古代への摸索・応神と卑弥呼の間

去年の11月から続きをどうしようか考えていた(途方に暮れていた)ものです。とりあえず古代の年代への模索・雄略扁古代の年代への模索・応神神功扁をやった感触から雄略紀と応神紀の年代は正しそうに判断します。つうか引用されている百済三書の年代と継体からの逆算でもそれほど無理がないってところです。書紀の難点は応神の前の神功皇后時代を強引に卑弥呼の時代にしてしまった点じゃなかろうかです。とりあえずですが、

    応神の即位は390年(元年春正月丁亥朔、皇太子即位。是年也、太歳庚寅)と前提して考えを進める
こうしたいと思います。もちろん「そうでない」の考え方は百ほどあるのは承知ですが、これぐらいの前提を置かないと話のまとめようも、進めようもないからです。でもって卑弥呼の死は魏志倭人伝に正始8年(247年)となっています。応神即位の150年程前の事になります。卑弥呼邪馬台国もどこにあったかも大論争のテーマですが、これもまた前提を置きます。考察は以前に散々やったので省略しますが、邪馬台国は北九州にあったとします。当時の北九州の想像ですが、日本での先進地帯ではありましたが、段階として都市国家間の抗争時代であり、邪馬台国は大きな都市国家連合の盟主ぐらいの位置付けです。まあ古代ギリシャアテネってところでしょうか。畿内王権の始まりは素直に神武東征伝説に従います。北九州から来た集団による征服王朝ぐらいのイメージです。


箸墓古墳と神武東征

神武東征軍が権力を握った証明こそが箸墓古墳と考えていますが、築造年代はwikipediaより、

研究者の年代観によって造営年代は若干の異同がある。広瀬和雄はその時期を3世紀中ごろ[3]、白石太一郎は3世紀中葉過ぎ[4]、寺沢薫は260〜280年頃[5]、石野博信は3世紀後半の第4四半紀、西暦280年から290年にかけて[6]、奈良県橿原考古学研究所は前方部周辺で出土した土器類から3世紀後半の築造と発表している。

幅があるのはしかたがないのですが、250〜290年ぐらいの幅があります。箸墓築造年代と卑弥呼の死(247年)が近いので「箸墓 = 卑弥呼の墓」説が有力で、ひいては邪馬台国畿内説の根拠になるのですが、ここでの前提は邪馬台国は北九州にあり、なおかつ卑弥呼は北九州で死んでいるとしているので、箸墓の解釈は卑弥呼の墓ではなく畿内王権の誰かの大王の墓と考えます。そう考えた時に箸墓の築造年代が新しく考えても3世紀の末頃になり、卑弥呼の死から50年以内のお話になります。50年と言うよりせいぜい30年から40年ぐらいの間のお話になり、世代にして1つかせいぜい2つです。

この古代への摸索シリーズが中断していたのは神武東征伝説をいつに置くかです。卑弥呼の死後に神武東征が行われたのなら、箸墓築造までの期間が短すぎる気がします。短すぎるのなら卑弥呼の死より前に神武東征が行なわれたと考える方が妥当ってところです。魏志倭人伝より、

其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑彌呼

北九州はある時期から戦乱が続き、卑弥呼を女王に立てる事によってようやく落ち着いたとなっています。ここの解釈に異論は少ないと思いますが、もう少し想像を広げたいところで、卑弥呼による平和の前には王位争奪戦が続いていたわけです。複数の首長が「我こそは王である」と覇権を競っていた状態としたとしても良いでしょう。そんな中で何故に卑弥呼になったのか経緯は確認しようがありませんが、卑弥呼支持派が最終的に王位を握ったぐらいが自然な想像です。

この卑弥呼が女王として君臨する前には、競合相手が追い落とされる歴史があっても良いと思います。神武東征伝説のスタートは南九州の日向となっていますが、これは日向に初めから住んでいたのではなく、北九州の王位立候補者を擁する有力豪族が卑弥呼との王位争いに敗れて落ち延びてきたと解釈は可能と思っています。もっと想像を広げると北九州から日向に落ち延びた一族は魏志倭人伝の「其國本亦以男子為王」の可能性もありそうな気がしています。北九州からは追い落とされましたが、日向に亡命政権を作り、なおかつ北九州再進攻の機会を窺っていた感じです。まあ、一種の南北朝状態です。

最終的に卑弥呼が勝ったのですが、その過程で亡命地の日向からも逃げる必要が出てきたぐらいはあっても良さそうな気がします。神武東征の真の時期なんて推理するほかないのですが、2世紀後半ぐらい、いやもっと以前でも可能と言えば可能です。つまりは箸墓築造の100年以上前でもOKじゃないかと考えています。


鏡教

古代の畿内文化で特徴的なのは銅鐸の隆盛とその突然の終焉です。平成9年度吹田市歴史講演会と銅鐸の謎より、

畿内の銅鐸は、2,3世紀の弥生文化の隆盛時にもっとも盛大となり、そして古墳時代の幕開けと同時に、突然その習慣を絶っているのである。 また、我が国の最古の史書である記紀には、銅鐸についての記事は全く登場しない。弥生時代近畿地方であれほど隆盛を極めるのであるから、もし銅鐸を信奉していた人々がそのまま古墳時代を通じても近畿に居続け、やがて大和朝廷へ繋がるのだとすれば、記紀に全く記載がないのは奇異である。古伝承もない。これは一体何を意味しているのであろうか?

銅鐸の用途も様々に推測されてはいますが、素直に宗教的象徴と解釈しています。つまりは銅鐸教ってところです。これが古墳時代の訪れとともに急速に衰微しただけでなく、まるで捨てられるかのように処分されます。とにかく銅鐸の発見状況は、

  • 現在では銅鐸の用途については、ムラを挙げての農業祭祀に用いられたものという考えがほぼ一般的であるが、それにしてもなぜ集落内で発見されないのかという疑問は残る。祭祀なら通常集落内で行われるのが常識であろうし、拝んでおく置物なら当然集落内のどこかに配置しておくのが自然だろう。これまで出土した銅鐸のほとんどは、集落の外、それもムラの祭祀や守り神的な場所とは関係ない場所から、偶然発見されている。これがその用途についての考察を一層困難にしているようである。
  • 出土地は、ムラや墓地とは離れた丘陵の斜面などが多い。ほとんどの場合、居住地から離れた地点に意識的に埋められた状態で発見される。

銅鐸教に取って代わったのが三角縁神獣鏡に代表される鏡教であると言うのが私の考えです。そう、鏡教を持ち込んだ集団こそ神武東征軍であったのだろうです。銅鐸の処分法から推理すると、神武東征軍は服属の証として銅鐸教から鏡教への宗旨替えを強要した考えられ、そういう人為的な要因がある時期から急速に拡大したので、銅鐸が特異な形で埋められたと説明するのが可能になります。まあ、自分より強大な勢力から、

    銅鐸教から鏡教に改宗すべし。従わなければ覚悟しろ!
突然、こんな通告を受ければサバイバルのために大急ぎで銅鐸を処分したのはわかります。つうかヒョットすると、鏡を携えた軍勢を引き連れた使者が城下の盟式に強要した可能性も想像されます。年代的に2世紀後半から始まった神武東征事業が3世紀後半の箸墓築造で完成したと見ればかなり辻褄は合います。


主に書紀の神功紀を読んだ感想になるのですが、記紀編纂者というか、記紀編纂時に卑弥呼伝承は残っていなかった気がしています。そんな卑弥呼魏志倭人伝で発見したのでこれを記紀に強引に織り込んだ気がしています。強引と感じたのは書紀は景初2年、正始元年、正始4年の使者の記録を引用する一方で正始8年の卑弥呼の死は無視し、そのために卑弥呼の死亡年より神功皇后は長生きすることになります。それと後継者の台与の存在も無視しています。これも完全に無視したわけでなく、晋書にある泰初2年の使者の記録は引用しています。

こういう構成になった理由は様々に考えられるのですが、おそらく伝承として神功皇后伝承は存在したのだと考えています。この伝承に魏志倭人伝や晋書の記録を強引に重ね合わせた結果が書紀の神功紀の気がしてならないのです。なにが言いたいかですが、

こういう視点です。ヤマト王権を作ったのは東からの征服者、すなわち神武東征軍と考えていますが、この東征軍がからの伝承で卑弥呼は無視されたか、初めから知らなかった可能性があったんじゃないだろうかです。無視説の解釈としては、神武東征軍は女王卑弥呼に追い落とされた王位候補者一族であり、卑弥呼の話は黒歴史として抹消されたぐらいです。そりゃ、敗北の黒歴史ですし、征服した畿内豪族に教えるのは政治的に宜しくなかろうってところです。

ここの視点をもう少し広げると、北九州の王権の記録として54年と104年の後漢への倭からの使者の記録が残されています。どれほどの王権であったかは想像しようもありませんが、少なくとも後漢の都である洛陽まで使者を送り込む国力と文化はあったぐらいには言えるかと思います。魏志倭人伝に言う「其國本亦以男子為王、住七八十年」の男王の国が後漢への使者のものかどうかは何とも言えませんが、「倭國亂」の乱れる前の王権一族はいたはずぐらいの考え方です。この前王権一族(もちろん一族内王権争いであった可能性もあります)は、結局のところ卑弥呼派に北九州どころか九州からも追い出されてしまったぐらいの経緯を想像しています。

もう一つの卑弥呼自体を知らなかったの解釈は、卑弥呼台頭以前に神武東征が行われた場合ならありえます。神武東征を行った一族は「倭國亂」の早い段階で九州を離れ、戦乱続く北九州の情報と早くから切り離されていた推測です。卑弥呼は景初2年(238年)ぐらいには女王として君臨していたと考えますが、それなら200年、いや2世紀末ぐらいならまだ卑弥呼は伝承に残るような存在感はなかったはずです。つうか卑弥呼と呼ばれた女性が後に北九州統一勢力の女王として君臨するなどと予想すらされていなかったとしても良いと考えています。

この時期に神武東征が行われたのなら、卑弥呼伝承がヤマト王権に残っていなくとも何の不思議もないってところです。むしろ伝承として残るのなら「倭國亂」時代の王の伝承や、さらにそれ以前の王の伝承です。書紀には欠史八代があるのは有名ですが、これは創作ではなく伝承が古すぎて書けなかったのか、畿内で王権を維持する上でやはり黒歴史であるために、具体的な内容を封印してしまい、忘れ去られてしまったぐらいは想像可能です。


オマケ・神武の年齢と東征時期

卑弥呼を無視説と知らなかった説を踏まえて神武の年齢と事績を考えると面白いところがあります。神武は127歳で死亡したと記紀ではなっていますが、魏略にこういう記載があります。

其俗不知正歳四時 但記春耕秋収 為年紀

春の田植えと、秋の稲刈りを年季とするの記述です。つまりは1年で2歳になる解釈です。そうであれば127歳は63歳ぐらいに該当します。東征に出発したのは、お手軽にwikipediaより、

日本書紀』によると、甲寅の歳、45歳のとき

22〜23歳ぐらいの時と見ることが可能です。他に資料も無いので甲寅年を信じれば候補は

    174年、234年
このうち234年に近い出来事として景初2年(239年)の卑弥呼の魏への使者があります。卑弥呼が魏に使者を送る5年前に日向からも追い出された可能性はあるかもしれません。つうか神武が追い出された結果として王権の確立を確信して卑弥呼が魏に使者を送ったぐらいの考え方です。ただ234年説を取った場合には神武の没年は275年ぐらいなり、箸墓は神武の墓でないと辻褄が合わなくなります。まあ、神武が一代で畿内を征服し、銅鐸教を駆逐し鏡教に塗り替えたとしても話は合うのですが、それなら箸墓が神武でなく女性の墓として伝承された点がなんとものところです。

174年説の場合は、畿内征服期間は余裕で取れます。いや余裕で取れすぎて銅鐸教の隆盛期間とチト合わないところさえ出て来ます。この辺は神武一代で征服事業が完成したわけでないぐらいに考えてもよく、箸墓は神武の後継者が完成させたぐらいでも無理はないかもしれません。問題は別のところで、174年説であれば215年ぐらいに神武は死亡する事になります。卑弥呼の年齢は不詳ですが、神武は卑弥呼が女王の時代はもちろんの事、女王候補として登場していた時代も知らない可能性が出て来ます。この神武が卑弥呼を知らないのは意外なポイントで、神武の子孫に卑弥呼の伝承がないことへの説明になります。

もちろん書紀の甲寅年自体にどれほどの信憑性がおけるかの問題があるわけで、これぐらいにしておきます。