 333 13 14 321 1 2
394 * 75 382 62 63 370 50 51 358 38 39 346 26 27 334 14 15 322 2 3
395 * 76 383 63 64 371 51 52 359 39 40 347 27 28 335 15 16 323 3 4
396 * 77 384 64 65 372 52 53 360 40 41 348 28 29 336 16 17 324 4 5
397 * 78 385 65 66 373 53 54 361 41 42 349 29 30 337 17 18 325 5 6
398 * 79 386 66 67 374 54 55 362 42 43 350 30 31 338 18 19 326 6 7
399 * 80 387 67 68 375 55 56 363 43 44 351 31 32 339 19 20 327 7 8
400 * 81 388 68 69 376 56 57 364 44 45 352 32 33 340 20 21 328 8 9
書紀編纂上でとくに動かしにくかったと考えられるのは、応神の即位の庚寅が西暦換算で390年である点であったようにも感じます。神功と卑弥呼を結び付けるための干支一運の操作の結果は、
  1. 応神即位年齢が71歳になった
  2. 応神崩御年齢が111歳になった
  3. 神功皇后の在世が69年間になった
応神は異様な程の高齢即位の大王になってしまっています。また魏志倭人伝の3つの年号との関係も60年ずらしてもまったく合っていません。書紀の年代なら景初3年は359年になりますが、本当の景初3年は239年であり、まだ120年も遡らせないといけない勘定になります。この点からも書紀編纂者は応神基準から強引に干支年だけ合わせて神功と卑弥呼を関連付けたと考えます。神功と応神の年代の実際として妥当なのは
西暦 干支 事柄 応神年齢 西暦 干支 事柄 応神年齢 西暦 干支 事柄 応神年齢 西暦 干支 事柄 応神年齢
413 * 34 401 * 22 389 * 10 377 * *
414 * 35 402 * 23 390 即位 11 378 * *
415 * 36 403 * 24 391 * 12 379 * *
416 * 37 404 * 25 392 * 13 380 誕生 1
417 * 38 405 花王 26 393 * 14 381 * 2
418 * 39 406 * 27 394 * 15 382 * 3
419 * 40 407 * 28 395 * 16 383 * 4
420 腆支王没 41 408 * 29 396 * 17 384 * 5
421 * 42 409 * 30 397 * 18 385 * 6
422 * 43 410 * 31 398 * 19 386 * 7
423 * 44 411 * 32 399 * 20 387 * 8
424 * 45 412 * 33 400 * 21 388 * 9
応神の誕生の翌年から神功の時代が始まりますが、神功9年に終り、応神は11歳で即位したとする考え方です。古代大王はどこかで30歳以上が条件であるとの話がどこかにありましたが、だからこそ神功の目の黒いうちに応神を即位させて既成事実を作ってしまったぐらいを考えます。神功の崩御年も書紀にはありますが、怪しむのはそっちの方で、実際は応神即位後も摂政としてかなりの期間、実権を握っていた気がします。ですから応神の事績として書かれているかなりの部分が実質的に神功の実績じゃなかろうかぐらいです。


編年作業

書紀は歴史書ですが、その時に編年はどうしても必要になると考えています。もちろん史記のような紀伝体方式もありますが、書紀の場合は神武から持統まで連綿と天皇家が続いている前提ですから、編年作業は必要になってくると考えるのが妥当です。それこそ干支年の表を作って、大王伝承のある人物を当てはめていく作業だったと想像しています。このうち持統から近い時代はまだ良いと思っています。記紀以前にも天皇記、国記が書かれ、これらは乙巳の変で失われたとされていますが、天皇記や国記を書くための基礎資料、確実そうな伝承はあったでしょうし、旧辞帝紀も活用できたと考えています。

しかし時代を遡るにつれ作業は困難になったと想像しています。それこそ断片的な伝承しか残されていない時代に突入するからです。そこで活用されたのが百済三書であった気がしています。百済三書に書かれている干支年で基準年代を作り、伝説の大王を割り振っていく作業です。この時に応神の年代が明記されていたんじゃないかと考えています。一方の神功の年代については不明瞭であったと。今となっては百済三書も失われてしまっているので理由がわからなくなっていますが、当時の編年作業で応神の即位年は動かしがたい絶対の根拠があったぐらいに想像しています。そうでも考えないと応神と神功の関係が不自然すぎるってところでしょうか。


余談・干支年と年号

干支年は近い時代を記録するのは便利ですが、60年で一回りするために古い時代の記録には少々不便です。なぜに大陸文明が干支年方式を採用したかの理由は不明ですが、編年作業には向いていない気がします。それだけの理由ではないかもしれませんが、編年で時代を見るための基準として年号が併用された気がしています。年号もコロコロ変わりますが、あれなら積算式で編年作業が可能です。そこから西暦式の永久ナンバリングに進まなかったのは・・・歴史を編年で見る時にいつも不便を感じています。