ちょっと卑弥呼

 邪馬台国論争は楽しいのですが、簡便にwikipediaより、

  • 時期不明 - 倭国で男性の王の時代が続いた(70-80年間)が、その後に内乱があり(5-6年間)、その後で一人の女子を立てて王とした(卑弥呼の即位)。その女子の名を卑弥呼といい、1000人の侍女たちを使えさせたという。
  • 景初二年(238年)12月 - 卑弥呼、初めて難升米らを魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた。
  • 正始元年(240年) - 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。
  • 正始四年(243年)12月 - 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
  • 正始六年(245年) - 難升米に黄幢を授与[2]。
  • 正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告した。魏は張政を倭に派遣し、難升米に詔書、黄幢 を授与。
  • 時期不明 - 卑弥呼が死に、墓が作られた。男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。倭の女王壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。

 たいした話ではないのですが、魏志倭人伝には魏の使者が二度邪馬台国を訪れたと記録しています。魏志倭人伝の前半部には帯方郡から邪馬台国への道のりを書いた有名な部分ですが、ここでのポイントは魏の使者は邪馬台国に達している点と見ます。

 つうのは邪馬台国論争では魏の使者が邪馬台国まで行き着いてない仮説まであるからです。他人の事は言えません、私もその説をベースに考えたことがあります。

 とくに正始八年の使者である張政は邪馬台国に行ったものの、そこで歴史的大事件に遭遇しています。そう卑弥呼の死です。卑弥呼の死後は後継者争いが起こり十三歳の壹與女王が立つことでようやく終息したとなっていますが、

壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹


壱与は倭の大夫、率善中郎将、掖邪拘等二十人を遣わし、政等の還るを送る。因って、臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹を貢ぐ

 壹與女王が張政を送らせた使節団は大規模であったとしてよく、邪馬台国の新しい女王の即位を魏の皇帝に報告したものと見れます。そりゃ台、すなわち魏の首都まで行っています。

 この時代の魏は英雄曹操の曾孫の曹芳が皇帝になりますが、正始十年に高平陵の変と呼ばれる大政変が起こります。これまた三国志で有名な司馬懿仲達によるクーデターです。ここから司馬氏による晋の時代に舵は大きく取られることになります。

 この時の邪馬台国の使者が会ったのは曹芳でしょうが、あの司馬懿仲達にも会っている可能性もあります。時期的に高平陵の変の前であったか、後になったかは興味深いところです。

 そこはともかく、張政の邪馬台国滞在は長期だったと見て良いかと考えられます。女王卑弥呼が亡くなれば友好国の使者として参列するでしょうし、そこから内乱を経て壹與女王が即位するまで居たことになるからです。

 卑弥呼の墓の記載部分は、

卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人


卑弥呼は死に、冢を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は男女の奴隷、百余人である

 径百歩がどれぐらいですが、魏の一尺が24.1cm、魏の一歩は6尺ですから144.6cmになるので、144.6mになります。これがどれぐらいかですが、神戸の五色塚古墳の後円部が122.5mですから相当な大きさです。

 ホンマに径百歩もあったかどうかの疑問は当然出て来ます。文飾として徇葬者と並ぶ形で『百餘』とした可能性は残るのは残ります。ですがその規模の古墳が古代日本にゴロゴロあるのも私たちは知っています。

 ですが古代日本の巨大古墳時代は少し時代がずれます。それも出現したのは畿内です。一番古いものでなんとか卑弥呼時代と被るぐらいです。

 もう一つですが、卑弥呼時代の都市と言うか国家として吉野ヶ里を見つけています。当時の人口を考えると堂々たる大国家としても良いはずです。ここには1世紀ごろに築かれた北墳丘墓とされるところがあり、当初は首長の墓として作られたが、卑弥呼時代は祖霊を祀る場になったと推測されています。その規模が、

    南北四十メートル、東西二十七メートルの長方形
 これはこれで大きいのですが、張政が見た卑弥呼の墓と較べると小さい気がします。面積にして1/10程度ですからね。それと個人的に注目したいのは、吉野ヶ里にはどうやら、首長が亡くなる度に巨大古墳を作る習慣がなさそうだという点です。

 邪馬台国をどこに比定するかで話は変わる部分があるのですが、魏の使者が松浦半島から博多方面に進んだのは確実そうで、なおかつ邪馬台国の勢力圏です。吉野ヶ里も地理的に同一文化圏に属すると見て良いかと思います。

 ですが古代北九州に巨大古墳が畿内のように次々と作られた形跡は乏しそうに感じてしまいます。九州での巨大古墳は西都原に代表される宮崎(というか古代日向)じゃないでしょうか。

 久しぶりに卑弥呼や邪馬台国に触れた感想です。どこまで行っても邪馬台国はロマンですねぇ。